「婚約破棄します!」「了解です。次の方どうぞ」
王立リヒテンベルク学園の卒業パーティーは、毎年、社交界の話題をさらう。
今年は特に、そうだった。
大講堂のシャンデリアは、いつもの倍は磨き上げられている。白い大理石の床がその灯りを映し、淡い金色のドレスを纏った令嬢たちが、礼装の令息や両親と談笑していた。グラスを傾ける音、品のいい笑い声、楽団の奏でる弦の調べ――どれもがいつも通りの、社交界の夜である。
私――マグダレーナ・リリス・ヘルムスタット伯爵令嬢は、講堂の中央に静かに立っていた。
プラチナブロンドの髪を結い上げ、薄紫の瞳を伏せ、両手を前で重ねる。今日のドレスは深い藍色で、銀糸の刺繍が裾を縁取っている。「氷の令嬢」と呼ばれるこの顔は、五歳の頃からひたすら磨いてきた、完璧な仮面だった。
(あらまあ、今夜はシャンデリアの磨き具合まで違いますわ)
心の中では呑気にそんなことを考えている。
そろそろだ、と私は思った。
そう、そろそろなのだ。
壇上に、金髪の青年が現れた。リヒテンベルク王国第一王子、私の婚約者――エーリヒ・バルタザール・リヒテンベルク殿下。輝かしい白の礼装に身を包み、シャンパングラスを掲げ、まるで戦勝報告でもするかのような晴れやかな顔をしている。
その隣には、ピンクブロンドの巻き毛を揺らす小柄な令嬢。カルメリート男爵令嬢ネリィ・カルメリート。淡いピンクのドレスを着て、潤んだ瞳でエーリヒを見上げている。
「皆の者、聞け!」
エーリヒの声が大講堂に響き渡った。談笑がぴたりと止む。
「マグダレーナ・ヘルムスタット伯爵令嬢、お前の悪事はすべて明らかになった!」
ざわめき。視線が私に集中する。私は表情を変えず、ただ顔を上げた。
「ネリィへの陰湿な嫌がらせ、教師への賄賂、私への無関心と侮蔑!」
(あら、よくもまあ、半年もかけてここまで盛ったものですわね)
「お前のような女、王太子妃に相応しくない――婚約は、破棄させてもらう!」
会場が、水を打ったように静まり返った。
次の瞬間、囁き声が波紋のように広がる。誰もが、「氷の令嬢」がどう反応するかを息を呑んで見守っていた。泣き崩れるか、跪いて謝罪するか、それとも激昂するか。
私は、扇子を静かに開いた。
そして、深々とお辞儀をした。
「承知いたしましたわ、殿下」
しん、と会場が再び静まる。誰よりも戸惑った顔をしたのは、ほかならぬエーリヒ本人だった。
「……は?」
「『承知いたしました』と申し上げましたわ、殿下」
「弁明はないのか、と訊いている!」
「ございません」
私はゆっくりと顔を上げた。薄紫の瞳が、エーリヒをまっすぐに射貫く。
「ただ一つだけ、確認させてくださいませ」
「な、なんだ」
「婚約破棄、本当によろしいんですわね? 公の場で、ご宣言として」
エーリヒが眉根を寄せた。
「く、くどい! 当然だ! お前との婚約は、破棄する!」
私は、微笑んだ。
「ありがとうございます」
「……は?」
「これで、諸般の事情がすべて解決いたしますわ」
パンっ、と扇子を閉じる音が、大講堂に響いた。
私は手提げから一冊の小さな名簿を取り出し、それを開いた。今夜のために、半年かけて整えてきた、私だけの名簿を。
そして、初めて、本物の笑みを浮かべる。
「では、皆様」
会場をぐるりと見渡す。ネリィが、なぜか後ずさった。
「ヴァンディール侯爵、シュタール卿、カルディアス殿下、シュテルケンハイム殿下――お待たせいたしました。順番に、お会いしますわ♪」
~~~
「お、お嬢様、その名簿は……まさか」
エーリヒの参謀役グレイ伯爵が、壇上から駆け降りてきた。三十代後半のこの男は、王太子の補佐役として知られているが、社交界では別の顔でも有名だった――各国からの正式書簡を、王家の意向で握り潰し続けてきた男。
