1#1 努力
「はっ! たぁっ! はぁっ!」
斬り、突き、薙ぐ。
木剣を振るって叔父である剣の師匠に教わった型の一通りをなぞり終えた俺は、弾む息を落ち着かせるように天を仰ぎ見た。
一人佇む森の広場が穏やかな静寂で俺を包み込んでくれる。
静寂と言っても、真昼間の雑木林が無音のはずもない。
降り注ぐ陽光をモザイクに刻む梢が初夏の薫風に揺れる音。時折、姿を見せない小動物が立てる葉擦れの音。動かした身体が熱を持って脈打つ自分の音。
そう言った諸々の多彩な音が、絡まりもつれ合って生まれる心地良い静けさだ。
その静けさを取り込むように大きく息を吸い込むと、肺の中に若葉の香りが浸透し、ささくれだった気持ちを慰めてくれる。ようやく気持ちが一段落ついたみたいで、俺は吸い込んだ空気に苛立ちの最後の一欠けらを包んで吐き出した。
この場所は落ち着く。屋敷から少し離れたこの特訓場所は、離れているが故に訪れる者が限られるから。
少なくとも、徒歩での外出を嫌う女中連中はここに顔を出すことはまずない。だから、ここは俺の安息の場だ。
森の木々が天然の屋根を差し掛けてくれているとはいえ、昼近くともなれば南に位置するこの辺りの初夏はだいぶ気温が上がる。薄手の綿のシャツにほっそりとした乗馬用のズボンという出で立ちなのに、小一時間体を動かした程度で俺の身体は汗みずくになっていた。
だけど身体を動かした後のこの汗を洗い流すのもまた、この時期の楽しみだ。この雑木林のすぐ近くには泉があり、そこで気兼ねなく汗を流せる。玉都の近くとは言え、近所に人里のないこの地でなら全裸でも問題ない解放感が、また俺の期待を大きなものにする。
最近、体つきがめっきり女らしくなってきて、昔のように肌を露出しているといろんな方面に怒られるから、こう言う時でもないと気楽に水浴びもできないのだ。ぶっちゃけ色々めんどくさい。
そう、今の俺は女の子だ。
名前はシューレリア・オル・ティスト。今年で十歳になる。元・天堂宗であり元・アマル村のシューが異世界アステラで転生した。
自分で言うのもなんだが、金髪碧眼に愛らしい顔つき、ゆくゆくが楽しみな美少女だ。うん、自分で言うとほんとになんだな。
しかもその身分は一国の重臣の息女ときた。
スラディア皇玉国シュベー地方ティスト領領主ガオルグ・ディル・ティストの次女。それが俺の現状の立場だ。
領主と言っても親父、ガオルグはこの屋敷にいない。それどころか領地内にすらいない。
親父は基本、玉都の本屋敷に寝起きしている。よくは知らないが、親父はこのスラディア皇玉国のお偉いさんだ。
んで、本当の屋敷は玉都内にあって、俺が今住んでいるこの屋敷は体面上持ってなきゃいけない領地の運営のための屋敷だとかなんとか。正直、十歳の子供には難しい話だ。
いや、中身は三十路過ぎたオッサンも経験した野郎なんだけどさ。でも今まであんまり関わり合いのなかった世界だったから、興味がないというか理解が追いつかないというか……一応、一般教養の家庭教師にあれこれ教わったはずなんだけど、さっぱり頭に入ってないんだよな。
辛うじて、俺が暮らしているこのスラディア皇玉国がゴーズという大陸の南側にあって、北側は友好国であるサライオ共和王国が幅を利かせているから、ゴーズ大陸が今んとこ平穏無事っていうのは大雑把に記憶してるんだけど、他の小国の位置関係とか国内の領地の名前とかになるともうさっぱり。とりあえずその辺は後回しでいいやとお手上げ状態だ。
ちなみに俺が住む屋敷には母親も兄妹もいない。兄弟は一回り年が離れていることもあって、既に成人して玉都の本屋敷に移ったのだ。この国の成人年齢は十五歳。兄貴が十八で姉貴が十七だったかな。もうかれこれ三年くらい顔を合わせてない。
母親に至っては物心――は生まれた時からついてたか。記憶を持って生まれたせいか、赤ん坊のころから思考ははっきりしていたから。
そんな俺がもってる母親の記憶が一歳の時の『離合の儀』で最後ってんだから、驚きだ。
離合の儀とは離乳が済んだ幼児を乳母や世話係に託す貴族のしきたりで、母さんとはそれ以来会っていない。
ってことはもう八年近く会っていないのか……。
