33.
時刻は早朝…。周りを山に囲まれた谷間のこの場所は、空が薄く白み始めてもまだ陽は見えない。
加えて、霧が濃かった。辺りは一面白く一メートル先ですら危うい。普通ならこの状況で山道を行くのは避けるところだが、ジラーはお構いなしだった。この道は昔、走ったことがある。幼い頃より馬と相性のいいジラーはエレステル中を何度となく駆けまわり、人気のない獣道ほど慣れている。軍人どもに追いつかれるはずもない。
「ようやく二週間か……」
ジャファルスへ亡命するのに段取りが必要という事で、二週間待ってほしい―――そう残してクリスチーナは姿を消した。段取りが必要というのは方便だろう、時間が掛かり過ぎる。何か裏があるのだろうが、どうでもいい。今はこのジャイオンを手に入れた興奮で心が躍っている。ライドルでも破門同然の身の上であり、もはやジャイオンに触れるのは叶わないと諦めかけていただけに、その悦びは一入だ。
あとはこの峠を越え、ミノッサ村周辺で暇を潰せばよい。ミノッサ村は国境警備エリアのちょうど中間地点になるため、管轄が曖昧になりやすい地域だ。北側からは峠越えなければならないし、南側からは川を渡らなければならず、守りにくい。ちゃんと防衛しようとすれば村に部隊を配置しなければならないが、さすがにそこまですると本来の国境警備に割く人員が足りなくなる。
一大隊は約五千の兵士の集まりだが、誰も彼もが戦えるわけではない。戦闘部隊の一般兵の他、衛生兵、工兵を含めその他大勢……割合にして四分の一は非常時のみ戦う準戦闘員なのである。中隊レベルの部隊が入る砦の間に点在する「見張り小屋と呼ばれる小規模拠点は数十人単位しか入れないところがほとんどだ。仮に六十人の兵が詰めるとすれば、四分の三の四十五名が戦闘兵、その内拠点を防衛する人員、非常時に応援に駆け付ける人員を引くと、持ち場エリア内をパトロールできる人員は一ケタになる。これはマジで野党に狙われる規模であり、もし敵軍と遭遇すれば勝ち目はない……。一大隊五千という兵数は、決して多すぎるものではないのだ。
そんな側面があってミノッサには軍の手が伸びてこない、では村はどうするかというと自前の防衛力を持つに至る。傭兵を常時雇うわけにもいかないため、村そのものが武装する。結果、ミノッサにはエレステルから独立したコミュニティが形成されたのだ。これは軍内部で暗黙の了解となっているため、中央の評議員のほとんどは知らない。そしてミノッサ村は国よりも自分たちの村を守ることを優先するため、国境は護らない。つまり、ミノッサから西に進めば何の障害もなくジャファルスに辿りつけるのだ!
このことを教えられた時、ジラーはようやくクリスチーナを本物のスパイだと信じた。もし自分を罠にかけるような女であればその場で殺すか、都合のいい方へ引き渡す腹積もりだったのだ。
ここまで来てしまえばエレステルを出ることに何の感慨も沸かない……ジャイオンがいれば、それでいいのだ。追手らしい追手もここ二日、見ない。少し余裕を持ち、霧が晴れるのを待とうとした、その時――――
「ジラーアァ!!」
遠くから呼ぶ声が四方の山に木霊し、驚いた寝起きの鳥が羽ばたいて飛び立つ音が聞こえるジャイオンがその野生の勘を持って方向を探り当てる。霧に隠れて見えないが、今いる場所から下った先から、そして今の声は間違いなく、あの女だ……。
「クク……よく来たなァシロモリぃ! まさかお前が追ってくるとは思わなかったぜ! おウチで引き籠って泣きじゃくってるのかと思ったがなぁ!」
「黙れ! ミリムの仇はとらせてもらう!!」
霧の向こうで吠えるのを聞いて、ジラーは笑いが止まらなくなってしまった。ミリムを殺したのはクーラ。おそらくそれを認められないのだ。
「ククク……ハハハハ!! クリスチーナ=ガーネット! あの女とお前、乳繰り合ってやがったんだってなぁ!! お前みたいな小娘相手に、まさか本気になってるとでも思ったのか!? 何度も俺の下で気持ち良さそうにヨガってやがったぜえ!!? ハハハハ―――!!」
