超短編『転々とする愛』
「それで、お願いがあるのですが」
どこか頼りなさげな男性の頼み込む声が聞こえる。
四方八方のコンクリートの壁、まるで灰色の箱の中のような部屋の中。
床を這う無数のコードの群れに壁に密接された大きなガラスのカプセルのようなものや人の入りそうな複雑な機械の数々が天井に設置された長方形の白く曇った照明カバーに付けられた蛍光灯の明りに照らされてはっきりとその姿が解る。
その部屋の片隅に設置されたガラスの長テーブルに、黒く横長の革製のソファ、そしてそこへ腰かける一組の男女。
「『お願い』ね、まあ聞かせて頂戴」
座っているその椅子と机の一帯からどこか落ち着いた、知的な女性の声が聞こえる。
青みがかった黒い艶のある背中ほどまで伸ばされた長い髪に細く釣りあがった目に細い眉、目には淵のない細長い知的な感じのする眼鏡、細くすっと通った鼻筋に口元を大きな白いマスクで隠している。
高めの背丈に大き目の胸、引き締まった腰元といったスタイルの良い体格、それらを水色のカッターシャツに紺色のネクタイ、黒く短いタイトスカートに脚を包むストッキング、そして、体を覆ってしまいそうな程に裾の長い純白の白衣を羽織っている。
この怪しげな空間にしか見えないが一応病院である『霧崎クリニック』の主、霧崎李沙紀だ。
「どちらかと言えば乗り気では無いのだけれどもね」
小さく息を吐くと机を挟んだ向こう側の人物へと目を配り言う霧崎。
「その、実は知り合いの『超人』についてなのですが」
どこか情けない雰囲気の漂う青年男性の声が聞こえる。
真っ黒でさらりとした髪の特徴の特に無いざんばら頭、どこか気の弱そうな整った顔立ちに銀縁の眼鏡をかけている。
中肉中背に真っ黒いスーツに白いカッターシャツ、赤いネクタイといった清潔感はあるが特徴の無い服装。
ソファに座った鵜野花恭介が縮こまったように控えめな様子で言ったのだ。
「あなた絡みの『超人』というと、やはり」
「ええ……ご察しの通り『優衣』の事でして」
少しだけ身を乗り出すように聞く霧崎にため息をつきながら答える恭介、大分悩んでいるようであった。
「やはり、あの虎の子ね」
彼女の思っていた通りの人物名を耳にしたせいか、霧崎は前髪を掻き分けながらやはりと言った様子で呟く。
「それで、その優衣ちゃんがどうしたの ?」
向かいに座った恭介に問いかけ会話を続ける霧崎。
「それが、実は三日後に出張に行かなくてはならなくなりまして」
「あら、いいじゃない、お土産よろしく、何か食べれるものがいいわ」
話を切り出した恭介に相槌を打つ霧崎。
「わかりました、適当に見繕って買ってきます」
「それで、優衣についての話に戻しますが」
突如始まった話の脱線の軌道を修正する恭介。
「実は、少し前に優衣に構ってやれなくて学校を爆破しようとしたという事がありまして」
「出張ともなると、やはり僕とはしばらくの間会えないことになるので、何かまた良からぬ事でもしでかす……いえ絶対やらかします」
「ふむ……」
ぽつりぽつりと話していく恭介にソファの上で脚を組みながらおとなしく話を聞いている霧崎。
「それで、知恵があれば貸していただきたいんです」
ぺこりと恭介が少しだけ頭を下げて頼み込む。
それを聞いた霧崎が顎に手を当て、目を細め考え込む、恭介はその仕草をじっと見つめている。
「あまり口にしたくは無い言葉なのだけれども」
「難しい……わね」
霧崎が少しだけ真剣みのある声色で目を見開き呟くように答える。
「この間、彼女のことを調べたときにあの子が『虎人間』であることがわかったでしょ ?」
「『虎人間』、確かに彼女には柔軟性の有る力強さとスピードを持ち合わせているわ、けれども彼女にはまだ秘密があるの」
「……これは『超人』の『機能』について関係があるのかわからないのだけれども、あの子、優衣ちゃんが貴方のことを深く考えている時、彼女の能力が飛躍的に上昇するの」
