0#3 覚醒
「俺は……どこで間違えた……?」
独り言ちる声に答える奴はいない。
手持無沙汰に撫でたあごには、強い無精髭が生え揃っていた。そういえば、もう三日ほど身体を洗っていない。どころか、この洞窟から出ていない。
この臭くて暗くて陰気な地下牢にいるのは、俺と相方だけだ。と言っても俺と相方が捕らえられているわけじゃない。むしろ俺達は見張る方だ。
その相方は今、奥の牢でお楽しみの真っ最中で、女の嫌悪に満ちた悲鳴がここまで岩壁に残響を染み込ませて悪夢のように俺の耳を打っている。
そう、忘れてた。人間という――女という形をした商品なら、十数人いる。木格子の奥で小動物のように身を寄せ合い、悲鳴にを恐ろしげに聞いている。
震えているのは恐怖だけじゃないだろう。女共はほとんど裸同然の格好だった。そろそろ夜も温かくなってくる時期だが、今年の冬は寒さと飢えで三人が死んだ。
そいつらはもう、俺の意識の中で人間と扱ってない。扱ってたら、こんなところで飲んだくれていられるはずもない。
「俺と、お前らと、どっちの方がより人間らしいんだろうな」
虚ろにうずくまる女達に向けて、おどけた仕草で欠けた酒椀を掲げ嘲る。もちろん、嘲りの対象は俺自身だ。
酸っぱすぎる安酒で口の端に残っていた自嘲の笑みを流し込み、もう一度自問した。
「どこで間違ったんだ……」
俺の――アマルのシューの回想は、いつもその笑顔から始まる。
幼い女の子の、照れたような柔らかい笑みだ。
その娘は俺より一歳年下で、村に唯一の歳の近い子供だった。名前をサキという。
歳が近い子供がお互いしかいないものだから、その娘とはどこに行くにも何をするにしてもいつも一緒で、村を縦断する川で釣りをしたり親の手伝いで山に山菜を取りに行ったりと、『シュー兄、シュー兄』とチョコチョコついてくる様を鬱陶しくも愛おしくも感じていた。
いわゆる幼馴染ってやつだ。今思えばとんでもないリア充だよな。血が繋がってない妹キャラ(デレ)とか。
俺が転生した世界は、一言でいえば日本の戦国時代のような戦乱の世だった。
と言っても、あんなズバリな甲冑武者が闊歩するような世界じゃない。中国っぽい文化と和風っぽい文化とそこはかとなく西洋っぽい文化が入り混じった不思議な文明を築く世界だ。
この世界では、大王と呼ばれる王様達が、自分達の国を守るために戦っている。
この戦乱の世はすでに百年以上続いているらしい。こんなにも長く続いているのは、国一つ一つが大きく豊かで安定しているからだ。
それなのに大王達は他国にちょっかいを掛けることを止めない。
欲の皮が突っ張っている以上に『自分が争いたくなくても向こうが仕掛けてくるかもしれない、それならば先に仕掛けた方が有利』という疑心暗鬼が沁みついているせいだと、村を通りかかった旅の学者は言っていた。その学者も、大王の勘気に触れてどことも知れぬ空の下に流浪の身を置いている、とも言っていた。
子供心――いや、その時点で重ねた年月を足せば二十は超えていたから子供でもないか。とにかく、それを聞いて王様ってのは結構アホなんだなって思ったもんだ。
俺が生まれた村は国土の中心に近いところ、しかし南にある城下からはかなり遠くてしかも深山のど真ん中に位置するから“ド”をいくつ付けても足りないくらいの田舎だった。
その分、戦乱に巻き込まれるようなことはなく、安全で長閑でちょっと寒くてつまらない所だった。
奇怪なことにこの世界でも『シュー』と名付けられた俺はその村――アマル村の中で、神童と呼ばれていた。
読み書きといった文系は現地のものがあるから勉強する必要があったものの、転生前は進学校のトップクラスだった俺だ。数学・物理・地理・経済といった別世界でも通用する通念的な知識の基本を生まれる前から備えていたのだから、当然といえば当然だろう。
言葉を習得してからは、村で起こるちょっとした問題や事件を『そんなことも分からないのか』と少し軽侮する心持ちで解決してやった。
そんなこんなで、神童の名をほしいままにするのにそれほど年月はいらなかった。
そんな秀才が、こんな山奥に引っ込んでいていいはずがない。大王に仕えてもっと出世するべきだ。
俺が成人――この世界では十五歳で大人と認められる――する頃には、村の中はそんな声で一杯になっていた。
出仕はともかく、世に出るってのは俺も考えていた。転生前のエリとのやり取りを忘れた事は片時もない。
だから口では『誉め過ぎだ』とか謙遜しつつ、機を見て飛び出す気満々だった。
生まれる前から世に出ることを決意していたが、想定外の心残りもあった。例の幼馴染、サキだ。
その頃にはサキも目鼻立ちがはっきりしてきて、あと数年で村一番の美人になることは想像に難くない美少女に成長していた。それがまた、俺の後ろ髪を引く。
しかもサキには俺と一緒になりたいという気配がムンムン伝わってくるのだ。勿論、口で直接言うようなはしたない真似はしなかったさ。でも年頃の娘が未だに『シュー兄はこの村を出ていくんだよね……』とか言って上目づかいで見上げてくるのはどう考えてもそういう意味が含まれてるだろう?
もちろん俺も、そういうサキに惹かれていた。
だけどアマル村の期待や俺自身の野心がそれぞれの口を封じて、留まるとも出ていくともハッキリさせない宙ぶらりんの時期が一年近く続いた。
このままじゃいけない。
ここで思い切らなきゃ、このままズルズルとこの何もない村で一生を過ごして……。
それは、また自分じゃ何も決められない人生を歩むことに他ならない。
エリと約束したんだ、今度は自由に生きるんだって。
半ば強迫観念と化した欲求に襲われた俺は、サキに村を出る決意を伝えた。
サキは反対はしなかった。
「なんとなく、シュー兄はここにいちゃいけない人なんだって気は、してたよ」
いつかこういう日が来ると覚悟している風で、寂しそうに頷いた。
「わかってたけど……わかってたのに、どうして好きになっちゃったんだろうね」
そのいじらしい涙を見た途端、俺の中で何かが弾け飛んだ。多分、理性ってやつだろう。
半ば押し倒すようにして、その晩、俺とサキは身体を重ねた。
そしてそれをはなむけに、俺はコッソリと村を出る。
それは子供っぽい自負からだった。
見送られればアマル村という集団の代表になってしまう。だから俺は俺の意思で、誰に求められたわけでもなく村を出るのだという事実が欲しかった。今でこそ、そう思う。
そして、そういう自負がことごとく裏目に出た。
転生前は運動方面にほとんど手を付けなかったせいで、俺は転生後も身体を動かすことが苦手だった。
志望校に受かるべく勉強付けだった俺のあだ名はズバリそのまま『ガリ勉』。一体いつの死後だよ、と内心で毒づきながら、体格の良い相手に言い返せずじまいだった。
だから生まれ変わってからはなるべく身体を鍛えていたし、鍛えたからにはいろいろと試してみたい。
名を上げる手段としては、国吏試験に受かるかこの世界の人気職業であった傭兵になるかだ。現代風に言えば前者が公務員、後者がスポーツ選手かな。漫画家とかラノベ作家よりもスポーツ選手の方が傭兵ってイメージとしっくりくるだろ。
国吏とは要するに王城に努める学者や官吏の事なのだが、この試験がまた倍率数千倍という桁を間違えたような高倍率なのだ。だから自然とふるいの目も細かくなる。つまり、試験の内容がとんでもなく難しいのだ。難しいというかカルトだった。
『第十三代カー・シャーン、ロウス王の側室における序列制定の三原則の内、ロウス王が最も重んじた原則とは?』
「……数百年前の他人の情事のルールなんてどうでもよくね? しかも筆記かよ」と思った時、俺は国吏に向いてないんだと悟ったね。
なので俺は、手っ取り早く名を上げるべく傭兵団に所属した。
この世界の傭兵は『実力と危険に見合う、稼ぎと名声を得られる職業』なのだ。
なにせ傭兵が活躍する小競り合いはいくらでもありながら、しかも国を賭けた大戦なんてものは何十年も起こっていない。
国のお偉方にとって戦とは、その勝敗に一喜一憂してちょっとした土地と優越感を得るためだけの賭博のようなものだった。もしかしたら、実際に城の奥で金を賭けたりしてるかもな。
それでも戦であるから人は死ぬし、戦場になった田畑は荒れる。それらの修復に農民は欠かせない。だから国は自国の民を動員することを嫌い、戦いたがる奴らに多額の報酬を払って代わりに戦わせる。
国と国の戦いなのに、上は大将から下は一兵卒までお互いの国出身の兵士が一人もいない戦場なんてのもザラだった。
俺が天堂宗だった頃で言えば、傭兵ってのはベンチャー企業みたいなものだ。
己の才覚次第でどうとでもなる。
そして村ではあれだけもてはやされた俺には、その才覚がある。
ところがそれは勘違いだった。
一年、三年と時間を重ねても、俺の武芸は上達しなかった。
当然だ、出来ることが当たり前になっていた俺が、なかなか上手く出来ない物事に必死の努力を重ねる忍耐を持つわけがない。
武芸が上達しなければ、戦闘には出してもらえない。この世界の傭兵団は資金が豊富だったから歩合ではなく給料制だった。だから死ねばただの給料泥棒、そして戦う以外の仕事は山のようにある。
数百人の団員が寝起きする部屋の掃除や洗い物、食事の準備といったおさんどんから、武具の繕い、俸給の計算と管理、内外に対する広報……むしろ俺はそっちの方に才があるとして、どんどん戦場から遠ざけられていった。
だけどそんな地味な仕事で英雄として名を馳せられるはずがない。
そうなれば、俺としては不平不満が溜まっていく。
堪え性の無さはここでも発揮され、俺は五年ほどでその傭兵団を自主的に退団した。
それでも当初に持ち合わせた夢は色褪せない。
きっとアイツらの教え方が悪かったのだと決めつけて、別の団に入団した。
最初の傭兵団よりも格式は下がるが、そのぶん身分の上下が曖昧で、より実力がものを言う環境だ。
そこで俺は、気付いたらふんどしを洗っていた。
そこもすぐに辞めた。
次も、その次も似たようなものだった。
周りが悪いんじゃない。俺に才能がないのと、才能の無さを埋める努力を怠った。
