三話
桜花が雄飛に拾われてしからしばらく時間がたった。
最初は汚い娘を抱えて帰ってきた主人に芙蓉を筆頭にした雄飛の使用人たちは、それはそれは驚いて「どういうことだ」と主人を詰問したが、雄飛が「拾ってきた」と猫の子を差し出すようにして桜花を投げ渡すとその後の話を受け付けなかったらしい。
最初は戸惑いがちに、こちらに触れてきた芙蓉たちだったが時間がたつにつれて桜花がただの人の子で、その上可哀そうな身の上だったということを知り、次第に心を開いて可愛がってくれるようになった。
そして今日も桜花が自習の時間をサボって雄飛がいる棟へとルンルン気分でむかっていると、渡り廊下の真ん中に怒った芙蓉が仁王立ちしている姿が目に入った。芙蓉の元の姿は猫らしく、怒るとピンと猫の耳としっぽが飛び出して、怒りが頂点に達すると普段は綺麗に切りそろえられている桜色の爪が白く濁って伸び出す。
柱の陰から窺うと、どうやらまだ芙蓉の爪は伸びていないらしい。耳だけをぴょんと立ちあげて、今か今かと桜花を待ち構えている様子に恐れをなした桜花は、廊下から庭へと降り立つとこそこそと芙蓉に見つからないようにして雄飛の元へと進んだのだった。
芙蓉という難関を突破した桜花は、雄飛がくつろいだ様子で庭へと降りる階段に腰かけているのを見つけると、着物の裾が拡がるのも気にせずに駆けていく。
「雄飛!」
名前を呼ぶとすでに桜花の存在に気がついていたのか、雄飛は軽く笑いながら飛び込んできた桜花を抱きとめる。
「桜花、お前今は勉強の時間じゃなかったのか?」
「うん。でもサボった」
雄飛の胸にぐりぐりと顔を埋めながら桜花が正直に答えると、雄飛は困ったように息をついた。
「全く、誰に似たのか―――」
「「雄飛」さまです」
雄飛の言葉に答えようと桜花が顔をあげて満面の笑みで口を開くと、桜花の声に静かな怒りに満ちた声が重なる。
雄飛の膝の上にのりながら、ぎこちない動きで桜花が声のした方に顔を向けるとそこには案の定芙蓉の姿があった。
「早いじゃないか、芙蓉」
首にしがみついてきた桜花に、ぐえっと声を漏らしながら雄飛は実にのんびりとした様子で出来のいい侍女を褒めた。すると気分をよくした芙蓉はふふんと胸をはった。
「桜花様の軽やかな足音が聞こえましたので」
そう言って猫耳をピクピクとさせる芙蓉に、雄飛は「いつも思うけど、それいいよな~」と羨ましがった。桜花が猫耳を生やした雄飛を想像してニヤニヤしていると、雄飛が軽く桜花の頭を叩く。叩かれた頭を抑えて、雄飛を見上げると雄飛が目を合わせて、めっと子供するようにして叱ってきた。
「俺に会いたい気持ちはわかるけど、やることはやらないとダメだろう」
「…はい」
しゅんとした桜花を慰めるようにして雄飛が頭を撫でると芙蓉についていくように促してくる。桜花はそれに素直に頷くと、もう一度雄飛にぎゅっと抱きついてから立ち上がる。
「雄飛。お夕飯の時間まで、じゃあね」
桜花はそう言って手を振ると、芙蓉を待たずに自室へと駆けて行った。雄飛はそれを手をひらひらと振りながら見送ると、桜花を追いかけずに芙蓉がずっと後ろに立っていることに気がついて振り返る。
「……何か言いたそうな顔をしている、な」
雄飛が首にかけた手拭いで、土で汚れた手を拭きながら問うと、芙蓉は嘆かわしいと言わんばかりに袖を涙で濡らし始めた。
「雄飛様とあろう方が、庭で畑仕事だなんて――」
ううっと涙を流す芙蓉に雄飛は後頭部をがりがりとかきながら目の前に拡がる畑を見つめる。
「そういうな。俺はこれが好きでやっているんだ。隠居生活を送っている俺の唯一の楽しみなのだから、放っておいてくれ」
雄飛の言葉に、芙蓉はでもと言葉を続ける。
「こんな山奥に隠居する前は都でぶいぶい言わせておられたのに、突然山の中へ来たかと思ったら人の子を拾って、さらにその子に食べさせる為にと人の畑から作物を頂戴して、こうして自分で畑を作りだすなんて――」
嫌な音をたてて壁を爪で掻きだした芙蓉を雄飛は宥める。
「争いばかりだったあっちより、俺にはこっちの方が性にあっているよ。そんなに都が恋しいというなら、お前だけ都の屋敷に戻るか?」
俺は別にかまないぞと匂わせながら問うと、芙蓉は更に心を乱して爪をとぎ続ける。
「そんな意地悪なことおっしゃらないで下さい、雄飛様~」
涙を流す芙蓉に、雄飛はわかったわかったと返すと、犬の子を追い払うようにして手を振った。芙蓉はまだ何か言いたそうだったたが、渋々といった様子でようやく去って行った。
一人残された雄飛は考える。桜花を拾ってからどれくらいの時間が流れたのだろうと、人とは違う時間の中を生きる彼にとってこの数年は、彼がこれまで過ごしてきた膨大な時間と比べるとあっという間の出来事だった。
そのわずかな時間で桜花は随分と大きくなった。全てのものを恐れるようにして身体を小さくしていたと言うのに、今では手足もすらりと伸びてしまい身体全身を使って自分の感情を表現するようになった。ほんのわずかな時間であれだけ成長してしまったことを感慨深く思いながら雄飛は息をつく。
いつまでも子供ではいられない桜花にとって、一番よい道を示さねばならない時がそろそろ来たのかもしれないと。