私は涼やかに微笑んだ。
「グレイ伯爵、ご無沙汰しております」
「お、お嬢様、その名簿は……」
「半年前から、各国より頂戴しておりました、正式な求婚状の控えでございます」
会場が、再びざわついた。今度のざわめきは、先ほどとは性質が違う。好奇心ではない、戦慄に近い空気だった。
「お、お嬢様、それは何かの間違いで――」
「カルディアス帝国第三皇子エヴァリスト殿下より、一通」
私は、淡々と読み上げ始めた。
「シュテルケンハイム王国第二王子マグヌス殿下より、一通。エーデルラント大公国大公レオナルド閣下より、一通。シュタール王国騎士団長トルステン閣下より、一通。その他、公爵級の方々から八通。合計、十二通」
名簿を一頁ずつ捲りながら、私は淡々と読み上げた。会場のあちこちから、息を呑む音が聞こえる。とりわけ、保護者席の貴族たちの顔が、見る見る変わっていった。彼らはこの数字の意味を、誰よりも早く理解する立場の人々だった。
エーリヒは、まだ事態を呑み込めていない顔をしていた。
「な……何の話だ?」
私は彼に向き直る。
「殿下。私には婚約者がございましたので、頂戴したお手紙にはすべて『申し訳ない、私は婚約者がございますので』とお断り申し上げてまいりました。これは、私が婚約者として果たすべき、当然の務めでしたわ」
「……」
「ですが、たった今、私は自由になりましたので」
扇子の先で、名簿をぽんと叩く。
「公平に、頂戴した順番にお会いし、ご返事いたします」
エーリヒの顔から、見る間に血の気が引いていった。
「な、なぜ……なぜそれを早く言わなかった!?」
「申し上げる必要がないと判断いたしましたわ」
私は小首を傾げて微笑む。
「だって私、つい先ほどまで、殿下の婚約者でしたもの。婚約者がほかの方からの求婚を口にするなど、はしたなくてできませんわよね?」
「そ、それは……」
「それに、殿下が私に関心をお持ちでないことは、五年ほど前から存じておりましたから」
会場のあちこちから、押し殺した笑い声が漏れた。事実、エーリヒは婚約後の三年目あたりからネリィ・カルメリートに入れ込み、私との公務の半分以上を欠席するようになっていた。社交界では公然の秘密だった。
ネリィが、震える声で口を開く。
「ク、マグダレーナ様……本当に、殿下を捨てるんですかぁ……?」
私は、彼女に向き直った。
そして、初めて、心の底からの笑みを浮かべる。氷が溶けるような、しかしどこか凄みのある、本物の微笑み。
「あら、カルメリート様。誤解なさっておいでですわね」
「え……?」
「捨てたのは、殿下ですわよ?」
「……っ」
「私はただ、空いた予定を埋めるだけです。それ以上のことは、何も」
ネリィの目から、涙が引っ込んだ。代わりに、青ざめた頬に、別の感情が浮かんでいた――恐怖だった。
ようやくエーリヒも気がつき始めたようだった。彼女は本当に泣くつもりも、戻るつもりも、そもそも最初から、彼を選んだことなど――なかったのだと。
私は、深々と一礼した。
「では皆様、よい夜を。私は明日、最初の方とのお話に伺いますので、これにて失礼いたしますわ」
ドレスの裾を翻し、私は大講堂を後にした。
背中で、エーリヒの「待て」という掠れた声が聞こえた気がしたが、私は振り返らなかった。
~~~
馬車に揺られて屋敷に戻ると、玄関の階段で父が待っていた。
ヴィルフリート・ヘルムスタット伯爵、五十二歳。栗色の髪に白いものが混じり始めた、温厚な紳士。
その隣に、見覚えのある三人の男が立っていた。王家の使者だった。
(あらまあ、もう来ましたの)
私が馬車から降りるよりも先に、父はゆっくりと階段を降りてきた。その隣で、王家の使者の一人が早口に話しかけてくる。
