それぞれの道標と甲太郎の串焼き調理前
「あれが……」
驚愕に満ちた男の呟き、小さな声ではあるがはっきりと聞こえる呟き。
グリーンのゴム製の床に錆一つない向こう側に広がる町並みへの行く手を阻むように四方を囲う金網、そして貯水タンクを載せた厚い赤茶色の建物の壁、高所で感じられる少しだけ冷えた空気、建物の屋上とすぐに理解できる場所である。
真上には屋上からでも到底手の届かない高さを広がっている無数の雲の浮かんだ澄んだ青空。
その屋上の丁度中心辺りに青年が立っていた。
全体が寝癖のようにぼさぼさとした耳を隠してしまいそうな黒い髪、後ろ首を覆いつくすほどの後ろ毛に眉の辺りまで伸ばされた前髪。
黒い瞳の眠気の篭ったような微かに瞼の落ちた眠そうな目を細め、少しだけ口元を歪ませた驚愕に染まった精悍さの感じられる顔立ちにそこそこにがたいの良い体つきに高めの身長、真っ赤なシャツの上から簡単に羽織っただけといった感じの真っ黒なボタンの全て外された学ランに真っ黒な薄手の布でできたズボンの青年。
先ほどの深刻そうな呟きの発生源である青年、加賀見甲太郎である。
彼が少し身構えるような体勢で固まったようにその場に立っている。
そんな彼の真後ろ、建物に建てつけられた屋上へ向かうための扉から二、三歩ほど進んだ場所にもう一人、はっきりとした人の気配が感じられる。
その場所には一人の少女が立っていた。
ふわりとしたウェーブのかかった柔らかそうな薄い栗色の背中まで伸びた髪に眉にかかった前髪。
少しだけ目じりの下がった優しそうな目に小さな鼻、桜色の小さな唇の口の整った柔和な顔立ちを今は心配そうな表情で歪めている。
紺色の皺や埃一つ見えないまっさらな長袖のブレザーにその下に着た真っ白で清潔なカッターシャツに紺色の丈の短めのスカートを細身の体に包み込んでいる。
細い脚には黒いハイソックスがぴっちりと引っ付くように履かれていた。
甲太郎から少し距離を離した場所で待機する緋辻くるみである。
「その通り、五年前の夕麻へ直撃したあの空から降ってきた青い光、あれこそがウィルスを生み出す物体だった……」
甲太郎の前方から威圧感と余裕の混じった声が聞こえてくる。
青みがかった耳を隠すほどの真っ直ぐな長髪に背中の入り口まで伸ばされた後ろ毛、眉を覆い隠すほどの前髪。
細い切れ目にすっとした鼻筋の端麗な顔立ちに浮かぶふてぶてしい笑み。
甲太郎と丁度同じ程の背丈に引き締まった体付き、くるみと同じ紺色のブレザーに上半身に合わせた紺色の長いズボンといった格好をしている。
甲太郎へ向けて言葉を発した青年、武尊勇城が落下防止の為の金網を背にして腕を組み立っていた。
「流石に初耳だろ ?」
飄々とした表情で甲太郎へ問いかける様に言う勇城。
「更に言うと、だ」
続けて言葉を放つ勇城。
「『進化』に必要なもの……」
「『強い意志』と『ウィルス』だったな」
勇城の言葉を途中で遮るように甲太郎が勇城へ向けて言った。
「半分正解……」
やれやれといったように力なく両手を広げて勇城が言葉を続け始める。
甲太郎が表情を歪める、自らの予想が外れたからであろう。
「一つ足りないのと例外があるって事だ」
勇城が腕を組みなおしながら表情を歪めている甲太郎へと言い放つ。
「つまり『進化』に必要なものがもう一つある、と ?」
眉間に微かに皺を作り、甲太郎が搾り出すような声で言葉を発する。
「そう、本来ならば『強い意志』に『ウィルス』……そして更に、『進化に適応した元の遺伝子』が必要、ということさ」
勇城が笑みを消し、真剣な面持ちで甲太郎の質問へ答える。
質問の返答を聞いた甲太郎の表情は変わらず、険しいままである。
「なるほど、今俺の言った『本来ならば』の部分が引っかかる、と」
何も言わぬ甲太郎の言葉を代弁するように構わず言葉を続けていく勇城。
「そう、それが俺が先ほど言った『例外』って奴だよ」
黙りこくった甲太郎からの射抜くような視線を物ともせずに話を続けていく勇城。
