四日目(朝)
「神社に行く? 神社って、この前の、あの古ぼけた神社? なんだってまたそんな所に」
「お前は“アレ”を見て何も思わなかったのか?」
「そりゃ、思ったよ。多分お前と同じことを。でも、なんで神社?」
真は、ああそうか、と思った。
鈴彦はわからないのか。そうだ、こいつは違うんだった。私が教えない限りわからないだろう。いや、今の会話で、大方何を言いたいかは悟ったかもしれない。聡い奴だから。
「ま、そんなに言うなら止めないけどさ。俺は学校あるし」
こいつが聡い奴で、隠し事や嘘を言うだけ無駄だということは知っているが、それでも、実際に心の内を見透かされると癪だ。賢い奴はこれだから嫌なんだ。
「賢い人には友がいないっていうけど、本当にそうなんだろうな」
小言を言われるより先に、逃げるように部屋から出た。
あの哀愁の漂う神社は、朝の空気に包まれて、より一層寂しさを増しているに違いない足を止めると、そこにはやはり、哀愁を漂わせた神社があった。
その哀愁が、まるで、取り壊しによる死を悟っているかのように、生きたいという願いを伝えるように、辺りを包んでいる。刻一刻とせまるこの神社の終わりを、悲しんでいるのだ。その中に一歩踏み込むと、静かすぎて、まるで違う世界に迷い込んでいるかのような錯覚に陥る。この境内だけ時が止まって、ずっとずっと神無月が続いているのかもしれない。きっとそうだ。だから火の消えたように感じるのだ。
滑りの悪い戸を開け放つ。おんぼろ神社の殺伐とした内部。同じ京都なのに、他の神社とは随分と違うもんだ。いつか観光で見た安井金比羅宮とも、下鴨神社とも、全く違う。おびただしい数の絵馬も、何もない。あるのは白蟻に食われた柱だけ。
白蟻に喰われた壁の穴から、ほんのかすかな風が通り抜ける穴を見つけ出した。押してみるが、キイキイと音をたてるだけで動きはしない。ならばと、その壁を思いっきり蹴ると、呆気なく壁は崩れ落ちた。木材のカスがパラパラと舞い、その先には通路があった。明かりも何もない、真っ暗闇の道。
真は大きく深呼吸をすると、その暗闇を睨んだ。
「行くよ、時雨」
夏の日差しが届かない土の中は、何かが出てきそうな雰囲気をもっている。次第に目が慣れて、道の形がぼんやり見えてきた。岩壁に手をあて、慎重に、ゆっくりと進んでいく。本当の暗中模索だ。
歩くと、段差に躓きそうになった。手さぐりで様子をみると、それは上へ上へと続いている。階段だ。土ではない、石のようなしっかりとした固い地面に体重を預け、一歩、一歩と手さぐり足さぐりで進んでいく。
手さぐりで進んでいたのに、頭が先に何かにぶつかった。ぶつかった拍子に光が見えたから、これは扉か何かで、開くのだろう。何のためらいもなく開けた。
そこで、暗闇で覆われた道は終わった。澄んだ地上の光に、ある程度闇に慣れた目が刺激されて眩しい。開いた扉は畳となってそこに転がっていた。床下に地下通路のある場所。そこは、あのボロ神社も顔負けのボロ屋敷だった。
役割を果たせていない天井からこぼれる光は、木漏れ日の如く畳に模様をつけている。白蟻に食われた柱は辛うじて家を支えており、その姿はあまりにも頼りない。埃っぽく、所々傷がついている壁や床。まさに、廃墟と呼ぶに相応しい光景だった。畳の下に通路があるなんて洒落た家だ。ここを使っていたのは、金持ちに違いない。今でこそボロ屋敷だが、一室でもこの広さだ。畳間といえば六畳しか見たことがない真にとって広く思えるだけかもしれないが、少なくとも真の家の居間よりは広い。
ここはどこなのだろうか? 耳を澄ましても、人の声も車の音も聞こえない。聞こえるのは風が駆ける音と虫の声ぐらいで、あとは静かなものだ。暗闇だったからイマイチ距離はつかめなかったが、あの地下通路も、それほど歩いたわけではないから、人里を遠く離れたわけではないと思うのだが……。
なぜ神社とこの屋敷は繋がっているのだろう? あの神社もこの屋敷もオンボロで、屋敷が今ではあまり見られない古風な雰囲気を漂わせていることから察するに、両方の建物もあの通路も、昔々に作られたものだろう。誰が、何の目的で?
