幸せは過去に咲く
幸せだった一ヶ月半を、どうしたら褪せないアルバムに閉じこめておけるだろうか。過ぎてしまえば物も何もない、あるのはただの経験と思い出だけ。
封筒を秤に乗せるように、思い出の重さも量ってみたらどうだろう。きっとどれだけ詰まっていても、92円切手程度で送り出せる。大人びた若者に他と同じように箱に投げ捨てられて、子どもじみた若者は受取人支払いの朱い判子を押すこともない。
特に大それた挨拶をしたわけでもない出会い。流されるままの始まりだった。周りから年下が来るのは嬉しいと言わされて浮かべた年齢不詳の笑みが、思い返せる一番はじめの記憶。
何の意識も無く触れあう肩はやけに熱い。覗き込むために近くに寄せられる顔は、少しずつ距離感を狂わせていった。ふわりと掠めるのは煙草の匂い。いつだって気怠げで、優しかった。
汚くて読みにくい字が紙を這う。それを追いかけるように私の気を使った字が書き足される。覆い被さられていた背中と右肩に伝わる熱に惑わされないように、私は指先だけを見ていた。苦手なはずの匂いが、不思議と不快ではなかった。
移り気が激しい私は、色んな意味の好きの種類を抱えていた。その内のひとつ、憧れと好意の間を宙ぶらりん。けれど私の好みを備えていたのは確かだ。昼休みの女子トークに紛れた、本音の欠片。いつか終わりが来ると分かっていて、ステージの下から見上げるような感覚が芽生えた。
ヒールで嵩ましした私と、小柄な彼。隣に立てばほとんど変わらぬ背で、心なしか見下ろしている。紙を持ち、私が指差す先を追う目線。見難いからと更に寄り添う。理由のない震えが、同じものを持つ指先から伝わってしまいそうだ。縮まる距離は、何度やっても慣れなかった。
猫のように曲げられた口元は、人懐っこさと気紛れをよく表していた。さほど年も変わらないのにやけに大人な彼も、そうした顔にはまだ若さが残る。誰にからかわれても、へらりとして上手く懐に入り、交わす。その人たちには年下らしく、でも私には年上らしくしていた。
いつもは眠たげな目を悪戯っぽく細めさせて、私に荷物を手渡す。あるいは時折期待に満ちた目を向ける。隙の見える、近寄らせてくれているのを感じる表情。他へ向けた兄のような眼差しは私にはない距離を感じて、それはそれで見ているのが好きだった。
秘密主義者の彼は、自分を暴こうとする質問には答えない。唇に指を近づけ、様々な思いを目の奥に含んでにまりと笑った。指の間からすり抜ける情報だけで彼は構成されていき、ちぐはぐなキメラのようだ。彼は私のことは、きっときちんとした人間の姿で見ているだろうに。
手を伸ばしても、汚れた裾にも届かない。隣にいる人に対等に笑って、そんな姿を見ることだけは嫌で目を塞いだ。嫉妬は小さなゴミと混ぜて箱へ逆さに落とす。それだけは、苦しい出来事。
砂時計のように、何に遮られることもなく平等に過ぎる時間。巻き戻しを願うけど、夢の中でないのに叶うはずがないのだ。
彼が運ぶ重い荷物の中にそっと私の願いを入れても、彼は気付かないままだろう。捲る紙、勝手に取られたペン、受け渡す束。部屋を舞う塵のように縋る気持ちがそれぞれに付着している。
カッターで封を切ってしまったのがいけなかったのだ。見ないふりをして封筒の中に戻すことは憚られた。一度外へでた気持ちは、もうシュレッダーにもかけられない。
癖のある青が紙上に散らばるのをじっと見ていた。思い出を一緒に刻みながら、ひたすらペン先を潰した。でも返すときに指先が触れて、私は記憶の一部を共に渡してしまったのかもしれない。今の私にあるのは、現実味を無くした回想シーンばかり。
終了をカウントされるのを横目に、出会いの端から薄れていく。楽しく笑いあったのも、優しかったのも、ブレて掠れて消えそうだ。
あのとき背を向けていたのは、感慨深い何かを抑えるものでなかったとしても良い。私は甘さに埋めた寂しさを無理矢理飲み込んだ。甘やかすような微笑みが私に向く。穏やかな目が笑う私を映す。
空の籠にささやかに入れられた優しさを受け取ったから、最後は空の籠に溢れんばかりの感謝を詰めて返そう。
幸せは過去に咲く。枯れないように水をあげて、花が散ってもまた来年咲くだろう。どんなに気にしてきた人の声も、顔も、名前すらも、少しずつ忘れていってしまうかもしれないから、戻らない日々が簡単に流されてしまわぬように。
いつか未来のどこかで巡り会う道が存在するのなら、私はその未来を子どものように無邪気に信じたい。
大人びた若者は、一度も別れの言葉を言わなかった。また明日とでもいうような表情で。
子どもじみた若者は、溢れる気持ちをせき止めて別れを告げた。明日はもう来ないのだと受け止めて。
若者は走馬灯のように駆け巡る思い出をそっと涙に溶かした。
本当は好意に振れていたのを、気付かないふりをして流したんだ。
本当に良い人たちに囲まれて、楽しい日々を送ることができました。寂しさは暫く残るだろうけど、文字にすることで少しでも未来に残せたらと思います。
いつか私が夢を叶えたら、褒めてくれるかな。