決別と暗闇のナース服
水で溶いたばかりの絵の具のようなような淡く、そして濃い灰色。
見ただけで手では掴めないと分かる実体感の無い厚い層の雨雲、それらに纏わりつくように不完全燃焼の際に発せられる黒煙のような黒ずんだ細かい雲。
破裂寸前の風船の如く、あと数刻で雨の予感を感じられる空模様が広がっている。
「甲太郎」
ただ文章を無感情に読み上げただけのようなアクセントの低い女性の声が短くはっきりと空の下から聞こえる。
その声の発生源である場所、空の下では異様な光景が繰り広げられている。
真っ白い所々跳ねたショートカットの髪に黒い瞳の刃物を連想させる鋭い切れ目の整ったきつめの顔立ち、そして左目を覆い隠す医療用の真っ白い眼帯。
血の気の薄そうな真っ白な肌に、捲くられた袖に胸元までボタンが外れ、着崩した皺のよった白いカッターシャツに大腿を申し訳程度に覆っている程丈の短い紺色のスカート、そんな格好の背の高い少女。
その少女が腕を伸ばし、更にその先では手首を覆い、灰色のカラーコーンを連想させる円錐形の石で出来た重々しい杭が腕から体の一部に見えるように手首から伸びている。
先に進むにつれて段々と細く鋭くなって行くその杭の先端よりも大きな黒いものが引っかかるようにその杭の一部を遮っている。
先ほどの少女よりも酷くぼさぼさと跳ねた真っ黒な耳を覆い隠しそうな長さの髪、そして剣山の如く多量の針を形成したかのような後ろ毛。
高い背丈にボタンが全て外された深く黒い学ランに学ランと同じ色のズボンの青年である。
そして、少女の腕から伸びた杭を遮る物の正体でもあった。
背の高い少女の腕から形成され、真っ直ぐと伸びた重々しい槍のようなコンクリート製の灰一色の杭は男の腹部と学ランの下に着た真っ白なシャツを貫き赤く染まったほっそりとした先端が顔を出している。
男の目と口は大きく開かれ眉間には深い皺が刻まれている。
驚愕と苦痛に染まった表情、それが彼を貫いた杭のダメージの大きさを物語っている。
それが声の発生源である曇天の真下で繰り広げられている光景であった。
「お前が悪いんだ」
そんな中、先ほどと同じ声が再びひっそりと聞こえる。
相変わらずの落ち着きと無機質さの含まれた女性の声。
「お前は勇城の願いを断った」
「お前は勇城の願いを邪魔しようとした」
「お前は勇城を攻撃し、傷つけようとした」
淡々とその光景の中を駆けていく無感情な声。
「私にとっての許せない要素を重ねたお前が悪い」
その声が始めて感情を乗せる。
その発せられた声は先程と変わらず冷たさを持っているものであったが最後に放った一言にはそれまでとは違い底冷えするような寒気と重圧感を感じ取ることができるほどのものであった。
紛れも無く、その言葉には『怒り』の感情が込められていた。
「さようなら、甲太郎……短い再開だったな」
続けざまに冷気すら感じさせる怒りの篭った声で言う少女。
そして、言葉が終わるや否やの瞬間、思い切り右手を腕ごと体の後ろへ振り下げ、男の体から杭を引き抜く少女。
引き抜かれた杭の凹凸のない滑らかな薄い灰色の表面、急な角度の円錐形、先端の赤黒く歪な染みが男の体から離され、その全貌が明らかになる。
どさりと、続いて重く柔らかな落下音が停止したかのようなその空間に響き渡る。
一時停止を解いた映像のように動き出したその場面は先ほどとは違い、確実に変化していた。
変わらぬ位置に立つ少女は手を体の両端に垂らすように下ろし、地面を見下すように立っている。
そして彼女の視線の先には杭に貫かれていた青年が地に落ち、その場でうつ伏せで倒れていた。
