ハクサンチドリの世界
其の影法師は陽炎の如く揺らめくと、卑しく笑みを浮かべおどろおどろしい両手を此方に向けて伸ばしてきた。何故か僕は逃げず恐怖も覚えていないのに、ただただ背に走る寒気と手の内に滲む汗の感覚だけが妙に可笑しく感じ変に笑がこみ上げてきた。
それでも僕は笑っていない。大人しく嗤った影に包まれ、瞬間。
ずるん、と世界は反転する。
*
五月十九日。部屋のカレンダーは此処で捲られなくなった。
*
携帯のアラームに無理矢理叩き起こされた俺は文句を言うように画面を強く押したが、乱雑に扱うせいか余計時間を食い苛立ちは募る。
鳴り響くのは止まないまま。
覚束ない動作で茹だる様な暑さを有する部屋から逃れるようにベッドから降りると、洗面所に向かう。寝癖も酷く、腫れぼったい顔が映った。如何せん、生気は無い。勢い良く蛇口を捻って水を出すとぼろくさい家の水道管が唸りをあげた。
気だるさに見舞われ、重たい溜息が出る。反して体は心成しか軽くなっているような気もするも、やはり気のせいに過ぎないだろう。
手で作った器に水を張り寝惚け眼を覚ますと再び嘆息をして洗面所を後にした。
早朝だからかは知らないが、家の中でさえ人影は無くひっそりとしている。そんな中台所に立つのも如何にも億劫で、自室に戻ると制服に着替えることにした。
軋む階段を上り終え余り音を立てぬよう細心の注意を払いながら部屋の中を歩く。なにやら気付けば床には物が散乱しており汚らしく、ハンガーに掛けられた制服も何処と無く薄汚かった。
普段の生活をしている筈の家は見覚え無いとまでは言い難いのだが、何となく知っている世界からはかなり外れているような気がする。体をベッドに投げ出して仰向けになり、染みのついた天井をぼんやり眺めているうちに着替えるのも本当に億劫に成ってきた。
蒸し暑さが頭をおかしくしているのか、徐々にではあったが水分が汗として失われていく。折角顔を洗ったのも無意味に等しく、額にはびっしりと玉汗が浮かんでいた。
「嗚呼、だる」
今日になって初めて声を発した様だ。意外にも喉は渇き、一音一音を発する度震える事が非常に痛い。早い所着替えて朝食と共に水分摂取が必要だと俺の脳が危険信号を発し、今までのだるさなど微塵も感じさせない俊敏な動作で跳ね起きた。
乱雑に服を脱ぎ散らかしてよれた制服に袖を通すと、とんとんと軽快に階段を降りて台所に立つ。冷蔵庫の中身は無かった筈でテーブルの上に置かれた質素な食パンのみで朝食を済ませる他無かった。何にせよ大した食欲は無く其れだけで十分事足りるのだが。
袋から一枚取り出しトースターに放り込むと、水を火にかけ椅子に座って待つ。別に母の分は用意しなくてもいいだろう。用意しろと文句を言われ様ものなら食材を買っておいて欲しいところだ。
ぐらぐらと湯が沸騰する音が鼓膜を揺さぶってきたと思えば軽やかな電子音も同時に劈いた。せめてバターぐらいは入っていた筈だと冷蔵庫の扉を開け放ってみると期待は裏切られ、チューブ式のマーガリンしかなかった。一言言うならマーガリンは邪道だ。
勢い良く戸を閉めると仕方なくそのまま皿に乗せ、大分湯の無くなった鍋を持ち上げて火を切りそして予めインスタント珈琲を入れておいたカップに注ぐ。
ガスコンロに鍋を置き直すと一口珈琲を啜った。静寂に支配され、微妙に息苦しくそのため紛らわす様に食パンに噛り付く。広がるぱさついた感覚に眉を顰め、租借をしていくが美味しくない。味気が無く渇いた口の中にはとてもではないが酷な食べ物である。もう一度珈琲を口に含むと残りの物を噛み砕き胃の中へ早急に収めた。
部屋の時計を見ると未だ七時を過ぎたあたりだが、良く良く見ると秒針は動いていない。慌ててポケットに入れたままの腕時計を見ると、既に全体の四分の三以上は過ぎ去り一気に血の気が引いていくのが分かった。遅刻だけは簡便願いたい。
残り物は放置で玄関に投げていた鞄を手に自宅を飛び出す。云ってきます、なんて口にしなかった。
学校が近いというのは幸いで走ればすぐ見えてくる校舎。普段と何一つ変わらない風景を横目に、平坦なアスファルトの地面を蹴る。
