旅を終える老騎士は、雨宿りに来た竜と最後の夜を過ごす
アステリア王国の西の街道には、小さな宿がいくつもある。
その中でも《風見亭》は、旅人にはよく知られた宿だった。
料理がうまいわけでもない。
部屋が広いわけでもない。
けれど、雨の日にはいつも火が強くたかれ、ぬれた旅人には温かいスープが出る。
それだけで、長い旅をする者には十分だった。
その日も、夕方から強い雨が降っていた。
「今日はもう客は来ないかな」
宿の娘、リサは窓の外を見た。
二十歳。
父と母を手伝いながら、毎日宿で働いている。
「こんな雨じゃ、街道も止まるだろ」
父が言った。
その時だった。
外から馬の足音が聞こえた。
「お客さん?」
リサが扉を開ける。
一頭の馬と、一人の老人が立っていた。
白い髪。
古い外とう。
腰には長い剣。
「一晩、泊めてもらえるか」
「もちろんです。どうぞ」
老人は深く頭を下げた。
「助かる」
老人の名前はガルド。
六十三歳。
長い間、王国の騎士として働いてきたらしい。
今はもう騎士を辞め、故郷へ帰る途中だという。
「ずいぶん長い旅なんですね」
リサがスープを運びながら聞いた。
「ああ。王都からここまでで八日だ」
「故郷はもっと先ですか?」
「あと二日くらいだな」
「もう少しですね」
「そうだな」
ガルドは静かに笑った。
けれど、どこかさびしそうだった。
リサは気になったが、それ以上は聞かなかった。
旅人には、話したいことと話したくないことがある。
宿で働いていると、そのくらいはわかる。
しばらくして、外で大きな音がした。
どん。
窓が少しゆれた。
「何?」
父が立ち上がる。
続いて、馬小屋の方から馬の鳴き声が聞こえた。
「見てくる!」
リサは外とうをはおり、外へ出た。
雨はまだ強い。
馬小屋の前まで走る。
そこで足が止まった。
「……竜?」
一頭の大きな竜が、馬小屋の横にうずくまっていた。
黒い体。
大きな翼。
雨にぬれ、少しふるえている。
リサはすぐには近づかなかった。
「お父さん!」
父も外へ出てきた。
「こりゃ大きいな」
そこへ、ガルドも出てきた。
竜を見た瞬間、老人の顔が変わった。
「……バル」
リサは振り返る。
「知ってる竜なんですか?」
ガルドは答えず、ゆっくり近づいた。
竜が顔を上げる。
『遅い』
低い声がした。
リサは目を丸くした。
人の言葉を話す竜だった。
「お前こそ、どうしてここにいる」
『追いついただけだ』
「追ってきたのか」
『そうだ』
ガルドはため息をついた。
「もう来るなと言っただろ」
『聞いていない』
「聞いてたじゃないか」
『忘れた』
「お前は都合の悪いことだけ忘れるな」
竜は何も言わなかった。
リサと父は顔を見合わせた。
バルという竜は、ガルドが騎士だったころの相棒だった。
二人は三十年以上、一緒に働いた。
国境の見回り。
山での救助。
魔物の討伐。
遠い町への護衛。
けれど、ガルドが騎士を辞める日、竜契も終えたという。
「もう自由にしろ、と言ったんだ」
宿の中。
火のそばで、ガルドはそう話した。
バルは大きすぎて中には入れないので、馬小屋の横に屋根をかけてもらっていた。
「でも、追ってきたんですね」
「ああ」
「どうして竜契を終えたんですか?」
リサが聞く。
ガルドは少し黙った。
「俺がもう騎士じゃないからだ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
「でも、三十年以上一緒だったんですよね」
「だからだ」
ガルドは手元の杯を見た。
「俺はもう年だ。これからは田舎で静かに暮らす。バルには、もっと別の生き方がある」
「別の?」
「若い騎士と組むこともできる。山へ戻ることもできる。竜は人間より長く生きる」
