追憶
途中ですが、放置したまま1年、完成する見込みがないので供養(´・ω・`)
1
人間が正常であるかどうかを人間自身が判定することは不可能、なぜなら人間を創造したのは人間ではないからである、そんな哲学まがいの持論を僕の前で披露した彼は、それからしばらくしないうちに彼の自宅で自らの命を絶った。けれどより正確に言えば、誰かの言葉を借りれば、彼はこの世界の肉体を捨てて、より高尚な次の世界へ旅立ったのだった。
生前に僕の担任の教師であり、没入・対面型ソーシャルネットワーキングサービス――『ヴァーチャルチャットルーム』でのフレンドでもあった彼は、自身の人格、記憶などを含めた脳内の生体情報を機械の上に吸い出して、コンピュータに構築した彼の記憶、思い出の世界のなかで生きることを選んだ。彼の肉体は生体情報の抽出のために脳の組織が破壊された状態で、鼻の穴から血液をだだ漏らす彼を発見した僕は、その後二日ほどまともに食事を摂ることができなかった。
救出のために彼の世界へのアクセスを試みた柏木という女性はのちに、僕に電子世界での彼の心理状態について詳しく語ってくれた。「思い出に浸りこんで生きていくことは、悪ですか」自身の領域に押し入られて半狂乱になった彼は、涙を流しながらそんなことをただ延々と叫び続けていたという。彼が生前いっていたように、彼自身が正常であったかどうかなどはもう今の僕には判別のしようがなかったけれど、正常であることが外界からはともあれ、その人間自身でさえ判別できないという彼の持論は紛れもなく真実ではあったのだろうと思う。一般的な「正常である」状態のマージンに彼が問題なく収まっていたかどうかと問われれば、彼はきっと片足を踏み外した状態で正常である世界の人間としてふるまおうと努力していたのだろうし、正常でないものさしで正常であろうとすることは、はなから正常になどなり得ない状態だったのだろうと思うわけで、結局のところ僕にはもう正常でない彼がなにを考えていたのかわからなかった。
僕の食欲が一般的な男子高校生並みにまで回復して数日後、僕のもとへ一通のメールが届いた。送り主は柏木さんで、本文には短く、亡くなった彼に会いたいかどうか、問いかける旨の文句が一行だけつづられていた。そのとき僕は数秒間だけ逡巡して、それから肯定の意思と、彼女はそれほど清い仕事をしている人間ではなかったから、落ち合う日時と場所を問う文句を書いて柏木さんのアドレスにメールを返信した。
2
「久しぶりね」
柏木さんは僕の目前で、ミルクをたっぷりと注ぎ込んで黄土色になったコーヒーに口をつけながらそんなふうに挨拶を返した。四人席の窓際の席に陣取った柏木さんの真向かいに僕は腰を下ろし、それから注文を取りに来た店員に柏木さんと同じコーヒーを頼む。向かいのビルの頭上に垂れ込める曇天をぶすりとした表情で眺める彼女はいつも以上にどこか機嫌が悪そうで、僕はそんな彼女の表情をさりげなく伺いつつ尋ねる。
「彼は、……」
「医院の三二番サーバにいるわ。彼と会うだけなら今すぐにでもできる」彼女は空中に手を差し伸べて目の前に展開されたウィンドウを操作する。
「端末を通してですか」
「ええ。でも会話になるかどうかは保障できない。彼の精神状態をかんがみても」
「…………」
彼は自らの生体情報をもとに記憶の世界を構築して、それを砦として電脳世界で生きている。以前に柏木さんが試みたように彼と接触を計るとすると、それが彼の精神的な状態にどういった影響を及ぼすのか想像がつかない。彼が僕のことを覚えているかどうかさえ定かではないし、実のところ僕自身でさえいままで自分が彼の友人として彼のなかにその位置を確立していたかどうか自信がないのだ。
「どうする? もし君が危険を冒して彼との直接の対話を試みるというのであれば私は止めはしない。きっと彼がこちら側に戻ってくる確率は、もとよりこちらのほうが高いでしょうからね」
柏木さんは言外にこういっているのだろう。彼がこちらに戻ってこないとしても、私としてはまったく差支えがない、いまや彼の存在にこだわっているのは君だけなんだよ、と。
運ばれてきたコーヒーにはスティックシュガーが二本とミルクが添えられていた。柏木さんの言葉を耳に入れながら、僕は熱い湯気を立ち上らせる黒い水面を凝視していた。僕に様々な助言をくれた彼は、もう厳密にはこの世の人ではないのかもしれない。ゼロと一の配列に身を落とした彼という人格シミュレーションを果たして人間と呼べるのかどうかは議論の余地があるだろうし、仮に彼が再び現実世界に連れ出されたとて、彼自身がそれを望んでいるという保証もない。結局のところ、彼の存在に最後までこだわっているのは僕一人なのだ。
「私が一度試した時の彼の対応を考慮するとあまりお勧めはできないけれど、もしあなたが彼になにか特別な心残りを抱いているのだとすれば、検討する価値はあるのかもしれない。少なくとも私では、彼の心を動かすことはできなかったから」
いい終えると彼女はコーヒーを一口飲み下し、ふうと息をついた。そのときふと、僕は彼女の口上にわずかな違和感を覚えた。柏木さんはいつもの無感動を装ってはいたけれど、その響きのなかに、僕はほんのわずかな後悔のような念を聞き取っていた。彼をこちらへ呼び戻せなかったことへ対する後悔なのかなとも一瞬考えたけれど、おそらくそうではなく、もっと柏木さんのなにか根底にある、信念や人格にかかわる次元の案件に関連したものなのだと、すぐに思い至る。
もしかしたら柏木さんは柏木さんで、彼の死を彼女自身の個人的な案件と結びつけて、前後不覚におちいって途方に暮れてしまっていたのかもしれない。
