甲太郎、吹き飛ぶ。
濃厚な茶色土の地面。
不確定な大きさの石が混じり、範囲や深さの定まらない溝や土によって形成された盛り上がりのある整備のなされていないありのままの姿の地面が広がっている。
その土台から伸びた真っ黒な足が二本、黒く大きさにゆとりのあるズボンが履かれた長い脚。
その脚の持ち主は腰を大きく曲げ、深々と頭を下げた状態の一人の青年であった。
肩幅は広く、背の高い真っ黒な学ランに身を包んだ青年、頭を下げた事により後ろ首や耳を覆いそうな程の長さの真っ黒な髪もばさりと地面を指し示している。
深々と頭を下ろしお辞儀をする背の高い男がそこに居るのである。
その前方には一人の老爺がいる。
真っ白な長袖のコックコートに身を包んだ小柄な老人。
残った髪の毛は一本も無くつるりと禿げ上がり、真っ白な白髪で構成された尻尾の様な長い眉に垂れた目付き、口全体を包み込み、長く伸ばされたサンタクロースの様なこれもまた白髪で構成された髭、皺のよった仙人の様な顔つきである。
前に立った青年の胸の辺りまで程の背丈の腰の曲がった老人が両手を腰の辺りで組んで立っている。
円形状に乱雑な位置で無数の木々の立ち並ぶ雑木林を切り出した広場に焦げ茶に染まる木造の社殿、どこにでもありそうな神社の境内の中、雑木林の中から一本の巨木が広場へ倒れこみ、二人の人間が対峙し、その一方が深く頭を下げ、お辞儀をしているという変わった光景。
「顔を上げなさい」
そんな中、ゆったりとしたしわがれた声が聞こえる、青年の眼前に立った老爺の放った言葉である。
その言葉を聞いた青年はゆっくりと腰と顔をを上げる。
彼の垂れ下がった長いぼさぼさとした黒い髪が元の位置に戻り、少し瞼が落ちてはいるが引き締まった中々に精悍な顔立ちがあらわになる。
彼が羽織っている学ランのボタンは全て外されていた。
中には何も着ておらず、肌色の胸板と腹部をぐるぐるときつく巻かれた包帯と、上半身は殆ど裸の状態である。
老爺の目の前に立つがっしりとした体つきの青年、加賀見甲太郎の全貌が明らかになった。
「お前さんは確か少し前にうちの店に来た学生さん、で良かったかな ?」
顔を上げた甲太郎へ対し、老人はゆったりと流れる速さで甲太郎へ向けての問いかける。
「ええ」
老人へ食い入るように眼で捕らえたままに老人の言葉へ答える甲太郎、その声を捕らえた老爺は曲がった腰の後ろで両手を組みながら体を右方向へ転換する。
「嬉しいのお……」
ぽつりと、短く優しげに口から発せられる老爺の一言。
「長年ずっと夢見て来たわしのこの『技』に興味を示す人間が現れてくれるとは」
しんみりと、言葉を続ける老爺、独り言のように何も無い先へ柔らかに声を発している。
「今まで声を掛けて来たこの力を継ぐ力を持った若者たち、彼らに信じられず、不要とされたこの『技』を習得したいと言ってくれる者が現れるとは」
頭を上げ、空を見つめながら老爺は全ての言葉を吐き出し終える。
言葉を終えるまで何もせず、何も言わずにいた甲太郎が一息だけ吐き出し、横たわった大木へ体を向ける。
甲太郎が巨漢のような太さの皺のよった丸太を見つめる。
「今は、何だって構わない」
甲太郎がぽつりと声を漏らす。
「俺にもこれを倒すくらい、いや、それ以上の戦う為の力が必要なんです !」
丸太に向かって声を張り上げる甲太郎、しかし、言葉に込められた真意の対象は間違いなく老爺に対しての物である。
「わしは継ぐ者を欲し、お前さんは力を欲する」
「ならば、お互いこれ以上は言葉は不要、か」
甲太郎の言葉に老爺は彼の方へと向き直り、結論付けたように言う。
「ついて来なさい」
そして、未だに大木へ向いた甲太郎を誘導する言葉を老爺が放った。
「さて……」
老爺が何かを始めるかのように短く声を吐き出す。
先程の地面と同じ色ではあるが、日をカーテンで遮ったような影に包まれた湿気りの混じった地面である。
辺りには所狭しと高さや太さ、種類すらも一致しない木々がばらけて群生している。
寺の本堂前の広場から外れた雑木林の中、二人の今いる場所である。