谷間にジラーの下品な高笑いが響く。偉そうにしても所詮子供に過ぎないシロモリ、さぞかし繊細な心を粉々に砕いたことだろう―――
いや…
「……フ、本気で言っているのか?」
意外にもシロモリの声には余裕があり、さらには挑発的だった。
「ずいぶん女を知っているような口ぶりだが、お前如きが本気で女を満足させられたと思ってるのか? 少しお前のことを聞いて回っただけで罵詈雑言が出るわ出るわ。色街の女たちは皆一様に同じことを言ってたぞ―――下手くそで払いも悪いクズ野郎、馬並なのは嘶きだけだったってな」
「なッ……こっ…ガキがああぁッ!!」
その時、薄っすらと影が見えた。太陽が登ってきたからだ。雲と霧の境目が未だはっきりしないものの、高い位置から霧は薄れ、明るさは増している。白紙に水滴をが滲んだような薄い色合いだったが―――確かにそこにいる。
影のある場所はジラーの正面の下り坂の先……そこから声も聞こえてきた。ジラーの記憶ではこの道は幅が五メートル以上ある直線、傾斜はやや急、地面に凹凸はほぼない。山道では珍しい地形だからよく覚えている。そして影の大きさとシロモリの背丈を照らし合わせると、およそ五十~六十メートル先か。ジャイオンなら七秒~八秒……。平地であればもっと速いのだが、下り坂ではジャイオンの巨体が仇となり、本来の七割程度のスピードしか出せない。
ここでジラーに功名心が生まれた。本来なら霧が晴れるまで待つところだ。話しているのはシロモリ一人、ジャイオンも反応しない。だが、ここ数日姿を見せなかった追手が現れたのだ、満を持して罠を張り、待ち伏せている可能性は十分考えられる―――と、疑ってしまうところだろう。しかし考えてみれば見えないのは向こうも同じなのである。いや、むしろ霧が晴れるまで遅い低地の方が視界の不利は大きい。脇から飛び道具で狙おうとも当たるものではなく、数撃ちゃ当たる物量作戦なら兵の気配をジャイオンが感付く。そしてシロモリの影が確認できることから途中に障害物のトラップを仕掛けた様子もない……。
……ああ、そういうことか。あのガキ、真っ向勝負のつもりなのか。女を寝取られて俺を殺そうって腹か。女を初めて知ったガキにはよくあることだ。女のアケミにまで当てはまるとは思わなかったが、余程手懐けられていたんだろう。ただこの手の話は、ガキが返り討ちにされるのが世の常―――
キン―――ッ……
独特の高い金属音………どこかで聞いたことがある。この背筋の凍る音は、何だ?
次いで、空気が変わった……肌が敏感に、鳥肌が立ち、喉から胸は冷たい氷水を今にも吐きだしそうな苦しさ、腹の底は鉛でも食ったように重い……何一つとして現実的な譬えではないが、つまりそういう、一瞬にして内臓をぐちゃぐちゃに壊されたような感覚に襲われたのだ。
それはジラーの勘違いではない。その証拠に鳥たちが一斉に飛び立ち、ジャイオンまでが落ち着きなく啼いている。
「ジャイオン、どうどう、どう…」
ぐるりとその場を回るジャイオンの手綱を引いてどうにか止めると、ジラーは改めて霧が溜まる下り坂の向こうに目を凝らす…。影は未だにぼんやりと、微動だにしていない。しかし気配は小娘のそれではない………これは、いつか―――……
……ああ、思い出した。さっきの金属音はあの「カタナ」を抜いた時の音だ。時刻は獣の眠る早朝、無風――しかもこの山間の地形が音を反響するからこそ、豆粒のようにしか見えないこの距離でも声を張り上げて会話できるのだ。剣の鯉口を切った音など聞こえるはずもなく、聞こえたとしてもあれほど耳触りに響くはずはないのだ。だというのに神経を逆撫でしたのは、自分でも考えられないほど印象的に、明確に覚えていたからだ。ニガードを追った夜、一人で敵を切り裂き回ったあの女―――「長刀斬鬼」の姿を。
これが小娘の―――シロモリの放つ殺気なのか…!?
冷や汗が止まらない……バカな、ビビってるのか? 俺が? ジャイオンに跨るこの俺が?? ありえない……ジャイオンは、ジャイオンと俺は、無敵のはずだ…!
「クソが……シロモリいィ!!」
ジャイオンの嘶きを聞いてヤツは今頃霧の中でせせら笑っていることだろう……ナメやがって…!