記憶の中の母さんは姉や俺を見ればわかる通り綺麗な人で、いつも穏やかな優しい顔をしていた。あと三児の母とは思えないくらいスタイルが良くておっぱいも大きかった。俺の将来もかなり期待できる。
ってそれは今はどうでもいいか。俺が母さんと会えないのも貴族のしきたりとやららしくて、用もないのに会っちゃいけないんだとか。家族なのに、おかしな話だ。
貴族ってのはどうしてこうも、仕来りや心得や習わしでがんじがらめなんだろうな。正直、俺はよく十年も耐えたと思うよ。
しかしシューレリア・オル・ティストとして生きていくからにはまだあと何十年もこんな面倒な生き方につきあわにゃならんのだよな……ぶっちゃけしんどい。
いろいろ考えてたら、また煩わしくなってきたぞ……本当に最近イライラすることが多くていやになる。なんで世界はこうも俺を目の敵にするかな。
もう一度、型をなぞり直すかと木剣を構え直したその時だった。
「シュー、ここにいたか」
藪の向こうから声がした。
「ユールグ?」
鈴を転がすような可憐な声が、低木を掻き分けて俺の安息の場へ進入してきた男を出迎える。……『鈴を転がすような声』ってのは俺の声の事だぞ?
この、頭に小さな枝を指した天パの壮年男性はユールグ・ディル・ティスト。俺の叔父だ。
天然パーマと言ってもユールグの髪型にむさい印象はない。綺麗に手の入れられた薄茶の髪はきらきらと綺麗に輝き、天使の巻き毛を思わせるしなやかさだ。
そしてその髪型が違和感にならない精悍な顔つき。角ばった男らしさではなく利口な刃を思わせる鋭利さだ。要するに斬るものと斬らないものをしっかりと選り分けられるってことを言いたかったんだが……自分で言っててわかりづらいたとえの気がしてきた。ま、いいや。
とにかく、齢三十前にして実践で培った剣技と貫禄、そして貴族特有の美貌に恵まれた彼は、俺にとってある種の憧れだった。困ったことにこの憧れが異性に対する者なのか同性としてなのかよくわからない。今のところは単に有能だから憧れてるんだと思うことにはしているが……。
「精が出るな。ということは、お姫様は何か嫌なことでもあったか?」
こんな気障ったらしいセリフが嫌味なく聞こえるんだから、ほんと羨ましいよ。
「嫌なこと、嫌なことね。そりゃもう、山のようにあるさ。ベシィおばさんの小言も親父の命令もマナーの練習で冷めちゃうごはんもローリーの小馬鹿にした目も重いドレスもだだっ広い屋敷も――」
ベシィってのは女中頭のおばさんだ。俺の顔を見ると溜息を吐く嫌味なババアで、最近はタイミングを合わせて溜息を吐き返してやるのが密かな趣味だ。
ローリーは俺の屋敷に行儀見習いに来ている小貴族の娘だ。歳は確か十五歳だったか。やたらと俺のことを見下して、自分の価値を高めようとしてくるつまらん奴だ。って言うか世話になってる家の娘を馬鹿にすんなよな。ったく。
つらつらと芋づる式に出てくる俺の不満に、ユールグの柔和な表情もどこか引き攣ったように見える。
「ヒューデイル家のボンボンもルイーシュ家の嬢ちゃんも、あいつらなんであんな俺の事を目の敵にするんだ!?」
口を衝いて出る不平不満につられて感情まで昂ぶらせていた俺の声が、梢を揺らさんばかりに響き渡る。
ヒューデイルってのは――ああもういいや、思い出すのも腹立たしい。
木剣を振り回して少しは気持ちが晴れたかと思ってたんだが……まだこんなに溜まってたのか。
「目の敵ね……そうだな、『シューがあまりにも周りと違うところ』が、だろうな」
「んなこたわかってる! そんな正論が聞きたいんじゃねえ!」
十歳の女の子が口にするにはいささか口汚い言葉使いにも、ユールグは一向怯まない。
だからこそ俺は、ユールグ相手にはこうしていつも以上に言葉遣いを悪くしている。それはユールグも気づいているはずだ。気付いて、俺のストレス発散に付き合ってくれている。
これが俺の本来の地なのだ。それを女の子だからとあれこれ上辺だけ取り繕わされて、うんざりしている。誰も彼もがもっと女の子らしく、可愛らしくと押し付けてくる。
ユールグだけが、本当の俺を見てくれるのだ。俺にとっての数少ない味方だ。そういう意味でこいつには本当に感謝している。