力なく放り投げられた手足に真っ黒な後姿、その丁度中心に見える抉られた小さな穴、そんな青年がぴくりとも動かずに突っ伏している。
「ピースは欠けた、か」
倒れこんだ青年の頭の先から整った男の声が聞こえる。
声の先、壁のように立ちはだかる金網の少し前に一人の青年が立っていた。
さらりとした長めの耳を覆い隠す程の長さの髪に整った眉、切れ目にすっと通った細い鼻筋の中性的で知的な顔立ち。
眼前に倒れている青年と並ぶほどの背丈に引き締まった細めの体つき、ぴんと伸ばされた背筋に皺ひとつ見えない紺色のブレザーに紺色のズボン、といった体つきと服装の倒れた青年と同じほどの歳に見てとれる青年である。
その中世的な顔つきの青年に表情はなく、唯目線を地べたに倒れた人影へ送っている。
「いや、間違ったピースだった……」
目線を変えず、倒れた『それ』を見ながら立っている方の青年がゆっくりと口を開き、落ち着いた雰囲気のする声を紡ぎ出す。
「甲太郎はいつだって俺の判断を一番理解してくれた、その判断が『正しい』ということを直ぐにわかってくれた」
倒れた青年が聞こえていないにも関わらずに声は投げかけられていく。
「俺はさ、そんな甲太郎が一番信頼できて、大好きだったよ」
少しだけ震える声。
「でも、君は変わってしまった……当てはまらないパズルのピースなんだよ」
そう声を発する青年の瞼が落ちる。
「残念だよ、本当に」
目を瞑ったままに動かないそれへ対して息を吹きかけるように呟き、言葉にする青年。
「勇城」
そんな青年へ呼びかけるように聞こえる落ち着いた少しだけ低めの女の声、その声の主は真っ黒な背中を貫いていた先ほどの少女である。
「無事、だった ?」
その背の高い少女が言葉を切りつつも小首を傾げながら勇城と呼んだ青年へ簡潔に問う。
その言葉が耳に入ったのか、問いかけられた青年は閉じていた瞼を上げる。
「ああ、お陰で傷一つないよ……ありがとう吹雪」
問いかけられた青年が少しだけ口元を歪め、目元を解して小さな笑みを作りながら答える。
青年の言葉が終わった瞬間、少女の表情に先ほどの冷たさは無かった。
真っ白な肌の頬は薄く紅潮し、目線は微かに下へ泳ぎ、口元を綻ばせている。
包帯で覆われた両手を背後の腰の辺りへ隠し、恥ずかしそうに少し内股でもじもじとした挙動をしている。
勇城と呼ばれた青年から掛けられた言葉が余程嬉しかったのであろうか、その表情と動作からは歓喜の色が感じ取れる。
先ほどの氷水を浴びせかける様な冷酷さとは打って変わり、不似合いな様子の『吹雪』と呼ばれた少女がそこにいた。
「ううん、いいよ、勇城が……怪我したら大変だったし」
眼帯で隠されていない目が少し上目遣いの目線になり『吹雪』が『勇城』をじっと見据えて穏やかな口調で途切れ途切れに言葉にしていく。
「ちゃんとね、もしもの時の合図があるまであそこの貯水タンクの後ろに隠れて」
「ねぇ」
『吹雪』が振り向き、背後にある屋上の出口にあたる扉のついた建物の真上から突き出した大きな貯水タンクを包帯に巻かれた細い腕で指差しながら猫撫で声で『勇城』へ説明しようとしている最中、もう一つの声がそれを遮る。
声は貯水タンクの備え付けられた赤茶けた塗装の建造物、屋上の唯一の出入り口である扉の前のもう一人の少女のものであった。
触れずともそれが柔らかいとわかるウェーブの掛かった栗色の肩に掛かるほどの長さの髪に小さな俯いた顔。
俯いているせいで前髪が影が作られている上に口元は閉じられ、表情は解らない。