そう思い知った頃には、俺を雇い入れてくれる傭兵団はこの国になくなっていた。
傭兵団にも弱いながら横のつながりがある。そのつながりで、『アマルのシューは役には立つが使い物にならない』という評判が定着してしまっていたからだ。
そんな面倒な人間を雇おうと思う酔狂は、残念ながらこの国にはいなかった。
自国の資源でもある人間を外国に流したがる国はいない。特使や行商でもない限り、人民が外の国に出る事を禁じている。
浮ついた夢から目が醒めた時、俺は三十路が間近だった。
名を上げるだけなら傭兵団で武名を轟かせずとも、国吏として善政を敷けばよい。そう思い直したが遅かった。
今から国吏試験の勉強を始めても、まともな合格の可能性が出るのに三年から五年は掛かる。その頃には俺も三十半ばだ。『二十代です』と言って怪しまれない自信はない。
国の官吏試験の上限は二十八歳と決められている。アマル村はド田舎とはいえ、ちゃんと人別帳もあるれっきとした集落だ。『アマルのシュー』と名乗ればそれだけで年齢がばれてしまう。
身分を偽って、よしんば合格したとしても、後でばれればその場で馘首。それも仕事を辞めさせられるだけじゃなく本当に獄門に乗せられる。
詰んだのだ。この時点で。アマルのシューの人生は。
そこで大人しく村に帰り、期待を裏切った不出来者として肩身の狭い思いをしながらでも、サキと一緒になればよかった。
それなのに、その時の俺は詰んだという厳然たる現実を認めようとしなかった。
その点に関しては今も認めていない。諦めるべきだとわかっていても、まだどうにかできるはずだと諦めるのを拒絶している。
だから今、俺はこうして悪臭と女の悲鳴に纏わりつかれて生きている。
諦めたら終了するのが“試合”じゃなくて“人生”なんだから、諦めるわけにはいかなかった。
なにがなんでものし上がってやる。
その意思の堅さだけは褒めてもいいんじゃないかなと思う。
だって、その意地だけで、傭兵崩れのならず者が集まったこの盗賊団で、五年も人でなしをやってるんだから。
俺はここで攫ってきた女共の世話と管理を任されている。
結局他人の世話だった。落ちるところまで落ちてもやってることは以前と変わらないんだからお笑い草だ。
この女達が商品だってのは先に言った。実際は地方の村や集落、商隊を襲って奪い取った戦利品の、あくまでその一つだった。
商品である女が収監されているのはここだけじゃない。むしろここに収容されているのは商品価値の低い女達だ。まだ使えそうなものの年嵩だったり、若くても顔が悪かったりといった具合で。
もっと上等な女は上の建屋にいる。
もともとこの地はそれなりに大きな寺院だったが、戦乱の中で人が去り廃寺になっていたのを山賊が補修して使ってるものだ。
そして俺がいるのはその地下、崖の途中に掘り抜かれた洞窟で、本来は僧の修行場だったらしいところを牢獄に改造して使っている。
ここから出るには縄で数十メートルの崖を下るか、数メートル上の崖上まで誰かに吊るし上げてもらわないといけない。
女共の脱走対策にはもってこいだが、出入りが面倒だからついつい入り浸りになる。
そんな牢獄内は、女共の糞尿と汗と涙と血の匂いでむせ返るような悪臭に満ちていた。衛生環境は最悪だ。
だが、それも気にもならないくらい、俺の心は荒んでいる。だから、ここにいられた。
相方は単に女を犯すのが好きだからここにいるらしい。人間の女であればなんでもいいと言っていた。天職のようで何よりだ。
実を言うと、俺自身の境遇はこの女達とさして変わらない。
俺も、盗賊団に半ば強制されて入団させられたのだ。
たまたま盗賊団と出くわし、気まぐれに捕らえられ、これも偶然ここに俺の事を知っている奴がいて、そいつが『役に立つけど使い物にならない』という俺の微妙なスペックを頭目に教えて、そういう事なら女の世話役が足りないから、と飼われたわけだ。
もちろんイヤだったさ。だけど、断れば殺すと脅された。そしてどう考えても命と交換にするほどの理由は、俺の中にはなかった。
それからズルズルと女共の世話役としてここで罪を重ねている。
監獄の中を掃除しながら命乞いを無視し、残飯のような飯を投げ入れ、言うことを聞かなかったり脱走したりしようとした相手に拷問まがいの懲罰を与える。
懲罰も相方の得意分野だ。俺も一通りのことを教えられたが、奴ほど容易に女を変心させられない。もっとも、奴は女が変心しても責め続けるから、それで何人使い物にならなくなったことか。
そうでなくても好き放題に女を犯して、いくつか使い物にならなくしている。使い物にならなくなってもそもそも商品として価値の低いものだ、大した問題にはならなかった。
女を好きに犯せるのはここの番人の役得だ。俺は利用したことないが。どんな病気を持っているか知れない女に突っ込む勇気は俺にはない。持ってなかったとしても、こんなとこにいれば遠からず罹るに決まってる。
それにそもそも犯ろうにも勃たないのだ。
どうしても、比べてしまう。
汚くて可愛げのないこいつらと、若くて愛らしかったサキの肢体とを。
何杯目だか忘れた発酵酒を呷り、空になった器を再び満たす。建付けの悪い机がガタリと鳴った。
作業の時以外はこうして洞窟の入り口にほど近い見張所に陣取り、過去を思い出して呑んだくれるのが日課になっている。
その日課に勤しむ俺を邪魔する奴が外から訪れた。
「おい、シュー、お頭が呼んでるぜ」
洞窟の入り口に、口元を押えてこっちを見遣る若い男がいた。名前は知らないが仲間の一人だ。
男はジッと自分を見つめて動こうとしない俺へ、不快気な声を荒立てた。
「オッサン聞こえてんだろっ! ここ臭ぇんだよ、とっとと出ろや!」
別に反抗したかったわけじゃない。なんで呼ばれたのか見当がつかず、アルコールに毒された頭でのたくた考えていたせいだ。
呼びつけられて叱責するようなヘマはしていないし、どうやら考えてわかるような理由じゃない。
俺は考えるのをやめて立ち上がった。
「チッ……」
ふらつく足に舌打ちして明るい方へと向かう。ボロい着流しの小袖が足にまとわりついて鬱陶しい。
入り口へ辿り着いた時には既に、若い男は不安定に揺れる籠の中にいた。崖上に上る昇降用の籠だ。綱で吊るされ、綱を巻き取って持ち上げる昇降機も上にある。
ただしそんな上等なものじゃないから、とんでもなく揺れる。落ちれば即死は免れない高さで頼みの綱はただの荒縄。かなりスリリングな絶叫アトラクションだ。
そんなものに退避するなんて、臭気の中に身をさらしているのがそれほど嫌なんだろうな。
「おっさん急げよ」
洞窟の外に出て臭気が和らいだおかげか、男の声は幾分か柔らかく聞こえた。それでも男所帯の荒々しさ、体育会系の粗暴さが抜け切るものじゃない。俺は、そういうの、苦手でね。
大人の男二人が収まると少し窮屈に感じる籠は、およそ五メートルほど上昇して崖の上に出る。
滑車と太い荒縄で構成された原始的な昇降機の原動力は、人力だ。
崖の上では最近加わったばかりの少年のような男が二人、大きな歯車の横にへたり込んで肩で息をしていた。
歯車には大きな把手が付いており、ストッパーによる回転が戻らない工夫はされているものの、ギア比で原動力を増すような機構はほとんど無いに等しい。
大人二人プラス機械の摩擦をたった二人で持ち上げるのだから大変だろう。
でもそれが仕事なのだからしょうがない。若い衆には目もくれず歩き出す男に倣って、俺も無言で籠を出た。
崖に立ってすぐ目の前に、未だそこが寺域だと勘違いした山門が厳めしく建っている。
山門を潜った左手にちょっとした畑、反対の右手側には僧房、庫裏、経蔵といったあばら屋みたいな木造建物が並び、正面奥に法堂兼本堂がデンと構えている。どれもこれも“元”って付くけどな。
本堂の奥にはこれらの建物の中でも一番大きく新しめの屋敷がある。『本丸』と呼ばれる屋敷が。大袈裟な名前だが、要するにここが山賊家業の根拠地、ねぐらだった。
他の建物は名残に過ぎず、本丸からあぶれた下っ端なんかが寝泊まりに使っちゃいるが、修繕の手はほとんどいれていない。
これらが山賊のねぐらの全てで、この敷地を丸太で組んだ塀が囲んで防備としている。
塀の丸太には葉のついた木の枝がさしてあり、遠目には山容に溶け込んでわからない細工もしてあった。
敷地の麓側には物見櫓を配し、もし仲間以外の何かが近付いてくればすぐに見張りが知らせるようになっている。
俺と男は本堂に向かう雑草だらけの石畳を歩き、本堂を土足のまま突っ切って奥の本丸に向かった。
元大工達が作った本丸は結構本格的な大屋敷造りなのだが、食堂と台所とお頭の個室以外は部屋と廊下の区別もなく誰もが好き勝手に使っていた。
今も、広い上がり框に腰かけた男達が賭札の絵柄に歓声や罵声を上げて大袈裟に騒いでいた。
その合間を縫うように歩く。
俺の前を行く若い男は負けてる仲間を冷やかしたり、勝ち過ぎの仲間の手の内をばらしたりとふざけながら。
俺はと言えば、お前らだって大して変わらなく臭いだろうに、地下牢の臭気で顔を顰められながら。
玄関先を通り過ぎ、廊下を鍵の手に曲がり、立派な扉の前で若い男は止まった。顎をしゃくって入るように指図し、そのまま奥へと姿を消す。
「お頭、アマルのシューです、入りますぜ」
言いながら許可も待たずに扉に手をかけた。かけたと同時に扉が内側に開かれて、俺はつんのめりそうになるのをようやく堪える。
そうして屈み腰になった眼前に、思わぬものを見た。
どこかのお姫様かと見紛うばかりの、楚々として哀愁漂う身形の良い少女の顔だ。
今にも泣きだしそうな憂いに伏した瞳はそれでもなお大きく、気が晴れて笑ったらさぞや愛らしいだろう。
横一文字に引き結んだ唇も形良く、桜色に色付いている。
顔の中央には、筆でさっと掃いたような鼻筋に整った小鼻が、白い頬い挟まれて控えめに陣取る。
誰がどう見ても美少女だと太鼓判を押す顔立ちだが、実のところそういう女の子はここでは珍しくない。
攫ってきた容色の良い女はこの屋敷の座敷牢に幽閉されているからだ。
じゃあ何が俺に『思わぬもの』と思わせたか?