窓の外を鈍色の瓦鳩が、かすかな羽音を残して飛び去って行く。数羽で群れをなした彼らは曇天の空に吸い込まれるように舞い上がると、垂れ込めた灰色の雲に紛れてすぐにどこにいるのかわからなくなった。僕はスティックシュガーの袋をもてあそびながらそのさまを終始じっと睨みつけて、暖かい店内でしばらく執拗に雲の合間を探し続け、柏木さんは僕の様子を一瞥すると、すぐに興味がなさそうに手元のディスプレイに目を落として中空のキーを叩きはじめる。
僕はもう、自分が彼の存在にこだわる理由を持つのかどうか自信をなくしていることに気がついていた。単に僕の唯一親しい間柄だと呼べる存在だった彼に未練を抱いていたのかもしれないし、もしかすると彼がいった、人間自身が自らの異常性を判定できないという持論に対してなにか物申したかったのかもしれない。いずれにしても、僕のなかにわだかまるなにかもやもやしたものが、彼に会わないことにはもうどうしようもないということは柏木さんにもどうやら伝わったようで、「ひとまず、医院に行って、それから考えるのはどうかしら。ここで切々唸ったところで最善な答えは出ないだろうから」しばらくたった後に彼女はそういってから、飲み終えたカップをソーサーに重ねて僕のことをまっすぐに見据えた。「踏ん切りがつかないのなら、もしかしたらそう早急に考える必要はないのかも」
「……はい」
僕は柏木さんと目を合わせることはせずに、それでもほんの少しだけ救われたような気分で呟いた。食欲が人並みに回復したからといって、正直に僕はまだ知人の死という事件に対する混乱を乗り越えられたわけではないのだった。彼はただ自身の願望を、歪んだ形ではあるにせよ実現したというだけなのだろうけれど、一人の人間がいなくなるということの影響を、彼はきっとよく知らないままにいってしまった。
いまになると、彼の性格をよく知る僕には彼の動機がうっすらと理解できるような気がする。たぶんそれはとてつもなくどうしようもないような、おそらくは彼以外の人間にとって取るに足らないような小さな願望をかなえるためだったのだろう。彼は他者と関わるのがとても不器用で、それをかなえるための手段もきっと、こんなふうないびつな不器用なやり方しか思いつかなかったに違いなくて、挙げ句に残された僕のほうは彼のほうった哲学ともつかないような論理に束縛されていままさしく切々唸っているのだ。
ただ、……歪んだ形、とはいったけれど、もしかすると歪んでいるのは彼ではなく彼を取り巻く社会のほうで、本当は僕や柏木さんが、彼がいう正常ではないことを自覚なしに生きているという状態なのかもしれないと、僕はぬるくなったコーヒーを呷りながら一瞬だけちらりと考える。
3
等間隔に並ぶ枕木の上を、踏み外さないように注意深く歩いていく。暗灰色の天井に閉鎖された薄暗い通路は、ゆるく歪曲した線路に沿って前方の暗闇に沈み込んでいた。柏木さんいわくはるか昔に『地下鉄』という路線の走っていたこの通路は、廃線になってからずっとこのかた放置されていたらしく、天井や壁面の各所から染み出す地下水のおかげで周囲はじめじめとしけって黴臭い。枕木という、字面の割には単にコンクリートの板もそれは例外ではなくて、朽ちて滑りやすい地面は歩くのにもとても不快なもので、加えて遠くのほうからなにか重々しい駆動音が絶えず響いており、それが幽冥で閉塞的な風景と相まって、僕はきっととなりの柏木さんと一緒に歩いていなければ心細さと心理的な疲労に早々に音を上げていたところだった。
枕木の上を歩くのに飽きて線路をまたいで地面に降り立つと、僕に地下鉄を教えて以来しばらく無言だった柏木さんが、不意に顔を上げて手元のウィンドウをこちらに放ってよこした。
「いわなくてももうわかっていることだとは思うけど、彼の立てこもっている領域へアクセスして、彼と直接の顔を突き合わせた対話をするためには、もちろん君の人格を電気的な情報に転写しなきゃならない。それはまぁ、彼の境遇に立って対等な議論をするためには回避できないことなんだけれど、もし君が本当に彼と同じ、そういう存在に身を落とすという場合に、いまのところそこに表示してあるような種類の疑似体が使えるわ」
彼女の婉曲な言葉に耳を傾けつつウィンドウを展開すると、数人の人間が映った画像データがいくつか、疑似体というのだろうか、それぞれ各種の情報が手前の中空に映し出される。
「本当なら君の生体データをスキャンしてそれに見合った疑似体を設計すべきなのだろうけれど、彼の生体領域が完全に孤立するまでにたぶんそれほどの時間が猶予として残されているわけでもないだろうし、君がそこまで気にしないというなら、ある程度システムがサポートしやすい疑似体を使ったほうがいいと思うから……」
実際その疑似体たちも少なからずいわくつきなんだけどね、と柏木さんは意味深にほほえんで付け加え、「どの疑似体を使うにしてもさした違いはないと思うから、ゆっくり考えればいい」僕が疑似体の詳細なデータに目を落とすと、柏木さんはそれ以上にしつこく話しかけてこなかった。
『アイ』、『ミヅキ』――疑似体は性別によって二つのタイプに分かれているようだった。髪をふたつに束ねた大人しそうな容姿の少女は『アイ』、前髪を長く左目にかかるように垂らした容姿の少年は『ミヅキ』、どちらも僕が通っている都立高のものとよく似た制服をまとい、首に白いヘッドホンを掛けている。彼ら二人とも僕の見たことのない容姿をしているけれど、『アイ』という名前は最近になってよく耳にした覚えがあった。汎用人工知能『アイ』、ちかごろ話題の増してきた、広告によると新しい仕組みの人工知能で、工学の世界のみならず様々な分野に応用が期待されているという話だけれど、その彼女とウィンドウに映る『アイ』になにかかかわりがあるのかどうか、僕はよく知らない……。
「――準備はできたかしら」