「甲太郎、この町の全体が『ウィルス』にとってとても適応して繁殖しやすい場所だというのは知っているよな ?」
話の途中で甲太郎へ問いかける勇城。
「ああ、俺に『ウィルス』について教えてくれた人も誰も言ってたな」
先ほどと変わらない表情で答える甲太郎。
「ならば『ウィルス』は一定の量では全くの反応を起こさない、ということは ?」
「初耳だな」
勇城の言葉に素直に答える甲太郎。
「甲太郎に『ウィルス』の事を説明した人物は事実を知らなかったのか、それとも教えるのを忘れたオッッチョコチョイなのか……」
「どっちにしても『あえて教えなかった』と強がるだろうな」
再び軽く両手を解いて左右に広げて呆れたようなポーズを取る勇城に目を細めて言い放つ甲太郎。
「まあいい、話を戻そう」
再び腕を組みなおし勇城が静かに言葉を紡ぎ始める。
「先ほど言った通り、町を浮遊している『ウィルス』は一定量でなければ適正した『遺伝子』を持たない人間は勿論、それを持つ人間にも反応しない、いくらこの町に居るだけで吸い込んでしまう、といっても何も起こらない」
再び目を見開き、勇城の言葉に耳を傾ける甲太郎。
「しかも、この町の全体に生息する『ウィルス』の数は微量だ、とても『進化』なんて不可能な程にな」
甲太郎はじっと勇城の言葉を聴着続けている。
「そこで鍵になってくるのが『強い意志』だ」
そんな甲太郎に応える様に話し続ける勇城。
「人間は何かしらの『強い意志』を想像した時に脳から特殊な電気信号を体から神経へ流すそうでね、それには『ウィルス』の活性作用があるのさ」
「活性作用……」
説明する勇城に聞き返すように呟く甲太郎。
「それを感じ取ったウィルスは体内で活性化して分裂、増殖する、そして近くにその人間が適正した『遺伝子』を持つ者だったら……『進化』することができる」
「これが普通の場合の『進化』の過程」
勇城の口からどんどんと進化について甲太郎も知らない情報が飛び出してくる。
「そして、もう一つが例外」
「活性化させる必要が無いほどの『ウィルス』が居る場所へ行くか」
勇城が甲太郎の引っかかっていた『例外』についての真相を明かす。
空では集まる雲が集まり、停滞して徐々に爽快であった青空を鈍色へと変化させて行く、先ほどとは異なり辺りはひんやりとした空気が屋上を支配している。
「だがよ、この町全体の『ウィルス』の量は『進化』出来るほどにまで居ないんだろ ?しかも『ウィルス』は適応した環境じゃないと死滅する、その例外の方法で『進化』するのは不可能なんじゃないのか」
黙って勇城の話を聞いていた甲太郎が口を開き疑問を投げつける。
「一箇所だけ、『ウィルス』が膨大に生息する場所があったとしたら ?」
甲太郎の疑問へ更に問いを投げかける勇城。
「あるんだよ、一箇所だけ『強い意志』を必要ともせずに『超人』になれる場所が」
自らの問いに自らで答えるように勇城が言い放つ。
「先ほど言った『ウィルス』を発生させ続ける母体、あれが発生させる『ウィルス』の量はそれこそ『進化』に使った後でもお釣りが来るほど……」
「あの『母体』の近くこそがその場所さ」
勇城が静かに甲太郎へ向けて言った。
「じゃあ……まさか俺が『超人』になったのは……」
目を大きく見開いた驚愕の表情で甲太郎が勇城から視線を外し、自らの手のひらを凝視して呟く。
「甲太郎、『超人』になったのは何もお前だけじゃない」
勇城がふっ、と空気を吐き出すように短く笑い言葉を発する。
「俺もくるみも吹雪もな」
「五年前の夕麻の体内に『母体』が入り込んだ、あの時から既に『進化』していた」
勇城が甲太郎へ語調を変えずに突きつけるように言う。
驚いた表情のまま目線だけを背後へ向ける。
甲太郎からは見えないがそこにはくるみが微かに俯いて立っている。
「これが、俺が3年かけて集めた『超人』に纏わる情報の全て」
勇城が静かに目を閉じて『超人』に関しての話を終える。
「それで、それを伝えるために俺をわざわざ呼び出した、と ?」