「はあ」
優衣の隠された秘密について話していく霧崎と少しわかりづらいといった様子の恭介。
「人間、脳にリミッターがかかっていて、常にフルの力を出せないのだけれども、危機に相対したときに時としてそれが外れて自らの限界を超えた力を発揮して危機を逃れることがあるわ、彼女の場合は貴方のことを想っているときにその力を発揮するの」
「優衣ちゃんがその状態になると、筋力などの身体能力はもちろん、知力、精神力、才能や感覚などの能力も飛躍的に上昇するわ」
「それは……」
優衣の超人的なその仕組みに戦慄する恭介。
「それに比べ私は普通の人間、まず知力以外では勝ち目は無いわね」
中指で眼鏡を上げながら少し困ったように呟く霧崎、さりげなく頭が切れることをアピールしながら呟いた。
「恐らくひっ捕らえたり気絶させたりの強行手段は無理、何か策を練らなければね」
再び顎に手を当て、考え込む霧崎、目を瞑り、少し首をうつむくような体勢である。
どうやら霧崎は乗り気になったようだ。
「眠り薬を食事に盛るっていうのはどうかしら ?」
考えていた霧崎が片目を開き、恭介へ提案するように言う。
「確かに優衣は頭は良くはないですが、変な所での感は物凄くいいんです、恐らく違和感や雰囲気でばれてしまうかと」
「それに、優衣が子供の頃の話ですが、食事に混ぜられた無味無臭の風邪薬を見抜いたという前例もありますから、恐らく厳しいかと」
恭介が霧崎の提案に申し訳なさそうに答える。
「なるほど、ね……」
再び目を細め息を吹くようにひそやかに短く声を発する霧崎。
「優衣ちゃん自体を行動不能にするのが難しいとなるならば」
「かなり面倒なことになるけれども、彼女の貴方に対する『興味』を逸らすしか無いわね」
「はぁ」
新たな提案をする霧崎にわからない様子の恭介。
「優衣ちゃんがあなたに惚れているのはあなたが幼少の頃に彼女に優しくしてあげたから、よね ?」
「ええ、本人はそう言っていますが」
霧崎の問いに少し照れくさそうに恭介が答える。
「恐らくそれは理由の半分、もう半分はあなた自身から何かしらの『魅力』を感じ取っているからよ」
霧崎が説明をする様に恭介へ話を切り出す。
「『魅力』というものには沢山の要因が絡み合って構成されているものよ、その人の仕草だったり、容姿だったり、性格だったりと、でも近年、その『魅力』についてわかった事があるのよ」
「その人の『魅力』の一因として個々に違いの有るフェロモンを発する物質がここに流れている事がわかったの」
霧崎が自分の右の首筋を指でとんとんと叩きながら呟く。
「人の右首筋にその物質を蓄えておく器官があってね、そこで生成、貯蓄しているの」
「それを他の人に入れちゃってあなたの『魅力』を他の人に移して影武者になっもらって優衣ちゃんの興味をそちらへ逸らしましょう」
」
と、再び霧崎が提案する。
「そんなことをして大丈夫なんですかね ?僕の魅力が無くなったり体の調子が悪くなったりとか」
しかし、恭介はその提案に不安そうな反応を見せる。
「その辺は大丈夫よ、他人の体内に残りはするし効果を発揮するけれども消えるのに一週間程度かかる上にその人の物質も元の量生成されて元に戻るから」
「なんと都合の良い」
霧崎が淡々と語り、恭介が驚く。
「しかし、そんなに上手くいくんでしょうか、それにもし上手くいったとしても『魅力』を入れ替えるといっても、その入れ替えた相手の人が優衣の猛攻によって死んでしまうかもしれませんし」
再び不安そうな口調で言う恭介。
「絶対に上手くいくわ」
自信に満ちた声色で言う霧崎。
「そして、問題なのが囮役ね」
そして、次の問題を口にする。
「ま、そう悩むまでも無く適任者がいるのだけれどもね」