細めの体格にくびれた腰元、先ほどの『吹雪』と比べれば低い身長ではあるが16,7歳の少女に相応しい平均的な背丈、そして『勇城』と同じ上半身のブレザーに『吹雪』と全く同じ紺色のスカート、それらと同じく統一された色の紺のハイソックス。
柔らかな全体像の少女がその場所に立っていた。
曇天下で繰り広げられていた中で最も目立っていたシーンの影に隠れていたためか、ようやくとなってその存在を表した少女である。
会話を続けていた二人の視線がその少女へ集中する。
笑みを浮かべたままの『勇城』と先ほどの無感情な表情と体勢に戻した『吹雪』がその少女の言葉を待つようにじっと視線を向けている。
「ここまでやる必要、あったのかな」
再び、二人へ向けた声が屋上内に聞こえた。
震えた途切れ途切れの柔らかな声、それを発したのは他ならぬ俯いた栗色の髪の少女である。
「いくらさ、こーちゃんが協力しないからってここまでする必要無かったんじゃないかな」
俯いたまま二人へ言葉を浴びせかける少女、声からは感情を感じ取ることが出来ず、俯いているため表情もわからない。
「確かに最後に会ったのは随分昔だよ、でも昔はあんなにもみんな仲が良かったじゃない……」
少女が小さく口を動かし声を発していく、その声は発せられるたびに震えを増していく。
「何もここまでしなくても良」
「くるみ」
突如、震えた少女の声を射抜くはっきりとした青年の声。
『勇城』が制するように声を発し、少女の声を止める。
「君の言いたいことはわかるよ」
次に『勇城』が諭すような声色で『くるみ』と呼んだ少女へ向けて言う。
「出来ることならば俺だって、甲太郎にこんな事をしたくなかったさ」
続けざまに少女へ話を続けていく『勇城』、少女は口を挟まず相変わらずの様子でその場所に立っている。
「甲太郎が殴りかかってきた時の目だ」
「あの時、あの目からはどんな事をしてでも俺たちを阻止する意思が伝わってきた」
目元に力を込め、静かにそして威圧的に言葉を刻んでいく『勇城』、その声が屋上内の空気すら支配し、変えているようなほどの力を感じることができる。
「甲太郎のことだ、あのままにしておいたら必ず俺たちの障害になっていた」
『勇城』が眉間に少し皺を寄せて腕を組みながら言う。
「昔からそうだ……いつだってあいつは変なところでの恐ろしい程のしぶとさ、執念深さを発揮させて俺を追いかけていた」
「だからここでこうしておかなければ後々やっかいになる、だからこうするしかなかったのさ」
勇城がくるみと呼んだ少女へ説明するように言葉を続けていく。
しかし、くるみは相変わらず俯いたまま黙りこくっている。
「甲太郎の件は残念な結果に終わった、不本意だがな」
『勇城』が区切るように言う。
そして、終に足を進めゆっくりと歩いていく、どんどんと歩みを速め、倒れた青年の真横を横切っていく。
「確かに、ピースは揃わなかったがパズルは必ず完成させる」
言葉を紡ぎながらどんどんと進んでいく『勇城』、それに続くように『吹雪』も後ろへ振り返り歩を進めていく。
そして、二人が扉の前に立った少女の前まで進むと並んでその足を止める。
「甲太郎、一ヵ月後だ、きっとどこかで見ていてくれ」
『勇城』が呟くと、立ち尽くした少女、『くるみ』の横をすり抜けて行く。
次に軽快な扉の開錠音が鳴り、二人の人影が屋上の向こうへ消えて行った。
空から透明な一線が倒れた青年の体へ突き刺さる。
それに続きあちらこちらで天から同じものが真っ逆さまに落下を始めた。
暗雲に支配された空が遂に限界を迎えたかのように涙を流す。
「こーちゃん」
出て行った二人に目さえくれずにいた少女『くるみ』が息を吹くような呟きを漏らした。