その面差しだ。その顔の造りが、記憶のどこかに引っかかった。
思い違いなんかじゃない、遠い昔か最近かすら判然としないが、間違いなくどこかで見たはずなのに、何かが違う。その違和感が妙に気になった。
でも少女は、どう控えめに見積もっても二十歳を出ていることはないだろう。
こんなところで五年も引籠っているのだ、そんな若い娘に知り合いができるはずもないし、見知った女と再会することもない。
ここに来た女は例外なく商品として出荷されて戻ってこないのだから。
だけど絶対に、どこかで見たはずなんだ。
一体どこで……いつ……?
「おいシュー、邪魔だどけ」
呆然と美少女の顔に見惚れていた俺に、部屋の奥から苛立たしげな怒声が投げつけられた。
お頭の声だ。相変わらずダミってるくせにやたらよく通る。
胸中では毒づきつつも身体は正直なもので、無意識に命令に従って横に退いているんだから、俺もしっかり飼いならされたもんだ。
俺が扉の前から立ち退いたことで、部屋の中からその少女とおっさんが出てきた。少女の監視役だろう。同い年くらいのその男の顔は、俺と似たような仕事をしているから記憶にある。向こうは小綺麗な座敷牢の見張りでこっちは汚い石牢の見張りだから、仕事の内容は雲泥の差だけどな。
二人は俺の存在なんか無いもののように、そのまま廊下を曲がって姿を消した。座敷牢に戻されるんだろう、あの娘は。
その背中を見送った後、入れ替わりに部屋の中に入る。
十二畳くらいある部屋の中には禿で髭、頭をひっくり返したような大男――俺らの頭目だ――ともう一人、真っ白い頭髪を丁寧に撫でつけた品の良い小柄な老人がいた。
これもまたいつぞや見たことがあるような顔だが、さっきみたいな激しい感傷は巻き起こらなかった。ジジイだからかね。
お頭は板間に切られた囲炉裏の奥にドッカリと、老人は右手側にキッチリと座っている。
「ぼさっとしてんじゃねえよ、こちとら忙しいんだ。手前のノロマに付き合ってられるほど暇じゃねえんだよ」
「へえ、すんません……」
お頭の嫌味に軽く頭を下げる。
お頭はまだ言い足りない様子で荒い鼻息を噴出した。
その時、横合いから場違いなほどのんきな助け船が漕ぎつけられる。
「まあまあ、あーしは急いじゃおりませんからな、そのくらいで勘弁してあげておくんなまし」
「……ちっ、コル爺がそう言うんなら仕方ねえな」
「それより本題に」
「そうだな。シュー、手前は今からコル爺を連れて下の女共を見せてやれ」
下とは俺が管理する石牢の事だ。逆に上と言ったら本丸の座敷牢を指す。
「爺さんを連れて……?」
「そうだ。ってか手前、コル爺を覚えてねえのか? 何年ここで牢番やってんだ手前はよ……」
要領を得ない俺の顔を見たお頭の声に、再び苛立ちが混じる。眼光が険しくなり鼻が膨れて、横一文字の口が裂けたように左右に延びる。元々顔の造りが大きいお頭がこういう顔をすると、まさしく鬼の形相だ。
しかもこれでまだ本当に怒っているわけじゃないのだ。本気で怒るとその気配だけで大の男が凍り付く程の恐怖を味わうことになる。
「お頭、あーしの事は捨て置いていいですから、話を」
「ふん、そうだな、コイツが愚図なのは今に始まったことじゃねえや」
ここでも間を外してくれたのはコル爺と呼ばれた爺さんだ。
この爺さん、もしかしてもしかしなくても良い奴か?
っていうかこの良い奴っぽさで思い出した。
この爺さん、女を買いにくる女衒の爺さんだ。何度か石牢に案内したことがあったっけ。興味なかったんで名前すら聞いてなかったから、すっかり忘れてた。
「思い出したよ、爺さんずいぶん久しぶりだな」
「ええ、ええ、ここの所は上で御用を済ませて頂いてたものでしてねぇ」
「なるほど、それでとんとご無沙汰だったのか。羽振りの良い事で羨ましいぜ」
「いや全く、それもこれもお頭殿の御懇意あってこそ――」
「無駄口は出て行ってからにしろ」
「おやおや……お頭もああ仰ってる、行きましょうか、シューさん」
「ああ……」
大儀そうに身を起こし、三和土の草履を履いた爺さんを案内してお頭の部屋を出た。
道すがら、ふと気になって聞いてみる。
「さっきの女の子、爺さんが買ったのか?」
「うん? サシュの事ですかな。ええ、ええ、確かにわーしが買わせていただきましたよ。六日後には引き取りに参る予定です。なかなか値の張る買い物でしたが、これもまた餞別ですからな」
女衒は女を買う時、女自身に対してもいくらかの祝賀を包む習わしがある。餞別ってのはその事を言ってるのだろう。
結論付けると同時に、あの少女がサシュという名前なのだと軽く記憶する。変わった名前だ。まるで二つの名前をくっつけたような違和感がある。
「そっか……あの器量良しならさぞかし売れっ子の太夫になるだろうな」
「それはどうでしょうな、果たして太夫まで辿り着けるか否か……」
「どうしてだい? あんだけ美人なら男が放っとかないだろう」
「太夫以上は器量は当然ながら見識も求められますでな。あの娘はそれを深めるにはちと薹が立ちすぎている。本人の才覚次第ではありましょうが、いいとこ花魁の妻といったところでしょうかね」
国営の色里において、『太夫』が最高位の遊女だ。『花魁』は『太夫』の下の格で、基本的に『太夫』の引き立て役とみなされる。
『妻』ってのは大根のツマと同じ意味、飾りってことだ。妻はワケアリで妻の身分に落ち着くから昇格もない。
そして飾りだから楽ってもんでもないらしい。登楼した御大尽のその従者の相手をする役目がある。それも場合によっては一人で複数人も。
御大尽によってはその様子を肴に本命の花魁と酒を飲み交わすとかえげつない趣味を持つ輩の話も聞いた。
「攫われて売られた挙句が引き立て役の更に付き人か……世知辛えな」
「ほんに、業の深い商売ですよ」
駄弁ってる間に、俺達は石牢に降りる崖の上まで来ていた。
昇降機の当番に声を掛け、爺さんと二人で籠に収まる。
外の空気を吸ったせいか鼻をつく臭気に顔を顰めつつ、同時に、自分の居場所へ戻ってきた実感に嫌気が差す。
見張り所へ進むと、珍しく相方が女も抱かずに酒をかっ喰らっていた。五十近いくたびれた猿顔が少し不機嫌そうだ。
「珍しいな、あんたが女より酒だなんて」
「……女衒が来るから女を揃えておけとさ」
「なるほど」
聞くまでもない事だった。
俺と相方が間の抜けたやり取りをしている間に、コル爺はスタスタと薄暗い石牢を進み、女達が身を寄せて震えている格子のそばまで寄っていった。早速品定めをしているようだ。
その背中を眺めるとはなしに眺めながら、欠けた茶碗に安酒を注いで喉に落とし込む。味わいも何もない、ただ酸っぱくて生臭いだけの酒。取り柄と言ったらアルコールを含んでるくらいか。酢を飲むよりはマシ、といった具合だ。
「女はこれですべてですかな?」
「そうだよ、今のところはな」
ここの女は上と違い、二束三文で買い叩かれて在所の安女郎屋に卸される。ここよりはマシだろうが、そこで毎晩知らない男に抱かれ、老いたら路傍に捨てられるのだ。
こいつらの運命は俺達に捕まった時点で終わっている。
「なかなかの数ですな。磨けば使えそうなものも多い……普段から女達の世話はあなた様方お二人で?」
相方は口から椀を離さない。口を利く気がないと態度で示している。
別段嫌な気もしないし、俺が相手をすることになった。
「そうだよ、他の奴らは臭い汚いと自分自身を棚に上げて近付きゃしねえ」
それからある事ない事、コル爺さんにこの石牢の事情を聞かせた。というか聞いて貰った、だろうな。
後半はほとんど愚痴になっていた。
「俺もこいつらも実際のところ似たようなもんなんだよ。役立たず呼ばわりされてこんなところに押し込められて忘れられてんだからな。呼び出されるときゃ決まってしくじりの説教さ。たまったもんじゃねえ」
「それはほんに、難儀な話ですなぁ……」
爺さんは実に親身になって話を聞いてくれた。
しかし相方の辛抱が切れたのか、『さっさと出て行け』と睨みつけてくるのに『仕方ない』といった感じで爺さんは再び本丸に戻っていった。相方も爺さんが去るとすぐにお気に入りの女を引っ張って奥に消えた。すぐに憐れっぽい悲鳴が響き始める。
いつも通りの一人に戻った俺は、椅子に腰かけて虚空にぼんやりと視界を投じた。すると自然にその視界の中にあの少女の面影が浮かぶ。
まさか、惚れたか?