「ヘルムスタット伯爵、王太子殿下からの伝言です。先ほどの婚約破棄宣言はジョークでございましたゆえ、明日からは通常通り――」
父は、初めて見るような笑顔を浮かべた。
普段の温和な微笑みではない。穏やかな、しかし氷点下の――娘である私すらぞっとするような、笑顔だった。
「ジョーク、ですか」
「は、はい」
「公の場で、御自ら、はっきりと、参列者全員の前で、ご宣言なさったご様子でしたが」
「い、いえ、それは、その――」
「それを『ジョーク』と呼ぶのは、王太子殿下の人格を疑うことになりませんかな?」
使者三人が、青ざめた。
「お引き取りを」
父はゆっくりと言った。
「マグダレーナはもう、王太子殿下の婚約者ではございません。今後、王家からのご連絡は、すべて私を通してくださいますよう」
「し、しかし――」
「お引き取りを、と申し上げました」
低い声に、使者たちは飛び上がるようにして馬車に戻り、慌ただしく去っていった。
玄関の扉が閉まる。父の背中が、少しだけ震えていた。
「……お父様」
私は静かに父の前に立つ。父はゆっくりと振り返り、私の前に膝をついた。私の手を取り、その甲に額を押し当てる。
「お父様、何を――」
「マグダレーナ」
低く、震えた声だった。
「お前が婚約していた六年間、父はどれだけ歯を食いしばってきたか、お前は知っているか」
私は、何も言えなかった。
「他国からの正式な求婚状を握り潰されかけ、領地経営に介入され、お前との時間まで奪われた。お前が王家の意向で社交界で侮辱されたとき、父は何度も剣を抜きそうになった。だが、抜けば、お前の立場が悪くなる」
父の声が、わずかに掠れた。
「だから、耐えた。耐えて、待った。お前自身が、『もう十分です』と言ってくれる日を」
私の薄紫の瞳に、初めて涙が浮かんだ。
「お父様、私……」
「半年前、お前が『お父様、求婚状の控えを保管しておいてくださいませ』と言ったとき、父は理解した。お前は、ずっと前から、見ていたんだね」
私はうなずいた。
エーリヒの不貞も、ネリィの陰口も、王家の握り潰しも。すべて、知っていた。知っていて、ただ静かに、次の手を整えていた。
「今夜、すべて終わった」
父は私の手をぎゅっと握りしめた。
「明日からは、お前が本当に望む相手に、お前自身の言葉で、返事をしなさい。父はもう、何にも口を出さない」
「お父様……」
「お前の選択を、尊重するよ、マグダレーナ」
私は、父の前にゆっくりと膝をつき、その肩を抱きしめた。
六年間で、初めて、声をあげて泣いた。
~~~
翌朝、九時。
ヘルムスタット伯爵邸の前には、すでに三台の外国の馬車が並んでいた。
私は朝食を済ませ、髪を結い上げ、応接間の椅子に座って、最初の客を迎える準備をした。隣には父。父は今日、屋敷を一歩も離れないと宣言していた。
「最初のお客様、お通しいたします」
執事の声に、私は背筋を伸ばす。
ガラリ、と扉が開いた。
そして、ドカッ、という重い音とともに、巨漢が応接間に踏み込んできた。
身長二メートル近い。肩幅は通常の人間の二倍はある。背中に背負った大剣が、扉の枠にぶつかりそうだった。
シュテルケンハイム王国第二王子、マグヌス・シュテルケンハイム殿下。
「マグダレーナ殿!」
声がデカい。シャンデリアが揺れた気がする。
「俺と結婚しろ! 強い子供を産もう!」
応接間の空気が凍りついた。父が、こめかみを押さえた。
私は、にっこりと微笑んだ。
「殿下。私は出産の道具ではございません」
ピシャリと、扇子を閉じる音。
マグヌスは、一瞬硬直し、それから――頭を抱えて、その場に正座した。
「ぐっ……正論、すまん! 俺、口が悪いだけで悪気はないんだ!」
正座のまま、深々と頭を下げる。
「もう一度言わせてくれ、マグダレーナ殿! 貴女の知性と気品に惚れた! 俺と結婚してくれ!」