「確かにそうだ、正論じゃそうなる。そして正論で測れないところに君の魅力がある。周りは自分の理解できない君の魅力を認めたくない。自分達の分かる範疇に収めたいんだろう」
「いい迷惑だ」
「だがな、シュー? そうやって君が反目するから、余計に大人たちは君を押さえつけるんだ」
「……わかってる」
「そうか。まあ利口な君の事だ、このくらいわかっているか」
わかっちゃいるけど……ユールグの言いたいことはわかる。俺は頭が回る割にガキだ。すぐにカッとなる。
頭が回るのだって、天堂宗とアマルのシューの人生があるからだ。二人分の人生が、俺をただの子供でいさせてくれない。そのくせ見た目通りにガキっぽいってわかるのも、シューの人生を体験しているからに他ならない。
そう、俺は二回目の転生の時、またもや『記憶保持』を引き当てた。他の内訳はこんなところだ。
資質はほぼすべてが平均を大きく上回る天才型。
容姿は御覧の通り、人間型で容姿端麗な女。十六歳になった時の姿も見せて貰った。その時は華麗な銀色の軽鎧を身に着けていたから、玉都で騎士でもやってんのかな。ま、あの姿見も当てにならないとか言ってたけど。
転生先の世界はアステラ。そう、直前に転生した仁科エリと同じ世界。また、同じ世界だ。嬉しいやら空恐ろしいやら。しかも――いや、この先は今はいいや。
特殊能力はさっきも言った通り『記憶保持』。超超超レアスキルが聞いて呆れる的中率だ。
最後の運命だが……まあ、ここまで揃い踏みで薄々察しはついていた。だが、やっぱ実際目にしたときは愕然としたな。
スマホの画面に躍り出た『ヒロイン』の文字に、何度も目を疑ったもんだぜ。
だってさ、男の記憶を持った俺が女に生まれ変わってしかもヒロインだと。
わざわざヒロインって銘打つってことはあれだろ、相手がいるってことだろ? そしてわざわざヒロインって宣言するってことは相手はヒーローである可能性が高いだろ?
俺が誰か別の野郎のものになる。考えただけでも鳥肌ものだ。
「シュー、少し稽古をしようか」
俺の懊悩を読み取ってか、ユールグが突然そんなことを言い掛けた。俺が何か言う前から野天道場の端に誂えられた屋根付き用具入れの木箱に歩み寄り、自分用の木剣を取り出している。
こりゃ、問答無用なパターンか。俺は覚悟を決めて木剣を構え、額から落ちてきた汗を拭う。
ユーグルは俺の剣の師だ。当然俺より強い。話にならないほど強い。
彼はティスト家の三男坊に生まれ、家を継ぐことはまずないからと若い頃からあちこちを旅して周り、色々な見分を深めてきた冒険者だった。
旅の最中には危険な生き物や盗賊と戦う機会もあったようで、実戦経験に裏打ちされた彼の剣技は確かに剣術と呼ぶにふさわしい技術だと思う。
個人の剣技を取り上げるにしちゃ大袈裟に聞こえるかもしれないが、なにせアステラ――だけじゃないな。前の世界のツェールでもそうだったが、日本の剣術みたいな総合体系的な『剣術』ってもんが存在しない。剣の技は基本的に自分で編み出して自分だけで使うもの。なんとか流とかどこそこ派とか、剣術を教えてくれるような流派もなく、みんな自己流で強くならなくちゃいけなかった。
そういう事情を知って、イメージとの食い違いからアマルのシューは剣技ってのが面倒臭く感じるようになっちまってな……それを引きずってて、今でも剣術には正直あまり興味が湧かなかった。剣とかもその時に見慣れたしな。
しかし、親父――っと、こう呼ぶと怒られるんだった。父上の意向で俺には五歳の時からユールグが師として付けられたのだ。それ以前にも貴族向けの道場に通わされたりなんかしたんだが、まあ、三件ほどたらいまわしにされて後はどこも受け入れてくれなくなった。原因は俺が手の付けられないほど暴れたからだ。
中身は三十過ぎたオッサンだ。身体がこんなでも本物のガキ相手に後れを取るわけがない。なので、剣技よりも魔法に興味のあった俺は時間の無駄を省くためにわざとそういう行動に出た訳なんだが、そこで打ち出された親父の次の手がユールグだったのだ。
ユールグは俺に剣を教える為だけにわざわざ国外から、それも当主命令で呼び戻されたと聞いている。俺が言うのもなんだが気の毒な話だ。
