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滅びの旗を掲げてゆけ  作者: あわき尊継


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8/9

 道を阻むのは金髪の青年フィオメル=ロウ=バルンハルト。

 突き進むは若き護国卿レミア=シュタットレイ。

 両者の激突はまさしく天地を揺るがすものとなった。剣戟の余波に木々は震え、荒れ狂う暴風の中心で幾度となく鼓動する。レミアが剣を振るう度、極寒の冷気が相手を襲う。フィオメルはそれを全身から発する青い閃光を以って弾き飛ばし、女神の力を寄せ付けない。

 彼もまた、あの暗殺者と同じく、西方で鬼人と呼ばれた人間だった。その膂力は常人を遥かに超え、放つ光は悉くを突き放す。力に制限の掛かる異国にあって尚、彼は護国卿の権能に対抗してみせた。おそらく、力の総量ではレミアにかなりの分がある。だが経験の差が圧倒的だった。どれほどの分析をしていたのだろうか、レミアが放とうとする力の性質を予備動作だけで見切り、放たれた瞬間には対処されている。

 これが、西方の国々を纏め上げ、巨大な海洋同盟を作り上げた人間の力。

 一国にさえ留まらず、数えきれない人々を背負い、支えた男が、今目の前で剣を握っている。

 途方も無い壁に対し、レミアは頭の中で紙面を広げ、次々と手を打っていく。これはどうだ、こういうのはどうだ、ならばこれと合わせて。繰り出す冬の脅威の顕現を、フィオメルは臆すること無く打ち破ってくる。

 雪崩を割って突き進み、吹雪を切り裂き、氷の礫を吹き飛ばす。極寒の大気は青い炎に焼かれて消えた。総量を上げて押しつぶそうとすると、素早く位置を変え攻撃範囲から離脱する。折角間合いに捉えて剣を振るっても、まるで腕が縮んだかのように彼の元には届かない。

 返す刃を吹雪で阻み、防ぐ刃で迎え撃った。

 鍔迫り合う二人の間を、青い光が弾けては消えていく。

「人は生まれながらに善であるのか、悪であるのか。どう思う?」

「性善説と性悪説か」

「こういう議論を好む輩に限って、その二つがそもそも人々の教化の為に生まれた思想だということを知らない。善であるのだから、他者の誘惑する悪徳に溺れはいけない。悪であるのだから、己自身に立ち向かわなければならない。結局、どちらも自覚を促すための考えで、人の根源など語ってはない」

「なら、それを知るアナタはどう思っているんだ」

 心臓を鷲掴みにされるような眼に身体が強張る。

 怒りも悲しみもなく、超然とした態度で彼は言った。

「人は生まれながらにして悪ではないし、生まれながらに善でもない。ただ無垢であるだけだ。穢れも持たず、神聖さも持たない赤子を染め上げるのは、人の世に他ならない。人は高度に思考する獣であるが故に、属した集団の影響を受けざるを得ない。世の中に善と悪があるからこそ、どちらともに染まっていく。どちらともに、だ。人は単色で居られるほど単純な生き物でもない。そうだと信じたがる心が陰を生み、見えなくなってしまうだけ」

 世界が善に染まり切ることがないように、悪に染まり切ることもない。どちらも残る。どれだけ人の世を正しても、乱しても、それはどちらに傾くかでしかない。

「なら王はどうすればいい! 人を導く人間の行動に意味はないのか!」

「言った筈だ。指導者が正義を求めるのではなく、指導者が正義を示すのだ。正しさは常に相対的であり続ける。戦場での勝利は栄光となるが、人々が相手の苦しみを思いやった時、それは悲劇に姿を変える。一人の人間が国を動かすことを良しとしなくなった時、王でさえ悪となる。権力を分散し、人々に権利を与えても、それが国を乱せば民主導の政治さえ悪となりうる。戦いの果てに残るのが強き者ではなく、生き残る力を持った者であるように、いずれ政治は強者を呑み込み、より責任を分散させ、一太刀では決して滅びぬものに姿を変えていく」