私は、扇子の陰でくすりと笑った。本当に、悪い人ではないらしい。ただ、私には合わないだけで。
「お気持ちは光栄ですわ、殿下。ですが、次の方がお待ちですので、本日はここまでに」
「分かった!」
マグヌスは即座に立ち上がり、爽やかな笑顔を見せた。
「マグダレーナ殿、貴女は素晴らしい女性だ。俺の手には余る! が、選ばれた男は幸せだぞ! はっはっは!」
そう言い残し、彼は大股で去っていった。
父が、ぽつりと呟いた。
「……シュテルケンハイム王国は、騎士道精神が強いお国柄だから」
「ええ、嫌いではありませんでしたわ」
「だが、合わなかったね」
「合いませんでしたわね」
~~~
二人目のお客様の馬車は、すでに屋敷の前に停まっていた。
応接間に入ってきたのは、両腕いっぱいに薔薇を抱えた中年男性だった。
エーデルラント大公国大公、レオナルド・エーデルラント閣下、四十一歳。
宝石まみれだった。指には大粒のルビー、サファイア、エメラルドの指輪が五つ。首には金鎖、胸には勲章――いや、何度見ても勲章ではなく、ただの装飾用ブローチだった。
「マグダレーナ嬢」
低い、艶のある声。
「君のためなら、王国一つ買ってあげよう」
応接間の空気が、再び凍りついた。父が、こめかみをもう一度押さえた。
「君のために、我が領地の中心部に、君のためだけの宮殿を建設中だ。完成は半年後を予定している」
私は、にっこりと微笑んだ。
「結構ですわ、大公閣下」
「ん?」
「私、自分の領地で間に合っております」
「では、宮殿を二つ……」
「次の方、どうぞ」
レオナルドは、一瞬きょとんとした顔をした後、「ふぅむ」と顎を撫でた。
「君は、宝石や財に靡かない女性だな。実に素晴らしい。ますます気に入った」
「ありがとうございます。ですが、次の方がお待ちですので」
「分かった。だが、もし気が変わったら、いつでも連絡してくれたまえ。なに、宮殿は三つでも四つでも、私の領地なら何の問題もない」
大公はゆっくりと礼をして去った。薔薇の花束は、応接間のソファに残された。
父が、ため息をついた。
「エーデルラント大公国の経済力は、確かに大陸有数だ」
「ですが、お父様」
「うん、合わなかったね」
「合いませんでしたわね」
~~~
三人目。
応接間の扉が開き、まっすぐな姿勢で入ってきたのは、寡黙な印象の男だった。
シュタール王国騎士団長、トルステン・シュタール閣下、三十二歳。
シュタール王国は北方の小国で、王家の名と騎士団長の家名が同じということは、つまり彼は王族の血を引く騎士団長ということになる。寡黙、誠実、剣の達人として大陸中に名を轟かせている男。学園で剣術を首席で修めた私から見ても、彼の剣名は遥か別格だった。
トルステンは、私の前に立ち、まっすぐ私を見つめた。
「マグダレーナ・ヘルムスタット嬢」
低く、誠実な声。
「貴女を、生涯、守る」
私は、ほんの少し心が動いた。
実直で、まっすぐで、嘘のない言葉。彼の青い瞳には、計算も打算もなかった。
しかし、私は答えた。
「ご立派なお言葉ですが」
扇子の陰で、悪戯っぽく目を細めて。
「私の方が剣の腕は上ですわよ?」
ジョークのつもりだった。学園では確かに首席だったが、剣の達人と称されるトルステン相手にそれが通用するとは、私自身、思っていない。ただの軽口だった。
ところが。
トルステンは、真顔で動揺した。
「……マジ、ですか」
「(マジって何ですの)」
私は思わず吹き出しそうになった。父が、口に手を当てて笑いをこらえている。
「……冗談ですわ、卿」
私は微笑んだ。
「ですが、私は、剣で守られたい娘ではないのです。卿の誠実さは、必ずや、卿を本当に必要としてくださる方を見つけるでしょう」