自問して否定する。まさか、この歳になってあんなオボコに懸想するのも馬鹿げてる。親子ほども年が離れてるんだぞ。
いやしかしそれがいいって奴もいないことはない。
まさか、俺にそんな性癖があったか?
いや、俺の好みはもっと女としての脂がのった乳のでかい痩せ型だ。
でもあの娘、恐らく見栄えをよくするために着せられたんだろうが、あの重そうな着物の上からでも胸がせり出して見えたしな……。
いやいやしかし――。
考える内に馬鹿馬鹿しくなって止めた。
しかし少女の面影は付いてくる。まるで何かを思い出して欲しいと言わんばかりに。
「……サシュって呼ばれてたな」
石牢の外は濁った血の色に輝いている。丸い入り口はまるで爛々と光る眼のようだ。巨大な一つ目の化け物に覗かれている想像にゾクリとした。
別の事を考えよう。そういやもうすぐ、上の屋敷では順繰りに晩飯が用意される時間か。
「……聞いてみるか」
何を聞きたいのかなんて、俺にもわからない。だけど、聞くことでこの訳の分からない欲求が満足するのであればめっけもんだ。
お頭の部屋の前ですれ違った男の顔を記憶で確認して胸にしまうと、俺は立ち上がった。
※ ※ ※
このねぐらには食堂が二つある。
外の庫裏に繋がる僧房と、本丸内の台所だ。
女達の飯を用意して上にあがってみたものの、僧房の方に目当ての男はいなかった。まだ飯にしていないのかと不安に思いながら本丸の台所を覗くと、幸いな事に例の男が飯の乗った折敷――盆を前にして板の間の端にいた。
俺も土間の厨房で今晩の飯を貰うと、その男のそばの床にさりげなく腰を下ろす。椅子もテーブルもない。床に尻と盆をおいての食事だ。
今日はヤマメの塩焼きと山菜の炊き込みご飯にキノコの味噌汁か……肉付きの良いヤマメがとにかく旨そうなのを堪えて、隣の男を見た。
確かに、記憶の中にある顔だ。面長で彫は深いが下がった目尻に何とはなしに親しみやすそうな気配のある、中肉中背の男。すでに折敷の上の料理は半分ほどが男の腹に収まっている。
「なんか用か?」
俺の視線に気付いたのか、向こうからそう訊いてきた。
その声には嫌悪も警戒も感じられない。ただ純粋に、あまり接点のない俺の接近を不思議がってる雰囲気だ。口に物を入れてたから聞き取り辛かったが。
正直ホッとした。中にはあからさまに俺を避ける奴や、近付いただけでガン付けしてくる輩もいるからな。最初から話ができる状態なのはありがたい。
「聞きたいことがあるんだ」
「サシュの事だろ」
なんでわかった。
って驚きがまんま顔に出ていたのだろう。男は口の中の物を咀嚼して飲み下し、さも愉快そうに目を細めた。
なんとも愛嬌のある男だ。
「そりゃ、あんだけガン見してりゃ興味があるんだってガキでもわかるよ」
「そんなに見てたか」
「お頭が怒鳴らなきゃ、日が暮れるまで見てただろうな」
「そんなにか……」
気付かなかった。俺にとっちゃほんとに一瞬の出来事のような気がしてた。
「で? 下の牢番がなんでわざわざ上の売りモンの話なんか聞きに?」
俺の事は承知なのか、男は手っ取り早く話を進めてくれた。
こっちとしてもいちいち名乗るのが面倒だったから助かる。
「どっかで見たことがあるんだ」
「女に声をかける時の常套句だな」
「茶化すな。あの娘は、どっからもってきたんだ?」
「なんか山奥の村だったな。今回は俺も連れて行かれたんだが……」
山奥の村。
その条件を聞いて、嫌な予感がした。
「確か、アマルとか言ったか」
続いて出たその名に、心臓が止まりかけた。
わかったのだ、見覚えの正体が。いや、正しくは思い出して気が付いた。
サシュと呼ばれる少女には、十六年前に少女だったあの娘の面影があるんだって。
だけど、まさか、そんな……。
「あの娘の母親もそりゃ別嬪でなー、母娘揃って無傷で捕らえたんだが、その母親がえらく強情でよ。お頭相手にずっと娘だけは見逃してくれとしつこい上に、娘を逃がそうとしてなぁ」
あの娘も、サキもそうだった。
基本的には素直なのに、変に強情になるところがあった。
そのこだわりの境界がわからなくて、子供の頃は苦労させられた記憶がある。
「んで、カッとなったお頭がその場で斬っちまったんだよ。いやぁ、勿体ねぇことしたよなぁ、お頭もそう思ってんのか、あれからずっと機嫌悪いのなんのって……おまえ、どうした、大丈夫か?」
もう、間違いなかった。
サシュは、サキの娘だ。
しかも歳格好から考えて、父親は俺だろう。
村を飛び出す餞別みたいにサキを抱いてから十六年、時間は合う。
あとはその直後にサキが他の男と寝たかどうかだが、それはないと断言できる。
あの夜、俺はサキに約束したものだ。
『必ず偉くなる。そうして外に家を構えたらきっと迎えに来る。その時まで待っててくれ』
と。
合わせる顔がないと苦心する内に、すっかり忘れていた。
おっとりしていて芯の強いサキのことだから、きっと言いつけ通りに待っていてくれたに違いない。
だからサシュは俺の娘だ、と言い切れる。
「おまえ、何をそんなに泣いて……まさか、出身だったのか」
心配そうな男の顔を呆然と見た。
そうか、俺は泣いているのか。
頭の中では様々な景色が雑多な感情を纏って渦巻いている。自分がどこで何をしているのかさえ曖昧になっていた。
サキとは一歳になるかならないかから、村を出るまでずっと一緒だった。
嬉しかった事、喧嘩した事、悲しかった事、楽しかった事、十五年分の思い出が玩具箱をひっくり返したようにドザッと溢れだしたのだ。
混乱している事すら理解できないほど混乱していたのだと、後になって気が付いた。
そう、この時はまだ本当に理解していなかった。この涙の意味を。
サキが、お頭に殺されたのだと。
娘が、この地獄に囚われているのだと。
「そうか……すまねぇ、聞かなかったことにしてくんな」
男がそう言ってそそくさと立ち退いたのを思い出したのも、自分の寝床に入った後だった。
翌朝は悪夢に起こされた。
正しくは今朝も悪夢に起こされた、か。
昨日の話は特に関係なく、俺は毎朝悪夢に起こされる。
暗くてジメジメした場所に、俺は閉じ込められている。そこがどこだか、どうしてそこにいるのかもわからない。わかっているのは、そこがとてつもなく恐ろしい場所である事と、脱出しても意味のない事だけだ。
だから俺は悪足掻きせずそこにいる。そしてそこにいると、闇の奥から現れるのだ。
無数の青白く細い手が。俺をその奥へと引っ張り込もうとするかのように、何本も、何十本も。
その手に身体中を掴まれて引き摺られようとするところで、いつも目が醒める。
もう何百回見たかわからない夢だ。その手が石牢の女達のものだってことはとうに気付いていた。
「サキ……」