白い天井の継ぎ目にぼんやりと目をやりながら、頭頂部から降って来た柏木さんの言葉に、僕は曖昧に頷いてみせる。「準備というほどの準備も必要ないでしょう……」それから全身を弛緩させつつ口応えをひねり出すと、柏木さんはくすりと笑って僕の額にてのひらを置き、「後戻りするならこれが最後の機会よ」と告げた。
現実空間への空間同期技術の試験的運用、その後の集団自殺事件で知られている朱西第二高校の生徒への処置を請け負っていたという朱西総合医院の地下の研究施設で、僕はたくさんの電極とコードで機械化の設備につながれていた。背中に当たるシーツの感触がいまになって嫌に生々しくて、僕は電極のつながった首筋に衝撃を与えないよう配慮しながらわずかに身じろぎをした。自分の脳を機械化して人格をコンピュータ上に移し替えるということは、結局のところ彼が選んだ結末とほとんど相違ない、それどころかまったく同じ末路なのかもしれなかったけれど、僕は当初の柏木さんの提案を断って、人格のデータとなって彼と再びの対話を試みることにしたのだった。人格抽出の処置に際して、すべては夢のなかで終わる、心配はいらない、柏木先生はそういって僕の不安を取り除いてくれたけれど、やがてどろどろに溶かされる僕の脳と主観と自我や記憶やらが果たして本当に電脳世界の僕へと引き継がれるのかどうか、僕にはその確信がなくて、そしておそらくそれは柏木先生も同様のようだった。もとより彼の人格シミュレーションでさえ、生前の彼と同一の人格、意識を兼ね備えたもの、もっと古臭い言い方をすれば、魂、というものが生前の彼と同期した存在だったのかどうかさえわからないのだから、彼はことによるとすでに中身のない、彼であった人格の抜け殻の状態なのかもしれないし、抜け殻同士で対話することにはもはや客観的にはなんの意味もないのかもしれない。
けれど、その点はべつにそれほどの問題でもないのだろうとも思う。たとえ電脳世界に居を移した僕の人格が僕の自我を保たなくなってしまったとしても、その僕もたぶん彼にとっての僕自身に変わりはないのだと信じているし、僕が彼との対話で得ようとするものは、おそらくそういう形での彼の状態に依存するものでもないはずだった。
しばらく無言で機器の操作をして、それから柏木さんは僕が彼の領域へとアクセスするあいだに、できる限りの助力をくれるといった。疑似体に内蔵した通信機能から彼のシミュレーション空間を解析した位置情報を絶えず送信し、一方通行ではあるけれど柏木さん自身からの音声による通信も割り込ませてくれるとのことだった。僕はそうした説明を頭の片隅で聞きながら、おそらく彼のことだから、柏木さんのいう助力や情報とやらはほとんど効果が期待できないのだろうとも思っていた。うっすらとしているけれどどこか確信めいた予感として、たぶん柏木さんのいうサポートは向こうまで届かず、僕は僕の力だけで彼との接触を実現しなければならない形になるのだろう。
それからまもなく、空中をタップする柏木さんの動作とともに、僕のまぶたはいよいよ重くなり始める。おやすみ、という柏木さんの声と呼応して、首筋を伝わるちりちりとした刺激が脊髄に流れ込むのを感じた直後、僕の視界は暗闇に包み込まれていた。
4
そのときはずいぶん深い夕暮れ時で、背の高いビルに囲まれた公園で、周囲の窓ガラスに反射した夕焼けが僕の揺らすブランコの頭上から降り注いでいた。絶え間ない排気音と行きかう車両の遠ざかっていく音のほかには公園には音ひとつなくて、ビルの谷間の際にまで差し掛かった夕日は、空中を交差する高架街道や高速道路の高架とともに、排気ガスの靄を通してぼんやりとかすんでいる。
たとえば、計算機を作ったのは人間で、計算機の目的はありていには式の値を計算すること。目的は製作者である人間が与えるものなんだよ。彼は隣のブランコで膝に頬杖をつきながらそう続けたのだった。かりに計算機が製作者の意図を外れた計算以外の挙動を示せば、その計算機は正常に動作していないっていうことができる。計算機自身は自身の目的を知らないけど、製作者である僕ら人間は知ってる。つまり僕がいっているのはそういうことで、人間の生きる意味とか生きがいとかについても同様に、僕ら人間は、自身のおそらくの目的を指向する動作をすることはできるけど、その目的自体を知ることはない。
彼の理論は要はあきらめの理論だったけれど、僕は都立高の教師になる以前の彼のことについて一切の面識はなかったし、彼の過去についての知識もなかったから、いま彼がどうしてそんな結論に至ったのか、彼がいったいなにを見てどのように考えてこんなふうに絶望しているのか、僕には想像もつかなかったのだった。結局彼はその後まもなく自殺してしまったわけなのだけれど、そのときビルの谷間を見据える夕日に照らされた彼の横顔は、決してなにかを決意するような人間の表情ではなかったように思う。
5
意識というものがなにに由来するのか、人間の意識は果たしてどの部位に帰属するのか。
脳梁を切断して右脳と左脳を分離したとき、人間はどちらの脳で思考し意識するのか、
人間はどこまで細分化できるのだろうか。ここにいる僕は僕に間違いなくて、けれどたとえばもしそこに僕の髪の毛が落ちているとすればそれは紛れもなく僕の部位だろうけれど、そこには僕の意識が宿っていないからそれではその髪の毛は僕ではないのだろうか。僕と同じ遺伝子を持つ僕のクローン人間は僕か? 僕の髪の毛を培養して僕を複製したらそれは僕の髪の毛だから意識は宿らないのだろうか。僕の脳の中身を機械上に複製したゼロと一の配列に魂は宿るのか、当人のあずかり知らぬ体内のどこか複雑な機構で行われる電気的な営みが人間の意識という現象を生み出しているというのならば、たとえばコンピュータのCPUとハードディスクとメモリを絶え間なく交互に移動する電気的な情報と命令群によるシミュレーションが、新しい枠組みの意識という現象を生み出さないという保証はないのではないか……?