トルステンは、深く頷いた。それから、真顔で付け加えた。
「もし、剣の腕を試したくなったら、いつでもシュタール王国にお越しを」
「(本気にしておられますわね……)」
「ご武運を」
そう言い残して、彼は去った。
父が、咳払いをした。
「トルステン卿は、本当に良い男だ」
「ええ、本当に。ですが」
「合わなかったね」
「合いませんでしたわね」
私と父は、顔を見合わせて、思わず笑った。
~~~
四人目。
時刻は午後一時を回っていた。屋敷の前に、見たことのない紋章を掲げた馬車が、静かに停まる。執事が、緊張した面持ちで報告に来た。
「お嬢様、四人目のお客様がお見えです。あの……カルディアス帝国の第三皇子殿下、エヴァリスト・セラフィーノ・カルディアス殿下、です」
応接間の扉が、ゆっくりと開いた。
そして、扉の向こうに立っていた男を見た瞬間、私は扇子を取り落としそうになった。
漆黒の長髪を緩く後ろで束ね、深い藍の瞳をした、長身の青年。穏やかな笑みを浮かべて、私を見つめている。礼装は黒を基調とした品のあるもので、過剰な装飾は一切ない。
その顔に、見覚えがあった。
「お会いできるのを、二年待っていました」
低く、穏やかな声。
「二年……?」
私の記憶が、ぱちりと音を立てて繋がった。
二年前、外交舞踏会。私はまだ十五歳で、エーリヒに連れられて参加した、あの夜。エーリヒはネリィと踊ることに忙しく、私を放置していた。バルコニーで一人で月を眺めていた私に、声をかけてきた青年がいた――。
「君、リヒテンベルクの令嬢かい? 月が綺麗だね」
「ええ。けれど、毒も綺麗な色をしておりますわ」
「ふっ……気に入った」
あれは――。
「エヴァリスト殿下……?」
「覚えていてくださいましたか」
彼は応接間に進み出て、私の前に静かに立った。そして、懐から、丁寧に紐で束ねられた手紙の控えを取り出した。
「お返事のなかった、私からの手紙の控えです。三十六通、毎月一通ずつ」
私の顔から、血の気が引いた。
「……お手紙、一通もいただいておりませんわ」
「やはり、握り潰されていたんですね」
エヴァリストの声に、怒りはなかった。ただ、静かな確信があった。
「あの夜以来、私はずっと、君に手紙を書いていました。月に一通、欠かさず。返事がないのは、君が婚約者として礼節を守っているからだと、最初は思っていました。だが、半年経っても一年経っても、何の反応もない。それで、リヒテンベルク国内の協力者に調査を依頼した」
「……」
「結果は、私が想像した通りでした。手紙はすべて、王家とグレイ伯爵の手で、握り潰されていた」
父が、こめかみを押さえた。
「やはり、グレイか……」
「ですから、私は決めました」
エヴァリストは、私の前に片膝をついた。彼の藍色の瞳が、まっすぐ私を見上げる。
「あなたの婚約破棄を、私はずっと祈っていました。失礼な祈りですが、二年間、欠かさず」
「……」
「ようやくその日が来ました。マグダレーナ嬢、私の妃に、なってくださいますか」
私は、声を失った。
完璧な令嬢の仮面が、ぱりんと音を立てて剥がれ落ちる。
そして、人生で初めて、声を出して笑った。
肩を震わせながら、笑いを抑えきれず、私はようやく口を開いた。
「エヴァリスト殿下」
「はい」
「もし私が、今ここで『はい』とお答えしたら、どうなさいますの?」
「即座に、カルディアス帝国の外交ルートを通じて、リヒテンベルク王家に正式な婚約申請を行います」
「即座に?」
「すでに大使館に待機させております」
「(用意周到ですわね)……お父様、どう思われますか?」
父は、しばらく目を閉じていた。
それから、目を開けて、にっこりと微笑んだ。
「父は何も口を出さないと、昨夜申し上げたよ」
「お父様」
「が」
父は、エヴァリストに視線を向けた。