ガルドは少し笑った。
「俺の人生が終わりに近づいても、あいつの時間はまだ長い」
リサは何も言えなかった。
たしかに、竜は長く生きる。
人間とはちがう。
だからこそ、別れを選ぶ人もいるのだろう。
夜。
雨は少し弱くなった。
リサが馬小屋へ行くと、バルはまだ起きていた。
「寒くない?」
『平気だ』
「毛布、もっといる?」
『いらぬ』
「ごはんは?」
『食べた』
「そう」
リサは少し迷ったあと、聞いた。
「ガルドさんを追ってきたの?」
『そうだ』
「どうして?」
バルはすぐには答えなかった。
『あいつが勝手に終わらせたからだ』
「竜契を?」
『そうだ』
「でも、自由にしてくれたんでしょ」
『自由とは、離れることではない』
リサはその言葉に少し驚いた。
『私は、あいつといることを選んでいた』
「……」
『騎士だからではない』
バルは雨の向こうを見る。
『人間は、役目が終わると関係まで終わると思うのか』
「たぶん、そうじゃない人もいるよ」
『なら、あいつは少し考えすぎだ』
リサは笑った。
「それ、本人に言った?」
『言っていない』
「言わないとわからないよ」
『人間は面倒だな』
「竜もだよ」
バルは鼻を鳴らした。
次の朝。
雨はやんでいた。
ガルドは早くから旅の支度をしていた。
「世話になった」
「もう行くんですか?」
「ああ。天気がいい内に進みたい」
馬に荷物をつける。
その時、バルが近づいてきた。
『ガルド』
「……何だ」
『私も行く』
「だめだ」
『なぜだ』
「昨日話しただろ」
『聞いていない』
「またそれか」
ガルドは困った顔をした。
『私は、お前が騎士だから一緒にいたのではない』
ガルドの手が止まった。
『お前がガルドだから一緒にいた』
宿の前が静かになった。
リサは少し離れたところで見ていた。
『お前が畑をたがやすなら、私は横で寝る』
「邪魔だ」
『では少し離れて寝る』
「そういう話じゃない」
『お前が魚をつるなら、私は魚を取る』
「それは反則だ」
『お前が何もしないなら、私も何もしない』
「……」
『それで何か困るか』
ガルドは長い間、何も言わなかった。
やがて、顔を手でおおった。
「まったく……」
『何だ』
「三十年も一緒にいたのに、今さらそんなことを言うな」
『今言わないと、お前は逃げるだろう』
「逃げてない」
『逃げている』
リサは思わず笑いそうになった。
ガルドも、少しだけ笑った。
「わかった」
『何がだ』
「一緒に来い」
バルの目が少し細くなった。
『最初からそう言えばいい』
「お前が言わせたんだろ」
ガルドは馬に乗った。
バルはその横を歩く。
空を飛ばない。
ただ、同じ道を進む。
「竜に乗らないんですか?」
リサが聞く。
「もう急ぐ旅じゃない」
ガルドは答えた。
「二日くらい、ゆっくり歩くさ」
『三日かかってもよい』
「お前は歩くのが遅いからな」
『お前の馬が遅い』
「言うようになったな」
二人はいつものように言い合いながら、街道を進んでいった。
リサは宿の前で手を振った。
「また来てくださいね!」
ガルドが振り返る。
「ああ!」
バルも大きな翼を一度だけ広げた。
それが手を振っているように見えた。
旅には、始まりがある。
終わりもある。
けれど、仕事が終わったからといって、すべてが終わるわけではない。
騎士でなくなっても。
契約がなくなっても。
一緒にいたいと思うなら、同じ道を歩けばいい。
その日、《風見亭》を出た老騎士と一頭の竜は、王都とは反対の方へ進んでいった。
戦いも、任務もない。
ただ故郷へ帰るための旅。
それでも二人にとっては、それが新しい旅の始まりだった。
そして西の街道には、朝の光がゆっくりと差し始めていた。