口に出すと、寝起きの眼から涙がこぼれた。
今度は純粋に悲しい、寂しいから泣いているんだと自覚できた。まだ、そんな感情が残っていたことに自分でも驚きだ。
俺達下っ端は僧房で雑魚寝だ。長い筵の上に好き勝手に横になり、着物を腹の上にかけて眠る。冬場は身を寄せ合って、夏場はお互い邪魔者扱いしながら。
これが嫌で普段はこっちで眠ることはあまりないんだが、昨夜は戻るのが億劫だったのかもしれない。『かもしれない』というのも、あの後どうやって寝床に入ったのか覚えていないのだ。
まだ朝日が昇る直前だった。闇が深い。
目を凝らして仲間を踏まないようにしながら、泳ぐように僧房の出入り口を目指す。途中、何度か誰かさんの向う脛を蹴って文句を言われたが、起きだしてくる気配はなかった。
とにかく、酒を飲みたい。喉じゃなく、心が渇いている。その渇きを動力に、俺は暗がりの中を縄梯子で石牢に潜っていった。
見張り所は、昨日のままだった。
まだ半分ほど安酒が入っている樽から桶に汲み取り、それを机の中央に据える。茶碗に残っていた飲み残しを三和土の地面に撒き捨てて桶に突っ込む。
一杯目、二杯目は水を飲むように一息で呷り、三杯目で息が苦しくなったから二回に分けた。そして四杯目はまた一息に呷る。
とにかく早く酔いたかった。
だのに、水っ腹になるばかりで頭の芯はいつまで経っても冴え冴えとしている。
そこで、月光に照らし出されたようなサキがにっこりと笑っているのだ。
どうして笑ってるんだ。
俺をあの世から嘲笑ってるのか。
ドヤ顔で『俺は偉くなる』とか、無計画な事をほざいて自分を捨てた俺を。
奥から、女の嬌声が聞こえてきた。
アイツ、また泊まり込んで女を犯してたのか。どんだけだよ。
ああ、なんかもうなにもかも腹立たしい。
そしてなにもかもどうでもよかった。
ただ一つ、サシュの事を除いては。
知りたかった。
サキとサシュがどんな風に暮らしていたのか。俺の事をどう思っていたのか。そして……いまこの瞬間、何を考えているのか。
知るためには、会う必要がある。
会うには、お頭の許しが必要だ。
サキを殺した、あの男の。
馬鹿げてると思う。何もかも、あいつのせいで俺の人生はぶっ壊れたんじゃないか。
それでもまだ、辛うじて理性の端に引っかかっている現実的な思考が、馬鹿でも殺されるよりはマシだと告げる。
そうだ、ここでの法はお頭だ。そして無法は即、死に繋がる。
死んだら元も子もない。ここは筋を通すべきだ。
茶碗を置いた。置いたつもりでそこは机の上じゃなかった。素焼きの茶碗が踏み固められた三和土の上に落ちて、ベキッっという鈍い音を断末魔に、砕ける。
俺はそれを一顧だにせず立ち上がり、大きく背後によろめいた。思っていたよりも酔いが回っている。
なんとか踏み止まり、入り口を見遣る。外はすっかり夜が明けて、明るくなっていた。
光の中に希望を求め縋るかのように、ふらつく足が吸い寄せられていく。
そうしたらほとんど無意識のまま、何を考えるまでもなく、気が付いたら俺はお頭の前に立っていた。
「呼んだ覚えはねぇがな」
のそのそと勝手に入り込んできた俺をマジマジと値踏みした後の第一声がそれだった。
その言葉の意味するところは『戻れ』ってことだ。
お頭は昨日と同じ、板の間に切った囲炉裏の向こうから盃片手に俺を睨め上げてくる
鬼面の大男がいかにも不機嫌そうにこっちを睨みつけてくる様は、実に居心地が悪いのなんの。
でも、はいすみませんと回れ右するわけにはいかない。自分の持ち場に戻ったところで、待っているのは絶対に答えの出ない苦悩だけ。
あんなの、遠からず気が狂って発狂するか廃人になるのが関の山、そんなのは願い下げだ。
元々、そろそろ限界だったんだ。
ここに連れてこられて五年近く。朝な夕な、女達が絶望と汚物に塗れて腐っていくのを見るのも飽き飽きしていた。
聞くべきことを聞いて、後の事はそれから決める。
そう腹を据えると、口は自然と言うべきことを言ってくれた。
「頼みの筋があって参りやした」
お頭は口に持って行った盃に視線を落としたまま、一度二度とゆっくり傾け、当然その間は俺の問いを無視したように黙りこくっていた。
俺はその姿を立ち尽くした土間から辛抱強く見つめる。
やがて俺の存在を思い出したかのように、お頭が盃を離して視線を上げた。
「言ってみろ」
「サシュに会わせて下せえ」
「駄目だ」
にべもない。
「そこを何とか、お願えします」
何のためらいもなく俺は土臭い土間に膝をついて額をこすりつける。
視界が土色に埋め尽くされてお頭の表情は見えないが、きっと厳めしい面魂を微塵も動かさずに杯を傾けているのだろう。手下の土下座程度で心が動くような感受性を持ち合わせた奴じゃないからな。
うんともすんともなく、土下座させられたまま時間が過ぎてゆく。
「会ってどうする」
五分もかからなかったろうか。思ったより早く、声が掛けられた。
俺はゆっくりと顔を上げ、お頭の顔を見る。やはり、額をこすりつける前と今とで変わった点は一つも見受けられない。
「話を聞きたいんで」
「なんのだ」
「……村のです」
わずかな逡巡の合間に頭を巡らせた。
ここで殺された母親のです、と言おうものならお頭は一瞬で不機嫌の最高潮になる。昨日、上の牢番が言っていた話を忘れてはいない。
本人が今何を思い、考えているかと聞けばそこまで不機嫌にはならずとも決して許可は下りない。お頭はそんなナイーブな心境を理解する玉じゃない。
でも『村の――』と答えれば関係を勘繰られることはあるだろうけど多少は人情ってもんが動くはず。
無法者とはいえ百人近い手下を持つ頭なんだ。部下も人の子であれば自分と同じように家族も友人もある。
そうした横のつながりの機微は把握してないと人の上には立てない。って、天堂宗の時に読まされた政治家の自伝に書いてあった。
お頭にもそういう気働きがあるものと、それを信じることにした。
「手前、あの村の出身だったのか」
「へえ」
「あそこは良い村だったな。食い物は美味いし良い女も多かった。ほとんど戻る途中で売れたからな」
あんたに滅ぼされたけどな。
ってか、それで下の石牢には新入りが来なかったのか……いくつか知り合いの顔が脳裏を流れ、例えようのない罪悪感に顔を歪める。
「だがあの女はいけねえ。俺に楯突きやがった」
その女は俺の女房になる予定の女だったんだよ。
歪めた顔に隠しようのない憎しみが染みだしてきて、慌てて顔を俯ける。
「だから駄目だ」
「はぁっ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。掴み上げられたように顔を上げてお頭を見る。
話が全く繋がってねぇ!