「エヴァリスト殿下。娘は私の宝物です。大切に、してくださいますね」
「我が命と、帝国の名にかけて」
「結構です」
父はうなずき、私に視線を戻した。
「マグダレーナ、お前の答えは?」
私は、深呼吸をした。
そして、扇子をパンっと閉じて、にっこりと微笑んだ。
「エヴァリスト殿下」
「はい」
「お返事は、『はい』ですわ♪」
応接間に、穏やかな笑い声が満ちた。
エヴァリストは、私の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
「ありがとうございます、マグダレーナ嬢。生涯をかけて、君を幸せにします」
「(あらまあ、これは……負けましたわ)」
私は、扇子の陰で頬を染めながら、心の中でそう呟いた。
~~~
その夜、王宮は文字通り、揺れていた。
カルディアス帝国の大使が、即日、王家に正式な抗議書を提出したのだ。「我が国第三皇子殿下の二年間にわたる正式書簡が、貴国王家の手によって組織的に妨害されていた件、説明を求める」と。
これは、もはや恋愛沙汰ではない。一国の王家が、大帝国の皇子の正式書簡を握り潰し続けたという、国際問題である。
しかも、カルディアス帝国はリヒテンベルク王国の国力の十倍以上を誇る大国だった。経済規模、軍事力、外交力、すべてにおいて圧倒的な格差がある。その帝国の皇子の手紙を、二年間、三十六通、組織的に握り潰す――これがどれほどの非礼か、王宮の老臣たちは即座に理解した。
深夜十一時。
ヘルムスタット伯爵邸の正門が、激しく叩かれた。
「マグダレーナ! いるんだろう、開けてくれ!」
エーリヒの声だった。
私は、寝間着ではなく完璧な夜会服を纏ったまま、応接間で紅茶を飲んでいた。
(あらまあ、思ったより早くいらっしゃいましたわね)
私は、執事に頷いた。
「お通しして」
応接間の扉が開く。飛び込んできたエーリヒは、見るも無残な状態だった。礼装は乱れ、髪は乱れ、目は血走り、顔色は紙のように白い。彼の後ろには、グレイ伯爵もいた。グレイは、すでに半分腰が抜けていた。
「マグダレーナ! 頼む、婚約破棄は撤回する! 俺が悪かった!」
私は、紅茶のカップを静かにソーサーに戻した。
「殿下」
「な、なんだ」
「公の場で宣言された婚約破棄は、撤回できないものとされておりますわ」
「だ、だが――」
「それに、私はすでに次の婚約相手を選定中ですので」
エーリヒの目が、見開かれた。
「待て! なぜそんなに早く決めるんだ!? 一日で!?」
私は、にっこりと微笑んだ。
「あら、殿下、お忘れですか?」
扇子を、ゆっくりと開く。
「『次の方どうぞ』と申し上げましたでしょう?」
エーリヒが、よろめいた。
「マグダレーナ……お前、本気で……」
「殿下」
私は、扇子の陰で、にっこりと笑った。
「あなたが私の手紙を握り潰した二年間、私が知らないままだったとお思いですの?」
エーリヒの顔から、最後の血の気が引いた。
「な……」
「お父様が、すべての証拠を集めておられましたのよ」
私は、悠然と立ち上がった。
「カルメリート様の偽証も、教師への賄賂工作も、グレイ伯爵による書簡の握り潰しも――すべて」
グレイ伯爵が、その場に崩れ落ちた。
「殿下が私を侮辱なさるたび、お父様は静かに記録を取られておりました。半年前、私が『そろそろですわ』と申し上げたとき、すでに証拠は揃っておりましたの」
私は、ゆっくりと続けた。
「殿下、ご自分が何を成しになったか、お分かりですか? カルディアス帝国の皇子の正式書簡を、二年間、組織的に妨害なさったのですわよ? これは、もはや王家の私的な問題では済みませんわ」
エーリヒの唇が、わなわなと震えた。
「俺は……俺はそんなつもりでは……」