とりとめなく思考する傍らで、僕は自分が自分自身であることを保証していた部分が徐々にそぎ落とされていくのを感じる。自分がだんだんと自分でなくなっていくのを感じながら、僕は自分とはなにか、自分が自分たる根拠を見つけるために、盲目になったような暗闇のなかで、ただ延々と意識の所以を議論し続けていた。
――転写されていく僕の複製がこれからなすことは、紛れもなく僕自身がしたかったことだといえるのか。
もしかすると、結局のところ本当に僕が気がかりなのは、単にそれだけのことだったのかもしれない。混濁していく意識のなかで、永遠に思える長い時間のあいだひたすらに答えのない問答を自分自身と繰り広げながら、僕という存在は、さらに遠く口を広げた意識の深淵へとどこまでも落ち込んでいく。
――処置は無事に終わったわ。いまから彼のシミュレーション領域に転送します。できる限りの助力はするつもりだけど、万一私からの通信が届かないかもわからないから、そのときは疑似――
暗闇の遠方から、小さく一筋の光がこぼれていた。自分の存在さえ定かではない孤独の世界から逃れるために、僕は思わずすがりつくように光に向かって手を伸ばしていた。柏木さんからの呼びかけはもうはるか以前に途切れており、疑似体だか霊体だかさえわからない僕の体の周囲にわだかまった闇は、すでに凝りのようにしつこく絡み付いて離れそうになかった。僕は遠くの光を見据え、まだほとんど動かすことのできない体へ必死に力を込めて辛抱強く待ち続けた。光はだんだんと大きくなっていき、やがて辺り一面を温かい輝きが包むようになると、方向の定まらなかった重力が紛れもない下方に収束していくのが感じられて、僕はその心地よさに身を預けながらゆっくりとまぶたを閉じる。
6
かたり、と音を立ててシャープペンが机の上に転がった。
ゆったりと流れる沈黙のなかに、その音は水面に広がる波紋のようにじんわりと染み渡っていった。その音に呼応するように、僕の意識はゆっくりと浮上する。周囲を停滞する空気には湿気と紙の匂いが混ざり込んだ独特の匂いが、それから筆記具の先端が紙面をこする音が絶え間なく広い室内を満たしていた。僕はいつしか図書室にいて、本棚の合間にいくつか据えられた机のひとつで受験に備えた勉強をしているのだった。どうやらうたたねをしていたらしく、口角から唾液が糸を引いて参考書の上に垂れ、僕は顔をしかめながら懐のティッシュでそれをぬぐう。西向きの窓の外はどんよりと垂れ込めた曇りの空で、真新しい水滴がぽつりとガラスに張りつくと、それから堰を切ったように空から雨粒がこぼれ出し、……傘、持ってきていなかったな。にわかに暗鬱な気分になって僕はぼんやりと視線を参考書に戻す。
「隣、いいかな」
集中が切れて拾い上げたペンをくるくる回し始めた僕の頭上から、控えめに落とした女子生徒の声が降りてきた。声の元を振り仰ぐと、彼女はやわらかく笑みを浮かべて「今度の定期発行誌の企画について、ちょっと……」と続ける。
「……大丈夫だよ、座って」
椅子を引くと、女子生徒は「ありがとう」軽く会釈をして荷物を机の足元に置き、僕の隣の席に腰を下ろした。
「須賀くんは、原稿は順調かな」
鞄のなかをごそごそと漁りながら、彼女は胸元に垂らしたおさげを揺らしてそう問いかける。須賀、というのは僕のことなのだろうか。須賀という響きに、僕はなにかやらなければならない重要なことがあったような感じを覚えた。喉の奥に魚の小骨が引っかかったような感覚があって、原稿、……「うん……、たぶん締め切りまでには書きあげられると思うよ」僕の口は勝手に動いて返事をした。
「片桐さんは、今回の冊子は編集作業に専念するんだっけ……」
クラスの女子がいってたのを聞いたんだけど、東京の大学を受験するんだって。大変だし、仕方ないね。僕がいい終えると、片桐と呼ばれた女子生徒はわずかにうつむいて、「……うん、任せちゃってごめんなさい」本当ならば彼女だって作品を載せたいのだろうに、すぐに顔を上げるとやんわり申し訳なさそうな表情を浮かべてそう答えた。それから手元のクリアファイルに手を入れて「ところで今日、美術部の藤村さんがね……」片桐さんは白黒印刷されたコピー用紙を取り出してこちらによこした。手渡されたコピー用紙に印刷されていたのは、群生するあじさいの花と、その周囲を数匹の金魚たちがたゆたっている、精緻に描写された繊細でとても美しいイラストだった。
「依頼してた表紙があがったって、これ。ためしに印刷してみたんだけど、どうかな」
僕がイラストに見入っている横から、しばらくすると片桐さんはそういって、「素敵なイラストだよね」素直な口調で僕と同じ感想を口にした。中央には誌名として小さく『紫陽花』と印字されており、そう、誌名を『紫陽花』としたのは確か片桐さんで、僕が書いている梅雨を主題とした小説に合わせてくれたのだった……。
「……すごいね、これ藤村さん、ひとりで描いたのかな」
もしそうだとしたら、いや、実際にそうなのだろうけれど、藤村さんという人はものすごい才能の持ち主だろう。僕が思わずそう漏らすと、片桐さんは自分のことでもないのにとても嬉しそうに答える。
「そう、美術展の作品もあるのに、誌名をあじさいにするっていったら、ぜひ描かせてほしいって。彼女、あじさいの花が好きだから……」
「ふぅん……」
イラストのあじさいは梅雨の雨粒にしっとりと濡れて、小花たちとその露を舐める金魚の群れはいまにも動き出しそうなほどに繊細に描かれていたけれど、ふたたび見ると、僕はハーフトーンに沈んだ彼らのいずまいに、どこかものさびしいような印象を受けた。金魚の瞳がこちらを向いて、なにかを必死に訴えかけているような、……僕はそんなまなざしを以前にどこかで目にしたような感覚があるのだけれど、「……須賀くん?」片桐さんの呼びかけとともに、その感覚はすぐに霧散してしまった。