この屋敷は、あの首吊り死体と関係があるのだろうか? こんな人の気配が全くしない廃墟が?
―――外れた。
真の考えは、大きく外れた。あの神社自体に何かあるのだと思っていたのだが、そう簡単にもいかないらしい。しかし、この屋敷とあの神社に何らかの関係があることは確かだ。そして、一連の騒動の鍵はこの屋敷にある。神社に何もないのなら、この屋敷にあるはずに違いないからだ。
この屋敷にさらに通路があって、そこにまた屋敷でもあるのなら、話は別だが。
さて、何から取りかかろう? 探す? 何を? 自分は警察とは違う。捜査の心得なんて知らない。こういう場合何から調べるのが良いのかも、何をするべきなのかも、何一つ知らない。とにかく、何を調べるにしろ、情報があまりにも少なすぎる。
―――やっぱり鈴彦を連れてくるべきだった。
今更どうにもならない。鈴彦は今頃学校だろう。鈴彦ならこの光景を見ただけで、あるいはこの部屋の周辺を調べただけで、何かわかるかもしれない。まあそれは流石に買いかぶりすぎかもしれないが、ともかく自分ではさっぱりだ。
とりあえずそこら辺の部屋をまわってみるのだが、わかることは何もない。わかるのは、この屋敷のオンボロさぐらい。当初はさぞ風情のある日本屋敷だっただろうに。火事か何かにでもあったのだろうか。
畳の間を抜けて踏み込んだ廊下は、今にも抜け落ちそうで頼りない。
「………」
表情を変えた。息を殺し、眉を顰め、歩む足からは音をたてず、やがては遂に立ち止まり、目の前の襖を開けようとした。途端、耳をつんざく悲鳴が鳴った。女性の高い声ではない。男の野太い声だ。
「ああぁっ!」
真が襖を開けるのと、中から男性が飛び出すのが、ほぼ同時だった。襖に手を伸ばそうとして先に開けられた男性は体制を崩して廊下に転んだが、足掻きながら立ちあがって不安定な体制のまま走り出した。
「待、」
声が届いていないのか、混乱で周りが見えていないのか、男性は足をとめるどころか振り返ることすらしなかった。ただ慌てて、何かにすがりつくように走るだけだった。
その男を追う前に、真は、男が出てきた襖の向こう側を見た。他の部屋とは何も変わらないオンボロの畳間だった。
「………見失った」
私としたことが。
襖の向こうに気をとられていたのがいけなかった。あの後すぐに追いかけていれば、きっと捕まえることができたはずなのに。すぐに追いつけると思っていたが、この広い屋敷は、初めて来る真にとっては迷路のように思えて、男はその迷路の中に姿を隠してしまったのだ。
辺りに意識を集中させても、音一つ聞こえない。物音も、足音も、荒い息も、何一つなかった。もうこの屋敷から出て行ってしまったのだろうか?
参ったな。振り出しに戻ってしまった。やっと進展したと思ったのに。
大分屋敷の中を歩き回った気がする。あの地下通路の部屋に戻ろうと思っても戻れない。道なんてわざわざ覚えていないのだから。
屋敷を徘徊していると、少し気になることがでてきた。この屋敷の家具はほとんど無傷で残っているのだ。天井も床も柱もぼろぼろなのに、箪笥や机は今でも十分使えるほどに原形をとどめていた。細かな彫刻が施されている棚、螺鈿が散りばめられた漆の机は、ボロボロの畳の上でよく映えている。その姿はまさに、霞に千鳥、柳に燕だった。
例えばこの立派な木箱。他の家具のように細工も何もないが、いかにも丈夫そうで、簡単に叩いただけではびくともしない。角ばった直方体の簡素な木箱は、丁度人一人がすっぽり収まりそうなぐらい大きかった。
棺桶みたいだ。
その蓋が音をたてた気がした。瞬間。
蓋が襲いかかって、真の顎に直撃した。
蓋が生き物のように動き回って襲いかかったわけではなく、木箱が内側から開いただけなのだが、容赦なく開けられたので、木箱を覗き込んでいた真の顎に当たってしまったのだ。
さて、なぜ木箱が内側から開いたのかと言うと、
「す、鈴彦!?」
顎をおさえた真が見たのは、開いた木箱からひょっこり顔を出した親友の姿だった。
なんでこんな所にいるんだ? 学校は? なんで木箱から鈴彦出てくるんだ? 本当に鈴彦なのか?