しかし、すぐに解決されたような口ぶりで言い放ち、青い携帯電話を取り出すとそのボタンの羅列へと指を掛ける。
そして、霧崎が順序良くボタンをぽちぽちと押してその青い手のひらサイズの機械を自らの耳へ当てる。
携帯電話をあてがった霧崎の耳元から小さな呼び出し音が漏れて聞こえる、振動するかのような連続音に息継ぎをするかのようにしんと静まった一呼吸。
『ただ今、電波の届かないところか……』
今度は耳元から受話器の取られなかったことを告げる機械的な女性の声のアナウンスがもれ聞こえている。
「……っ、絶対に居留守使ってるわね、私から逃げられると思っているのかしら」
舌打ちをした後に無感情な声色で耳元から話した電話に向かって霧崎が言い放った。
霧崎は再び携帯電話のボタンに手をかけ、耳に寄せるがまたアナウンスが流れる。
また電話には誰も出ず、しかし、霧崎は再び先ほどの一連の流れを繰り返していく。
何度も何度もその行為を機械的に繰り返していき、恭介はじっとその様子を見守っていた。
そして、そこから10分ほど経過したとき、ついに短くがちゃりと電話のとられた音が漏れ聞こえる。
「ちょっと、甲太郎君、あなた居留守使ったでしょ ?え ?授業中だった ?嘘おっしゃい、一体午後の7時に何の授業があるというの、あなたの家に殺人ウィルスをばら撒くわよ」
電話に出た相手に対し、霧崎は矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。
「まあ、いいわ今すぐこっちに来なさい、いいわね ?来ないと酷いから」
更に言葉のラッシュを浴びせ、一歩的に電話を切る霧崎、その様子をぽかんとした表情で見ている恭介。
「さ、後は彼の登場を待つのみね」
再び椅子の上で脚を組みなおした霧崎が静かにそう言ったのだった。
「で、何で呼ばれたんすか ?俺」
先ほどの部屋の中で先ほどの二人に加えもう一人の背の高い人物がそこで面倒そうな低目の声で声を発した。
ぼさぼさとした真っ黒な耳に少しかかるほどの長さの髪に後ろ首を完全に覆っている後ろ毛、眠気の混じった目つきに中々に精悍な顔立ちの顔であるが今は面倒くさそうな表情をしている。
高めの背丈にそこそこにがっしりとした体つき、上には『醤油バター』と真っ黒な達筆の文字でプリントされた真っ赤な半そでのTシャツ、下には濃い紺色のジーンズを穿いている。
急に呼ばれた加賀見甲太郎が二人の座るソファーの前に立っていた。
「悪いね、こんな夜なのに呼んでしまって」
「何故、先生がここに」
申し訳なさそうに言う恭介に顔を歪ませ疑問を口にする甲太郎。
「まあいいや、で、霧崎さん一体何の用なんですか ?」
露骨に嫌そうな表情で霧崎へと視線を向けて
「そう面倒くさそうな顔しないで頂戴、すぐに終わるから、ほらここ座って」
霧崎が自らの隣のソファを手のひらでぽんぽんと叩き甲太郎の方を向いて言う。
甲太郎は怪しむような表情で渋々とソファの方に近づいていき、そして、ゆっくりと警戒するように座る。
「で、何が始まるんですか ?」
少し呆れたように霧崎の隣に座りそちらを向いて言う甲太郎。
「あ、ちょっとこっち向かないで前の方向いてて」
霧崎の方を向いた甲太郎に対し、霧崎が制するように言う。
「 ?こうっすか ?」
不思議そうな顔つきで目だけを霧崎の方へ向けて顔を前に向ける甲太郎。
「ええ、そのままよ」
そう小さく言いながら甲太郎の横顔へ顔を寄せる霧崎。
「で、一体何が始ま……っ」
突然、甲太郎の言葉が途切れ、表情が苦痛に歪む、なんとその横首にぶっすりと大きな注射の針が突き刺さっていた。
霧崎が甲太郎の首へ大きな注射器を突き立てたのだった。
「……がぁ !」
遅れて痛みが伝わってきたのか甲太郎が短い叫びを上げる。
「ほら、あなたも早く首に刺して」
