打破と裁き
闇に包まれた横幅は狭く、縦に長い通路のような狭苦しく長い空間。
かろうじて薄い月明かりが差し、置いてある大きなものが黒いシルエットのようなシンプルな影で認識できる。
そこに一人の大きな人間のシルエットが直角に曲げた腕を構えるように突き出しながら、胸に衝撃を受けたかのように腰を曲げ、前方へ仰け反っている。
「づっ…… !クソっ !」
焦ったような、痛みを耐えるかのような切羽詰った少し低めの青年の声が苦しそうに言葉を吐き出しつつ、どうやら上着を着ていたらしく、その袖を捲くり上げ腕を露出させる。
「腕が切れてやがるっ……」
体格の良い背の高めの影は構えの姿勢を解き、露出させた右腕の手の甲の方向を自らの顔に近づけるように向け、上腕を左手でおさえている。
「痛ってぇ……思ったより傷は浅いが、ナタか何かで切られたみたいに真っ直ぐにパックリ切れちまってる」
よく見えない為か、怪我をしたと思わしき右腕の手の甲に繋がる前腕の表側を左腕で押さえ、顔に近づけて凝視するような格好で自らの傷を分析するように呟く、背の高い人影。
「肘の近くまで切られてるな、血はそこまで出てないが、結構でけぇぞ、この傷……」
左手で、腕を撫でるように摩りながら抑えている、どうやら腕に大きな傷を付けられてしまったようだ。
「しかし、まぁ今は痛んでいる場合じゃねぇな」
「あいつが殺す前に『あれ』を何とかしないと……」
体格の良い影が右腕を押さえたままに少し離れた場所の地面へ目配りするように首を向ける。
視線の先には細長く、どこか複雑な形の何かが転がっている。
よく見れば、少し広めの板のようなシルエットから細長い棒切れのような物が左右に一本づつ、下部の左右からも並ぶように一本づつ、よく見ればそれは倒れた人間の人影であった。
先ほど、背の高い体格のよい人影、加賀見
甲太郎が腕にダメージを与えられる前にこの闇に潜む相手から首を攻撃され、地面へと倒れこんだ人間である。
「何とかあいつを安全な場所へ移したい所だが……」
加賀見甲太郎が暗闇の中でそれを見据えたまま少し考え込むようにつぶやく。
「『あいつ』がこの闇の中、どこに潜んでいるのがわからない限り動きづらいな」
今、この煙のような視界の自由の効かない闇の中で戦っている相手はまさにこの黒い世界に適応した『機能』を持った相手である。
『超人』と呼ばれる、とある特殊なウィルスに感染されてしまったことにより遺伝子を弄くられてしまい、その感染した者の強く『願望』した『新たな特殊機能』を手に入れることが出来る。
それにより新たな『機能』を得て、『進化』した人間の事をその事情を知るものたちがそう呼んでいるのである。
甲太郎やこの倒れている細長い人影を傷つけた『相手』も『超人』である。
「『猫の超人』か……」
甲太郎が思考しているような声色でひそやかに言う。
甲太郎と倒れている人影を傷つけた『相手』が自らの『超人機能』をそのように呼んでいたのだ。
「……確かに、勝ち目は無いかもかも知れない」
甲太郎が弱くため息をつきながら少し苦しそうに言う。
猫の瞳は少しでも光のある場所であれば、辺りが暗闇であってもそのわずかな光を吸収し、目の中にある反射板のような器官で光を反射する、入ってくる光と出て行く光、その両方を利用するためにどんなに小さくとも光源さえあれば暗闇でも明るい場所にいるかのような視界で行動できる。
そんな『機能』を暗闇の中に潜んでいる『相手』である山音玲子は持っていた。
もちろん、加賀見甲太郎にはそのような暗視能力は無く、薄闇の中、視野に入った物体は黒くぼやけたシルエットになってしまう。
