食パン
学校。休み時間に教科書とにらめっこをしていたら、右の席から声が聞こえた。気にしたら駄目だと、頭の片隅に浮かんだ気もしたが、千穂はそちらを見てしまった。
隣の席で真香が唸り声をあげている。腕を組み、頭を揺らして。それは大袈裟な挙動に窺えた。揺らした頭がこちらを向いて、視線が合う。
「千穂」
「何」
「ちょっと、分からない事があるんだけど」
珍しく、真面目に予習しているのかと思ったら。
「食パンってさ、なんで食パンって言うんだろう?」
と言った。
千穂は嘆息した。
「食べるからでしょ」
「食べないパンってあるの?」
「ないわよ。だって、パンだもの」
「じゃあただのパンでいいじゃない。食、ってなんだろう……」
まことにどうでもよろしい。
「真香、次の数学、小テストなんだけど」
「んん?」
「んん、じゃなくて、小テスト。予習しなくていいの?」
「いいのいいの。諦めてるからぁ」
「そう。私は諦めないわ」
「それより食パンよッ!」
違う。
「永里子は苺ジャムが好きです!」
不意に、千穂の前の席の女生徒……永里子が振り向いて参戦してきた。
「苺ジャム!いいね。でもやっぱり私はピーナッツバターかなぁ」
「真香ちゃんはピーナッツバター派ですか!」
「まぁどちらかというとだけど」
「世間一般的にはどっちが人気なんです?」
「なんかそういうの載ってるサイトないのかな」
「永里子調べるです!」
「脱線してるけど?」
千穂の声は二人には届かない。
慣れた手つきでケータイをいじる永里子。真香は彼女にひっついて、狭い画面を食い入るように覗き込んだ。
まあいい。
千穂は思った。二人で遊んでくれるなら、こちらはテストの追い込みに集中出来る。
「マーガリン!」
「1位マーガリン!」
「分かるです!」
「何これ!マイナーランキングって!」
「納豆キムチトースト!」
「ありえん!」
事もなかった。
「……あなた達、どっか別の場所でやって頂けないかしら?」
「千穂ちょっと見てよ!食パンの都道府県別の消費量ランキング1位って兵庫県なんだって!1世帯1週間辺り9.38枚食べるんだって!」
「聞いて人の話」
「って事は1世帯1日辺り1.34枚ですか!」
永里子計算早い。
「4人家族なら1日辺り1人0.3275枚!朝昼晩の1食辺り0.109166666666666………枚ですね!」
「いや、朝昼晩3食、食パン食べ続ける家族はいないでしょ」
「ツッコミ所そこ?」
千穂は半眼で永里子に尋ねた。
「永里子、あなた暗算得意なの?」
「んー、そうでもないですよ?こんなの簡単なのです。ちょちょいちょいですよ?」
なんかむかつく。
いや。
違う。
勉強できねえ。
「あんた達ねえ……」
「よおー、お前らまぁた千穂の邪魔してんのかぁ?」
今度は背後から声。ちょっとヤンキーっぽいクラスメイトの男子、直也がいた。
ポケットに手を突っ込んで、呆れたような調子で言う。
「いい加減にしろよ。ベンキョーしてる奴の横でぎゃーぎゃーしてたら迷惑だろうよ。人に迷惑かけるんじゃありませんって、親御さんに教わってねーのか」
ヤンキーっぽい頭をして言う事は至極まともだ。なんていい人だろう。千穂には彼が天使に見えた。
「それに納豆キムチトーストがありえねえとはどういうこった?うめえだろうが!?おおん!?」
堕天した。
「うめえですか!?」
「1週間に1斤は当然に食すぜ!」
「キモっ」
「あん?あんだコラ真香!どうせ食った事もねえのに文句垂れてんだろうが!そういうのはいっぺん食ってからキモいでもなんでも言いやがれ!」
「いや、あたしそもそもキムチ駄目だし」
「永里子はちょっと食ってみたくなったですよ」
「あー、永里子、裏切り者ぉ」
「やっぱイイトコのお嬢さんは話が分かるってこったな。なぁ、千穂?」
「……勉強しろよ」
「ぬん?」
「ぬん?じゃなくて、次の数学、小テストなんだけど」
「ああ……」
直也は少し遠い目をした。
「いいんだよ……俺、数学棄ててっから……」
「あんた地理の時も同じ事言ってたじゃない……一体何を棄ててないのよ」
「うーん……人生?」
「棄ててるわよ。真面目に勉強してない時点で半分棄ててるわよ、人生も」
「うーんじゃあ……ありのまま俺自身を、かな?」
「なんか格好いいです!」
「格好悪いわよ……」
じゃなくて。
「いいから三人共どっか行ってよ!私の事はほっといて!」
「ほっとけるかよ!」
「なんか格好いいです!」
「死ねよ!」
「いいから食パンの食がなんなのか一緒に考えてよお!」
「戻るの!?」
すがりついてきた真香の腕を払って、千穂は叫んだ。
「それこそケータイで調べてみればいいでしょ!」
「…………ああ」
真香は少しフリーズした。
「その発想ッ!」
と、千穂を指差し、永里子のケータイで検索をはじめる。今度は直也もその狭い画面に割り込んだ。
「……」
やっと静かになると思い、千穂は教科書に視線を戻した。
「……木炭を使うデッサンの場合、線を修正する時に消しゴムを使うと硬くて用紙を傷めるため、 柔らかく油分の少ない食パンが用いられている」
「へえ」
「昔は消しゴムの代わりに使うものを消しパン、対して食用にするものを食パンと呼んで、それが語源と考えられているだそうですよ」
「目から鱗ね」
「本当に消えるですか??」
「さあ。使った事ねえし、かといって試しに使ってみる気もあんまりしねえな。だって食パンは食うものだからよ。食いもので遊んだら、カーチャンに怒られるしよ」
「最初に食パンを消しゴム代わりに使ってみた人も怒られたでしょうね」
「そう考えると最初に消しゴムトライした奴ぁすげえな。すげえ勇気だよ。フグの毒の場所探しながら食った人並にすげえよ」
「この世界は先人達の多くの犠牲の上に成り立っているのね……」
いい話風に締めようとしているようだが、締まらない。
流石に千穂も我慢の限界だった。思い切り怒鳴ろうと口を開こうとした時。
チャイムが休憩時間の終わりを告げた。
「……」
分かってはいたが、小テストはあまりいい結果ではなかった。
何よりイラッとしたのは、永里子がしれっと満点をとった事だった。