向かいに座った恭介に対して霧崎が少し急いだ口調で言い、もうひとつの注射器を手早く渡す。
「ああ、はい……」
恭介は少し気の乗らない様子で躊躇い気味に受け取った注射器を恐る恐る首に刺した。
よく見れば注射器同士が黒いチューブのような物で繋がれていた。
「はい終わり」
少しだけ経った後に二人へ伝えつつ、甲太郎の首から注射針を抜き取る。
「ふぅ……」
そして、それを見た恭介が小さく息を吹き、自らの首から注射器を引き抜いた。
そして、彼の目の前には突如、注射針を首に打ち込まれた事にぎゃーぎゃーと喚く甲太郎に屁理屈じみた理屈で丸め込もうとする霧崎の二人が向き合っている光景があった。
「もしも、これが成功したとしたら」
「すまない、加賀見君」
その光景を見ながら、恭介は甲太郎へ聞こえないほどの小声で静かに謝罪をした。
「あら、お帰りなさい」
恭介の前から少し高めの愛らしい少女の声が聞こえる。
彼の後ろには黒い鉄のドア、天井には辺りを照らすシンプルな四角いカバーの蛍光灯、足元はコンクリートで少し前にあるフローリングの床よりも一段ほど低く、靴が規則正しく整列している。
恭介が立っていたのは彼の住んでいるマンションの部屋、その玄関。
そして、目の前には彼を出迎えた一人の少女が立っていた。
亜麻色のさらりとした背中まのばされた髪に眉のあたりまでのばされた前髪、真っ白な傷ひとつない肌に釣りがちな琥珀色の目、小さく、すっとした鼻に血色の良い唇。
少し高めの背丈に女性的にめりはりのある体格、服装は学校から帰ってきたばかりのせいか黒を基調としたセーラー服の上からエプロンをつけた格好をしている。
服装どうり、年のころは16,7歳ほどに見える少女である。
先ほどの話に出てきた秋山 優衣そのひとであった。
「ご飯、できてるから」
優衣が興味の無さそうに一瞥し、短く言うとくるりと振り返りそのマンションの短い廊下を歩いていく。
「……え ?」
恭介が思わず驚いた短い声を出す。
それは彼にとってはありえない出来事であった。
秋山優衣、彼女は恭介に異常といっても良いほどに惚れ込んでいた。
今の時間は午後8時、いつもの秋山優衣ならばやれ何処へ行っていただの、他の女に会っていたのではないかだのスッポンの如くしつこさでの尋問が1,2時間は続くはずであった。
しかし、今回はたった一言、それも特に興味の無さそうな声色での一言。
彼にとっては前代未聞の出来事であった。
「まさか」
恭介は短く呟くと自らの首へそっと手を当てた。
フローリングの床に真っ白な壁紙の壁のシンプルな部屋、そこに備え付けられた、流し台のキッチンと食事を取るために置かれた長めの茶色い木のテーブル、そこへ座り、優衣の作った食事を黙々と食べる恭介にその前ではキッチンの流し台で黙々と洗い物をしている優衣。
部屋は水の音だけが鳴り響いている。
「なあ、優衣……」
そんな中、決意を固めたのか、切りだしづらそうな声で恭介が言葉を発する。
「何 ?」
恭介に背を向け、洗い物をしたままに怒っているだの悲しんでいるだのの感情の感じられない声で優衣が答える。
「その……」
そんな何を考えているのか優衣に気圧されたのか曇った声色でいう恭介。
「実は明日から出張……行くんだ」
そして、ついに本題の一言を言葉にする。
再び、部屋の中は蛇口から飛び出すじゃあじゃあという水音で満たされる。
「そう、いってらっしゃい」
突如、優衣が特に何も感じていないかのような声で言う。
そのあまりにも普通な返答に恭介は思わず表情を驚きで染めていた。
「まさか、ここまでとは」
そして、自らの首を押さえ、そう呟いたのだった。
「うふふ……」
「背中をつつくな」
ここは恭介の勤務地である『黒金第二高校』その2年A組の教室、その窓際の後ろから二番目の席に甲太郎が座っており、後ろに座っている真っ黒な長い髪に白い肌、胸元から背中までが大きく開かれ、所々にレースの付いたこの学校の女子の改造制服を着ている女生徒に文句を言っていた。