手に取り、肌で感じ、思考を巡らせ、近くで見なければそれが何か判別することも難しい。
山音玲子と比べるならば、圧倒的に加賀見甲太郎の不利と言わざるを得ない状況である。
「だが、あいつの口ぶりからすると、自分の『機能』に絶対の自信を持っている筈」
甲太郎が闇の中で自らを激励するように小声で言う。
「それに『薬』で長い期間超人の機能を抑えていたならばあいつ自身も知らない……何か『欠点』のようなものがあるのかもしれない」
「あいつの『過剰な自信によるミス』か『あいつ自身も知らない弱点を付く』か、どちらも可能性としては低いが……」
甲太郎が自らへの小声の激励を続ける、心なしか小声であるにも関わらず強い意志を感じる声である。
「突破口に変わりはない」
そして最後に言い放つ、甲太郎の意志は完全に固まったようだ。
永遠に流転しない状況は存在しない、行動を起こせば少なからずとも状況は変化する。
その変動する状況の中、針の穴のような突破口をも見つけ出し、こじ開けることが出来たのならば、勝利を掴むことは可能である。
「まずはっ」
気合の入った小声でその場から駆け出す甲太郎の黒いシルエット。
その飛び出した瞬間、彼の脚全体へ青白く細長い光の群れが走る。
甲太郎も『超人』であり、彼の『機能』は自らに来る電力を無効化し自らの体内に蓄電、そして、それを体から電流として放出できる。
『充電器』のような『機能』である。
それを使い、自らの脚の筋肉へ電流を流して刺激したのだ、医療法にもある筋力を強化するものであり、これにより一時的に脚の筋力を一時的に強化するのである。
その力を利用して甲太郎が瞬きするかの間に目的の場所までたどり着く。
細長い人影の倒れた場所で急停止した甲太郎はその人影の真横で素早く屈む。
「……息はある、気絶しているだけか」
人影の近くで屈みこんだ甲太郎がその倒れている人影の口元へ手を添えて呟く。
「これは、首に切り傷が……」
口元から手を離すと、甲太郎が小さく呟き、
次は倒れた人影の首へと手のひらを付ける。
「結構深いな、それに真っ直ぐに鋭く切れている」
「ギリギリで急所は外れているな、傷が鋭いからか出血もそこまで無いようだ」
倒れこんだ人影の首の真横へ手を当てた甲太郎がその首へと付いた傷についてぽつぽつと語る。
「てっきり、こいつの所にたどり着いた瞬間にでもどこからか襲ってくるもんかと思っていたがそんな気配は無いな……まあいい、とりあえず」
倒れた人影の傍らにしゃがみこんだ甲太郎の人影が自らの服の裾を掴み引っ張ると自らの口元へ持っていく。
そして、びりびりと服の裾を自らの犬歯を使い、二本の帯状に引き裂き、手早く倒れている人影の首と自らの腕に巻きつける。
「一応の止血はこれでよし、後はこいつをどっか別の場所へ移そう」
引き裂いた自らの服で止血を終えた甲太郎が次の行動を静かに言葉にする。
「おい、起きろ」
甲太郎が倒れている人影へ呼びかけるように少しだけ声のボリュームを上げて言う。
しかし、その声が少しだけ辺りへ虚しく響くだけで倒れた人影からは何も反応は返らなかった。
「クソっ !」
甲太郎のシルエットがしゃがんだままに面倒くさそうに、ぼりぼりと後頭部を掻く、そして、倒れている人影の背中に手を回して上体を起こす。
「中々、やりづらいな」
気を失っているために力が入っていない人影を苦戦しつつも背負う事に成功する。
「おっ、案外軽い」
少しだけ驚いたように感想を言いつつも甲太郎がおぶるように背負いあげる。
「とにかく、あいつもこの近くにいるはずだ、この場所から距離を置かねば」
そして、細い人影を背負った甲太郎が前方の長く続く薄闇の先へと駆け出して行く。