 残ったモノがより優れている訳でもなく、正しい訳でもない。

 善悪を孕むそれらを、高らかに正義であると指導者が謳っているだけだ。どんなものでも正義になり得る。どんなものでも悪になり得る。

「……循環させろ、と。そういうことなのか」

 万物は腐敗する。かつて祖父と共に理想を掲げて戦ったボルドネスは、今はもう目的地さえ見えていないような気がする。王の独断が世を乱すと言って、人々は議会制を取り込んだ。より良くしようと、誰もが最初は思っていた筈だ。だが議会は瞬く間に対立し、進まない政治に地方領主たちは中央から距離を取った。

「では王は? 王はもうこの国に不要なのか?」

「この国には女神と王が必要だ。だがそれは政治の在り方としての王政と同義ではない」

「だから私を阻むのか。王になろうとする私を!」

「自覚と覚悟。能力と人材。その他全てを揃えても尚、指導者は完璧には至れない。だから問いかける。時代がお前を求めるのか、あの男を求めるのか。新たな循環を支配する者が誰であるかを。名乗りを上げたのならば証明してみせろ。お前に王たる資格があるのかをっ!」

 閃光が視界を多い、身が大きく突き放される。

 背後に大量の雪を積んで受け止めさせると、レミアは素早くそれらを掻き消し、大地に立つ。

「証明してみせましょう。私がこの国の王であると」

「……ボルドネス=ヒューイック!」

 錫杖を手にゆらゆらと歩いてくる男に、レミアは脅威を覚えて身構えた。

 以前会った時とはまるで違う。幽鬼の如き容貌に背筋が寒くなる。

「レミア=シュタットレイ……この雌狐めがっ! 貴様がこの国に齎される筈だった救いを殺したのだ! 王は……王なきこの国に未来はない。だが貴様のような悪鬼にこの国を渡してなるものか! そうでなければ私は……! なんの為に彼女を殺したのか!」

「私は暗殺などしていない。この戦いはアナタの誤解から始まっている。私は王となり、このアストリアを護る。ようやく決心がついたのだ。どうか兵を引いてくれ、ボルドネス卿!」

「おお、我が女神よ……! 汝の聖座にこの罪人を贈り奉る! その血を以って我が身に王位を与え給え!」

 錯乱しているのか、ボルドネスは高らかに神への祈りを告げると、天高く錫杖を掲げた。

「四宝の一つか……御柱としての力を持たぬ者に、その錫杖は扱えない」

 油断ではなかった。

 当然の事としてレミアは告げて、左将軍の持つ権能に備えていた。

 だから、彼の元から溢れた膨大な力の奔流を避けられる準備が無かった。呑み込まれる。そう思った時には既に遅く、襲い来る脅威に身を震わせて、

「いよっと」

 突如として現れた黒髪の男に抱えられ、その奔流から間一髪で脱した。

「久しぶりだなぁ、護国卿」

「貴様はっ!?」

「まーしょうがないわよねぇ。目の前で大事な妹分が殺されるのは見てらんないし」

 危機の去った雪原に降ろされ、耐え切れず座り込んでしまったレミアは、呆然とした表情で二人を見る。一人はかつてレミアを襲った暗殺者。もう一人はアストリアが頂く冬の女神セレアス。

「調子はどうだ、リリィ」

「かなり解除出来てきたけど、普段の一割にも満たないわね」

「まあこれだけ盛り上がってるのに一瞬でケリがつくのは勿体ねえしな」

「ど、どういうことなんだ!? セレアス様っ、なぜこの男と? いや、そもそも今まで何処に!?」

 話すと長くなるんだが、と男は面倒そうに言う。

「私を連れ出したのはローゼリア王よ。そこの男、ジンと共謀してね」

「ローゼリアが……何故そんなことを。そうなると今回の動きは――」

「考え事はそこまで。今は目の前のことを片付けてからよ」

 セレアスに手を引かれて起き上がったレミアは、未だ行く手を阻む二人を見る。一人は西方からの来訪者、フィオメル。もう一人は今しがた王の権能さえ見せたボルドネス。彼の持つ錫杖に改めて恐怖を覚える。