突然、がらり、と乱暴に教室のドアが開け放たれる。
「ちょっと、加賀見君、いる ?」
教室の開け放たれた扉から入ってきたのは優衣であった。
「これを返して、そして続きを受け取りに来たわ」
優衣が手に厚手の本を3冊ほど掴み甲太郎の席へ向かって歩いていく。
「あー、わりぃ、持ってくんの忘れちゃった」
甲太郎が後頭部を手でぼりぼりと掻きながら優衣へ言う。
「ちょっと、クロダイの蒸し物で定温調理器に勝てるのかどうか気になるじゃない !」
優衣がぷりぷりと怒りながら、甲太郎の机へ近付いていく。
「ねえ、甲太郎君」
そして、甲太郎の座る席の前まで来て呟く優衣。
「だから悪かったって、明日持ってくるからさ」
甲太郎が指で頬を掻きながら優衣を横目に答える。
「よく見ると、あなたってとっても魅力的だわ」
突然、優衣が顔を赤らめながら甲太郎の顔に抱きつく。
一斉に甲太郎へ向く視線、そして教室中を満たす静寂。
抱きついたままに固まる優衣と椅子に座ったまま抱きつかれ固まっている甲太郎。
「っだぁ !」
我に返った甲太郎が短い叫びを上げ、優衣を突き飛ばす。
突き飛ばされた優衣は甲太郎から離れ二、三歩下がり、そこで無表情のまま、甲太郎の顔をじっと見ている。
「そうよ」
そして、優衣が短く呟くように言う。
「朝から何か物足りなさを感じていたのだけれども」
相変わらずの無表情で呟く優衣。
「今わかったわ、足りないものは」
「甲太郎だったのよ !」
得意げな顔でびしりと指を挿す優衣。
「ってあれ ?」
しかし、指を突きつけた先の席はもぬけの殻、先ほどまで座っていた甲太郎は消えていた。
「甲太郎くんならさっき凄いスピードで床を這って教室から出ててったわよ」
甲太郎の後ろの黒い髪の女生徒が優衣へ目をやりながら頬杖をついたまま言う。
恐らく不穏な空気を察し、逃げ出したのだろう。
「逃がさないわよマイダーリン !」
優衣が叫ぶと椅子と机を蹴散らし、教室の扉を蹴破り廊下を走っていった。
真っ暗で狭い、縦長の長方形の空間。
人が一人入ることで既に空間のほとんどを埋めてしまうほどの息の詰まりそうな、棺桶のような狭い空間。
優衣が飛び出した隣のクラスの掃除用具入れの中に加賀見甲太郎は入っていた。
大急ぎで逃げることによっていかにも遠くへ逃げたように見せ、灯台下暗し、近場の確実に体を隠せる場所へ隠れたのだ。
「数々の修羅場を越えてきた俺だ、凌ぎの発想が違うのさ」
勝ち誇った表情に声色で狭い空間の中独り言を呟く甲太郎。
「でもこれっていざ追い詰められたときの退路がないんじゃないの ?」
と、可愛らしい声とともにわずかな空間を新たな物が埋め尽くした。
いつの間にか優衣が甲太郎に前方から抱きつくように密着していた。
「なにっ」
思わず声を上げる甲太郎、いつ扉を開けたのか、なぜここがわかったのか、自分の作戦は完璧だったはずでは、そんなことが彼の頭の中をぐるぐると駆け回っている。
「あはっ、なんにせよ捕まえたわ」
嬉しさで跳ね上がる声で甲太郎の体に手を回し、強く抱きしめ甲太郎の胸に顔を埋める優衣。
「ぐぅ……」
『虎』の超人である彼女に思い切り抱きつかれ、関節と骨がかすかにみしりと悲鳴を上げている、そして恥ずかしさで甲太郎の顔が赤く染まる。
「うっ、鵜野花先生はっ、どうしたんだよ」
甲太郎が苦し紛れな声で優衣に問いかける。
「鵜野花先生って、うちの担任の ?なんで ?」
思い切り抱きしめ、密着したままの優衣がきょとんとした表情で甲太郎を見上げ、答える。
「なん……だと」
甲太郎が優衣のその一言に驚く、今まで彼女が異常なまでにお熱であった相手に興味の無さそうな一言を発したからだ。