「うん、……大丈夫。表紙はこれで問題はないと思う」
僕がそういうと、「よかった。藤村さんにも伝えておくね」片桐さんはそれからいたずらっぽく笑って僕の参考書を手に取った。
「須賀くんはこのまま盆地の大学に進学するの……」
「……うん」ぱらぱらと無為にページをめくる片桐さんをぼんやり眺めながら、僕は曖昧に返事をしたあと、「いや、実はまだ決めてないんだ」取り繕うようにそう重ねる。片桐さんは伏せた顔を上げて少し驚いたような表情を見せ、「そうだったんだ、意外だなぁ」参考書を僕の目の前の机にそっと戻し、進路決まったら教えてね、と続けた。僕がこの期に及んで進路を考えあぐねているのは、ひとえに彼女が卒業とともに上京してしまうという話を聞いたからなのだけれど、田舎の狭苦しい世界から抜け出してみたいという好奇心も少なからずはあるのだった。片桐さんが上京するなら、僕も東京の学校にしようかな、僕がなにげなくそう呟くと、片桐さんは、須賀くんならそれもいいのかもね、しっかりしてる印象あるし、とどこか遠くを見ているように答えた。
「片桐さんは、東京行ってみたくないの」
東京といったらこの国の首都だし、ここみたいな田舎とはくらべものにならないぐらいに人がたくさんいるのだろう。将来が農家や家を継ぐなど約束された盆地とは違って、数えきれないほどの未来があるのだと聞いたし、そこでは僕らと同じ年代の学生たちも、ここよりもっとずっと自由に暮らしているらしい……。
窓の外はずいぶん暗くなって、いつの間にか雨脚は強くなっていた。図書室に人影は少なくなり、窓ガラスはもうほとんど室内の様子と蛍光灯の光だけを映している。
「私、ここが好きだから、……正直にいって、本当は盆地を離れたくはないんだ」
片桐さんはいくばくか逡巡した後にそう答え、寂しそうに顔を伏せた。少しの気まずい沈黙を経た後に「それじゃあ私はそろそろ帰るね」片桐さんはクリアファイルを鞄のなかにしまって立ちあがった。「雨強くなってきたみたいだし、須賀くんも今日はもう早く帰ったほうがいいかも」
「うん、……」僕はそれからなにか続けようとしたのだけれど、中途半端に開いた口から洩れる空気が言葉を形作ることはなかった。片桐さんは「受験勉強がんばってね、また明日……」といい置いて背を向ける。後方の扉へ遠ざかっていく背中を見つめながら、なぜだか僕は彼女に声を掛けなければならないという切迫した感覚に襲われており、しかしそのあいだじゅう僕の体はなにかに縛られたように硬直し、かたくなに動こうとはしなかった。
彼女は図書室を出ていく間際にこちらを振り返って小さく手を振り、僕はそれに無意識のうちに手を振りかえしていた。それからにわかに周囲の話し声や雨音が遠のいていき、視界がぐらりと暗転したかと思うと、どこか遠いところで扉が閉まる、鈍くくぐもった音が響いた。
まばたきのうちに、そこはもう図書室ではなくて、薄い窓ガラス越しに鮮やかな夕焼け空が僕の目の前に広がっていた。
赤く大きな夕日は遠くの山々の稜線にのしかかり、鮮烈な橙と紫に染まった筋雲が薄く引き伸ばされて夕焼け色の西空に架かっていた。校舎はいつしかしんと静まり返って、教室には僕以外の人影はなかった。傾いた夕日が教室のなかを茜色に染め上げて、細かい糸くずのような埃が窓から差し込む斜陽のなかを時折ゆらゆらと横切っていく。
時計は六時半を指していた。僕は鞄を肩に提げたまま後方の黒板に近寄って、それから隅のほうに掲示された張り紙に気が付いたのだった。橙色に照らし出された紙面を見ると、日付は六月の半ばで、このごろ生徒の失踪が頻発していること、流行り病への注意喚起と、不穏な文句が並んでいる下の方に、放課後と夏休み中の部活動を禁止する旨の文章がつづられている。
僕は思い起こす。四月から六月のあいだ、たった一学期ぶんの短い期間のうちに、この学校の生徒がすでに三人も失踪していた。失踪した生徒がそれから帰ってくることはなく、僕の耳にした噂では、その三人は神隠しに遭ったのだとまことしやかにささやかれていた。僕と同じ学年である三年生では二人が神隠しに遭っており、紫陽花の表紙を描いてくれた美術部の藤村咲という女子が、そのうちの片方として、大祭りも近いつい先日に姿を消した。
近しい人がある日突然いなくなるということ、これだけの人間が失踪したこの時頃になってさえ、僕はそれがいったいどういうことなのか、いまだに確かな実感を得ていなかった。ある種対岸の火事のような、どこか他人事のような、失踪という事実と対照的に、“注意喚起”や“部活動の禁止”などひどくつつましい、僕自身が受ける現実味自体が恐ろしく希薄だった。実感のない僕を置いてけぼりにして、また去年と同じ、大祭りの季節は例年通りにやってきて、むしろ現実味とはなんなのだろう、実際、僕は誰かの夢のなかで生きているのかもしれない。無意味な想定だけれど、そんな感覚でさえいまやたやすく湧いてくるようだ。
僕は張り紙から視線を逸らし、籠った教室の空気にふいに息苦しさを感じて、締め切られていた窓を勢いよく引きあけた。青草の匂いがする夏の夕暮れの空気が教室の空気とまじりあって、さざ波のような蝉の声と、遠くの方からお囃子の音が風に乗ってかすかに流れてくる。このごろ片桐さんはどうしているのだろう、元気にしているのだろうか、お囃子の音色を聴いて、ふいにそんな疑問が僕の頭の端をちらりと通り過ぎていく。