 四宝の中では最も単純な機能として『力の増幅』を持つアレは、左将軍の権能を護国卿を上回るものとしている。

「ボルドネス卿だけでも厄介なのに……」

「あいつは俺が引き受けよう」

 黒髪の男、ジンが直刀を抜いて顎で示すと、フィオメルはボルドネスに視線を向けた。

「愚かな企みはせんことだ。速やかにそこの男を抹殺しろ」

 無言のまま、彼はジンと共に離れていく。程無くして聞こえてきた戦いの震えは、先ほどまでレミアが相手にしていたものとは決定的に違った。手加減されていたのか。それが今は口惜しかった。

「戦う前に聞いておきたいんだけど。アンタ、王の力を得るために、死んだ人間の身体を使っているわね?」

 セレアスの告げた内容は、レミアにとって想像を絶する話だった。

「死体……? まさか、殺されたとかいう、長老派の擁立していた……」

「その通りだ。まあ、女神ならばこのくらいの手段は知っていたか」

「儀式は既に行われている。その肉体が生きているか死んでいるかなんて、神様の力は関係ない。昔、既に死んでいた冬の女神が最後の瞬間に身体を凍結させて、その身を力の通り道としたことがある。それと同じ……死んだ王の肉体を通り道として、アンタは意志無き王の制御を握った」

 それで全ての説明がつく。王の血統もなく権能を扱えた理由も、自ら王座に着くと言った根拠も。だがそれは、

「死んだ王の肉体を……弔うことなく道具とし、自らの権勢に利用しようとしたのか、ボルドネス!」

 レミアの怒りを、ボルドネスは狂った笑みで受け止めるだけだ。

「でも今、アイツに冬の女神の協力はない。死体の鮮度を保つために力を使い続けるなんて私はご免よ。第一、それじゃあ完全な力は扱えない。御柱の役割を間接的に操り続けるなんて無理。何よりも、アイツの力がどんどん弱まってることから考えても、時間切れは目に見えている。イザリオに援軍を頼んだは失敗だったわね、ボルドネス」

「そう、か……今この場にはイザリオの夏が部分的に顕現している。それに暗殺の話があってから既に――」

「だから! 今ここで貴様を屈服させ、その血統を手に入れる! なんとなればその身を孕ませ我が子を成せば、完全なる王の血統が生まれるじゃないか!」

 静かに、レミアは切っ先を向けた。

 戦いは、政治は、歴史は、個人の感情で動くもの。いずれ未来の人間が、この行為を御大層な理由で飾り立てるだろう。

 レミアの中には、まだボルドネスに対する親愛があった。幼い頃、祖父と共にこの国を支えていたのを知っている。神殿から呼び戻され、護国卿の位に就いた時には何度も相談に乗ってもらった。流行病で父を早くに無くし、当時は護国卿だった祖父とはほとんど話した事がない。だから彼女にとって、彼は良き相談相手であり、父であり、祖父であった。

 王の遺体を冒涜する行為も許せない。国を売り渡したこともそう。

 だが、レミアにとって最も許せない所に彼は踏み込んだ。

 護国卿ではなく、

 王を目指す者でもなく、

 一人の女のとして、


「今の私は恋する乙女だ。貴様如きに髪の一本、血の一滴すら与えるものはない――!」


 それが全ての原動力だった。

 敵うはずもなかった天軍を押し留め、今や王位を目指して戦っている。

 民に対して不誠実なのだろう。だがいいじゃないか。ずっと彼らを思って苦しんでいた自分が恋をした。少しの我侭くらい許して欲しい。この想いは、皆の幸福にも繋がっているのだから。


   ※  ※  ※


 戦いの中心はレミアとボルドネス。

 力の大半を失っているセレアスに両者を圧倒出来る力は無かったが、この中で最も扱いに長けているのは彼女だった。

「恋!? 恋だと? そんなことで時代を動かすつもりか!」

 ボルドネスの放つ大粒の雹に、レミアは雪の壁を作って防御する。足りない、そう感じたセレアスは脇から力に干渉し、雪壁に冷水を叩きつけた。それだけでいい。両者のぶつかり合いで尋常ならざる極寒の地と化した雪山なら、瞬く間に雪を凍りづけにし、人の拳ほどもある雹を弾く壁となる。