それがいつの間に自分へシフトしたのか、甲太郎にはそれがわからなかった。
「が、今は、それ所でもなさそうだな」
甲太郎が苦痛の表情と声色で呟く。
今まさに秋山優衣が甲太郎の体を物凄いパワーで締め上げ、もとい抱きしめている、このままではねじ切られかねないほどだ。
「悪いが、ちょっと眠っててもらうぞ」
バチリと大きな、短い音が鳴り響く。
そして、ほんの一瞬だけ掃除用具入れの中が白く光る。
そして、優衣が力を無くしたようにだらりと後ろに倒れこみ、掃除用具入れの扉にもたれかかる。
甲太郎の『特殊機能』のひとつ『放電』で体内に蓄積された電力を放出し、優衣に流したのだ。
流石の優衣も神経への直接的なダメージには耐える事ができずに気絶して倒れてしまったのだ。
「原因は間違いなく『あれ』だな」
甲太郎がそう呟くと優衣とともに掃除用具入れから一旦出て、彼女を床に寝かせ、駆け出して言った。
「っ、ばれちゃったわね」
ここは『霧崎クリニック』の一角の椅子とそれを挟むソファ、来客用に使われる一角である。
そこへ脚を組んだ霧崎が座り、舌打ち混じりに言葉を吐いた。
「どう考えてもその『注射器』のせいでしょうが、ていうか勝手にぶっ刺すとかあり得ないでしょ」
霧崎と対面したソファの後ろに立った甲太郎が霧崎の目の前の机に置かれた『注射器』を指差して言う。
「で、それを使って俺に何をしたんですか ?」
甲太郎が呆れたような声で霧崎に問う。
「つきつまるところ、あなたと鵜野花恭介の『魅力』を交換したのよ、1週間の間、優衣ちゃんが襲ってきたのもあなたが彼女にとって理想の男性に見えたからよ、鵜野花恭介が彼女から熱烈なアプローチを受けていたのは知っているでしょう ?」
霧崎が少し視線を落としながら説明していく。
「って、もう居ないわけね」
話を終えた霧崎の目の前から甲太郎の姿が消えていた。
そして、テーブルの上に置かれた注射器もいつの間にか消えていた。
リノリウムの床に窓の連続、に転々と見える部屋へとつながるドア。
学校の廊下を小柄な女生徒が歩いていた。
赤みがかった黒髪のショートカットの髪に顔の左半分を覆い隠してしまいそうな髪型に小さな顔、猫のように釣りがちで大きな瞳の目、すっきりとした鼻筋の小さな鼻の整った顔立ち。
平均よりも低めの背丈の引っかかりの少ないスレンダーな体格をこの学校の制服に身を包んでいる。
山音玲子が廊下を歩いていた。
「ああん、待ってよ !甲太郎 !」
「ぬおおおおお !山音ぇえっ !」
そんな彼女の後ろから叫び声と大きな足音が聞こえ、思わず振り返る。
そこには何故か、彼女の知り合いである甲太郎が自分のクラスの優衣に追われているといった構図があったのだ。
「えっ ?」
思わず眉をひそめる玲子、甲太郎が玲子めがけて飛びかかるように走ってくる、玲子は逃げようとするが反応が追いつかない。
「うおりゃ !」
飛び掛った甲太郎が玲子の首元へ手を伸ばす。
そして、その首元に注射針を突き立てた。
「いったいなぁもぉ……」
急に甲太郎に注射器を首に打たれた玲子がぶつぶつと文句を言いながら自分の教室の席に座っていた。
「何とか間に合ったわ !」
そして、その後ろの席には彼女のクラスメイトである優衣が音もなく席に着いたのだ。
あと2,3十秒で授業開始といったぎりぎりの時間である。
「って、秋山さんいつの間に」
無音で現れた優衣に驚く玲子。
「何か知らないけど加賀見君を追いかけてたらしくてさ、遅くなっちゃった」
「ああ、さっきの」
玲子が先ほどの光景を思い出す。
「ところで玲子ってよく見るとさ」
「すごく魅力的だよね」
こうして、恭介の『魅力』はこの後2,3人の間を転々とするのであった。
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