実際、最初の頃は『こんな小娘に……』という態度を欠片も隠さず、指導もお座成りだった。俺もやる気がないものだからそれをいい事にいい加減な練習をしていたと思う。
しかしユールグの教えてくれる剣技は、貴族の子弟向け剣道場の教えとは一味違った。剣道場と言えば一にも二にも筋肉体力、とにかく体造りに終始する。その次は同門相手のチャンバラで、とにかく武器を相手の身体に叩きつけたら勝ち。これを技術と呼ぶにはあまりにも乱暴だろ。
対してユールグの剣は教わるに足る体系を持っていた。実践の中で有効だった体裁きや運剣を型として研鑽し、それをわざわざ書き留め、それを他人が理解できるように纏め上げたものだっていうんだから驚きだ。
教養と時間を持て余す貴族の三男坊だからこそ可能な道楽なのだろうが、剣術は剣術。さしずめ『ユールグ流』ってとこか? どうでもいいけど微妙に言い辛いな。『るぐりゅう』のあたりが。
んでもってなんで急に俺がやる気をだしたかと言えば、その型をひたすらなぞるのが意外とストレス発散にいいのだ。もしかしたら元々才能があったのかもしれない。ガチャの結果も良かったし。
とにかく、理に適った身体の動きを意味も分からず繰り返していると、次第にその意味がぼんやり見えてくる。ただ無心に同じ動きを繰り返しているのも思考を纏めるのに丁度よければ、ふとした瞬間にその意味を見つける閃きがまた脳に心地よかった。
幼い身の上でストレスストレス言うのは自分でも嫌なんだが、貴族の屋敷で暮らしていると仕来りや礼儀作法があれこれやかましくて、俺みたいに自由奔放に生きて――転生してきた人間にはどうしてもストレスが溜まる。
そうした時、この特訓場に来て一人で木剣を振るうのだ。そうすると少しだけ気分が晴れる。教わり始めの頃はそうやって一人で型の練習してばっかだったな。ユールグが乗り気じゃなかったから。俺もユールグにそれ以上教わろうなんて思ってもなかったけど。
でも転機はすぐに訪れた。そんな俺の姿を見つけたユールグは俺の中に何かを感じたのか、急に指導に乗り気になってあれこれと熱心に教えてくれるようになったのだ。
後はもう、気が付いたら一通りユールグの知る型と返し手を教授してもらって、ユールグとの打ち込み稽古まで出来るようになっていた次第だ。
もちろん、打ち込み稽古じゃまだまだ敵わないけど、最近はようやくユールグの攻め手に返し技を当てられるようになってきた。ま、未熟な俺の返し技じゃユールグの身体を一歩も動かせないんだけど。
ユールグを一歩でも動かせたら、次は足捌きを教えて貰う約束をしている。楽しみかと聞かれれば微妙な所ではあるが、新しいことを知るのは面白かった。
「腰が浮き始めてるぞ、もっとしっかり足を踏みしめろ」
普段は飄々としているくせに、師匠の顔になったユールグは苛烈だ。
まだまともな打ち合いも出来ない俺に対して、ユールグは自分から踏み込んで打ってきたりはしない。俺が攻めるのを受けて、反撃するのみだ。
俺はこの状態のユールグを一歩でも動かせれば次の段階に進ませてもらえるのだが……。
「とっ、わあっ!?」
「踏み込みの時に腰が高いと何回言ったらわかる?」
肩口を狙った斬り下げを受け止められるのは前提に、受け止めたユールグの刀身の上を滑らせていなしつつそのまま腹部に突き――のはずが斬り下げは牽制だとあっさり見抜かれ払われて、脳天に木剣を置かれる。
お次は最初から喉を狙った突きを繰り出すが、木剣で絡めとられて弾き飛ばされ、肩をこつんと叩かれる。
だったら全身全霊の踏み込みでと懐深くまで飛び込もうとしたら、近づく前にぽかりと額を叩かれた。
「うー、ずるいぞユールグ、俺とお前じゃ腕の長さが違いすぎる!」
軽く叩かれただけなのに地味に痛い額をさすりながら、涙目を振り向けて訴える。
むろん、嘘泣きだ。俺の涙目に罪悪感を感じない人間はそうそういない。その珍奇な一人がユールグなのだが。いや、効果が無いのは分かりつつも、気に沿わないことに嘘泣きするのが癖になっちゃってて……あ、もしかしてこれが悪い女の入り口なのか……?