「愚か者めが! 振り回される民にどう詫びる!? 死んでいった命に責任を負えるのか!」

「その全てが正しかったと、私が皆に指し示す!」

「祖父のような独裁者になるつもりか!」

「私は私の思うままに生きるだけだ! 民も、女神も、キサマでさえそうだろう!」

 怒涛の雪崩を受け止めて、氷漬けの雪壁が悲鳴を上げる。

 壁を何重にも張り巡らせ、セレアスは笑った。思うままに生きる。自分もそうしていた筈だった。不要と捨てられた国へ、女神として戻ると決めたのは紛れも無くセレアス自身だ。辛い思い出ばかりこびりついているが、まだこの国が豊かだった時代、幾つもの幸せがあった。優しい人々を見た。叶わなかった恋もあった。恨んで、憎んで、穢してしまおうとしても色褪せてくれなくて、縋るように戻ってきた。

 足りなかったのは、己自身だ。

 諦めていたのは、己の力無さだ。

 どれだけ彼女が祈ろうと、この国は一向に良くなってくれなくて、もっといい環境をと修練に励んでも思うようにはならなかった。王が居ないからなんて、下らない言い訳だ。彼女は女神なのだ。あまねく大地を守護する冬の女神。それがほとんどの場合、忌み嫌われるものであることも最初から分かっていた。

 だから、彼女は誘拐されることを選んだ。

 自分のような未熟者ではなく、もっと優れた者が女神になれば、何かが変わるんじゃないかと期待した。いや、決して綺麗な理由だけではない。ジンに対してさんざん愚痴っていたこともまた、彼女にとっての真実だ。

 苦しくて、辛くて、もう嫌だと叫びたくなって、逃げようとした。

「でも結局、私は自分の手でこの国を救いたかった」

 他の誰かなら、もっと上手くやれたのだろうか。

 そうだと思える理性があり、自分以外にあり得ないと叫ぶ心がある。

 雪壁を突き崩した、巨大な氷柱の衝撃で飛ばされたレミアを受け止め、セレアスは笑う。冬の女神でも、太陽みたいに笑えてるのかな。そんなことを思う。ここまで戦い続けだったレミアの顔色は悪い。連続しての膨大な力の行使に慣れていないから、凄まじい勢いで体力が削られているのかもしれない。徐々に力の戻りつつあるセレアスより寒さも堪える筈だった。

「……そろそろ終わりにしようか、小娘ども」

 ボルドネスの破滅は目前だ。だが、ここでレミアが力を使いきっては玉座に届かない。

 最後の一押しは、

「私が相手になってあげるわ」

「ふんっ、横から茶々を入れるしか出来なかった女が。一対一で王に敵うと?」

「舐めないでよね、冬の女神を」

 離した傍から崩れ落ちるレミアを背に、セレアスは堂々たる歩みで雪上を行く。

 力の総量ではまだボルドネスに大きく及ばない。彼を一気に突き崩すには、尋常な質では及ばない。極限まで研ぎ澄まされた冬の顕現が必要だ。

 やれる。

 絶対に勝つ。

「私は一度死に、それでも再びこの国を護ることを選んだ。王にして女神。この私の気位の高さを、甘く見てもらっては困るわね」

 大気が凍結する。

 急激な冷却で大地が悲鳴を上げ、木々が砕けて崩れ落ちる。物質的な攻撃ではなく、極限まで達した冷気の広がりは、風を起こした程度では防ぎきれない。

 見せつけるように嘲笑う。

「絶対零度の抱擁。これが私の全力よ」

 ボルドネスは錫杖を振り上げたまま凍っていた。風が吹き、その身諸共砕け散る。呆気無い最後に感慨を抱いている余裕もない。セレアスはレミアの身を抱え上げ、彼女の背中を押す。