「本物だよ。まだ死んでないし。それより顎大丈夫か?」
全然大丈夫じゃない。生まれつき人より丈夫とはいえ、運悪く骨にヒビでも入ったらどうするつもりだ。
「なんで鈴彦が木箱から出てくるんだよ」
「別に、木箱から出てくるつもりも、お前の顎を強打するつもりもなかったんだけどさ」
鈴彦が木箱から出て、中を指差す。覗き込むと、縄梯子がかかって、ずっと奥まで続いていた。その先に真が通ってきたものと同じような地下通路があるのは、なんとなく察することができた。
この屋敷、あの畳の下以外にも通路があったのか。ますます洒落た家だ。
「お前、神社から来たんだろ?」
「ああ。……なんでわかるの?」
「神社行くって言ってた奴がこんなオンボロ屋敷にいるってことは、そういうことだろ。俺も神社から来たから、それぐらいの察しはつく。」
神社? 神社って、あの神社? あの神社からの道は真が通ってきた道だけだったはずだ。暗かったから確信はないが、通路内に分かれ道もなかったし……。それに、私が「神社に行く」と言った時、鈴彦は頭にクエスチョンマークを浮かべていた。その鈴彦がなぜ神社に?
「あの時のぼろっちい神社からじゃなくて、三島さんが亡くなった神社から来たんだ」
「私が神社に行くと聞いて怪訝そうな表情をした奴が、神社を調べに行ったのか?」
「最初は神社に行くつもりじゃなかったんだよ。」
つまり、最初は別の事を調べていたわけだ。
真が通ってきた神社と、鈴彦が通った神社は、どちらもこの屋敷に通じていた。そしてその二つの神社で、行方不明者が首吊り死体となって発見された。これが偶然であるわけがない。やはり、この荒れた屋敷には、何かあるのだ。
「お前は、あの神社に“何かいる”って気付いたんだろ? それと同じように、俺は“亡くなった二人の共通点”に気付いたんだ」
「共通点?」
「匂いだよ。最初の死体と、隣の部屋から漂ってきた三島さんの死体の匂い、同じだったんだ」
………匂い。
「あの二人と同じ匂いのする人を見つけたから、後をつけて、三島さんの発見された神社について、そこで見失ったから神社を色々調べて、今に至るってわけだ」
「匂い……匂い、ね。」
「……お前、なんか誤解してない?」
鈴彦のその言葉に、はっと気がついた。
少し頭が混乱しかけて、鈴彦が鼻を鳴らしている姿を想像してしまったが、そんなことあるわけがない。鈴彦が人間であるならば、警察犬顔負けの嗅覚を持っているはずがない。
「ああ、瑞貴か。」
「そうそう、瑞貴だよ。」
話をまとめるとこうだ。
鈴彦は瑞貴に手伝ってもらい、首を吊った二人の共通点に気付いた。その共通点にあてはまる――つまり、同じ匂いのする――人物を探し当てたので、その人物を追ったらこの屋敷にたどり着いた。
「神社で見失ったから、多分この屋敷にいるんだろうけど……。この屋敷の匂いがあの男の匂いと一致してるから、捜しようもないんだよなぁ」
「もしかしてその人って、茶色のベストを着た中年男性?」
真の発言に、鈴彦は目を見開いた。返答はそれで十分だった。
「やっぱここに来てるのか。で? お前はそいつを見失ったわけ? 俺ならともかく、お前が獲物を見失うなんて、珍しい事もあるもんだな。」
イタリアにいるあの人に知れたら、笑われるぞ。と、鈴彦は言った。
「にしても、変な家だな。あの神社に負けず劣らずのボロ屋敷だ。なんで神社と繋がってたんだろうな」
「さあ。私も来たばかりだから、あまりわからないけれど……妙なことに家具だけ無事なんだよな」
鈴彦は辺りを見渡して、本当だ、と呟いた。
なぜ家具だけ無事か。なぜ神社と繋がっていたのか。先ほどの男性は何だったのか。黒縄事件とこの屋敷はどう繋がっているのか。まずは順序良く、家具の問題から追及していこう。