瞬時に敵を葬る手段を頭に浮かび上がらせる。前足で踏みつぶすのが常套手段だが、シロモリは強い。ジャイオンの機動性と筋肉は並の戦士の剣撃を跳ね返す程だが、シロモリのあのカタナはジャファルスの兵士を真っ二つに切り裂いている。人間を両断できる程の腕前なら万が一ということもありうる。ならば奇襲する手はどうだ? ジャイオンは並外れた跳躍力を持ち、三メートル近くまで飛び上がることもできる。視界が遮られた状況で飛びかかれば、相手は足音からジャイオンが少し離れた距離で止まったと判断するだろう。その一瞬後に真上から踏みつぶすのだ。しかしこれはジャイオンが上手く着地できるか不安が残る。下り坂で跳躍すればただでさえいつもより高い位置から降りる上、霧で足元が見えない状況で万が一窪みや岩があった場合、ジャイオンが骨折する可能性がある。馬にとって足の骨折は死を意味する、一か八かで曲芸をさせるわけにはいかない。
ここはやはり―――アレでいくか。突進からの回転後ろ蹴り。後ろ蹴りは馬の攻撃手段として取り立てて珍しくはないが、最も馬力の発揮される蹴りは人間が吹き飛ぶ威力を持つ。それをジャイオンが、駆けたスピードそのまま、滑りこみながら繰り出すのだ。たとえフルプレートの鎧を纏っていても必殺の破壊力。まともに食らえば内臓を潰し、背骨まで折ってしまうだろう。さらにこの攻撃利点は圧倒的なリーチ。ジャイオンならその長所が際立つ。シロモリの「カタナ」は槍ほど長くはない、まず間違いなく先手を取り、そのまま決着だろう……やはり、オレの勝ちだ!!
ジラーの手が手綱をぐっと絞ると、ジャイオンはすぐさま主の意思を読み取って闘志を顕わにした。先程はアケミの殺気に中てられて怖れていたのではない。闘争心に奮えていたのだ!
「行くぞジャイオン! そして……行くぜシロモリぃ、殺してやる―――!!」
手綱を振り、鐙に掛けた足でジャイオンの腹を叩く。するとジャイオンの目つきが変わった。動物の表情や機嫌は普段から接している人間でなければわかり辛いものだが、ジャイオンのそれは子供が泣き出し、大人が逃げ出すほどだ。まるで肉食獣の獰猛さと魔神の如き威圧感―――。追手の兵士どもですら圧倒し、恐怖で足が竦む様を見下ろしながら悠々と踏み散らしたのだ。シロモリがどれほどであろうと、同じことだ…!
ジャイオンが大地を蹴り、眼下の霧に向かって突撃する―――!
―――その霧の中でアケミはジャイオンの蹄の音を聞き取っていた。ただし、アケミが立っているのはジラーが見当を付けた位置から十五メートル程後方である。
ジラーがアケミだと思い、アケミの前方に屹立するその「影」は、アケミの背丈に匹敵する長剣……いや、それを超える大剣だ。
アケミが手に持ついつもの長刀が細い枝に見えてしまうその大剣は、幅五十センチに迫る刀身を持つ直刀で、まるで鉄板。鉄の塊から削り出したような武骨なシルエットである。鞘などなく、抜身のまま地面に真っ直ぐ突き立てられ、身の丈三メートルを超える巨人でなければ振り回すどころか引き抜くこともできないであろう重量感に溢れている。
それを―――アケミは使うつもりなのだ。
ジャイオンの気配を感じ取った瞬間に長刀を素早く地面に刺し、豹のような瞬発力で駆けだしたアケミは猛スピードのまま大剣に飛び付き、太いグリップを軸にぐるんぐるんと身体を回転させる。遠心力を受けた大剣はみしりとその身を軋ませ、三秒後には地面をひび割り、ぐらりと傾きながらアケミの勢いに追従する。
抜ける――その絶妙のタイミングで足を付くと、今度は自分を軸に大剣を回転させる。さながら巨大な鉄の風車のように、速度を一回転ごとに倍化しながら、大剣は白い霧を巻き込んでいく……!
「死ィにやがれえぇ――!」
何をトチ狂ったのか、勝利を確信したジラーの叫び声が耳に飛び込んでくる。
―――バカが、どこまで来ているか丸わかりだ!