あー……うん、今は考えないようにしておこう。ユールグの言葉に集中。
「確かにリーチの違いはあるけどな、動かない俺と自由に動ける君とでは君の方が圧倒的に有利なはずなんだぞ?」
「嘘だ!」
全部軽くあしらってるじゃないか。大体、戦は籠城戦の方が有利っていうぞ。動かずに待ってる方が対応もしやすいんだから、待ち構えてるユールグの方が有利に決まってるじゃないか。
「嘘だ……って、君は五年も何を見てきたのやら」
呆れた顔でユールグが頭を振ったその直後。
「っ!?」
三メートルは離れていたはずのユールグの切っ先が、俺の鼻っ面に触れていた。それに気付くのと時を同じくして、思い出したかのように空気の塊が俺の頬を撫ぜる。ユーグルの神速の踏み込みが生み出した剣風だ。その風圧に屈したわけじゃないが、俺は腰砕けにその場に膝を折ってしまった。驚いたのと、遅ればせながら感じた恐怖に膝が笑いだしたのだ。先にトイレに行ってなきゃ漏らしていたかもしれない。
それほどにこの殺気も気配も感じさせない無音の一撃が恐ろしく感じられた。もしユーグルにその気があったならば、この切っ先は間違いなく俺に届いていたのだ。頭から血の気が引くのを感じて、いまだ突き出されたままの切っ先からユーグルの顔へと視線を移す。
ユーグルは余裕のある笑みを浮かべて、俺を見下ろしていた。逆光に影を濃くする笑顔が、なにか凄惨なものを含んでいるようで、怖かった。
「ご覧の通り、ただ待ち構えているだけじゃ踏み込みを加えたこの力の前には耐えきれないんだよ。僕の剣技の基本は相手を動かして、そこに隙を造り出していくスタイルだ。まずは踏み込みから相手の防御を崩す方法を身体に覚え込ませないといけない、ってこれ前に説明したっけ?」
「……知らん」
ユーグルのふんわりした物言いに直前まで抱いていた恐怖が消え去り、代わりに怒りに似た激しい感情がフツフツと湧き上がる。
何回も聞いた覚えはあるけどさ、なんかその言い方嫌味っぽくていやだ。ムカッとする。
「悪い悪い、口で伝えてなかったかと僕が不安になっただけだよ。気を悪くしないでくれよ、お姫様」
その『お姫様』ってのがまた子ども扱いしてて気に食わん。まあ、十歳の女の子なんだから子供なんだけどさ。
むくれた俺の眼前から、木剣の切っ先が下がる。
「君の筋ならもう十分な踏み込みが出来るはずなんだが。何が足りないのか……」
最後の方は独りごちる形で、ユーグルは木剣の刀身部分を片手に提げた。それは剣を納める動作であり、稽古の終わりを意味するものだ。
「もう終わりなのか?」
尻餅をついていた俺は上半身のバネだけで身体を起こして、師匠に不満たらたらの声を聞かせる。
「僕はシューの様子を見に来ただけだからね、本命はあっちだよ」
そう言ってユーグルが指さす方を見れば、そこには下草の上に膝を抱えてちんまりと座る女の子がいた。
「リリカ! と、ヨーセフゥ……?」
リリカを見た俺の声に思わず喜色が漲り、その直後にかたわらに立つ丸眼鏡の青年に気付いて、訝しむ。
「今日の授業は夕方からだろ?」
ヨーセフは自分の研究の傍らに俺に一般教養全般を教えてくれる学者だった。屋敷に一部屋を設け、食客として扱う対価に俺の家庭教師をしているという訳だ。
背は高い方で旅で鍛えたユールグと並んでも遜色ないが、いかんせんいつも部屋にこもって本ばかり読んでいるから肌が白くて痩せすぎなくらい細い。背が高いというよりもひょろりと長いだけって感じですごく見た目に頼りがない。そして実は見た目と同じくらい中身も頼りない。丸眼鏡の奥の落ち着かない瞳がその印象を更に強くする。