「ほら、助けてあげたわよ。行きなさい」

 返事はなく、言われるままレミアは山道を登っていった。

 追い掛ける力はもう残っていない。彼女も、セレアスの様子を気にしている余裕は無かったのだろう。雪の上に横たわりながら、心地良い気持ちで背中を見送る。

「あーぁ……これが男の背中なら、まさに私はいい女、なのにねぇ…………」

 ふざけて言って、頬を掻こうと手を寄せた瞬間、セレアスは凍り付いた。

 掌に付着する夥しい量の血。彼女のものではない。傷らしい傷はなく、単純に力の使い過ぎで倒れているだけだ。

 なら、レミア以外にいない。

 いつ? 合流した時、金髪の男の剣に血は付いていなかった。ならもっと前。例えば雪崩を防いでいた時、隙間を抜けた木の枝なんかが突き刺さっていれば。

 今の彼女なら隠しただろう。怪我を押してでも進まなければならない理由があるのだから。

 彼女の足跡を視線で辿る。かなり長い間隔だったが、血痕が続いていた。なぜ気付かなかった。あんなにも近くに居たのに。血はもうかなり出てしまっているのか、それともそれほど出血していないのかは分からない。

 だがこんな冷気の中で負傷をそのままにしていては――


   ※  ※  ※


 腹部から広がる寒気が治まらない。

 最初の頃にあった鈍痛はもうなく、気持ちの悪い違和感だけが残っている。右腕は痺れと寒気で満足に動かない。放っておけば壊死してしまうかもしれない。あれほどの人を死に駆り立てておきながら、王になるなどと宣言していながら、全身に染みこんでいく死の気配がどうしようもなく怖かった。

 今自分がどこを歩いているのか、レミアはもう理解できていない。

 味方が木々に結びつけた印を追って、屍の道を進んでいく。

「――」

 ふと、足が止まる。

 通り過ぎた視界の端に動くものがあったからだ。耳をすませば苦しげな息遣いが聞こえる。例えそれが誰であれ、今は一刻も早く儀式場へ向かわなければならない。王となって国を支えることと、ここで誰かの死に間際に関わることのどちらが大切か。

 けれどもレミアは足を戻し、彼の隣に膝をついた。

「喋れるか……」

 自分の声に覇気がないことを、レミアは気付かない。

「……その、声は…………王、を、騙る……っ」

 眼が見えていないのか、瞳は焦点が合わず、何かをしようとしたらしい右腕は肘から先が失せていた。言葉から察するに、天軍の兵だろう。

 彼に何を言えばいい。敵対していた者の間際に、何を伝えればいいのか。

 頭の中を無数の言葉が駆け巡る。ほとんどは形にならないまま溶けて消え、雑音のように思考をかき乱す。

 きっと、正しい答えなどない。だから決めなければならない。示さねばならない。

 遠く、山頂から歓声が聞こえた。ハイアット卿が儀式場に至ったのかもしれない。

「聞こえるか……あの声が」

 男は何かを言おうと口を開き、しかし悔しげに歯噛みした。小さな嗚咽が漏れ出し、瞳には涙が浮かんでいる。

「アストリアは変わる。バラバラだった地方は纏まり、一つの目標へ向けて邁進するだろう。此度の戦いで現れた数々の勇者が、必ずや奉権の儀を勝ち取ってくれる。すべて――」

 そうだ。

「すべて――君たちの功績だ」

 この戦いが無ければ、これほどまでに地方との結束が加速することはなかった。溝を埋める大義名分を用意するのにどれだけの時間が掛かったか。

 レミアは男の残る左手を取り、胸元へ持っていく。

「出来るなら、君にも恩賞を与えたい。何か望みはあるか」

 焦点の合わない瞳をじっと見つめる。

 見えずとも、伝わるなにかはある筈だ。

 男は幾度も口を開き、留まり、辛そうに顔を顰めた。

 気の遠くなるような時間の後、

「……トドメを、お願い……します」

 音が消えた。

 レミアは剣を逆手に持ち、男の心臓へ向ける。

「勇者よ。君は私の誇りだ」

 突き立て、レミアは泣いた。

 涙はとうに乾いていて、一滴も流れ落ちなかったが、荒れ狂う感情は彼女の心をズタズタに切り裂いた。

 その場を立つ前に、死んだ男の袖口を切り、己の右手と剣とを縛り付けた。血に濡れた白い布切れ一枚が、今となってはどうしようもなく、重い。それでも、そうしなければ今にも剣を放り投げてしまいそうだったから。