「は、話が見えねえ、それと俺がサシュに会うのと、どう関係があるんでっ?」
「思い出して腹が立ってきた。だから駄目だ」
「そんな……殺生な……そんなこと言わずに、お願えします!」
「駄目なものは駄目だ。あんまりしつけえと手前の首だけあの娘と引き合わせることになるぞ」
「それは……」
口が利けなけりゃ意味がない。
っていうか死にたくねえし。
だけど、サシュに会えなきゃここで死ぬのと変わらねえ……そしてサシュはもう既に売られてゆくことが決まっている。時間はない。
「これで……なんとかなりやせんか」
「ああ? なんの真似だ?」
膝をついたまま、掌を上にして左腕を出す。
その上に小判でも乗っていればどんだけ知恵の巡りが悪い奴でもすぐに事情を察せたであろうがさにあらず。俺はただ、中空に空手の左腕を差し出しているだけだ。
つまり、そのままの意味だった。
「左腕をケジメとして落としやす。俺にはこれくらいしか出せるもんがねえんでさ。それでどうか、どうか一度だけ、サシュとまみえさせておくんなせえ」
本気だった。
これで覚悟を知って、あるいは怯んで手心を加えてくれたらっていう打算もあるが、本当に左腕を失っても惜しくはない。サシュに会うと言う事は俺の人生に対してそれだけの必要性があると思っていた。
お頭は無言で立ち上がり、面倒臭そうに俺の方へと近付いてきた。
距離が縮まるにつれて、緊張が高まり身体が硬くなる。
酒に赤らんだ鬼のような顔に、表情らしい表情は浮かんでいない。何を考えているのか全く知れない髭面が手の届く範囲に来ると、悪寒が走った。
お頭が俺の左手を自分の左手で無造作に取る。
どうやら腕を斬り落とすといった魂胆はないように見えて、それじゃあ一体何をしようとしているのかと恐る恐る眺めていた俺の目の前で、お頭の右手がこれもまた竹の節でも落とすかのように軽く振り払われた。愛用の短刀を握って。
ポカンと成り行きを見守っていた俺の目と鼻の先で、それまで自分の肉体の一部だった指が二本。小指と薬指が血の軌跡もハッキリと宙を舞っていた。
ポトリと憐れっぽい音を立てて、その二本が土まみれになる。それを確かめて、初めて痛みが生まれた。
波のない、意識を押し流すような痛みの怒涛だった。
「いってぇぇぇぇっ! 痛えっ! 痛えよぉっ!?」
「これで今回は済ませてやる。次、今みたいな阿呆をぬかしやがったら、指じゃ済まねえからな、わかったら――」
自分の絶叫がやかましくてそもそも聞き取りづらかったお頭の言葉も、そこまでしか記憶に残っていない。
俺は死にそうなくらい無様に泣き叫びつつ、途中から気絶していたようなのだ。
意識を取り戻してまず最初に感じたことは、背中の痛みだった。
ずっと同じ姿勢で寝ていると床擦れを起こすが、その一歩手前といった感じの針を埋め込まれて木槌で叩かれるような鋭さの混じった鈍い痛みだ。
筵を重ね敷きした上に寝かされているあたり、ちゃんと人が寝るように設えられたところで寝ているようだが。
自分がどうしてこんなところに寝ているのか、すぐには思い出せなかった。それを焦れたように左手の端っこが痛んで、記憶を刺激する。
一瞬で、意識を失う前の情景を思い出して恐怖に跳ね起きた。
そして凝り固まった筋肉が急な動きで砕ける痛みに悶絶する。
こんなになるまでじっと横になってたなんて、一体どれだけの時間寝ていたというのか。
そこは散らかった部屋だった。見覚えはない。あったとしても散らかる前の記憶しかなかったらわからなかっただろう。それくらい、物でごった返している。
主に部屋の床を占めているのは素焼きの徳利だ。その間に間に薬研やよくわからない植物の根っこや破片、薬缶の掛けられた火鉢なんかが転がっている。
部屋の壁二面を占めるのは薬棚。俺と同じくらいの背丈で引き出しだらけの箪笥だ。
とくれば、ここは本丸の中にある薬処――医務室だろう。
そうか、指を斬り落とされた俺はそのまま気絶して医務室に担ぎ込まれたのか。
まるで悪夢のようなあの出来事が真実だったのかどうか。顔の前に持ち上げた左手の包帯が、不自然に薬指と小指の部分だけ短いのを見て受け入れざるを得なかった。
血のにじんだ包帯の下から、無念を呻くように鈍い痛みが生まれ続けている。
「おう、ようやく目覚めなすったか」
部屋に一つの入り口から、割烹着みたいな白衣に背の低い身体を押し込んだ丸っこい爺さんが現れた。
白くなった髪も髭も眉も伸び放題で、面体どころか一体どれがどこの毛なのかすらさっぱりわからない。
口元であろう当たりの毛がモゴモゴと動いたかと思うと、少し遅れて声が聞こえた。声は不思議なくらいしっかりとしたものだ。
「お前さん、お頭に指を詰められて、三日三晩ここでうなされておったんじゃよ。覚えとるか?」
「……今さっき思い出したところだよ。つーか俺、三日も寝てたのか」
「ああ、三日も寝てたな」
部屋の隅のゴミをまさぐりつつ、興味もなさそうな声がわかり切った返答をする。
「こっちは寝床を三日も取られていい迷惑じゃったわい」
そう言って何かの包みを投げつけてくる。何を自分の部屋でゴミ漁りしてるんだと思いきや、これを探してたのか。
それは黄ばんだ紙で粉薬を包んだ、手のひら大の薬包だった。飲んで大丈夫なのか……?
「痛み止めと化膿止めじゃ。さ、それを持ってさっさと退いたり退いたりぃ」
筵の端を乱暴に持ち上げられて、文字通り転がりだされる。
起き抜けの怪我人になんて仕打ちだと文句を言う前に、部屋の障子戸が鼻先でピシャリと閉じた。
だるいし喉も渇いたしで、怒鳴る気力も湧かない。俺は薬を着物の懐に入れて、トボトボと居場所に戻った。
居場所とはもちろん石牢の事だ。日暮れが近く、昇降機の係が今まさに戻ろうとするところを何とか引き留めて降ろしてもらう。
ようやくの思いで見張り所に戻ると、すぐさまぎこちない左手で桶に酒を張り、右手の椀でそれを掬い飲む。カラカラに渇いた喉に、酸っぱい酒がやけに美味く感じられた。
「なんだ、生きてたのか」
声に振り替えると、たるんだ身体に着物をだらしなく掛けただけの相方が立っていた。しわがれ声でそっけなく言って、俺から酒の椀をひったくる。
「俺のだ」
文句を返そうとすると先んじてそう言われ、思い出す。
そういや、俺の椀はここを出る時に割っちまったんだっけか。新しいのを庫裏のを庫裏からかっぱらってくるんだった。
「よくまあお頭にいちゃもんつけに行って生きて帰れたもんだ」
一杯流し込んでから、驚きとも呆れともつかない声で言う。
俺が返事をする前に相方は踵を返すと、そのまま奥へと引っ込んでいった。そもそも返事を聞く気はなかったようだ。
「どいつもこいつも好き勝手言いやがって……」
命に代えてもサシュに会うと覚悟を決めて、左腕を差し出そうとして、結局指を二本失って、それで得たものはなんだ。
何もない。
失ってばかりだ。
そもそも何が覚悟だ。
思えば何のためにサシュに会うんだ。
サキの話を聞くため? サシュの思いを知るため?
知ってどうなる。知ったところでサシュが妓楼に売られてそこで一生を終えるのは変わらない。
好きでもない男に太夫の座興で抱かれるのだ。ただの添え物。そんな地獄の中で生きているだけの日々を送る。死んだ方がマシな生。
あの子はまだ十五だぞ。だのにもう、そんな夢も希望もない人生が確定されてるとか……あんまりだろ。
それもこれも俺のせいだ。
傭兵になり損ねた時、すぐ村に戻ってれば――いや、そもそも村を飛び出さなきゃ、もう少しマシな人生を送れてたかもしれない。サキだって、殺されなくてすんだかもしれない。
好きだった幼馴染は死に、娘は妓楼に売り飛ばされ、俺自身ももう生きる意味が分からなくなっている。
もう、死にたくないからってだけで生き続けるのも、限界だろうか……。
「まだ……だな……」
桶に揺れる酒には、無精髭に覆われたやつれ顔が浮かんでいる。これが自分の顔だとは思いたくないほど、貧相で不健康なおっさんの顔だ。
これなら、近い内に酒で体を壊しておっ死んじまうのは目に見えてるな。
だとしたら早いか遅いかの話だ。
せめて最期に、親の責任を果たそう。
サシュだけでも、救わなきゃいけない。
たとえどんな手段を使ってでも。
※ ※ ※
「敵襲! 敵襲だー!」
敵襲とか大袈裟だろ、こっちは一人だっての。
本丸に入った途端の大音声に、俺は顔色一つ変えずその元を断ち切った。だが敵襲の呼び声はドミノ倒しのようにあちらへ奥へと本丸じゅうに伝わっていく。不思議なことに遠くは外の方からも聞こえてくるようだった。
外の物見櫓で鉦が鳴り、本丸のアチコチから人の動き出す気配が沸き起こる。
突沸したように慌ただしくなった本丸の廊下を一歩一歩、自分の過去を踏みにじるように歩いていく。
当然、右手に刃物を提げた姿を仲間の一人に見咎められた。
「おいおめえ、敵はどこのどいつ――っ!」
目の前の俺だよ。
口で答える代わりに喉を掻っ捌いて黙らせた。錆びた刃は斬るというより叩き折る手応えで、目の前の四十絡みの男の首があらぬ方向に曲がって血が飛沫いた。
状況を理解できないといった驚きの表情を張り付けてユラユラと立ち尽くしていた死体から、脈拍に合わせて血が噴き出す。
それが止まるのを見届けず、俺は生暖かい血煙の中を潜るように先を急いだ。
得物は見張り所の壁にあった大鉈だ。手入れが悪くて錆びだらけだったが、何も持たないよりはよっぽど心強い。それを二本、両手に一本ずつ持って本丸に乗り込んだ。
乗り込んで、すぐにあの敵襲コールだ。どうやって気付かれたのかさっぱりわからなかったが、わからない事にも濃密になる人の気配にも何の問題も感じない。