話を終えた勇城へ甲太郎が言葉を向ける。
続きがあると確信しているような声色である。
「勿論、本題はこれからだよ」
そんな甲太郎の意思を汲み取ったかのように勇城が目を見開き言葉を発する。
「甲太郎、君は『超人』についてどう考えている ?」
突然、勇城がそんな問いを甲太郎へ投げかける。
それを聞いた甲太郎は腕を組んだままに目を瞑る、何かを考えているかのようなポーズである。
「俺は『超人』は明らかに違う『選ばれた人間』何だと考えているよ」
勇城がそんな甲太郎に構わずに言葉を投げつける。
「適正した『遺伝子』を持つ人間なぞそうは居ない、『進化』に影響を与える程の『強い意志』も膨大な『ウィルス』を取り込む程の場所も……」
「運命の巡り会わせが無ければどれもこれも手に入ることは無い」
腕を組んだまま勇城が言葉を続けていく、口元が釣りあがり、まるで三日月のような形を成している。
「更に、だ……これを見てみろ」
勇城が腕を解き、右手を甲太郎の方へ突き出し、手のひらを開く。
甲太郎がその言葉に従うように目を見開き前方の勇城を見る。
勇城の手に乗ったもの、それは何かの欠片が6つ程であった。
その欠片は汚れ一つ無い海の水のように青く透き通り、不揃いな長いひし形をしている。
そんな欠片であった。
「なんだ、それ ?」
甲太郎が勇城の突き出した手を指差して問う。
それを聞いた勇城が口元の歪みをそのままに目を閉じる。
「『進化』も有限では無い、その証拠さ」
そして、勇城が言葉を発する。
「どういうことだよ」
甲太郎が指差した腕を下ろしながら呟く。
「『進化』とは人間が『超人』になって終わりじゃない」
すかさずそんな甲太郎へ言葉を放つ勇城。
「『超人』も今の段階から更に『進化』出来る、身体能力の向上、知能指数の向上、記憶力の向上、情報の吸収、処理の高速化、超人機能の強化、新しい機能の追加……勿論そこからも更に、更に、更に……」
甲太郎へ説明するように言う勇城、しかし言葉尻は独り言のようにぶつぶつと呟くような声色になってしまっている。
「無限に進化出来る !」
最後に少し張りあがった声を辺りに響かせる勇城。
「つまり、『超人』とは新たな機能と無限の進化の権利を得た、言わば運命に選ばれた人間」
いつも通りの口調に戻し、勇城が静かに言う。
「お前はそう、思っているのか……」
いい終わった勇城に甲太郎が同じく静かな、無感情な声色で言う。
「ああ」
それに対し短く答え返す勇城。
「甲太郎はおかしいとは思わないか ?」
「どこの国もそうだ……『進化』出来ていない人間が偉そうにのさばっている」
「そこは何一つ『進化』を遂げていないあいつ等の居るべき場所じゃない、この世で最も『進化』を遂げた人間が居るべき場所、『超人』から更に『進化』を遂げた俺達の様な『超人』が居るべき場所」
「そう、俺や吹雪、くるみのような『超人』を超えた『超人』が、ね」
勇城の口から途切れる事無く飛び出していく言葉。
「あの時、夕麻の近くに居た俺以外の『超人』になったあいつ等が更に『進化』している……」
甲太郎がまた少し驚いた顔つきで呟くように言う。
「こいつはその『母体』の欠片、5年前に俺が拾った更なる『進化』を可能にする、いわばその元になるものだ」
「この欠片を既に『超人』なった人間が体内に取り込めば次の段階への『進化』が出来る、それこそ人間を超え、『超人』を超えた存在に成れる」
勇城が驚いている甲太郎に構わずに更に言葉を続けていく。
「人間を超越した能力、そして『超人』すら凌駕する『特殊機能』それらを手に入れた俺達こそがこの世を支配するのに相応しい」
大きく両手を真横に広げた勇城が力強く言い放つ。
「1ヵ月後、このS件の北東にある星椎岳の中腹にある夕麻を奪い去った研究機関の隠し施設からあの『母体』を奪い取り、俺達は更に『進化』する……」
「そして、更なる超越者と成り然るべき所へ総攻撃をかける !」
辺りへ響く力強い勇城の力説が木霊する。