鈴彦に比べたら貧弱な私の頭では、せいぜい、後から来た人が家具を運んできたと考えることしかできない。例えば、あの男性が家具を持ってきて、ここを何かに使っていたんじゃないだろうか。首を吊った二人もあの男性と一緒にここで何かをやっていたんじゃないだろうか。だから三人ともこの屋敷と同じ匂いがするんじゃないだろうか。
「ま、妥当だな。あちら側の意見としては」
あちら側の意見としては。
「……世の中、何があるかわかったもんじゃないからな」
「そうそう。決め付けは良くない。ま、その意見も一応キープしとこうぜ。
まずは、男がまだ屋敷に残っていることを祈って、捜さなきゃな。事情聞いたほうが早い」
「最近、人捜しばっかりだな」
先ほどの男とどう遭遇したか、それを説明すると鈴彦は訝しげな表情になった
「おかしいだろ。なんで何もないのに悲鳴なんてあげるんだ? お前、何か見落としてるんじゃないの?」
「急いでもいたからなぁ。もう一度行って見てみるしかないな」
「場所覚えてるのか?」
「本当にここ?」
「本当にここ!」
鈴彦は、じ、と真を見つめたが、真は一つの襖を指差しているままだった。
「別にお前のことを信用していないわけじゃないんだ。
お前とは長い付き合いだし、その付き合いの中でお前が俺を裏切ったことなんてないし、何よりお前は唯一無二の親友だ。俺はお前を信用している。世界で一番信用している。でもな真、この部屋で一体何度目―――」
鈴彦の発言を遮るように、スパンッ、と盛大に襖は開いた。そこには他の部屋と同じようなボロボロの光景が広がって―――いなかった。
二人は息をのんで立ちつくした。そこには、捜していたベスト姿の男性がいたのだ。しかしそれは、二人が望んでいた姿では決してなかった。
その男性はいつしか見た姿と重なるように首を吊っていた。地面ではなく、屋根からぶらさがる縄に体重を預けていた。顔は蒼白としている。その顔によく映える、黒い縄。
「また悪いもん見ちまった……」
と、鈴彦が呟いた瞬間だった。
鈴彦の体が、宙に舞った。足が地面を離れ、背中から床に落ちていく。その上を、何かが通り過ぎた。反射的に受け身をとって体制を整えて着地した鈴彦が、冷や汗をかきながら真に向けて呟く。
「助けるなら助けるで、もっと優しくしてほしかった」
「命が助かっただけでありがたいと思え。お前今頃、あの男とおなじ姿だったんだぞ」
鈴彦に迫った危険を、真がいち早く察知し、鈴彦の足をはらうことによってそれを回避したのだ。鈴彦は襲われた。後ろから何かに首を狙われた。それは、
「蛇?」
蛇、だった。
一匹の蛇が、畳に転がっている。標的の予想しなかった回避に上手く対処できなくて、着地を誤ったのだろう。うろたえた様子でいたが、こちらを見るなり睨んできた。
黒い蛇だった。黒い蛇が、二人を睨んでいた。美しい黒い鱗を、天井から木漏れ日のように降りる光が淡く反射し、その姿は妖艶とも思える。
鈴彦の目から戸惑いの色が消え、光が宿った。
「成程、だからお前はわかったのか。あの神社に何かいるって」
「正確には神社じゃなかったけど」
二人を睨む目が増えた。いつの間にかあたりは蛇だらけで、動くと踏んでしまいそうだ。その蛇たちと二つ――今三つになった首吊り死体とは、どういう関係がある?
まあ、蛇と死体がどう関係しているのか、おおよその予想はついているのだが。
「生物が縄になるっていう可能性についてどう考える?」
「私もそれずっと考えてたんだけど、ここまでくると否定する隙がない」
「世の中何があるかわかったもんじゃないからな」
逃げなければいけない。
真は自分の右手を握った。その手にはいつも持ち歩いている竹刀袋が握られている。蛇を睨み、竹刀袋から、刀を取り出す。竹刀でも木刀でもない、――刀、だ。
鈴彦が何も言わずに自分を見ている。轡の音にも目を覚ますような姿勢は崩さずに、背後の友人に笑いかけた。
「心配してんの?」
「まさか。信じてるぜ」
真は満足げに微笑んだ。