「リ、リリカさんに頼まれて一緒にお嬢様を探していただけですよ……」
猫背で言い訳がましく呟いて、そのまま茂みの向こうに姿を消してしまった。
あいつ、何しに顔見せたんだ? って、ああそうか、あいつユールグが苦手だったっけ。ユールグみたいにいかにも溌剌として人当たりの良さそうな人間に対して劣等感を覚える性質なんだろうな。
うん、その気持ちはよくわかるぞ。俺も昔はそうだった。宗の時の話だけど。
と、茂みの向こうに去っていくヨーセフへ向け、一緒に探してくれたお礼を叫んでいた女の子――俺の幼馴染のリリカが、ゆっくりとこちらに向き直る。
「お疲れ様です~、シュー様~」
質素だが清潔そうな麻の修道服に身を包むリリカは立ち上がり、木陰からゆっくりと近づいてくる。
木下闇の中では暗い赤褐色だった長い髪が、陽の光の下で濃い桃色に輝く。
あまりちゃんとした手入れをしていない長髪は伸び放題で、きちんと梳いたり切り揃えたらさぞかし綺麗に輝くんだろうなと思っているのだが、『マリベル正教神会信徒にそんな贅沢はいりません~』とかいつも突っぱねられてしまう。口ではそんなこと言ってるが、実際は照れ臭いだけなんだろうけど。ちょっと髪を綺麗にするくらいいいと思うんだけどなぁ、もったいない。
でもまあ、今はそれよりも――。
「“様”はいらないって、いつも言ってるだろ?」
「シュー様も~、ちゃんと女の子らしい言葉遣いをしないといけませんよ~?」
昔は自分の事で一杯一杯って感じだったけど、今じゃこんな風に俺の世話まで焼いてくれるんだぜ。
まあ、言ってる事は屋敷の女中の口真似みたいな感じだけど、リリカに言われると何故だか気に障らない。それはきっと俺だけが知るリリカの秘密にかかわっている。
さっき転生後の世界の時に言いかけたのはそのことだ。リリカは多分、『仁科エリ』の転生した姿だ。
思い込みじゃないぞ。リリカもまだ十歳だからなんとも言えないけど、エリの転生の時にスマホに映った十六歳の姿とパッとしない雰囲気がよく似てるんだ。
リリカと出会ったのは六歳の時だったか。場所はこの特訓場で、近くの農村に住むリリカが迷い込んだのが切っ掛けだった。その時は彼女がエリかもしれないなんて欠片も思わなかったけど、そう思うようになったのは俺が行き倒れ間際のリリカをお持ち帰りしてからだ。
エリが転生する時の様子は今でもはっきり覚えている。もちろんその時の条件もだ。
暗い赤髪に地味な顔、そして『動物と喋れる』特殊能力。これが俺に確信を与えてくれた。俺に懐いてくれるまで、リリカはずっとこの特訓場近くで森の動物とばかり話していたから。
リリカは動物とお喋りできる特殊能力を持っているのだ。本人に確認はしてないけど、間違いない。
特殊能力の項目で『動物と喋れる』能力を手に入れたエリは、転生の際に記憶を失った。だからリリカは俺のことを覚えていない。そしてよく似た雰囲気の見た目。これだけ辻褄が合えば、誰だってピンとくるだろう。
まあ、俺もちょっと半信半疑だけどさ。だってこの世界アステラは広い。
分かっているだけでも、ユーラシア大陸くらいの広さがあるゴーズ大陸――いわゆる大大陸――と、その東に位置する北アメリカ大陸くらいの大きさのメウズ大陸――いわゆる小大陸――の二つの大陸で構成されたアステラの世界。
しかも人が住まう地域はこの二大陸だけじゃないらしい。まだ世界の全容が明らかになっていないのだ、このアステラの世界は。
ユーラシア大陸と北アメリカ大陸っていったら、地球の大陸の半分はあるんじゃないか? ってことはアステラってもしかして地球よりも広いんじゃなかろうか……。