「近くに来て見てみなさい」
老爺が振り返り、少し離れた場所に居るその場所に来るまでは彼の後ろを付いて歩いていたであろう甲太郎へ言葉を投げかける。
その言葉に対応し、甲太郎が早歩きの速度で老爺の隣へ並び、その彼の膝辺りの高さにあるものへと視線を落とす。
そこにあるのは倒れた巨木。
像の足を二つ束ねたかのような太さの巨木、力強く根付いた根、傷ひとつ見当たらず、天を突き破らんばかりの勢いで伸びていたであろう幹。
その幹の底部が真っ二つに、小枝をへし折ったかのような大雑把な撓りのある繊維を残した切り口を露出しながら地に伏していた。
その場に残ったのは巨大な、歪な切り口の少しだけ背の高い切り株だけである。
「このわしが切り倒した樹木を見て、感じたことを述べてみなさい」
倒された巨木を凝視していた甲太郎へ老爺が甲太郎へと問う。
「この木は刃物の類で切り倒されたものでは無く、何か鈍器のようなもので切り倒された」
甲太郎がしゃがみ込み、切り口へ近づきながら老爺の質問へ対し言葉を吐き出す。
「ここに」
甲太郎が切り口の少し上を指し示すように指で撫でる。
そこにはくっきりと、細長い楕円の跡が刻み込まれていた。
「多分、ここに跡を残した物でこの木を切り倒したんでしょうね」
しゃがんだままに老爺の方へ顔を向けて問いに対する答えを更に提示する甲太郎、老爺は甲太郎の顔を見据える。
「そう、それを切り倒した物は刃物の類ではなく、跡はそれによる物……」
柔らかな口調で甲太郎の答えを復唱するかのように言う老爺。
「そいつを切り倒した正体」
「それはこれじゃ」
老爺が言い終わる自らの胸のへ腕をやり手を握る。
「手 ?」
甲太郎がしゃがみながら眉と声を潜めて老爺へ言う。
「いんや、コブシよ、拳」
やんわりと否定しながらの老爺の言葉、その言葉が本当であるのならば自らの腕力に頼り『拳』で巨木を倒してのけたということになる。
「わしの筋力では斧を使っても一苦労、ましてやこのような物を力任せの徒手だけで切り倒すのは不可能と言うもの」
更に老爺の言葉は続く。
彼の言葉通り、その服の袖口から飛び出した骨に皮を被せただけの物のような手首から推測される細腕、女性の掌が編み込み、作り出したかのような拳を以ってしてはまず大木を素手で倒すのはほぼ不可能である。
老爺は倒れた幹の傍へ近づき、そこへしゃがみ込むと、木の深い傷口へ腕を伸ばし始める。
そして、老爺は人差し指を曲げ、手の甲を真っ二つに折れた幹へ押し当た。
欠けたパーツが元に当てはまるべき場所であるかのように。
曲げ折られた人差し指は切り口の少しだけ上に存在していた謎の跡へ余さず、はみ出さずにぴったりと合致している。
そこへ跡を残したのは自分の拳だと言う事を行動で伝える老爺。
「これを倒したのは筋力ではなく『技術』だ、わしが培った『技術』によりこの大木を素手で切り倒す事が出来たのだ」
老爺はしゃがみ込んだままに甲太郎へ顔と声をしっかりと向ける。
「ようやく現れたわしの『技と術』を受け継がんとする者……」
「必ずやこれを受け継いで貰うぞっ」
語調を強めつつ、老爺が甲太郎へ向けて言い放つ。
「願っても無い、今の俺には木を倒し、岩を砕くほどの力が絶対に必要だ」
老爺に応じ、甲太郎も彼を見据えて言葉を作り出す。
「必ずその『技と術』を受け継がせてもらうぞ」
押し殺し、力の込められた甲太郎の声、眼は老爺を睨む様に射抜き、口元を綻ばせている。
一致、二人の目線から感じ取れるほどの意思の疎通。
語り、教え、それを継承させようとする『語る者』と語られ教えられ、それを身に叩き込み血肉とする『継ぐ者』、この場に揃った二人の周りからは食い違いの感じられないほどの互いの意志が溢れんばかりに感じ取ることが出来る。
互いの『目的』と『執念』の合致に生み出されていた意思の力がその場を支配していた。
「二週間以内に」
「え ?時間制限付き ?」
どうやら『継ぐ者』から飛び出した言葉は『語る者』にとって予測できない物であったようだ。
それから二分程経った後、二人は雑木林の変わらぬ場所に立っていた。
