あの日、親友を助けなかった俺は、生涯その代償を払うことになった
エルド、ライゼ、フィリア。
三人の名前は、孤児院の誰もがまとめて呼んだ。
「三つ葉」――いつも一緒にいるから、そう呼ばれた。
寒い夜は一枚の毛布に潜り込み、
腹が減れば一つの皿を三人で囲んだ。
泣く時は三人まとめて泣き、
笑う時も三人まとめて笑った。
大人になって冒険者になった時も、
当然のように三人は同じパーティを組んだ。
誰も「一緒にやる?」なんて聞かなかった。
聞く必要がなかった。
エルドは、ずっとフィリアが好きだった。
小さな頃から、彼女の笑顔を見るたび胸が温かくなった。
けれど、その気持ちを伝えたことはない。
理由は簡単だった。
ライゼもフィリアを見ていた。
そして、
フィリアもライゼを見ていた。
言葉にされたわけじゃない。
ただ、二人の視線の交わり方を見ていれば分かった。
エルドはその輪の外側に立ち、
その光景を静かに見守るのが自分の役目だと思っていた。
――二人が幸せなら、それでいい。
そう思っていた。
そう思い込んでいた。
けれど、胸の奥に沈んだ小さな痛みは、
いつからか消えなくなっていた。
森の奥は、昼でも薄暗かった。
湿った土の匂いと、どこかで鳴く魔物の声が混ざり合う。
「数、多いな……」
ライゼが剣を構えながら言った。
「でも三人なら大丈夫だよ」
フィリアが微笑む。
その笑顔に、エルドの胸が少しだけ熱くなる。
三人は背中を合わせ、円を作った。
いつも通りの陣形。
何度も生き延びてきた形。
魔物が一斉に飛びかかってきた。
剣がぶつかる音。
フィリアの詠唱。
ライゼの短い息遣い。
エルドはそれらを聞きながら、冷静に敵を斬り伏せていく。
――この三人なら、どんな敵でも倒せる。
そう思っていた。
だが、その瞬間だった。
「ライゼ、後ろ――!」
エルドの声より早く、
巨大な影がライゼの背後に迫っていた。
ライゼは別の魔物と斬り結んでいて気づかない。
フィリアも前方の敵に集中している。
気づいているのは、エルドだけ。
エルドは走り出そうとした。
剣を握り直し、地面を蹴る――はずだった。
だが、胸の奥に、黒いものが浮かんだ。
――もし、このまま助けなければ。
ライゼがいなくなれば。
フィリアは……俺のことを……。
その考えが、
エルドの足をほんの一瞬だけ止めた。
本当に、一瞬だった。
瞬きほどの時間。
けれど、それで十分だった。
魔物の爪が、ライゼの背を貫いた。
「……っ!」
ライゼの体が前のめりに倒れる。
剣が手から滑り落ち、土に沈む。
「ライゼ!!」
フィリアの叫びが森に響いた。
エルドは遅れて魔物に斬りかかったが、
もう遅かった。
魔物の体が倒れ、
静寂が戻る。
ライゼは動かなかった。
フィリアは膝をつき、震える手でライゼの肩を揺らした。
「いや……いやだよ……ライゼ……起きて……」
エルドはその光景を見つめながら、
胸の奥が焼けるように痛んだ。
自分が、
親友を殺した。
その事実が、
森の冷たい空気よりも重くのしかかった。
ライゼの遺体を抱きしめたまま、フィリアは動かなかった。
肩は震え、声は途切れ、涙だけが止まらず流れ続けた。
「……ライゼ……どうして……」
その声を聞きながら、エルドは何も言えなかった。
喉が焼けるように痛いのに、声が出ない。
言葉を探そうとするたび、胸の奥の黒い影が形を持って迫ってくる。
――俺が殺した。
――俺が、親友を。
フィリアの泣き声が、刃のように突き刺さる。
慰める資格なんてない。
触れる資格もない。
エルドはただ、立ち尽くしていた。
その後のことは、ほとんど覚えていない。
ギルドに報告し、葬儀を済ませ、
フィリアが泣き疲れて眠るのを見守り、
気づけば二人は冒険者を辞めて故郷へ戻っていた。
孤児院の前に立った時、
フィリアは小さく呟いた。
「……帰ってきたね、エルド」
その声は、昔と同じ優しさを持っていた。
けれど、エルドにはその優しさが痛かった。
「……ああ」
それだけ答えるのが精一杯だった。
フィリアはエルドの横に立ち、
まるで寄り添うように肩を並べた。
その距離は、手を伸ばせば触れられるほど近い。
だが、エルドは一歩だけ後ろへ下がった。
フィリアが驚いたように振り返る。
「エルド……?」
「……ごめん。少し……疲れてるだけだ」
嘘だった。
本当は、彼女のそばにいると息が苦しくなる。
罪が、喉元までせり上がってくる。
フィリアは心配そうに眉を寄せたが、
それ以上は何も言わなかった。
その沈黙が、エルドには救いでもあり、罰でもあった。