夏休みに入ってからこのかた、僕が片桐さんと言葉を交わす機会は極端に減ってしまっていた。片桐さんはこのところ夏休みの以前からずっと長いこと休みがちで、噂によるとどうやら学校に顔を見せることさえ珍しくなっていたらしい。もともとクラスの違う片桐さんとはそれほどしきりに顔を合わせる間柄でもなかったのだけれど、しかし文芸部のたった二人の部員として、僕が最後に彼女と話をしてからもうおおよそ二週間も経ってしまっていた。
――先々週、公民館からの帰宅途中に偶然会ったとき、彼女は受験勉強の疲れからかひどく憔悴したような表情をしていた。そのとき彼女は僕の顔を見るなり安心したように弱々しく頬を緩め、けれど僕とあいさつを交わしたごく短いあいだじゅうにも、彼女の視線の焦点はどこか遠いところを見ているようにゆらゆらと定まることがなかった。
それからしばらく久しぶりに二人で肩を並べて歩きながら、僕と片桐さんはたわいのない会話を交わした。一言ひとことを噛みしめるようにしながら、片桐さんはどこかたどたどしい言葉で僕に語りかけ、つたない会話のあいだにはしばしば沈黙が降りていたけれど、僕にはその時間がなんだかとても大切なもののように思えた。
交差点に差し掛かったあたりで、原稿はどう、片桐さんは僕にそう尋ねてきた。企画が結局頓挫しているということ、再開の見込みがないとほかならぬ彼女と話し合って決めたのだということを僕が改めて話すと、彼女は「そうだっけ、あはは……」最近物忘れがひどくて、ごめんなさい、たったいま気が付いたような顔をして、それから所在なげにうつむいてしまったのだった。彼女の様子がどこか尋常ではないということは僕にも薄々わかったのだけれど、それから以降、彼女が必死になにかを隠そうと明るくふるまっているのを見ると、僕は結局別れ際まで言葉をかけることができなかった。僕と片桐さんは二週間後の今日、放課後の教室で会う約束をして、彼女はそこで僕に大切な話があるのだといって、結局それだけ話し終わると僕たちはすぐに別々の方向へ別れたのだった。
僕は思索の淵から浮かび上がって、教室の前方に掛けられた時計に目を向けた。知らぬ間に、いつしか長針は十の文字をまたいでいた。先々週に片桐さんと約束した待ち合わせの時間は、その刻限になってからもう一時間も過ぎていた。僕は窓際の自分の席に腰掛けて、しばらくぼんやりとあかりのない天井に視線を送りながら、片桐さんと最後に交わしたやりとりを反芻していた。彼女の様子が本当に受験勉強の疲れからだったのか、僕はいまになって彼女の安否が気がかりになっていた。あのときの片桐さんは、僕の目の前にいるようで、その実そうでないような、それこそ目を離したらすぐにでもどこかへ行ってしまいそうなはかなさをまとっていたのだ。
いや、そうではないかもしれない、それからすぐに僕は思い直す。僕と片桐さんが高校を卒業するまでに、あとたった半年も猶予は残されていないのだ。卒業すれば、彼女は東京の大学に進学し、ともに文芸部の部員だったという接点は潰え、すぐに彼女は手の届かない人となってしまう。片桐さんが僕にとってただの思い出のなかの人になってしまう、もしかすると僕はそう危惧して単に焦っていただけなのかもしれなくて、僕は自分のなかにわだかまっていた思いが、たぶん彼女に対しての、いわゆる好意――恋愛感情なのだろうとようやくの自覚を持った。窓の外に見える夕日はずいぶん傾いて、光の差さなくなった教室は、薄暗く色を増してきた宵闇に覆われていく。
どこからかひぐらしの声が細く届いて、音のない教室のなかに物寂しく染み入っていった。
なにげなく机のなかに左手を差し入れると、指先がなにか心当たりのないものに触れるのを感じた。普段机のなかに置きっぱなしにしている教科書の上に、なにか小さな紙のような感触があった。怪訝に思って取り出してみると、それは丁寧に折りたたまれたノートの切れ端で、僕の使っているノートのものとは違い、その紙面には薄青い罫線が走っていた。
ふいに僕は嫌な胸のざわつきを覚える。片桐さんを待つあいだじゅう抱いていた不安と、ここに片桐さんは現れない、うすうす懸念していた予感がどこか確信めいたものに変わるのを感じる。このノートはおそらく、以前片桐さんが紫陽花の企画用に使っていたものだった。僕の淡い期待を裏切って、やはり片桐さんの身になにかあったのかもしれない。そう思いながら僕が震える手で紙片を広げると、ノートのページを半分にした大きさの紙は、教室の薄暗さも相まって、一見してなにも書かれていないように見えた。僕は目を凝らし、やがて中央のあたりに、シャープペンで小さく文字が書いてあるのを苦心して読み取った。
その紙片には、ひどく弱々しい、しかし紛れもなく片桐さんの筆跡で、
『須賀くん、ごめんなさい。いままでありがとう。』
とだけ書かれていた。
それから僕は町じゅうを駆けまわり、片桐さんの姿を探した。彼女の残した紙片と短い言葉が、そのときの僕にはあたかも遺書のように感じられたのだった。心当たりのある場所はすべてまわり、彼女のクラスメイトや担任に連絡を取って、必死に探したのだけれど、結局彼女は見つからなかった。どうしようもない諦観と疲労に包まれて帰宅するころ、探しまわるあいだじゅう握り締めていた僕宛ての紙片は、てのひらのなかで汗でしわくちゃになっていた。
「片桐菖蒲が失踪した。僕が報せを受けたのは、その日の晩のことだった」
7
次の瞬間には、僕は見渡す限りこがねいろのすすき野原を俯瞰していた。手足の感覚も、実体としての僕の疑似体の感触もなく、僕はすすき野原の上空を、ただ思考を放棄してふわふわと漂っていた。