空に集まった灰色の雲たちは黒味を帯び始め更にその色を深くする。
「後は、甲太郎、君だけだ、君がこいつで更なる進化を遂げればようやく始まる」
今度は勇城が弱めた口調で言葉を紡ぐ。
「また皆で歩き始めるんだ」
勇城が甲太郎へ向けて右手を手をゆっくりと前に出す。
真っ直ぐに差し出された手、握手を求める仕草である。
そんな勇城の顔をじっと見据え動こうとしない甲太郎。
「なるほど」
俯き気味に顔を伏せる甲太郎、そして小さく口を開き呟く。
「本当にお前は変わっちゃいないよ」
「夕麻が居なくなって、何かがおかしくなった時のままだ」
顔を伏せた甲太郎が更に呟き続ける。
勇城が甲太郎をじっと見据える。
「これからだよ」
そして、甲太郎と同じく小さな声で呟く。
「これからまた俺達の凍り付いていた時間は動き始める」
呟き終える勇城。
「違うんだよなぁ」
呟き終えた勇城にすかさず甲太郎が言葉をぶつける。
「俺の知っている勇城はいつだって俺達の前を行って正しい道を切り開いて俺達を誘導して助けてくれた……」
「いつだって皆の考えを汲み取ってその上で正しい道を示してくれていた、そして俺達もそれに納得して付いて行っていた」
甲太郎と勇城の視線がぶつかる中、甲太郎が静かに言葉を続けていく。
「つまり、何が言いたい ?」
真剣な面持ちで急かすように言う勇城。
そして、甲太郎が右腕を持ち上げ顔の前で拳を作る。
「今のお前の指し示した『道』が気に食わねぇってことだよ」
バチバチッ!
辺りに炸裂音が響く。
甲太郎の拳を青白く細長い無数の光が這い回っている。
甲太郎の『超人』としての機能、体内に蓄積させた電力の放電を使い、拳に電流を流したのだ。
「で、その物騒な物でどうするつもりだい ?」
甲太郎の電流に全く動じていない勇城が甲太郎へ言い放つ、口調からもその様子が現れている。
「5年前、あの一件で夕麻が居なくなってからお前が指し示してくれている『道』は明らかに不自然でおかしかった」
「そんなお前に俺はどうすることもできず、全て投げ捨てて離れる事しかできなかった」
「だが、今度は違う」
「俺がお前の指し示す『道』を修正する」
甲太郎が電流を流したまま勇城へと言い放つ。
「必ずお前を止める、それだけだ」
そして、静かに強い意志の篭った口調で言い放つ甲太郎。
「そうか……」
そんな甲太郎を見た勇城がだらりと握手を求める手を力なく下げ、呟く。
「わかって……くれないのか」
「パズルに当てはまらないピースはもう、要らないな」
深く首を落とし顔を完全に下に向ける勇城が次々と呟く。
「知ったこっちゃねぇ !」
甲太郎が電流の流れた右手の平のを逆手にし、すかさず勇城の腹部に狙いを定め、拳を突き出す。
帯電した拳が勇城の腹部目掛けて疾風のように真っ直ぐと伸びていく。
「お前のパズル自体はここでブッ壊っ……」
甲太郎がはっきりとした声で言い、もう少しで命中、という矢先、その声が途切れる。
帯電した拳は後一歩踏み込めばめり込む場所で停止している。
目を見開いた甲太郎がまさに殴りかかる体勢で停止映像のように止まっていた。
そんな甲太郎の真後ろにいつの間にか一人の女性が立っていた。
所々跳ねている真っ白なショートカットの質の悪い絹のような髪に雪のように真っ白な肌、高めの背丈に凹凸の富んだ女性的な体つきに胸元までボタンの外されたカッターシャツ、大腿の付け根のよりも少し長いだけの短い丈のくるみと同じ紺のスカートを穿いている。
ナイフのような切れ目の右目に真っ白い眼帯に覆われた左目、細く通った鼻筋に血色のあまり良くない唇の整った小さな顔。
そんな女性が包帯でぐるぐるに巻かれた右腕を甲太郎の真後ろで彼に突き出すようにしている。
その手の先からは重々しい、先端の鋭利に尖ったコンクリートの杭が掌を覆うように、まるで彼女の体の一部のように引っ付いている。
そして、その杭は甲太郎の背を貫き、腹部から血に塗れた先端が顔を出していたのだった。