「オ、オ、オ、オオオォ―――――だっ!!」
放たれた大剣は大回転、風を切り裂きながら滑空する。巨大な刃が唸りを上げて霧の中から飛び出したのはちょうどジラーが攻撃に移ろうと手綱を握り締めた瞬間であり(ジラーがわざわざ叫んだのもアケミを身構えさせるためだった)、先手を打つつもりだったジラーは対応どころか、瞬きすらできずに―――
ジャイオンの首を撥ね飛ばし、
ジラーの胴を横に切り裂き、
バランスを崩した一人と一頭は、アケミの目の前で文字通り四散して、坂の下へと転げ落ちていった……。
「………はあぁ……」
再び訪れた朝の静寂の中、深く息を吐きだす…。呼吸は落ち着いたものの、心臓は激しく脈打ち、発汗は止まらない…。
「……おみごとでした」
背後から現れたのはナムド中隊長、そしてウェルバー兵長。少し離れたところで息を殺し、隠れていたのだ。
アケミの十メートル先で横たわる剣、そして血の跡を残しながら転がっていった死体を見比べ、ウェルバーはただただ息を呑む。
「マジかよ……最初聞いた時は頭がおかしくなったのかと思ったが、よく上手くいったな。そもそも奴がここに現れて、霧がなかったら成り立たない作戦だったぞ」
「…ここに来ることは予想できました」
「何!? どうして?」
ウェルバーたち第二大隊を中心に組織された捜索隊は、神出鬼没のジラーに手を焼いていたのだ。
「蹄鉄ですよ。ジャイオンは超大型の馬だから特注品で、替えが効かない。それにジラーは馬の気持ちがわかる奴だという話だったので、馬の脚に負担のかかる岩場は避ける」
「なるほど!」
ポンとウェルバーは手を叩く。
「地面のコンディションがよく、ジャファルスへのルートと重なる所が奴の居場所というわけで、霧が出るこのタイミングでこのポジションだったのは、偶々ですけどね」
「…とはいえ、相手の行動パターンを知り、心理を読み、地の利まで作戦に組み込むとは大したものです。あの武器だけは規格外でしたが」
「『斬馬刀』……ウチにあった古い文献から作ってみたものだったが……実用にはまだ遠いか」
ナムドの前に両手を出す。掌は皮がずる剥けて真っ赤になっている。
「………」
ナムドはアケミの手を取ると……爪を立てるように、ぐっと握る。
「くぅっ…!!」
「!! おまっ……何やってやがる!!!」
激怒したウェルバーがナムドに掴みかかろうとする前にナムドは一歩引いた。しかしウェルバーの怒りは収まらない。
「てめぇ……コイツはオレの後輩だぞ!! これ以上傷つけんじゃねぇ!!」
怒鳴りつけられたナムドは、そして後ろに庇われたアケミも目を丸くし―――プッと苦笑する。
「何が可笑しい…!?」
「いえ…」
ナムドは中隊長、アケミも軍属ではないとはいえ将軍格。しかしウェルバーはナムドが同世代であり、アケミが養成所所属時代の後輩だという感覚で口を利いているのだ。もちろん普段はこんなことはないのだが……。
二人に笑われて白けてしまったウェルバーは腰のポシェットから包帯を出し、手に巻いてくれた。おそらくこの人はこの人で、ミリムのことに責任を感じているのだろうとアケミは思う……。
「ナムド中隊長……すまないがこの手では剣を握るのは無理そうだ。後のことはお任せしたい」
「よろしいのですか…?」
「よろしいもクソもねぇ…あんたも事情を知ってるんだろ。酷なことさせる必要はねぇよ…」
ウェルバーの心遣いに胸が痛む…。
「了解しました、上には私から報告しておきます」
「助かる。ついでに申し訳ないが、あたしは先に引き揚げさせてもらう」
「結構です。ウェルバー兵長、下に待機している者たちを呼び、遺体と剣の回収を」
「あの剣もだけど、馬をどうやって積むんだよ……人手がいるなぁ」
笛を吹いて合図を送るウェルバーの横を通り過ぎ、バラバラになったジラーの前で足を止める。
こいつもバカな男だ……。
身体を許すほうが金を用意するよりはるかに面倒がなく、しかもあたしを釣るためのいいエサになる。そして時間稼ぎをさせられた挙げ句、余計な挑発をして激昂したあたしに始末され、口封じも完了……クーラさんの考えることが手に取るようにわかる。そう……あたしには、わかる―――……。
あー、スッキリしたスッキリした! 最近暗い話が続くので欝々しながら書いてましたが、ようやくスカッとしました! ジラー兄さんには悪いですが(笑)。もっとも、登場時点で斬馬刀に葬られるジラーの末路はほぼ決まっていました。そしてこの斬馬刀が機能的・戦術的に改良されて「女王への階」でアケミに使用され……ベルマンに片手で振り回されることになるわけですw。