誰のものとも判らない強い郷愁と悲哀が僕の心に押し寄せて、沈んでいく朱色の夕日を眺めながら、僕はおそらく涙を流しているのだった。やがて夕日は遠くの山々の稜線の向こうへと隠れ、それから空と地平の境界が絵の具をかき回すようにまじりあって、ともに夕闇のなかに色鮮やかに落ち込んでいく。
8
雨が降っている。
辺りはもうずいぶん長いあいだひっそりと静まり返っているようだった。埃っぽくて湿った空気が周囲に満ちて、しとしとと降り続く雨音とともに、どこかの隙間からかすかに雨の匂いが忍び込んできていた。まるで時間が止まってしまっているような沈黙のなかで、僕は小気味よく続く雨音に耳を傾けて、しばらくのあいだ浅く小さな呼吸を繰り返した。体は脱力しきっていて、指先から徐々に力を込めていくと、どうやら僕は机に伏せた格好で眠り込んでいたようだ。
うっすらとまぶたを持ち上げると、疑似体の目は薄暗い室内をとらえた。雨粒に濡れた窓ガラス、窓枠に四角く切り取られた雨模様の空。窓は錆色の窓枠を境にして張られ、それから手前には古びた机と椅子が整然と並んでいる。凝り固まった体を動かせるようになって上体を起こすと、正面には教壇、それから隅のほうにつつましく落書きが施された黒板が目に入った。
ずいぶんと長い間眠っていたような気がする。明かりのない教室のなかには、窓から差し込む、ガラスを伝う雨粒の跡が波のように浮かび上がっていた。教室には誰もおらず、ひんやりとした静寂に閉ざされている。
僕は立ち上がって、滞った空気を振り切るように教室の扉へと向かった。いつの間にか僕はどこかの学校の制服を着て、僕の足は知らない上履きを履いていた。立てつけの悪い戸を引いて廊下に出ると、一瞬だけ視界にノイズが走ったのを垣間見たあと、次の瞬間にはそこには薄暗い廊下が左右に延びていた。白く扉の上部に張られた板には二年二組という文字が刻まれ、僕はそれから後ろ手に扉を閉め、左手に見える下り階段に足を向ける。
耳鳴りが聞こえるほど静まり返った木造の校舎に、床面をこする僕の足音が反響し、次第に僕は校舎に満ちる静寂のなかに吸い込まれていくような感じを覚えた。まるで誰かの孤独な夢のなかにいるような、はっきりと明確に感じ取ることもできないけれど、どこともなく、しかし紛れもない寂寥と哀愁が校舎じゅうに満ちていた。追慕してやまないけれど、もう二度と届くことのない、きっとそれは郷愁、というのだろう。――ここは彼の記憶をもとに創造された世界で、そしてすなわち、ここはきっと彼自身の思い出の世界なのだった。
あてどなく校舎内を歩き回っているうちに、僕はだんだんと記憶がよみがえってくるのを感じた。精神や記憶の構造や、それらが卵の殻をはがすようにもとの自分へと戻っていき、反対に僕のものではなかった記憶が徐々に霞がかっていくように薄れていく。一瞬感じためまいが収まったのちに、右手を握ったり開いたりしてみると、多少のラグはあるものの、疑似体はほとんど生身と違和感なく動かせ、触覚も問題なくあるようだった。ヘッドホンはどこにもなく、柏木先生との通信は途絶えているけれど、それでも僕はたぶん無事に人格だけのデータとなって、彼のいる世界に訪れることができたのだろう……。
どれほど歩いたのかわからないけれど、僕はそれから下駄箱の立ち並ぶ昇降口にたどり着いた。いつの間にかもう日が暮れていて、雨が降っていながらもわずかに明るかった空は最後の光を失って、昇降口は足元もおぼつかないほど薄闇に沈み込んでいる。うっすらと見える輪郭を頼りに僕は上履きのまま外に出て、それから雨もいつしか止んでいたことに気が付いた。
生ぬるい夜風が僕の髪の毛のあいだを通り抜けていった。頭上を振り仰ぐと、夜空は分厚く濃灰色の雲に覆われていた。校庭を横切って、両脇に桜の木が植えられた並木道を抜け、それほど遠くないところに石造りの校門があり、ふと後ろを振り返ると、あかりのない校舎が黒々と夜空にそびえていた。
校門からまっすぐ延びる道は左右を林に挟まれた下り坂だった。道の脇には等間隔に古びた街灯が並んで、舗装された道路を濡れ色に照らしだし、周囲には湿った草の匂いが立ち込めて、夜の静けさの中に涼やかな虫の声が染み入っていく。
水路に掛けられた小さな橋を渡ると、林はそこで途切れていた。田んぼや畑が広がる道の先の信号を渡り、それからしばらく歩いた先に静まり返った住宅街が見えてくる。
街灯の光の下で、宵闇に包まれた住宅街を背景に、生け垣のあじさいの花が鮮やかに浮かび上がっていた。周囲の家々にあかりはなく、街灯の光だけが煌々と古びた町並みを照らしている。
さきほど試したけれども、どんなジェスチャーをしても、柏木先生の説明にあった、疑似体の機能を呼び出す情報コンソールを開くことができなかった。柏木先生の助力は結局、僕の予想した通り、彼の意図に阻まれて僕に届くことはなかったのだった。ふいに背後になにか薄ら寒さを覚えて、僕は心持ち足早に住宅街を通り抜けていく。誰もいない町に、僕はかすかに心細さを感じていたのかもしれない。
しばらく歩いたすえに、僕はやがて一軒の屋敷の前にたどり着いた。屋敷はそれほど大きくなく、町のはずれの、ひっそりとした林にほど近いところにたたずんでいた。門扉に提げられた表札には『須賀』とあって、――そのとき、僕は背後に人の気配を感じて振り返った。
「飯島君だね」
9
「食べるかい?」
そういって彼が差し出した容器を受け取ると、結露の感触とともに指先にひんやりした冷気が絡み付いた。いちごしぐれ、と銘打たれた蓋を無造作にはがして彼は僕の隣に腰を下ろし、片手に持った木製の平らな匙を桃色のかき氷の表面に突き立てる。