「グレイ伯爵が独断で処理されたとお思いになりますか? 明日、帝国の外交使節団が王宮に到着しますわ。私は同席いたしません。証拠の提出は、お父様が直接、なさるそうですわ」
エーリヒは、その場にへたり込んだ。
「マグダレーナ……頼む……俺を、見捨てないでくれ……」
私は、静かに彼を見下ろした。
そして、最後に、ひと言だけ微笑んで言った。
「殿下、お忘れですか?」
「な、なんだ……」
「捨てたのは、殿下ですわよ?」
応接間の扉が、執事の手で静かに閉じられた。
~~~
翌朝、リヒテンベルク国王から、正式な発表があった。
第一王子エーリヒ・バルタザール・リヒテンベルクは、王太子の地位を返上。第二王子が、新王太子として立つこと。
カルメリート男爵家は爵位剥奪。ネリィ・カルメリートは、辺境の修道院に送られること。
グレイ伯爵は、領地半減、王宮からの永久追放。
そして、ヘルムスタット伯爵令嬢マグダレーナと、カルディアス帝国第三皇子エヴァリスト・セラフィーノ・カルディアス殿下との婚約が、両国によって正式に承認されたこと。
リヒテンベルク王国は、カルディアス帝国に対し、外交的な賠償として、いくつかの貿易特権を譲渡することとなった。マグダレーナへの「結婚祝い」という名目で。
社交界は、しばらくこの話題で持ち切りだった。
「氷の令嬢、ついに笑った」と。
~~~
半年後。カルディアス帝国の壮麗な王宮で、私とエヴァリスト殿下の婚約式が執り行われた。
帝国の人々は、私を温かく迎えてくれた。エヴァリスト殿下は、私が来る半年前から、私の好む茶葉、本、音楽、すべてを宮殿に揃えていたという。「君が来たときに、不自由しないように」と。
(あらまあ、本当に二年越しでしたのね)
父も参列していた。今日の父は、いつになく晴れやかな顔をしている。式の途中、私の手を、そっとエヴァリスト殿下の手に重ねた。父の手は、わずかに震えていた。
「マグダレーナを、よろしくお願いいたします」
「我が命にかけて」
父は、深く頷いた。それから、こっそりと私に耳打ちした。
「お前、本当に良かったね」
「ええ、お父様」
「……父は、お前が幸せになる日を、ずっと待っていた」
私の薄紫の瞳が、わずかに潤んだ。
式の後、私とエヴァリスト殿下は、二人きりで、王宮のバルコニーに出た。夕陽が、帝国の街並みを赤く染めている。
「やっと、君を私の隣に迎えることができました」
エヴァリスト殿下が、穏やかに言った。
私は、彼を見上げて、微笑んだ。
「お待たせいたしましたわ」
しばしの沈黙の後、私は扇子をそっと閉じた。
「エヴァリスト殿下」
「はい」
「これからは『殿下』ではなく、『様』で、お呼びしてもよろしくて?」
彼は、目を見開き、それから、嬉しそうに頷いた。
「ええ、もちろん。マグダレーナ」
彼が私の名前を呼んだ。「嬢」もつけずに、ただ、マグダレーナと――それは初めてのことだった。
私は、扇子の陰で、人生で一番、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「では、エヴァリスト様。これからどうぞよろしくお願いいたしますわ♪」
エヴァリスト様は、ふっと笑って、私の手を取った。
「こちらこそ。生涯をかけて」
そう言って、私の手の甲に、そっと唇を寄せた。
夕陽が、二人の影を長く伸ばす。
卒業パーティーで「次の方どうぞ」と笑った氷の令嬢は、最後の「次の方」を、しっかりと両手で抱きしめた。
そして、もう、振り返らなかった。
最後まで読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!
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