記憶の外部ストレージ
カナは、重度の「顔覚えの悪さ」をテクノロジーで克服していた。 愛用のスマートグラス『アイ・メモリー』。彼女が街で誰かに視線を固定し、フレームを軽くタップすれば、AIが過去の記録を照合して教えてくれる。 「三週間前、駅前のカフェで会った、仕事仲間の佐藤さんです」 記録容量を節約するため、記録は数秒おきのタイムラプス。それでもカナには十分だった。世界はタグ付けされ、整理され、安全な場所になったはずだった。
あの日、雨の降る夜道で。 背後に衝撃を感じたとき、最初は「ぶつかった」のだと思った。だが、熱い感覚が脇腹から広がり、カナは崩れ落ちた。 覆面の男が、震える手でカナの顔からスマートグラスを剥ぎ取ろうとする。カナは死に物狂いでデバイスを死守し、人差し指が反射的に――いつもの癖で、フレームのセンサーを叩いた。
視界の端、ARディスプレイに、男の顔を囲む枠が真っ赤に染まって表示された。 同時に、ログが猛烈な勢いで流れ出す。
【照合完了:タグ『不明な人物A』】 【過去の接触:1,248回】 【会話履歴:なし】
カナは、血の気が引くのを感じた。刺された痛みよりも、その数字の異常さに。 AIが、男の顔が写り込んだ過去のタイムラプス画像を高速で呼び出し、網膜に投射する。
一ヶ月前。通勤電車、カナの背後の窓に映る男。 二週間前。お気に入りのパン屋、隣の棚でトングを持つ男。 三日前。自宅の窓の向かい側、電柱の陰に立つ男。
会話は一度もない。だが、彼はカナの日常のあらゆるコマに、幽霊のように「記録」されていた。 カナが「今日もいい天気だな」と空を見上げたその瞬間の、視界の端に。
「あ……」 男がグラスをもぎ取った。カナの視界からARの補助線が消え、ただの暗い雨の夜が残った。 男の本当の顔すら、もうカナには思い出せなかった。