すると、その甲太郎の前方、うっすらと光る大きな宝石のようなものが一つだけ闇の中に浮かび上がる。
どんぐりの様な形に中心には薄く黒い綺麗な円形、それは人間の『目』であった。
この薄闇を照らすライトのような瞳の持ち主こそが、甲太郎の『相手』である、山音玲子である。
「もらったっ」
凛とした跳ね上がった声とともに先ほどの薄く光る瞳とほっそりとした小さな黒い人間のシルエットが甲太郎へ目掛けて飛び掛ってくる。
玲子がこの薄闇の中で潜み、倒れた人影を背負った甲太郎に飛び掛ったのだ。
甲太郎は背にいくら軽めとはいえ人間を背負い動きが鈍っており、更に両腕はそれを支えるために塞がっている、まさに絶好のチャンスである。
薄く光る目の瞳孔を開き、右手の爪から伸ばされた五本の長く薄く鋭いナイフのような爪を振り上げ、甲太郎の真正面から切りかかる玲子。
「……くぅっ !」
それを見た甲太郎がまさに痛いところを突かれたと言ったような、短いうめき声を上げる。
暗い空間の中、刃物のような五本の刃を生やした右腕を振り上げる小さな影のシルエットとその眼前、人間を背負い隙だらけの状態の背の高い体格のよい人影。
草食獣に飛び掛り今まさに爪をかけようとしている肉食獣を思わせるシルエットである。
しかし、その危機的な瞬間、バチリ !と大きな炸裂音が響く。
一瞬だけ、その二人が密接しようとしていたその場面がまばゆい閃光に包まれる。
「うあっ !」
まばゆい閃光があたりから引くとともに少女の短い叫び声が響く。
閃光の晴れたその場所に残ったのは、自らの鋭い爪で切りかかろうとしていた筈の玲子の影が両腕で顔を庇い、うずくまる様に前のめりになっている光景であった。
「くぅっ !想定外だった、まさか甲太郎君が『目』から電気を放出できるとは」
まぶしいためか、未だに腕で顔を隠した体勢でいる玲子のシルエットがつぶやくように言う。
先ほどの炸裂音とまばゆい光は接近する玲子へ目掛け、甲太郎が自分の『超人機能』を使い、自らの『目』から電流を放出したことにより生まれたものであった。
甲太郎の目から発せられた電流は玲子に当たることはなかったが、辺りの闇を照らすほどにまばゆい閃光が玲子の『光を二度利用する瞳』にはまぶしすぎたためにその光が目潰しとして作用したのだ。
そして、玲子の攻撃は失敗に終わりその間に甲太郎は再び駆け出し、背負っている人影の搬送を再開させたのであった。
「……逃げられた」
腕を戻し、前を見た玲子がそのことに気づき、ぽつりと呟いた。
「はぁ、はぁ、この辺で、いいか」
相変わらずの薄闇の中で息を切らせた甲太郎が途切れ途切れに言う。
先ほど、玲子を振り切った場所から更に先へ進んだ場所、そこは丁度L字の通路の曲がり角になっていた。
「……っしょっと」
そして、甲太郎がその曲がり角の壁際へ背負っているもう一人の人影を手早く降ろし、そこへ寝かせる。
そして、闇の中で静かに立ち上がる甲太郎。
「後は、あいつをどうにか出来れば万事解決、か」
立ち上がった甲太郎が考えるような声色で呟く。
「また、闇の中に潜まれたのはきっついな」
困ったように呟く甲太郎、目が慣れてきたとはいえ視界の利きづらい薄闇の中では玲子の方が圧倒的に有利な上に何処にいるのかわからないので闇雲に動き出せば奇襲を受ける可能性も非常に高い。
「だが何となくわかって来たぞ、この闇の中で何回も俺を攻撃するチャンスが有ったのに本当の要所でしか攻撃してこなかったのは恐らく『瞬発力』には自信が有るが『持続力』には自信が無いからだな」
猫は初速のみならば時速70キロメートルに達する程に瞬発力に長けている反面、持久力には欠けているため追いかけるような狩りはせず、ほぼ待ち伏せを利用しての狩りをするのが基本である。
