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竜と人が暮らすアステリア王国の物語

旅を終える老騎士は、雨宿りに来た竜と最後の夜を過ごす

作者: みき
掲載日:2026/08/30

 アステリア王国の西の街道には、小さな宿がいくつもある。


 その中でも《風見亭》は、旅人にはよく知られた宿だった。


 料理がうまいわけでもない。


 部屋が広いわけでもない。


 けれど、雨の日にはいつも火が強くたかれ、ぬれた旅人には温かいスープが出る。


 それだけで、長い旅をする者には十分だった。


 その日も、夕方から強い雨が降っていた。


「今日はもう客は来ないかな」


 宿の娘、リサは窓の外を見た。


 二十歳。


 父と母を手伝いながら、毎日宿で働いている。


「こんな雨じゃ、街道も止まるだろ」


 父が言った。


 その時だった。


 外から馬の足音が聞こえた。


「お客さん?」


 リサが扉を開ける。


 一頭の馬と、一人の老人が立っていた。


 白い髪。


 古い外とう。


 腰には長い剣。


「一晩、泊めてもらえるか」


「もちろんです。どうぞ」


 老人は深く頭を下げた。


「助かる」


     


 老人の名前はガルド。


 六十三歳。


 長い間、王国の騎士として働いてきたらしい。


 今はもう騎士を辞め、故郷へ帰る途中だという。


「ずいぶん長い旅なんですね」


 リサがスープを運びながら聞いた。


「ああ。王都からここまでで八日だ」


「故郷はもっと先ですか?」


「あと二日くらいだな」


「もう少しですね」


「そうだな」


 ガルドは静かに笑った。


 けれど、どこかさびしそうだった。


 リサは気になったが、それ以上は聞かなかった。


 旅人には、話したいことと話したくないことがある。


 宿で働いていると、そのくらいはわかる。


 しばらくして、外で大きな音がした。


 どん。


 窓が少しゆれた。


「何?」


 父が立ち上がる。


 続いて、馬小屋の方から馬の鳴き声が聞こえた。


「見てくる!」


 リサは外とうをはおり、外へ出た。


 雨はまだ強い。


 馬小屋の前まで走る。


 そこで足が止まった。


「……竜?」


 一頭の大きな竜が、馬小屋の横にうずくまっていた。


 黒い体。


 大きな翼。


 雨にぬれ、少しふるえている。


 リサはすぐには近づかなかった。


「お父さん!」


 父も外へ出てきた。


「こりゃ大きいな」


 そこへ、ガルドも出てきた。


 竜を見た瞬間、老人の顔が変わった。


「……バル」


 リサは振り返る。


「知ってる竜なんですか?」


 ガルドは答えず、ゆっくり近づいた。


 竜が顔を上げる。


『遅い』


 低い声がした。


 リサは目を丸くした。


 人の言葉を話す竜だった。


「お前こそ、どうしてここにいる」


『追いついただけだ』


「追ってきたのか」


『そうだ』


 ガルドはため息をついた。


「もう来るなと言っただろ」


『聞いていない』


「聞いてたじゃないか」


『忘れた』


「お前は都合の悪いことだけ忘れるな」


 竜は何も言わなかった。


 リサと父は顔を見合わせた。


     


 バルという竜は、ガルドが騎士だったころの相棒だった。


 二人は三十年以上、一緒に働いた。


 国境の見回り。


 山での救助。


 魔物の討伐。


 遠い町への護衛。


 けれど、ガルドが騎士を辞める日、竜契も終えたという。


「もう自由にしろ、と言ったんだ」


 宿の中。


 火のそばで、ガルドはそう話した。


 バルは大きすぎて中には入れないので、馬小屋の横に屋根をかけてもらっていた。


「でも、追ってきたんですね」


「ああ」


「どうして竜契を終えたんですか?」


 リサが聞く。


 ガルドは少し黙った。


「俺がもう騎士じゃないからだ」


「それだけですか?」


「それだけだ」


「でも、三十年以上一緒だったんですよね」


「だからだ」


 ガルドは手元の杯を見た。


「俺はもう年だ。これからは田舎で静かに暮らす。バルには、もっと別の生き方がある」


「別の?」


「若い騎士と組むこともできる。山へ戻ることもできる。竜は人間より長く生きる」


 ガルドは少し笑った。


「俺の人生が終わりに近づいても、あいつの時間はまだ長い」


 リサは何も言えなかった。


 たしかに、竜は長く生きる。


 人間とはちがう。


 だからこそ、別れを選ぶ人もいるのだろう。


     