それからの日々、
二人は同じ町にいながら、
付かず離れずの距離を保ち続けた。
フィリアは時々エルドを訪ねてきた。
昔のように笑いかけ、
昔のように話しかけ、
昔のように寄り添おうとした。
けれどエルドは、
いつも一歩だけ距離を置いた。
――これ以上、彼女を傷つけたくない。
――俺のそばにいると、彼女はまた泣く。
そう思い込むことで、
エルドは自分を保っていた。
だがその距離が、
フィリアの心にどんな影を落としていたのか、
エルドはまだ知らなかった。
季節がいくつも過ぎた。
ライゼの死から、もう何年も経っていた。
フィリアは少しずつ笑顔を取り戻した。
町の人に頼られ、子どもたちに慕われ、
孤児院の手伝いをしながら、前へ進んでいった。
ある日、フィリアはエルドに言った。
「……私、結婚することになったの」
その声は、どこか申し訳なさそうだった。
エルドはゆっくりと頷いた。
「……そうか。よかったな」
本心ではなかった。
けれど、そう言うしかなかった。
フィリアは少しだけ笑った。
その笑顔は、昔のように柔らかかった。
「エルドも……幸せになってほしい」
その言葉が胸に刺さった。
エルドは視線をそらし、
「ありがとう」とだけ答えた。
フィリアはやがて母になった。
子どもを抱く姿は、驚くほど自然で、
その横顔には穏やかな幸福が宿っていた。
エルドは遠くからその光景を見ていた。
近づけば祝福の言葉をかけられた。
けれど、心の奥に沈んだ罪が、
彼の足をいつも止めた。
――俺が、あの日、足を止めなければ。
――三人は、今も一緒に笑えていたかもしれない。
その思いが、
エルドを生涯独身のまま縛りつけた。
フィリアは時々、エルドの家を訪れた。
子どもを連れて、昔話をしながら笑った。
「エルド、あなたも誰かと……」
「俺はいいよ。向いてない」
エルドはいつも同じように笑って答えた。
その笑顔が嘘だと、フィリアは気づいていたのかもしれない。
けれど、彼女はそれ以上踏み込まなかった。
すれ違いは、争いではなく、
静かな優しさの形をしていた。
エルドは、フィリアの幸せを壊したくなかった。
フィリアは、エルドの痛みに触れたくなかった。
だから二人は、
近くにいるのに、決して交わらない道を歩き続けた。
その距離は、
あの日の一瞬よりも、
ずっと長く、ずっと深かった。
時は流れた。
エルドの髪には白いものが混じり、
フィリアの子どもは立派に成長し、
町の景色も少しずつ変わっていった。
フィリアは穏やかに歳を重ね、
やがて、老衰で静かに息を引き取った。
その知らせを聞いた時、
エルドの胸の奥で、何かが音もなく崩れた。
葬式の日。
春の風が吹き、桜の花びらが舞っていた。
フィリアの棺の前に立つと、
エルドは胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
――もう、二度と話せない。
――もう、二度と笑いかけてくれない。
その事実が、静かに、確実に、心を削った。
式が終わる頃、
フィリアの子どもがエルドに近づいてきた。
「エルドさん……母から預かっていたものがあります」
差し出されたのは、
古びた封筒だった。
角は擦り切れ、紙は少し黄ばんでいる。
エルドは震える手で封を開けた。
中には、一枚の手紙。
若い頃のフィリアの筆跡だった。
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エルドへ。
私は、ずっとあなたが好きでした。
子どもの頃から、ずっと。
でも、ライゼが死んでから、
あなたが私を見るたびに苦しそうにしていたから、
そばにいることができませんでした。
本当は、あなたの隣にいたかった。
でも、あなたが笑えなくなるのが怖かった。
どうか、あなたが幸せでありますように。
ずっと、そう願っています。
---
文字が滲んで読めなくなった。
涙が落ちていることに気づいたのは、
手紙を胸に抱きしめた後だった。
エルドは空を見上げた。
春の風が頬を撫でる。
桜の花びらが舞い、
まるでフィリアが微笑んでいるように見えた。
「……ごめん。
ずっと……俺は……」
声は震え、
風に溶けて消えていった。
あの日、
ほんの一瞬、足を止めなければ。
勇気を出して気持ちを伝えていれば。
三人の未来は、違っていたかもしれない。
後悔は、
老いた心を容赦なく締めつけた。
けれど、
胸に抱いた手紙の温もりだけが、
エルドの長い人生で初めて、
彼を優しく救ってくれた。