死のうが生きようが、関係ない。サシュを救う。
今の俺はそれだけの為に動く人形も同然だ。そう思えば、痛みも苦しみも恐怖も絶望も忘れられた。
「待ってろな、サシュ、今行くからな」
ろくに顔貌も覚えていない、どんな人柄かはさっぱりわからない。他人のような娘の面影を胸に呟く。
これだけの騒ぎになったら辿り着けるかどうか、算段はないがそもそもまともに考えてもいない。成功も失敗もどっちでもよかった。命を捨てる為の目的が欲しかった。
それでいて目的の為の意欲を損ねてるわけではない。サシュを救う決意は揺るがない。
終わる為にサシュを救う。二つの目的はメビウスの輪のようにどちらも表でどちらも裏だった。
冷静に考えればおかしなこの思考が、今の俺には何の矛盾もない。
おかしくなっているって自覚がある狂人は、この世で一番おかしな存在なんだろうな。
今の俺がそれだった。
ところがその覚悟を神様か仏様あたりの傍観者が認めてくだすったのか、あるいはその狂気に触れたくもなかったのか……騒ぎの割に俺の前へ姿を現す朋輩衆は少なかった。
どうやら反対側の回廊を使って次々と外に飛び出している様子だ。
敵がすでに本丸に入り込んでいると知らないのだろうか? だとしたらちょっと信じられないくらいのアホさ加減だが、この際有難い。
なので、俺は油断しきった仲間を五人斬り殺すだけで目的の部屋の前に到達した。
「……誰……?」
美しい娘だ。
どうして忘れていたのか不思議だった。いや、簡単な理由だ。今の自分の姿から目を逸らすために、美しい記憶も封じてきた。その美しい記憶の筆頭が、サキだった。
俺の記憶の中のサキもこのくらいの年頃で、陽だまりに咲く一輪草のような穏やかな美しさを持つ少女だった。思えば、サシュという名前もサキとシューを組み合わせた名前なのだろう。サキらしいシンプルな命名だ。そう考えると愛おしもはいや増しだ。
サシュはサキの面影をしっかり残した面差しに、不安と警戒の色を濃くして俺を見た。
本丸の騒ぎに感づいたのだろう、小綺麗な部屋の真ん中で所在投げに立ち尽くしていたようだ。
「お前の父親だよ」
なるべく自然に見えるように笑う。
流石の俺もこの状況でこの言葉を鵜呑みにしてもらえるとか、感動の再会シーン――いや、今まで顔も見たことがなかったんだから初会シーンか、なんにしろそんなものが展開されるとは思っていない。
案の定、サシュは俺の笑顔を見て嫌悪に近い渋面を作って見せた。
おいおい、いくら年頃で父親が鬱陶しいからって、その反応は傷つくぞ。
「父様が、こんなところにいるわけがない」
「……じゃあ、どこにいるってんだ?」
「父様はお城でたくさんの家来を持って、国の為に忙しくしてるんだ。でももうすぐ、迎えに来てくれる。母様がそう言ってた」
「サキは……おまえのお母さんは、俺が出世して迎えに来るって、信じてたのか?」
「あんたじゃない。父様だ。母様はいつも言ってたよ。『きっと父様は帰ってくる。お前の父様は本当にすごいお人で、この村じゃ窮屈だったから仕方なく私達をおいて王様のいるお城にお勤めに行ったんだよ』って」
俺の知っているサキの言葉そのものだった。
思い出と後悔と感謝と遣り切れない悲しみが溢れ出して、俺はいつの間にか声を出して泣いていた。温かくて、たくさんの辛さを癒してくれる優しい涙だった。
あいつは田舎の娘らしく、どこかおっとりしていて無垢すぎるところがあった。そのスレていない所に惚れたんだけど、最期の最期まで、変わらなかったんだな。
「そっか、サキの奴、そう言ってくれてたのか……そっか、そっか……」
外で雄叫びに近い鬨の声が上がった。その喧しさにせっかく浸っていた心情を邪魔されて少しイラっとする。
あいつら、一体何してんだ? 敵である俺はここにこうしているのに、外で楽しく合戦ごっこか。
「……おじさんは、何をしにここに来たの?」
サシュが恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「お前を救いに来たんだよ」
俺の言葉にサシュの顔がパッと輝く。
「父様のお迎えか!」
なんかちょっと……サシュの言い方に勘違いを感じるが、まあ気にしない。
「そうだよ、お前をこの地獄から救ってやる」
言って、逡巡する。
本当にこうするしかないのか。
他に手段はないのか。
何度も繰り返した自問の答えは、何度も出てきた同じ答えだ。
無い。
ここからサシュを連れて逃げ出すなんて、不可能だ。
あっという間に取り囲まれて、少なくとも俺はその場で殺される。
そしてサシュは終えることのできない生き地獄に身を落とす。
だから、こうするしかない。
思うが早いか、俺は自然と一歩踏み込んで、顔を輝かせているサシュの首筋に右手の鉈を打ち下ろした。
「……え?」
渾身の力で振り下ろされた鉈の刃がほっそりとした鎖骨を打ち砕き、肩の骨を割り、肺を巻き込んで心臓を引き裂いた。そこまではっきりと、手応えを感じた。
サシュは俺の手にした鉈に半身を斬り裂かれたまま、不思議そうな顔で俺を見ていたが、
「助けてくれるって……」
それだけ言い掛けて、血の塊を吐き出した。
涙の浮かんだ瞳から急速に生気が失われ、自立していた身体から力が抜けて畳まれるようにその場に頽れる。
「ごめんな……俺にはこうする事しか出来できないんだよ……」
やはり、辛くないわけがない。とめどなく溢れる涙は、さっきと違って冷たくヒリヒリとした涙だった。
だけどこれで、責任は果たせた。
「サキ、サシュ、仇はちゃんととってやるからな」
本当はここに来る前に俺は死んでいるはずだった。
でも何故か、五体満足でまだ生きている。
であればやることは一つだ。
この命を、ちゃんと捨てに行かねばならない。
お頭であったあの男と刺し違えて。
新たな覚悟は、サシュを救う決意に比べればすんなりと俺の心を支配した。
迷いも躊躇いも必要ない。
俺が抱える全ての恨みと憎しみと怒りと悲しみを、あの男にぶつけるだけだ。
お頭の部屋へ行く間、仲間とは一人も擦れ違わなかった。
もしかしてお頭自身もこの部屋にいないんじゃないかと一瞬不安がよぎったが、それも扉を開けるまでだ。
お頭はそこにいた。手下を二人、左右に侍らせて、何かを待ち受けているようにも見えた。
「手前……手前か、手引きしたのは」
禿げ上がった頭に焦りと不安をまぶした髭面が、入るなり詰問してきた。
いや、言ってる意味が分からん。
「アカガネの頭領、ゲンヤ様を謀るとは良い度胸だ。俺は俺を虚仮にした奴を捨て置いて逃げ出せるほど優しくはないんでな……覚悟はできてんだろうな」
だから、手引きとか謀るとか意味わかんないっつうの。
「俺は、あんたを殺しに来ただけだ」
「良く言ったっ!」
ハゲヒゲが吠えると同時に、右にいた手下が飛び出した。
手には身幅の厚い刀が構えられている。
「おおぉぉっ!」
一刀で斬り伏せようと意気込む気合が俺を打つ。普段であればここで気圧されて反応が遅れ、脳天からあっさりと据え物斬りだったろう。
だけど元々命を捨てる覚悟できたのだ。
怖気づく理由がない。
真っ直ぐに振り下ろされる刃を、身体を横に動かして――躱せなかった。刀槍の戦いに慣れなかったから落ちぶれた俺だ。反応しても熟練の技に対応できなかった。
左腕の肘から先が血を撒き散らして吹き飛ぶ。
それを見た手下は勝ちを確信したのだろう。二の太刀が遅れた。
その遅れが、素人の反撃を成功させた。
まあ、普通に考えれば腕を切り落とされて怯まない奴はいないだろうな。
でも今の俺は、普通じゃない。狂ってるんだ。命に比べれば腕の一本や二本、安い。
右手に持っていた鉈を目の前に晒された首筋に叩き込む。
「げぁっ!?」
不吉な悲鳴を上げて手下その一は絶命した。
「やりやがったな!」
手下その二が素槍をしごいて気色ばむ。
膝高の板敷から土間にいる俺に飛び掛かりざま、槍を突き込んでくる。
鋭い突きに剣豪よろしく鉈で穂先を弾こうとして、失敗した。辛うじて槍の柄に当たった鉈が軌道を逸らしたものの、銀色の穂先は左の眼球を抉って耳を削った。衝撃で俺はバランスを崩して後ろに倒れる。
それがまた幸運だった。槍の穂先は倒れ込んだ拍子に勢いを削がれ、後を追うように土間の土を抉った。槍を振るう男も意外な状況に着地のタイミングを外されたようだ。
「ぐ……げぇ……」
俺に覆いかぶさるように着地した手下その二の口から、反吐と赤黒い血がバタバタと零れて俺の潰れた左眼にかかる。
防御の為に突き出した鉈が、そのまま敵の腹に深々と突き立っていた。
手下二の身体からみるみる力が抜けていく。このままじゃ押し潰されると鉈を横に捨てて身体を放り遣る。
立ち上がってハゲヒゲを見ると、奴は明らかに怯えていた。硬直した身体で無理に後ずさろうとして、みっともなく尻餅をつく。
「て、手前は……手前は何なんだっ!? 化け物め!」
あー、お前みたいな鬼畜に言われたくはないなぁ……と、声に出そうとしたがでなかった。
身体を動かすことはできるが、色々な感覚が失われている。痛みも恐怖も感じないが、視覚以外の五感も喉も働いていない。
それでいいと思った。
この男を殺すのに必要な機能があればいい。
俺が、この男を殺す。
視界が霞む。
もう少しだけでいい、動いてくれ。
踏み出そうとしてたたらを踏む。はるか遠くで、ハゲヒゲが尻をずってのけぞった。
その恐怖にひきつった顔に、愉快な感情がこみあげてくる。
ああ、早く、殺したい。
殺さなきゃいけない。
だから、もう少しだけ、動いてくれ。
あれを殺すの?