 十度立ち上がろうとし、十度立ち上がれなかった。

 十一度目、渾身の気力を振り絞り立ち上がったレミアの背に、音が突き立てられた。続く二の矢は右腕に。縛り付けていなければ、その時点で剣を落としていただろう。

 背後には敵。彼らの一人が名を叫んだ。今殺した男の友だったのかもしれない。

「どうして……!」

 足元に矢が突き刺さる。

「私は王を殺してなどいない! 全ては誤解から始まったことだ! 話せば、言葉さえ交わせば理解し合えた筈なんだ!」

 降り注ぐ矢を吹雪で跳ね飛ばす。無意識の行動だった。煽られた数名が木に叩きつけられ、あるいは山道を転がり落ちていく。

 どこに潜んでいたのか、数は十を超える。

「もう止めろぉ……! ボルドネス=ヒューイックは死んだ! 戦う意味など!」

 鋼の音が連なり、突撃してくる。

「なぜ私の声を聞いてくれない!? 信じてくれない!?」

 いっそ武器を投げ捨てれば話が出来るかとも考えたが、縛り付けた剣は手から離れようとはしない。赤黒い血が眼に焼きついた。

 眼の奥底がジン――と痺れたように感じた。

「もう……届かないのか」

 鮮血が舞う。

 見れば彼らもボロボロだった。剣は欠け、鎧の一部は剥ぎ取られ、手足に包帯が巻かれている。レミアの放つ、もうさしたる勢いのない吹雪でさえ、彼にとっては超えることの出来ない壁だ。

 それでも止まらない。

 袂を分かった同国の者達は、敵を討つべく前進してくる。

 斬った。斬って、斬って、斬って、斬って、雪崩のような人々の憎悪に押し潰されそうになりながら、レミアは縛り付けた剣を振るう。

 視界はぼやけ、意識は引きずられるように沈んでいく。

 そして――


 ――優しい夢を見た。

 まだ内乱も起きず、人を手に掛けていなかったあの時。

 屋敷の一室でフィオメルと交わした他愛もない夢想。まだ彼への気持ちも定められず、揺るがない意志に憧れを抱いていた。

 あの時、彼は何を描いていたのだろう。

 時間を掛けて、何かを描いていた筈だ。結局見せて貰えなかったあの絵が、ずっと気になっていた。

 レミアは俯き、何かの想いを堪えていた。

 対面にはまたもや公文書の裏側に絵を描いているフィオメルが居る。

 そうだ。夢想の言葉につい涙したのに気遣って、彼は言葉を止めて優しい時間をくれた。彼の語った『もし』は心を打ったが、本当に嬉しかったのは、その僅かな時間だったのかもしれない。

 彼の眼を見る。

 真紅の瞳は強烈な印象を相手に与えるが、絵を描く今、とても柔らかい目つきをしている。インクでは上手くいかないのか、時折不機嫌そうに、困ったように眉を寄せる姿に思わず笑ってしまった。

 フィオメルは何か言いたそうにしたが、結局吐息一つでまた絵に戻った。

 もしかすると、ここが大きな分かれ目だったのかもしれない。あの時何もかもを捨てていたなら、案外彼は笑って受け入れてくれたのかもしれない。内乱が始まる、その前なら。

 言ってみようか。

 思えば、心が浮き立った。

「私は――」

 辛かった。己の能力を遥かに超える重責に、今にも心が潰れそうだった。背負う以上に、振るった権力が知らず人々を薙ぎ払っていた事に気づいた時は、恐怖で心が凍り付いた。

 名も知らぬ女が言った。

 独裁者の娘だと。祖父の強引な政策で大切な人を失ったのだと叫んでいた。女はすぐに連れて行かれたが、周囲に残っていた子どもたちがじっとこちらを見ているのに気付いた。彼らは何も言わず、ただレミアを見つめていた。女のように何かを叫んだりはしない。それでも、決して逸そうとしない瞳から、レミアは底知れない憎悪を嗅ぎ取った。