校門に近づくにつれて響き渡る少年少女の談笑。俺がこんなに走っているのが馬鹿らしく感じられるが――実際他人から見れば阿呆らしいのかもしれない。ちらりと俺を視界の端に入れると口元に手をあて、含み笑いを施すのだ――遅刻してしまうよりは断然良い。
下駄箱で深呼吸をし、上履きに履き替えるとそそくさと教室に上がることにした。階段を上っていくごとに感じるこの重圧は一体何なのか、周囲から向けられる視線は何なのか。僅かに早くなる鼓動を押さえつけるため胸元をきつく握り締め、震える手で教室の扉を開け放った。
早くも冷房の入った空気が流れ出て頬を包み込む。
「うわ」
冷めていた空気の中誰かがこんな呟きを漏らし、それ以外言葉はなかった。扉を開ける前までは聞こえていた筈の話し声も一切止み、白々しい視線が突き刺さる。
一体何だというのだ。生唾を飲み込み揺れる瞳で教室内を一瞥すると目を伏せ、何事もないと数回言い聞かせた。席を探すべくして目を開けると背後から衝撃が加わった。
「突っ立ってると邪魔。どけよ」
「はっ……?」
「どけって言ってんの。聞こえてんの?」
低く見耳とでささやかれる言葉に振り向くと、強く肩口を押された。無様にもピータイルの上に転げると言葉の主を見上げる形になる。
「よくまあ昨日の今日で学校にこれるよな、この人殺しが」
この彼の卑下する言葉と瞳の意図が俺には理解できなかった。一体どんなことをしでかしたのか、記憶の引き出しに手をかけてみても、錆付いて動くことはない。
「きんめぇ」
嘲笑する彼に続いてクラスメイト達は声を上げる。笑いの渦に飲み込まれ深海に堕ちて行く感覚に囚われながら、ひたすらに相手を見返すことしか出来なかった。どれだけ惨めか、無様か、云われるまでもなく容易に想像は出来た。
「この、人殺し」
手近にあった机を蹴ると、きつく俺を睨みつけ席に着く。呆然としたまま見上げる俺をよそに、未だ笑いの渦は残ったままだった。
排水溝から漂うキツイ匂いが鼻腔をつく。むわりとした独特の異臭。俺を押し潰そうとする暑さ、気付けば炎天の元授業が終わってもないのに汗をたらしてアスファルトの上を歩く。
人殺し、人殺し、人殺し。あれからというもの同じ言葉が幾重にも脳裏にて重なり、突き刺さる。ぐわんぐわんと警鐘を鳴らすが、見に覚えのない行動を指差されてもどうしようもなかった。
誤解だ。俺が人殺し、有り得ない。そもそも昨日の今日、って。昨日、何をしていた、?
脚が止まってしまう。
じりじりと項へ照りつける太陽が痛いが、それよりも。俺は一体何をしていた? 今朝も思ったが記憶の引き出しを飛行物ならば引っかかって出てこない。後少しで思い出せそうだというにも関わらず、心が悲鳴を上げ引っ張る手を止めさせる。
大きく見開かれた瞳に飛び込むのは虫の死骸に群がる蟻。虫唾が走った。ぐじゃりと、容赦なく其の上を踏んで歩くと全てを払拭するべく帰路に着く。人殺し、蟻にそう囁かれた気もしたが紛れもなく幻聴に違いない。
馬鹿馬鹿しい、心に言い聞かせると滲んだ脂汗をワイシャツでぬぐって蜘蛛の巣の張った家の門をくぐる。戸を開き鞄を投げ出すと一目散に自室へと駆け上がり、ブレザーを床に脱ぎ捨ててベッドに身を放り投げる。すると思いの他疲れきっていた体は鉛の様になり、昏睡状態に陥った。ただひたすらに深く、深く。
*
影と俺が対峙していた。俺は不貞腐れた表情で体育座りをする影の前に立ち見下ろしている。影は此方を見上げると引き裂けんばかりに笑みを浮かべた。
「君じゃ駄目だったね、やっぱり僕じゃなきゃ。でもほら、無理無理」
哄笑する彼を蹴飛ばそうとしているのだが影ということもあってか、すり抜けるばかりで如何にも上手くいかなかった。苛立ちが募る。
「だからさ、変わりに私が行くよ」
そして不意に背後から肩を叩かれる。
今度も影がそこには立っていた。卑しく笑みを浮かべおどろおどろしい両手を此方に向けて伸ばしてきた。大人しく嗤った影に包まれ、瞬間。
ずるん、と世界は反転する。
「今度は君が殺された側だね」
脇に居る僕は微笑み、俺は真っ黒に染まった手を呆然と眺めていた。他にもゆらり揺らめく影が嘲笑うかのように周囲に集まり、此方を見詰めていた。
【ハクサンチドリの世界】