「『電流』を流せれればいいんだが、俺の電流やそれを介した格闘もほぼあいつと同じ射的距離、ほぼスピードじゃこっちが分が悪すぎる、電流の射程内に捉えるのは不可能、か」
相手の素早さについても甲太郎が身をもって体験している、おそらく真正面から受けて立てば確実に切り裂かれてしまうだろう。
「ん ?なんだ、これ」
甲太郎の視界の先、床に置かれた彼の膝辺りまでの高さの正方形の何かに気づいた。
そして、静かに、一歩一歩慎重にその正方形へと近づいていく。
「これは、『ダンボール箱』か」
近づき、しゃがみ込んだ甲太郎が正方形へと手を伸ばし、触れた後にそれの正体を理解する。
更に、甲太郎はそのダンボール箱の重ねあわされている蓋へ手をかけ、それを開ける。
「点滴用の『輸液のパック』か」
箱の中へ手を突っ込み、中に入っていた物を手にとり、それを見た甲太郎が呟く。
今、甲太郎達がいる場所は、とある理由により閉鎖されてしまった廃病院の廊下に当たる部分であった。
病院として機能していたときの名残の品であろう物である、嘔吐や絶食による脱水の解消や食事ができない患者の栄養補給に使われる『輸液』である。
「これは使えるかもしれないな」
それを見た甲太郎が何かを思いついたかのような言葉を口にする。
それからしばらくの間、相変わらず闇の中での膠着状態が続いていた。
闇の中、姿勢を低くし、息を殺しつつ甲太郎の様子を窺いう玲子に自分なりにこの状況の打破を考える甲太郎、もう随分とこの緊張の張り詰めた空間が続いている。
そしてそんな闇の空間を、こつこつと、ゆっくりとした靴から形成される小気味よい足音の響きが聞こえ始めた。
永遠に続きそうな暗闇の廊下を背の高い体格のよい人影が歩んでいく。
膠着を破ったのは甲太郎であった。
腕を体の横へ携えて背筋を少しだけ伸ばして、ゆっくりと歩いていくシルエット。
どこか自身に満ち溢れた佇まいである。
そうして、しばらく歩くと甲太郎の足元、から突然、何かが伸び上がる。
廊下の床から瞬間的に伸び上がる、小さな人影。
山音玲子である。
息を殺し床に伏せるように潜んでいた彼女が甲太郎の真下から立ち上がったのだ。
立ち尽くす甲太郎に立ち上がった玲子がすかさず鋭い爪で切りかかる。
今度は、飛びかかろうとはせず、腕のみを使い、爪で甲太郎を切り裂こうと振り下ろす。
「…っ !」
甲太郎が左腕で体の前方を庇い、苦痛の声を出し、玲子に気圧されたのか一歩後ずさる。
しかし、玲子の手は止まらなかった、次々と自らの爪を振り上げ甲太郎へ爪を振り上げていく。
それを、甲太郎が苦しそうな体勢で腕で十字を作り防御に徹する。
爪が甲太郎の腕や足を掠めるたびに、一歩、また一歩と後ろに下がっていく。
そして、玲子も今は甲太郎へちまちまとダメージを与え一時的に行動不能にするべくそれに続き爪で傷を付けていく。
「うっ !」
そんな状況の中、甲太郎がついに耐え切れなくなったのか後ろへ転ぶように、床へ尻餅をついてしまう。
「……ふふっ」
その瞬間、小さな玲子のシルエットがチャンスとばかりに前へ踏み込み思い切り腕を真横へ振りかぶり甲太郎へ目掛け追撃する、勝利を確信したかのような小さな笑い声とともに。
しかし、その横へ腕を薙ごうとした瞬間、甲太郎が上着を素早く漁り柔らかそうな長方形の何かを玲子へ目掛けて投げつける。
「なっ !」
思わず玲子が腕を真横へ振り回し、その長方形を爪で引き裂く。
すると、鋭い爪の犠牲となった長方形は真っ二つに裂かれ、少しの拍子を置いた後ぱしゃりと小さな水音が微かに鳴り響く。