「どうしても、なのかい ?」
老爺が少し困ったように甲太郎へ疑問をぶつける。
「ええ、泣いても笑ってもタイムリミットは二週間、それ以上は伸ばしようが無い」
甲太郎が喰らい付くような目線で老爺を凝視しながら言う。
それに対し、老爺は甲太郎から視線を外し、顎に手を添えつつ考え込む。
「やれるとかやれんを言うても仕方なし、行ける所まで行こうかの」
溜息と共に老人が甲太郎へゆったりとした口調で言う。
「ありがとうございます !」
「よいよい、それよりも、だ」
深く頭を下げ、声を張り上げ感謝を言葉にする甲太郎に老爺が口を空かさず言葉を重ねる。
「お前さんには聞きたいことが色々とある」
空かさず言葉を連ねる老爺、その言葉に甲太郎も頭を上げ、視線を声を発した彼の方へ移す。
「聞きたいこと、と言うと ?」
老爺の言葉へ問う甲太郎、突然の出来事であったのか少しだけ驚いているようだ。
「何、聞きたいことと言ってもわしの技を何に使うのかとかこれを身に付けて何をするのかとかお前さんの事情の事じゃない」
まるで見透かしているかのような言葉が甲太郎へ投げかけられる。
「お前さんの既に持っている能力……才能や技術とはまた違う常人では到底真似出来ない、肉体が備えた力」
「見せてくれんか ?」
にやりとした笑みと共に続けられる老爺の言葉、回り道をした直接的ではない言葉であるが、甲太郎はきりりと目尻を尖らせて頷く。
老爺の見たいもの、それは甲太郎自身ですら何時の間に身に付いていたものかわからない『特殊機能』の事である。
「わかりました」
はっきりとした声色での甲太郎の応答、そして三歩だけ後ろへ後ずさり右腕に纏わりつく漆黒の袖を捲くり、腕を露出させる。
何の変哲も無く、年相応な肉付きの太さ、濃い肌色にほんの少しの硬さを感じられる肘から上までの腕部、それを開かれた掌を顔の前へ固定するかのように体の前へ持ってくる。
ぐっ、と手を固め拳を形成した瞬間にばちりと破裂音が二人の間に響く。
バチバチバチッ !と間を置かずに連続的な炸裂音が続く。
音を発しているのは甲太郎の捲くられた腕、その腕の表面を四方八方へ無数に這いずり回るのは青白い光の弧状の線。
肘の少し上から拳の表面までを高速で駆け上がり、反対方面を下っていく。
腕を這い回るそれらに甲太郎は呻き声一つ漏らさずに老爺へ腕を見せ付けている。
「こいつが恐らく貴方の言う俺自身の能力、俺自身は何も感じず、俺の意思で自由に発生させたり止めたりできる『電流』の発生」
『電流』、彼の腕の表面を駆け巡る線状の光の正体である。
目をかっと開き口をぽかりと開いた驚きを隠せない表情の老爺、そして、甲太郎の腕から輝きが消える。
「ほおぉ……」
驚愕の溜息を吐き出しながら未だに表情の戻らない老爺が棒立ちになっている。
「手品みたいなタネや仕掛けはありませんよ」
老爺の状態に構わず追い撃ちをかけるかのように甲太郎が言葉を放ちつつ袖を上げて腕を仕舞う。
「まるで夢物語」
辛うじて表情を元に戻した老爺が呆けた声で呟くように言う。
「予想以上、としか言い用が無い」
顎から伸びた白髭を弄りながら更に老爺の独り言の様な感想が口から述べられる。
「お前さんの持つ力はわかった」
老爺が平常心を取り戻したのかいつも通りの表情でゆったりした口調で再び声を発する。
「早速、修行開始ですね」
「いやいや、まだ聞きたい事がある」
気合十分な甲太郎の言葉を颯爽と遮る老爺の相変わらずなスロースピードの声。
「まだ、何か ?」
突然の言葉に思わず硬く力んだ体がが緩んでしまう甲太郎、そして、自分の思考をそのまま口に出して老爺へとぶつける。
ゆっくりと、少し肩を落とした甲太郎へ老爺は近づき、目の前で立ち止まるとゆっくりと手を差し伸べる。
「大貫鉄心、わしの名前だよ」
そして、笑顔と共に差し出される名乗りと握手の要求。
「甲太郎、加賀見甲太郎です」
そんな老爺に甲太郎も口元を綻ばせ、名を名乗り、力強く差し出された手を握る。
「で、早速わしの『技』の伝授に入りたいんだが……」
「だが ?」
