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小路

作者: 楠瑞稀

これは作者のHP『飛空図書館』に掲載されている作品と同一のものです。

 男は小路を見つけた。

 それはいつもの帰り道。十字路の向こう、進行方向とは差し向かいのビルとビルの間にひっそりとあった。

 彼は真面目な男だった。毎朝決まった時間に目覚め、決まった道を歩き、決まった列車に揺られ会社へ向かう。

 毎日が同じ日々の繰り返し。さして面白みのない平凡な人生ではあったが、縁あって一緒になった妻と子を養うために疑問も抱かず働いていた。

 その道を見かけたのは偶然だった。

 普段は急ぎ足で通り過ぎる交差点。靴紐を結ぶ間に変わった信号を待っている時、ふと廻らせた視線の先にその小路はあった。

 これまで何年もこの道を通っていたのにも関わらず、その小路の存在に気がついたのはこれが初めてだった。それが意外に思えたので男はその小路をなんとはなしに観察した。

 男はあまり目が良くなかったが、その小路の向こうに道路と建物があるのは分かった。

 建物はどこか古風であり、道には人通りはない。それは遠い異国の街並みのようで、男は自分の毎日歩く道のすぐ傍らにそんな場所があることをひどく驚いた。

 やがて信号が変わり男は早足で会社に向かった。しかし不思議と、その小路のことはいつまでも頭から離れなかった。


 男はそれ以来、必ずその小路を気に掛けるようになった。通り過ぎるときにはちらりと視線を投げかけ、信号に足を止めればまじまじと眺める。いつもの道を外れ、その小路に足を踏み入れることはけしてしない。しかし小路を見ることだけは毎日欠かすことはなかった。

 小路はいつもひっそりとそこにあった。

 晴れた日には景色に沈み込むように、天気の悪い日はほのかに光灯るように。

 毎日毎日その小路を眺めているうちに、やがて男は小路の向こうに憧れを抱くようになっていった。

 男の生活は変わらない。

 毎日決まった時間に目覚め、決まった道を歩き、決まった列車に揺られ、会社へ向かう。決まった仕事をこなし、夜になれば急ぎ足で妻子の待つ家へ帰る。相変わらず小路は眺めるだけであり、自ら足を向けることは一度としてない。しかし気がつけばいつも、頭のどこかであの小路のことを考えていた。

 あの小路の先はどのような場所なのだろうか。どんな人々が暮らしているのだろうか。小路の向こうに人がいるのは見たことがないので、きっと本当に静かでひっそりとした通りなのだろう。きっとあの古風な建物に相応しい異国情緒溢れる街並みが広がっているに違いない。

 実際に見ることができるのは薄汚れたビルとビルの隙間から覗く僅かな部分だけではあったが、そのことがさらに男の想像をかきたてた。いや、単調でつまらぬ男の毎日の中で、その空想だけが極彩色を持って存在していた。

 あの小路の向こう。

 そこに存在するだろう自分の知らない街並み。自分の知らない住人たち。

 男の頭の中は、その想像でいっぱいだった。



 数年後、世は不況の時代を迎えていた。のどかで平和だった町にも当然のように不景気の波が押し寄せてくる。

 どの業界もまるで極寒の冬に構えるように、出費を抑え人員を整理し不況の波を乗り越えようと懸命だった。

 そんな中、男は会社からクビを言い渡された。

 長らく真面目に働いていた男ではあったが、ここ近年仕事をさぼる事が多くなっていた。気がつけば物思いにふけっており作業の能率も落ちている。どこも苦しい中、生きのびるためには仕事をしない役立たずを切り捨てなければやっていけなかった。

 妻も子供も、何を言っても上の空の男にとっくに愛想をつかして出ていっており、男は職も家族もなくひとり世間に放り出されることになった。

 しかしそんな身の上になって、男はいっそ晴れ晴れとした気持ちだった。何もかも失ってしまえば、仕事も家庭も自分を縛る枷だったとしか思えなかった。


 ああ、なんて自由なのだろう。


 男は嬉しくなった。

 ようやくあの小路の向こうに行くことができる。もう決まった毎日を繰り返す必要はないのだ。

 会社をクビになった帰り道。男は初めていつもの道を外れ、小路のある歩道へ向かった。期待に胸が高鳴る。さぁ、夢にまで見たあの場所だ。



 しかし男は小路の前まで来て凍りついた。

 息を呑み、言葉もなくただ呆然と立ち尽くす。

 どれだけそこにいただろう。やがて一人の初老の男が傍らのビルから出てきて男に目を留めた。そして意気揚々と声を掛ける。

「その小路よくできているだろう。そいつはな、ビルの持ち主が画家に頼んで描かせただまし絵なのさ」

 そう言って初老の男はにやりと笑う。

 しかしその言葉が男の耳に届くことはなかった。

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