「くぅっ !なんだよこれっ !」
玲子が驚き焦った声で叫ぶように言い、体勢を崩して数歩後ずさる、それとともにぱしゃぱしゃと地面から小さな水音が聞こえる。
甲太郎が投げた長方形が切り裂かれ中から飛び出した液体が玲子へかかったのだ。
甲太郎が投げたのは先ほど彼が見つけた『輸液』入りのビニールのパックであった。
「……痛かった、が、これで『決着』だな」
甲太郎が静かに言うと右手を少しだけ上げ、電流を流す。
バチバチッ !と炸裂音とともに甲太郎の右腕が青白く光る。
そして、その電流の流れた右腕を床へ向けて。
振り下ろした。
ぴちゃっ、と小さな水のはねる音の次に大きな破裂するような音が鳴る。
そして、床一面がまるで光り輝くように青白い閃光を放つ。
早く、鋭い電流の群れは四方八方へと床を這い、その上に立っていた玲子の体をもよじ登り始めた。
「あああああああっ !」
苦しそうに叫ぶ少女の声。
体の首元まで無数の電流が玲子の体を素早く這っていき、そして消える。
そして、それが消え去るとともに小さく小柄なシルエットは前向きへゆっくりと倒れて行き、わずかな水音と、どさりという柔らかい落下音とともに床へ倒れた。
「何とか、うまくいったか」
玲子が倒れるまでを見終えた甲太郎がため息とともに呟く。
甲太郎は、玲子との膠着状態の間、廊下のある一帯へ『輸液』をこぼし、辺りを水浸しにしていた。
点滴用の『輸液』には生理食塩水が混じっており、食塩水は電気を思い切り流す。
そして、その一帯へ玲子をおびき出し、彼女へも電流が伝達するよう『輸液』をかけたのだ。
そうして、濡れた床を甲太郎の電流で漏電させて玲子へ電流を流すことに成功したのだ。
「はぁ……っとに……はぁ、手間かけさせやがって、っはぁ……」
緊張が切れたためか、息を切らし、尻餅をついたまま額に手を当ててうつむき、疲れきったように言う甲太郎。
「霧崎さんを襲った奴を許せない気持ちはわからんでもないが」
「少なくとも殺すことが正当な裁きとは、俺には思えないな」
倒れている玲子へ向けて目をやり、彼女へ向けて言うように呟く甲太郎。
こうして、甲太郎は玲子を止めることに成功した。
外では、相変わらず月が顔を出し
その後、『霧崎クリニック』で残った証拠などにより、霧崎さんを襲った犯人、『天鼠』は御用となり、霧崎は病室で意識を取り戻し、一週間後に霧崎は無事退院した。
狭いアスファルトの道に老若男女の喧騒、行きかう自転車や通行人に色鮮やかな建物に雲の散りばめられた水色の空。
そのなかをまるでハリネズミを連想させるぼさぼさと跳ねた耳を隠しそうな長さの真っ黒い髪に後ろ首を隠した鋭く長めの後ろ毛、どこか精悍な顔立ちではあるが眠たそうな目をした顔つき。
なかなかに筋肉質で絞られている体格に高い背丈をボタンが全て外れた真っ黒い学ランに下に着た薄紫のシャツに制服の黒いズボンに白と青のスニーカーといった格好で身を包んでいる青年。
加賀見甲太郎が商店街を少し猫背気味で歩いていた。
彼は霧崎が退院したと聞き、様子を見に行く為に『霧崎クリニック』へ向かっている途中であった。
彼のもうすぐ先を進んだ場所、チェーン店のラーメン屋とカラオケのちょうど真ん中、地下鉄へ続くような階段の先にある地下室の扉が『霧崎クリニック』である。
そして、甲太郎がラーメン店とカラオケの間へ差し掛かったときである。
地下へ続く階段の前で誰かが箒を持ち、掃き掃除をしていた。
まるで、その人物が持っている箒と同じようなオールバックにまとめられ、天を指さんばかりに固められた黒い髪に黒いサングラス、口には大きなマスク。