 夜。


 雨は少し弱くなった。


 リサが馬小屋へ行くと、バルはまだ起きていた。


「寒くない?」


『平気だ』


「毛布、もっといる?」


『いらぬ』


「ごはんは?」


『食べた』


「そう」


 リサは少し迷ったあと、聞いた。


「ガルドさんを追ってきたの?」


『そうだ』


「どうして?」


 バルはすぐには答えなかった。


『あいつが勝手に終わらせたからだ』


「竜契を?」


『そうだ』


「でも、自由にしてくれたんでしょ」


『自由とは、離れることではない』


 リサはその言葉に少し驚いた。


『私は、あいつといることを選んでいた』


「……」


『騎士だからではない』


 バルは雨の向こうを見る。


『人間は、役目が終わると関係まで終わると思うのか』


「たぶん、そうじゃない人もいるよ」


『なら、あいつは少し考えすぎだ』


 リサは笑った。


「それ、本人に言った?」


『言っていない』


「言わないとわからないよ」


『人間は面倒だな』


「竜もだよ」


 バルは鼻を鳴らした。


     


 次の朝。


 雨はやんでいた。


 ガルドは早くから旅の支度をしていた。


「世話になった」


「もう行くんですか?」


「ああ。天気がいい内に進みたい」


 馬に荷物をつける。


 その時、バルが近づいてきた。


『ガルド』


「……何だ」


『私も行く』


「だめだ」


『なぜだ』


「昨日話しただろ」


『聞いていない』


「またそれか」


 ガルドは困った顔をした。


『私は、お前が騎士だから一緒にいたのではない』


 ガルドの手が止まった。


『お前がガルドだから一緒にいた』


 宿の前が静かになった。


 リサは少し離れたところで見ていた。


『お前が畑をたがやすなら、私は横で寝る』


「邪魔だ」


『では少し離れて寝る』


「そういう話じゃない」


『お前が魚をつるなら、私は魚を取る』


「それは反則だ」


『お前が何もしないなら、私も何もしない』


「……」


『それで何か困るか』


 ガルドは長い間、何も言わなかった。


 やがて、顔を手でおおった。


「まったく……」


『何だ』


「三十年も一緒にいたのに、今さらそんなことを言うな」


『今言わないと、お前は逃げるだろう』


「逃げてない」


『逃げている』


 リサは思わず笑いそうになった。


 ガルドも、少しだけ笑った。


「わかった」


『何がだ』


「一緒に来い」


 バルの目が少し細くなった。


『最初からそう言えばいい』


「お前が言わせたんだろ」


     


 ガルドは馬に乗った。


 バルはその横を歩く。


 空を飛ばない。


 ただ、同じ道を進む。


「竜に乗らないんですか?」


 リサが聞く。


「もう急ぐ旅じゃない」


 ガルドは答えた。


「二日くらい、ゆっくり歩くさ」


『三日かかってもよい』


「お前は歩くのが遅いからな」


『お前の馬が遅い』


「言うようになったな」


 二人はいつものように言い合いながら、街道を進んでいった。


 リサは宿の前で手を振った。


「また来てくださいね!」


 ガルドが振り返る。


「ああ!」


 バルも大きな翼を一度だけ広げた。


 それが手を振っているように見えた。


     


 旅には、始まりがある。


 終わりもある。


 けれど、仕事が終わったからといって、すべてが終わるわけではない。


 騎士でなくなっても。


 契約がなくなっても。


 一緒にいたいと思うなら、同じ道を歩けばいい。


 その日、《風見亭》を出た老騎士と一頭の竜は、王都とは反対の方へ進んでいった。


 戦いも、任務もない。


 ただ故郷へ帰るための旅。


 それでも二人にとっては、それが新しい旅の始まりだった。


 そして西の街道には、朝の光がゆっくりと差し始めていた。

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