 恐ろしかった。あらゆる人が自分へ憎悪しているのだと思った。

 恨まれないよう、少しでも許してもらえるよう、必死になって人々へ尽くした。感謝の言葉は嬉しかったが、それ以上にいつ恨みを持たれるのかと怯えていた。

結局その程度。

 王になるのが嫌で、自分勝手に玉座を避けていながら、近しい民には良く見てもらいたくて善人ぶる小者。それが正体だ。

「辛いか」

 途切れた言葉をフィオメルが継いだ。

「あぁ……」

 覚悟は出来た。踏み出せば、続く足は出た。

 けれども不安は常について回った。

「……背負い切れないか」

「手放したくはない。それでも……私には重すぎる」

「そうか」

「私は、護国卿になどなりたくなかった」

「そうか」

「小さな畑を耕して、日々を過ごしていく、か。悪くない。あぁ。悪くない」

 気付けば、彼の手が頭の上に乗っていた。

 無骨な、硬い手だ。思った以上に大きな手が、不器用に撫でてくる。一瞬だけ、彼の背後に雪景色が見えた。だが、直後の笑顔に、レミアは心を奪われた。

「今まで、よく頑張った。辛くても、重くても、何度も弱音を吐きながらも、お前はここまで来た。だから」

 手が離れていく。

「他の誰でもない。お前の為に、今は俺が背負ってやる」

 言葉の終わりと同時に、吹雪が全てをかき消した。

 身体はもう動かない。声も出せない。意識は暗闇に落ちていて、最後に、遠ざかる足音を聞いた。


   ※  ※  ※


 程無くして、アストリアに新たな王が立った。

 名を、フィオメル=ロウ=バルンハルト。インバス領が遥か西方から探しだしたアストリアの王たる血統を持つ青年。彼の登極はアストリアの領主、インバス卿・ハイアット卿・グラード卿・ルノアーデ卿・ガーリア卿の承認を以って宣言され、連合四国たる西のローゼリアの王、キサラ=ローゼリアが支持を表明した。

 これに最も動揺を示したのは、中央議会長老派の要請で王都ルートゥハルトを守護していた北のイザリオ天軍。正当性を失った軍の派遣は連合内でも大きな失点となりうる。ローゼリア王が早々に支持を表明しているというのも大きかった。事態に本国の領主たちが手を打つより早く、アストリア王は奉権の儀の開始を宣言。舞台はアストリアの王都。見届け人としてローゼリア王を指名し、同道していたインバス卿が保証した。

 逃げれば軍派遣の正当性を失う。代わりに受けて立つならば、最初からその為のものだったと言い訳が出来る。イザリオ軍に否は無かった。無論、申し訳程度の派遣に国の主力をぞろぞろと引き連れている筈もなく、内乱の中、軍備を整え終えているアストリア全軍に抗し得る力は無かった。当然ながら戦いの不公平さに文句を言える立場では無い。

 アストリア王率いる天軍が王都へ向かうのに同道していた東のレイオスが王、パラドゥック=レイオスは「こんな不憫な戦い初めて見たよ」と大笑いしていたとか。

 王都にて邂逅したレイオス王とローゼリア王は、その場で一対一での奉権の儀を宣言、化け物じみた二人の戦いは三日に及び、やがてローゼリア王の勝利で決着した。アストリア王に見届け人としての実績を与える意味もあり、これによってフィオメルは連合各国から正式に承認された形となる。

 国境付近に張り付いていたパルドランは、程近い王都に四人の王が集結したという情報を得るや、即座に撤退を開始した。再侵攻を警戒しながらも安全を確保したことで、改めて王たちは四王会議の開催を宣言。開催地とされたアストリアの王都には様々な需要が集まり、月が一巡りするまでの間、寝る間も惜しんで盛大な祭りが行われた。

 人的需要にはレミア領に集まっていた難民たちが応えた。彼らは十分な報酬を得て故郷に戻り、王都の盛況ぶりを喧伝した。これにより王政復古への不安を抱えていた地方の者達は好意的な眼を王へ向けることとなる。開催にあたって必要となる経費を三カ国からの借金で補填していたことを民衆が知るのは、ずっと後のこと。

 会議が終わり、アストリアに以前の静けさが戻り始める年の末頃、ようやく護国卿を案じる声が出始めた。多くの者にとっては顔も知らないかつての統治者。しかし年若い彼女がどうなったのかという声は程無くして王都へ集った。





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