まるで電信柱のように細い体格に高い背丈を黒と白の横じまの囚人服のような服にまったく同じズボン、首には首輪が付けられている。
そんな人物が霧崎クリニックの前を竹箒で掃き掃除していたのだ。
「あ……」
その人物が甲太郎の視線に気づき、そちらを向き、互いの視線がぶつかり、その人物がぽつりと呟く。
「加賀見、甲太郎……だよね ?」
その人物が箒を掃く手を休め、少し高めの青年の声で尋ねるように言いながら甲太郎の方へ向かい歩いて行く。
「あ、ああ、そうっすけど」
誰かわからないのか少し困ったように表情を歪ませ、後頭部をぼりぼりと掻きながら答える甲太郎。
「俺、ほら、あの廃病院に君を呼び出した」
自らを指差しながら言う細長い囚人服の人物。
「まさか、あの霧崎さんを襲撃した犯人の……」
甲太郎が驚愕の表情で目の前の人物を指差しながら驚いたような声色で言いう。
「何をサボっているのかしら ?」
その囚人服の背後から底冷えするような知的な感じの女性の声が通り抜ける。
声の発生源の場所に立っているのは腰まで伸ばされ、手入れの行き届いた青みが買った黒髪に肩につきそうなほどの横髪。
すっきりとした輪郭に細く整えられた眉に細く長い睫毛の切れ目にフレームの無い知的な感じのする細長い眼鏡、口元は大きなマスクで隠されていてわかり辛いが美人であることがわかる。
平均の女性の背丈よりも少し高めの背丈に女性的にめりはりのある体格を水色の清潔感のあるカッターシャツに紺色のネクタイ、膝の辺りまでの黒いスカートにそれらを包んでしまいそうなほどに大きな真っ白い白衣を上から羽織っている。
甲太郎の向かおうとしていた『霧崎クリニック』の院長である霧崎李沙紀である。
「あら ?甲太郎君じゃない」
霧崎が囚人服の向こう側にいる甲太郎へ気づき、少しだけ驚いたように言いつつこちらへ歩いてくる。
「霧崎さん、何故かあなたの後頭部を殴り飛ばした犯人がここで掃除しているんですが……」
甲太郎が囚人服の男を指差して霧崎へと尋ねるように言う。
「うちの従業員よ」
あっさりとした声で甲太郎の質問に答える霧崎。
「もしかして、雇ったんすか !」
目を見開き、信じられないような顔をしつつ跳ね上がった声で再び質問する甲太郎。
「『雇った』、とはちょっと違うわね」
驚いた様子の甲太郎に対し、眼鏡を指でくい、と上げながら言う霧崎。
「まあ、本来ならば然るべき法的な措置を取るべきなのでしょうけど、私は思ったのよ」
「この私の天才的な頭脳を危険晒したのにこの程度の罰では『軽い』、と」
「色々と知り合いに手を回してもらって彼を釈放してもらって、代わりに彼には『永遠に無給での労働と新薬のモルモット』、つまり永遠に私の奴隷として死すら生ぬるい苦痛を与えることにしたわ」
淡々と甲太郎へいきさつを語る霧崎、そして何故か照れくさそうに後頭部を掻いている細長い囚人服の男。
「……それ、案外簡単に逃げられるんじゃ」
それを聞いた甲太郎が思った感想を口にする。
「それなら大丈夫よ、ほらこれ」
霧崎が白衣の胸ポケットへ指を入れ百円ライターほどの大きさの黒塗りで頂点に赤い押しボタンのついた何かを取り出す。
「このボタンを押すと」
そういうと取り出したそれのボタンへ指をかける。
「ぬ、ぐぐぐぐぐぐぅう……」
突然、細長い囚人服が首を押さえて前のめりになり苦しみ、うめき始めた。
「一体何を……」
その様子を見た甲太郎がどこか引きつった表情で呟く。
「押すと首輪が首を締め付けるのよ」
「孫悟空みたいっすね……」
少し自慢げに言う霧崎に無感情な声で感想を述べる甲太郎。
苦しむ細長い男を哀れに思いつつ、それを見守ることしか出来ない甲太郎であった。