その広い世界に転生して、こうしてエリが目の前にいるって言うのがどれだけの奇跡的な幸運か……だから俺は絶対にリリカと仲良くなるんだと気合を入れて、人を拒絶するリリカと接するようにした。
その辺の紆余曲折は長くなるからまた今度にするとして、今じゃこんなに仲良しさんってなもんだ。
一つ気になるのはリリカの家の事だ。
リリカ自身は話してくれないが、尋常じゃない事態に巻き込まれてそれから逃げてきたのだと、ここに迷い込んだ時の姿で察しはついていた。
髪はボサボサ、着ている服も雑巾みたいで泥だらけ。急に出てきた山猿みたいな子供に驚いていた俺を、意思の薄そうな惚けた顔つきで見つめてると思ったら、リリカは急に泣き出したのだ。
そんな子供をほっとく訳にもいかず、俺は屋敷での理解者の一人であるルゥ婆にお願いして彼女を匿ってもらった。ルゥ婆は俺の世話係のばあちゃんで、親代わりみたいなもんだ。
そのルゥ婆が教えてくれた。俺が六歳だった当時、ここから東のあたりは近年まれにみる水害に襲われ、村同士で作物を奪い合う悲惨な状況に陥ってたらしい。リリカはそんな村の一つから逃げ出してきたのだろう、と。
とにかく、彼女に身寄りがないというのは彼女の言葉の端々からもわかった。ルゥ婆も孫が出来たみたいで嬉しいとリリカの事を受け入れてくれたし、俺も一人身のルゥ婆に家族ができて嬉しかった。リリカ自身もまんざらじゃなさそうだったから、リリカはずっと俺のそばでルゥ婆と暮らすもんだと思ってたんだが……。
リリカは半年前、ルゥ婆の小屋を出て唐突に『マリベル正教神会』へ入信した。俺に何の相談もない唐突な話だった。
あれはちょっとショックだったけど――いや、今でも結構ショックなんだが、それまで自分の意志ってものを明確に表さないリリカの奥ゆかしさには正直心配してるところがあったから、ちゃんと自分の身の振り方を考えてるって知れたのは嬉しかった。でもやっぱり、何の相談もなかったのは寂しいかな。
『マリベル正教神会』は『女神マリベル』を主神としたスラディア皇玉国指定の信仰だ。
女神マリベルの恩寵は主に癒しと成長、つまり回復系の祈祷術を司っている。
祈祷術って言うのは要するに魔法の一種で、自分が崇める神様の力を、それまで神様に尽くしてきた功徳を糧に貸してもらう。そうして現実には起こり得ない奇跡を実現する方法だ。
『マリベル正教神会』なんて大層な名前がついているものの、いや実際信徒の数も大陸全土にうん百万って数えきれないほどいるかなり巨大な信仰なんだけど、宗教とは違う。
あくまで神様がこうしなさいああしなさいって推奨することを率先して行って、神様のご機嫌を取る集団だ。宗教ほど厳密な戒律があったりするものでもない。
だからマリベル正教会に入信する信者ってのは、とどのつまり神様を盛り上げるから私に回復魔法を使わせてください! って志を持った奴だ。
リリカも何を思って回復魔法を習得し始めたのか、その辺はまだちゃんと話せてなくて謎だった。
ちなみにここまでの説明で察しがついてるだろうが、アステラの神様はきちんとした自我を持っている。
肉体を持つ神様はほぼいないらしいが、それは神様っていうのが純粋なエーテル霊体で高濃度のエーテルに高密度の霊体がなんとかかんとか、ルゥ婆が説明してくれていた気がするがよく覚えていない。
ま、とにかく、リリカが自由に会えない所に行ってしまったのも、俺が最近苛立ってる要因の一つだったりする。
「努力はするよ。だからさ、リリカもそろそろその喋り方、改めてくれない?」