求めるように両腕を持ち上げようとしたが、右腕しか動かない。
そうか、左腕はさっき斬られたんだっけ。
あんなもの殺してどうするの?
土間から板の間に上がろうとして、足が言うことを聞かずつんのめる。
ベシャッと水溜りに突っ込んだ感触で、初めて自分の出血の多さを知った。
道理で、身体が動きにくいわけだ。
そう、どうしても殺さなくちゃいけないの。
そう、どうしても殺さなくちゃいけない。
それなら殺させてあげる。
絶対に殺す。
八つ裂きにしてあげる。
俺の手で。
あなたの? また無茶を言うのね……いいけど。
また、手伝ってくれ。
ええ、いいわ。あなたの望みだもの。
わたしなら叶えられる。
わたしにしか叶えられない。
「なん……なんだ、その眼はっ……!?」
気が付けば、見苦しく壁に取り縋るハゲヒゲの姿が手の届く範囲にあった。
残った右手を伸ばす。
「ひ、ひぃぃいいっ!」
思いのほか素早く伸びた右腕が掴みやすい禿げ上がった額を握る。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった男の顔は、見ていて気持ちのいいものじゃなかった。
だから、すぐに終わらせることにした。
少し右手に力を入れるだけで、それは終わった。
熟れた桃を握りつぶすように容易くハゲヒゲの額が割れ、眼球を押し出して中身をぶちまけた。
支えを失ってハゲヒゲの身体が落ちる。巨体に見合う重い音が響いて、俺を恍惚とさせる。
「アカガネ頭領ゲンヤ! 年貢の納め時よ、神妙になさ……い……」
その残響を掻き消すように玲瓏な声が響き渡ったが、語尾は百合の花が萎むようにすぼんでいった。
振り返ると、声に相応しい凛とした姿の女武将が出入り口に立ち尽くしている。三つの死体と、死体じゃないことが不思議な俺の姿に戸惑っている感じか。
「何……これ、一体どういう事。あなたがこれをやったの!?」
得体のしれない恐怖に駆られたのだろう。女武将の声を動揺と混乱が震えさせる。
そんなに警戒しなくてもいいのに。俺はもうこれ以上誰かを害するつもりはない。このまま静かに燃え尽きるだけだ。
駄目よ。あの女を近付けないで。
「わたしは西方セイラ皇国の第三王女、エリイサ・キ・ロウ! 悪名高い山賊アカガネを征伐に来た武士です!」
自らの怖気を吹き飛ばそうとするように、声高に宣言する。
国の……征伐隊?
ああ、それで、外が騒がしくて……中が手薄……いかん、意識が……。
しっかりして。
「あなたは……あなたは一体、何っ?」
女武将がノシノシと歩いてくる。
その覇気に感化されたように意識がはっきりとしてくる。だが、相変わらず目はよく見えない。潰れたのは、左だけだったはずなんだが。
「答えて! あなたは何なんですかっ!」
何なんですか、か。
本当に、何なんだろうな。
顔の左半分を潰されて、左腕も肘から先がなくて、血止めもしないのにまだ息をして立っている。
しかもその足元には人間業とも思えない、瓜のように頭を砕かれた大男の死骸だ。そして血と脳漿を滴らせた右手。
俺がやったとしか見えない状況だよな。実際俺がやったんだけど。
あれ……一体どうやって……?
血の足りない頭がようやく疑問を呈してきた。
俺はどうやって、このハゲヒゲを殺した?
いや、手段はわかっている。俺がこの手で頭を握り潰したんだ。
どうしてそんな事が出来た。
そうなるようにしたからよ。
自分の意識がそう答えた。
なんだ、この声……? いや、声というより思考か?
俺じゃない誰かの思考が流れ込んで……。
あなたの望みを、わたしが叶える。いつものことだわ。
違う、流れ込んでくるんじゃない。
明らかに俺の中から生まれてる。
それよりも早く、逃げて。あの女をあなたに近付けないで。
そう言われても、もはや俺の身体は自由が効かない。
自分の身体をどうやって動かしていたのか忘れたように、言うことを聞かないのだ。
「早く答えなさい!」
女武将は土間を軽やかに蹴って板間に上がり、腰の一剣を抜き上げながら近付いてくる。
駄目、近づけちゃ駄目。
その言葉に身体が反応した。
動いているという感覚が、動いた後にやってくる。
今まで感じたことのない意識と身体のズレに思考が殴られたような衝撃を受ける。
「なっ!?」
技も工夫もないただ得物を振り回すだけの攻撃に、女武将は危なげなく手にした剣を合わせて防ごうとした。
それは攻撃している俺から見ても見事な所作と反応で、並みの攻撃であれば完璧に受け流していたであろう流麗さだった。
だが、そこで奇怪なことが起きた。
ほとんど垂直に女武将の肩を狙っていた鉈が、何の前触れもなく相手の剣と垂直に交わる傾きに変わったのだ。
いや、そもそも、俺はいつ鉈を持った……?
二人の死体に刺さったままのはずなのに。
考えている間にも状況は動く。受け流すはずの力をまともに受けて、女武将の構えが下がった。
駄目……抑えて……このままじゃ……また……。
俺の中の声が苦しそうに呻く。
一体何が起きているのか。そう問おうとして、思案が衝撃に途切れた。
さっきみたいな違和感の衝撃じゃない。俺の肉体を襲った物理的な衝撃だ。
荒い息を吐く女武将の顔がすぐ目の前にあった。
冑の下の白い顔は驚くほど端正で、それでいて愛らしかった。どこかで見たことのある顔……って、女を見たらそればかりだな……。
「獣の……瞳……?」
女武将の花弁のような唇が驚きとも警戒ともつかない声を上げる。
その手は、深々と俺の腹を割る剣の柄をしっかりと握りしめていた。わき腹からへそのあたりまで、しっかりと細身の刃が潜り込んでいる。
さっきの衝撃の正体はこれか……文句のつけようがないほどの致命傷だ。
こんな美女に殺されるなら、まあ、上出来か。
よくないわ。寄りにも寄って!
「殿下、如何なさりましたか」
その時、女武将の背後から聞いたことのある枯れた声がした。
振り向いた女武将の肩越しに、黒ずくめの格好をした爺さんが片膝をついていた。
コル爺に声も顔もそっくりの爺さんは、まんま時代劇に出てきそうな忍者の姿をしている。
その姿を見た女武将の横顔に、わずかな安堵が漂う。信頼しきっている顔だ。
「サコル、何でもないわ。もう終わった。それよりそちらの手筈は?」
女武将が剣を引き抜く。
俺の身体を支えている力が抜けて、自立しなくちゃいけなくなった。
立っている理由もないのに、身体はフラフラ頑張って立っている。
何故?
倒れないで、逃げて!
「それが、下の女は予定通りに解放できたのですが、上にただ一人囚われていたアマル村の少女はすでに殺されていました」
「……むごい事を……」
……えーと、どういう事だ?
こいつらは国から派遣された盗賊団の征伐軍で……もしかしてコル爺はその内情を探るために女衒の振りをして盗賊団に潜り込み、長い時間を掛けて信用を気付いた密偵だった?
だから隊長であるこのお姫様にかしずいていて……で、内部を良く知るコル爺ことサコルは囚われていた女達を助け出していたと……でも、上にいたサシュだけは先に殺されていて……え? なんでサシュだけ助け出せなかったって……?
サシュが、死んでた?
なんで、サシュだけ?
俺が、殺したからか?
そうだ、俺が、サシュを殺した。
助かるはずだったサシュを、殺した……?
「あぁ……」
「なっ、この男、まだ生きてっ――!」
女武将が慌てて振り返り、武器を構え直す。
だがそれより早く、鉈を捨てた俺の右手が女武将の胸を貫いていた。
銀の鎧をアルミホイルのように突き破った俺の抜き手が、女武将の胸郭の内で開き、抉り、心臓を握り潰す。女武将は、即死だったろう。
同時に、喉の奥から堪え切れない何かが込み上げてくる。
「ぁぁぁああああああっ! ああぁぁああぁあぁぁっ!!」
それが自分の声だと、最初は理解できなかった。
もはやそれは声ではなく、絶望そのものが喉から迸るようだった。
世界を喰らい尽くす獣の咆哮が、空間そのものを揺さぶっている。
「な、何が」
「いよいよだ……」
戸惑う爺さんの声の後に、明らかの調子の変わった女武将の言葉が続く。生きているはずのない口から、はっきりと。
わずかに残った視界の中で、女武将の眼光が愉悦にヌラヌラと光っている。
いや……それはもう、人間の目じゃなかった。
まるで猫科の獣のような、縦に割れた瞳孔の眼が、整った顔の中で異形の光を放っている。
「いよいよだっ! さあ次に行こう! ようやく僕らの本懐が果たされる!」
ああ、もう、なに言ってんのか意味わからん……つーか、どうでもいいけどさ、こんな話……こんな世界どうなったって……。
「ぉああぁぁっああぁぁぁぁっ――」
「あぁっはははははっあははは――」
俺の咆哮と女武将の哄笑が交じり合う。
世界がひしゃげて、砕け散った。