「私、いっつも皆に付いて行ってばかりだった」
「いつだって『勇城』がフォローしてくれてた」
ぴくりとも動かずに口だけを小さく動かして行くくるみ。
「『勇城』がやろうとしていることが本当に正しいのか」
「こーちゃんが言うように『勇城』が間違っているのか」
「それでも、私は誰かについて行くことしか、できないから」
「どうすればいいのかわかんないよ……」
くるみが微かに唇を噛み締めて呟く。
空からは彼女の心境を表すかのように涙が強さを増して屋上へと流れ落ちて行く。
そこは薄暗い部屋であった。
無機質な灰色のコンクリートの壁に床、天井に備え付けられた唯一の光源である青い光をうっすらと細長い放つ蛍光灯。
その部屋の大半を埋め尽くしている5つの真っ白なシーツに真っ白な布団が敷かれたパイプベッド。
簡素であり、陰気な空気のする窓の一つもない部屋である。
その部屋の中心に膨れ上がった布団のパイプベッドが一つ。
ベッドの上部から布団から飛び出した頭が一つ、清潔感のある皺の少ない枕の上に鎮座している。
少しだけ癖のある真っ黒な髪、髪の量が多いためか耳は覆われ目元は前髪で隠れてしまっている。
鼻と一文字に結ばれた口だけが見えており、そこだけを見ても中々に精悍な顔立ちをしていることがわかる。
布団に包まれた体はその部分が膨らんでおり、高めの背丈ということがわかる。
そんな青年がベッドの上で布団を被り呼吸すら感じさせずに倒れていた。
「……うぅ」
突如、ベッドの上、布団の中から短い呻き声が聞こえる。
先ほどの青年の口がゆがみ、低い呻き声を発したのだ。
次にばっ、と短く軽い音が聞こえる。
青年が両手を突き出し、布団を跳ね除けたのである。
そして、あらわになる肌色の上半身。
中々に筋肉質で引き締まった体つきに腹巻のようにきつく、何重にも巻かれた小さな金具でとめられた白い布の帯。
巻きつけられた包帯である。
「あー ?」
次に青年が腕を突き上げたまま気の抜けるような声を発し、頭を左右に動かす。
自分の置かれた状況を確かめているような動作だ。
「グッドモーニング、甲太郎くん、ご機嫌いかが ?」
青年がそんな様子の中、突然跳ね上がるような女の声が静寂の中を飛んでくる。
それを聞いたのか、青年がゆっくりと顔だけをその声の聞こえた場所へ向ける。
いつの間にかベッドの脇、青年の伸ばされた脚の近くに一人の人影があった。
そこに腰掛けていたのは一人の少女。
真っ黒な腰まで伸ばされた暗闇でも目立つ艶のある長い髪、切れ長の眉にその少し上で切りそろえられた前髪に紫水晶のように透き通った紫色の瞳の端の釣った目、闇に浮くような白い肌にすっきりとした輪郭の端麗な顔立ち。
半そでの薄い桃色のスカートの短い看護士服、組まれた脚は真っ黒なタイツに覆われている。
看護士服が少し小さいためか彼女の大きな胸に引き締まった腰元がくっきりと浮かび上がっている。
そんな少女が顔だけを青年の方へじっと向けて脚を組み座っている。
「起きぬけで一番にこーんな美少女の顔を見られるなんて甲太郎くんてば超ラッキー」
にこやかにまくし立てるように声を掛ける少女。
「紅 真白……」
青年がそんな少女へ呟くように小さく口を動かし声を発する。
「ふーん、どうやら記憶喪失なんてありがちな事は無いみたいねー」
脚を組みなおしながらにこにことした顔を青年へ向けて言い放つ。
「……何でナース服 ?」
意識の戻った青年、加賀見甲太郎が口の端を歪ませ怪訝そうな顔で起きて一番の疑問を自分の真近くにいる少女、紅 真白へぶつけたのであった。