互いに雑木林ので少しの距離を取り、対面したままに言葉を発する老爺、鉄心とその言葉の語尾を鸚鵡の様に真似て首を傾げる甲太郎。
「まずは、ちと『技』がどんな物か体感して貰おうかの」
企みの含まれた笑みに似た表情を浮かべながら言葉と共に腕を真っ直ぐに伸ばす鉄心、対する甲太郎はキョトンとした表情でそれを見ている。
枯れ枝の先端に大福でも突き刺したかのような頼りなく拳の握られた腕、拳先は真っ直ぐに甲太郎へ向けられている。
「甲太郎、わしの拳にお前さんの拳を合わせなさい」
鉄心がぼんやりと見ている甲太郎へ言う。
「ええ」
良くわからないと言ったままに甲太郎は鉄心へ近づき、腕を伸ばして拳を作り上げるとその拳の表面を鉄心の拳の表面へと付ける。
合わさる二つの拳、鉄心のものは甲太郎の拳の中指の中心辺りで終わってしまうほどの大きさの拳。
「何をしても良い、思い切り力を入れて腕の力だけでわしを押し出してみなさい」
余裕の口ぶりで鉄心が甲太郎へと告げる。
「わかりました」
鉄心の言葉に素直に答える甲太郎、彼の拳、丸められた指たちが手の甲を掴むように思い切り固められる。
露出した手首に僅かに骨が浮き上がり、眉間に皺を寄せ、思い切り力を込めて拳を押し出そうとする甲太郎。
しかし、鉄心は柔和な笑みを浮かべたまま、先程の体制のまま動かずにいた。
押し合う二人。
次第に甲太郎が脚を縦に開き思い切り歯を食いしばり押し出そうとその場で踏ん張る動きになって行き、頬を汗がつたい始めるが鉄心の方は微動だにせずその場から動かない。
「うううぅ……」
歯を喰いしばったまま甲太郎が微かな唸りを上げ始める。
「ほっほ、頑張るじゃないか」
対する鉄心は暢気に笑いながら言葉を発している、態勢は変わらず表情もおっとりとしたものである。
「何をしてもいい、ですよね ?」
甲太郎がにやりと口元を歪ませ、鉄心へと問いかける。
「腕の力を使うだけならば良い」
その言葉に気にも留めず答える鉄心。
「ぐっ !」
甲太郎が短い唸り声と共に更に力を込める、彼の『電気』の力を使い微弱な電流を筋肉へと流し、筋力を強化し鉄心の腕へ自らの腕を更に押し込んだのだ。
「これで限界かと思ったが……まだ、力を込められるとはな」
少しだけ驚いたかのような口調で言う鉄心、しかし、鉄心の様子は相変わらずであり、態勢に変化も見られない。
「ぐぅおおおっ !」
負けじと食い下がる甲太郎、もう片方の腕で押し出している腕を掴み、咆哮を上げながら腕を押し出し続ける、留まろうとする脚が地面に押し出された真っ直ぐに伸びた線状の靴跡を残す。
「こんな所か」
必死の形相の甲太郎と咆哮とも呼べる程の唸り声とは対極に変わらない暢気な声に涼しい表情の鉄心が呟きと共にふっ、と息を吹く。
「おっ !」
目を見開き、短い叫びを上げた甲太郎がふわりと静かに少しだけ浮き上がり、吹き飛ばされる。
どさり、と柔らかな落下音が鳴る。
そこには甲太郎が2メートル程に離れた場所で尻餅を付き、地面に手を付いて仰向けに近い態勢で地面へ座り込んでいた。
吹き飛ばされた、そう表現するに相応しい甲太郎に起こった現象、目を丸くしたままの甲太郎。
「どうよ ?」
得意げな顔で尻餅を付いたまま動かない甲太郎へ問いかける鉄心。
「なんだか、とても大きな前へ押し出される力を感じた……」
ぼんやりとした口調で目を丸くしたまま答える甲太郎、鉄心は腕を突き出したままに彼を目で捉えている。
「そう、真っ直ぐ、一直線に束ねた力の流れ」
「ただ真っ直ぐに、前方へ伸びていく純粋な力の流れの操作」
「鍛え上げたのならば岩をも押し出し、大木を倒すことの出来る力」
「これぞ『勁力』よ」
鉄心が倒れこんだ甲太郎へはっきりと、告げる。
「勁力……」
ぼやけた声で復唱する甲太郎。
『勁力』、甲太郎と鉄心の埋め難い体格と体力の差を縮めるどころかそれらを上回り、凌駕する『技術』、それを体感した甲太郎は未だに地に尻を付いたまま小刻みに震わせている。
声も出さずに震えている甲太郎、しかしその顔に張り付いた表情は堪え切れずにいる歓喜の顔であった。