「よくきてくれたね。歓迎するよ」彼はそれからかき氷を口に含み、片方の眉を吊り上げた。「……けれどね、飯島君。いまさら教師面ができるとは思っていないけれど、きみが脳を機械化してまでこの世界に訪ねてくる選択をしたことは、僕としてはあまり賢明な判断だとはいえない」
「……ええ」
僕は彼に倣って受け取った容器の蓋をはがし、かき氷の中心にある円形のアイスクリームを匙で掬った。わずかに桃色に染まったアイスクリームは、匙で掬ってからすぐにじんわりと溶けだして、口に含むと、いちごの香料の人工的な香りとともにほのかな甘みが舌の上に広がった。
まばらに草木の繁る中庭に面した縁側で、彼と僕は並んで腰を下ろしてかき氷に匙を入れていた。彼はいま、現実での大人の姿ではなく、高校生の僕と同じぐらい、十八歳の頃の彼自身の姿を模倣した疑似体をまとっていた。ヴァーチャルチャットルームで用いていた彼のアバターとは比較にならないほど精細な姿だけれど、そのアバターのモデルは、たぶんいま目の前にいる、おそらく高校三年生時点での彼の容姿なのだと、僕はその時ぼんやりとそう思った。
「わかります。……普通の補助現実でのシミュレーションでもこの町にこれたということでしょう」
そうだ、彼は確かに以前そうやってアクセスした柏木さんを追い返しはしたけれど、それは単に柏木さんが理攻めで彼をもとの現実の世界に引きずり出そうとしたからだった。彼は柏木さんの理屈では説明のつかない理由でこの世界に閉じこもっており、僕は柏木さんがしたように彼の現実の世界への蘇生を目的として来たのではなく、彼がなにに焦がれて自らの命を絶ったのかを知るために、そしてだからこそ僕は生身の生を捨ててまで彼の町に訪れたのだ。
「ああ」彼は短くいって、それからいつものチャットルームでの彼のように、僕を自分と対等なものとして認めた視線で僕を見る。
「僕ははじめからこの町への君の来訪は拒まないつもりでいた。……君の性格をかんがみるに、おそらく君は僕の死の理由についてどうしても知りたいと思うはずだったから」
彼のいうとおりだった。けれど、実のところ僕は、単に彼が自害したその理由を知りたいわけではない。下賤な動機であることは自覚の上なのだけれど、僕自身、人間の生きる目的というものにある意味真っ向から反抗する自殺という行為、それを行う人間へ純粋な興味があった。……いや、興味といういい回しはふさわしくなくて、彼らがなにを見てなにを思って、どのような思い出に浸り込んで自殺という手段に誘われるのか。
すなわち、僕は――人間は自らの創られた目的を知ることはできない、一生のうちで、自らの異常性を自覚することはない――僕はそのときになってようやく気が付いた。彼の死以来僕の胸のうちにわだかまっていたもやもやとした感情、僕は、僕自身がすでに、自分がおおよそ一人の人間として正常に生きているのかどうかの確証を失っていたのだ。
「でも――。でも、僕はこの期に及んで自分のことしか考えていないような人間ですよ」
だから、長いこと思いめぐらせたのちに、彼のその言葉に、僕はただそれだけぽつりと言葉を返す。彼はそれを聞きながら手元のいちごしぐれを見つめ、しばらくそのままの姿勢で黙りこんだ後、「……そうかもしれないな」無表情にそう呟いてかき氷を口に含んだ。
中央のアイスを食べきると、僕はそれからドーナッツ状になったかき氷の部分に匙を付ける。いちごしぐれは僕が住む東京のどの店でも見たことがない氷菓だったけれど、僕は一口食べてから、このかき氷菓子は、静寂と落ち着いた空気が包むこの町にこそそぐうような気がした……。
「……僕が高校三年生のときに、僕と同じ学年の生徒のひとりに、片桐菖蒲という女の子がいた」
アイスを食べ終わって、彼はそれから静かに口を開く。
木々をゆるくざわめかせていた風もいつしか知らぬ間に止んで、そのとき僕らの周囲は、周囲のすべてが彼の独白に聞き入るように、しんとした静寂に包みこまれていた。僕は組んだ手の親指をじっと注視しながら、ただ黙って彼の言葉に耳を傾ける。
当時学年に二つしかなかったクラスのうち、僕は一組で彼女は二組、つまりお互いに別々のクラスだったのだが、僕ら二人は部活動で一緒だった。小説を創作して発表する、いわゆる文芸部、という部活だったのだけれど、僕と片桐さんは、その文芸部の最後の部員だったんだ。
春、つまり新入生が入学する四月と、文化祭の開かれる秋、それから年の終わりごろ、その合わせて三度だったかな、文芸部では、定期的に部員の書いた小説を載せた部誌を発行していた。先輩たちが最後に携わったのが四月の片栗、それから結局新入生が入部することなくいつしか夏を迎え、そのころには僕らは文化祭に向けて、秋の発行誌、紫陽花の制作を始めていたんだ。
10
片桐菖蒲が失踪した。僕が報せを受けたのは、その日の晩のことだった。
日が落ちてからもうずいぶんと経つ頃になって、明かりのない家のなかは真っ暗だった。
唐突に、居間に据え置かれた電話の音がけたたましく鳴り始めて、玄関先に倒れて眠り込んでいた僕は、静寂を裂くように響くその音にはっと目を覚ました。
硬い床に横たわっていたせいか、体の節々がひどく痛む。僕はのろのろと重い体を引きずって電話の前に立ち、それから受話器を手に取った。
「……はい、須賀です」
僕の返答に応じるものはなく、僕の言葉は投げかけられたまま暗闇の中に反響することなく染み込んでいく。受話器からはさざ波のような砂嵐が漏れるばかり。