「私も、頑張ってはいるのですが~……」
困った顔で真剣に首を捻るリリカの様子がおかしくて、俺はついつい噴き出してしまった。するとリリカもつられたように噴き出した。少女の愛らしい笑い声が、麗らかな木漏れ日の下で唱和する。
二人とも考えていたことは同じなのだろう。頑張ってはいるものの、一度身に染みた癖がなかなか治らなくて困っているのだと。
俺だって口調は何とかしないと、これからどんどん女らしくなるにあたって面倒なことになるのは分かっている。特にティスト家の一員として生きていくのならば、行儀作法以前の問題だ。
家の一員として生きていく。それは王侯貴族に生まれた者にとって当然の道。否応無しだ。
十八になる兄貴はとうの昔に将来の足掛かりのためと玉都の本屋敷に移ったし、十五になる姉貴もついこの間、第二王妃付きの行儀見習いとして奥殿に入った。
俺ももう十歳。将来の身の振り方を考えるのに早くはない時期に差し掛かっている。
少なくとも周囲はそう考えている。俺の思惑なんて一切お構いなしに。
もしも、だ。ティスト家の一員として生きていく場合、俺の目の前には二つの道が示される。
一つは同じ位の貴族に嫁入りする。一つはティスト家より下の貴族に嫁入りする。
俺がどっかの嫁になるとか、ぶっちゃけ想像もできないと言うかしたくないというか……。
ちなみにティスト家より上の貴族に嫁入りする選択肢がないのは、ティスト家より上の侯位がないから。ティストの上は即王族なのだ。
王族に嫁ぐ道がないではないが、それは臣下が望む道ではなく、王族が見初めて初めて開く道だ。俺としては開かないで欲しいが。
とは言え、実のところその可能性は低くない。
譜代であるティスト家は降嫁を受けて王族に名を連ねたこともあるほどの名門で、現在も貴族の第一位である紫侯の位にある。これは昨日勉強したばかりの知識だから間違いない。
俺の容姿もあるし、見初められない無い可能性のが低いってのは困った話だ。
ちなみに貴族の侯位は色でその位が分けられていて、王族の使う尊き色である青を除いた紫を最上位として六段階あり――って、こんなことを思い出している場合じゃない。
「さて、それじゃあ僕も用事があるからこれで失礼するよ」
俺とリリカが笑い合っている間に、ユーグルは自分の木剣と俺が取り落としていた木剣を片付けてくれていた。
特訓場の茂みを揺らして去りゆくその背中に、俺は深々と一礼する。
身を起こすと、そのまま隣に立つリリカに向き合った。
「リリカはなんでここに? 修道院はどうしたの?」
なるべく女の子っぽい口調で尋ねてみる。うむ、このくらいなら気色悪くない。
「今日は外務めの日なのですので~、ロゥルゥ様のお手伝いをしておりたの~。ロゥルゥ様が~、なるべく早く来てくれって仰ってました~」
奇怪な言葉遣いに噴き出しそうになる。リリカの頑張りを笑うのも可哀想なので辛うじて堪えた。
「えーと、まあ、努力は認めるよ」
「うん、ありがとござう~」
止めを刺しに来やがった!
さすがに堪えかねて、俺は咄嗟に背中を向けると、ゆっくりと息を吐き出して笑いの発作を抑え込む。
「あ~、シュー様笑ってます~?」
さすがにバレた。
「だ、だって、ねえ?」
「もう~、頑張っているのに酷いですよ~」
「ごめんごめん……お互い、ちょっとずつ頑張ろっか」
俺の提案にリリカはほっとした顔をして、
「うん~、そうします~」
と頷いてくれるのだった。
「さ、ルゥ婆が呼んでるんだっけ?」
「はい~、なんでも予定が変わったとかで~」
「予定? 何の予定だ?」
誰にともなく呟く俺に、答えは返ってこなかった。