隻眼の赤猫
そこは、暗くそこそこに深い闇の中だった。
冷たい空気が流れ、息が詰まりそうな緊張感が漂う狭い空間。
そんな真っ暗闇の中二つの人影の輪郭が前後に並ぶように立っていた。
一人は細く、そして背の高い人影、両腕を交差させ、肩へと手を置き体の前でばつの字を作っている体制で真っ直ぐに立っている。
闇の中であるため輪郭程にしかわからないが確かにそこへ立っている人影である。
その後ろにもう一つの小さな人影がぴったりとくっつくように細長い影の背後に立っている。
その小さなシルエットの丁度顔の部分にまるで夜空に浮かぶ月のようにくっきりと浮かぶ、薄い光が見える、少し大きめの団栗のようなそれは、中心に複雑な半円形の透明感のある模様がうっすらと見えている。
この闇の空間の中、緊張感を発しているのはまぎれもなくその二つの人影であった。
「へぇ、この危機的状況にも関わらず私が何の『超人』かをこんなにも早く見破るとは、なかなかに冷静な判断力だね」
小さな人影のシルエットから凛とした冷静さの感じられる少し抑えた感じの少女の声が聞こえた。
「そう、君のご推理道理さ、私は『猫人間』」
「先ほど言ったとおりに『聞こえない足音』、『暗いところでもまったく問題のない目』、『鋭い爪』、これらは私が『進化』したことによって手に入れた『機能』の一部さ」
小さな人影が先ほどの抑えたような声色の口調で説明するように言い切った。
それと同時に先ほどの淡い光の小さな光源が少し細まる。
シルエットの上部に一つだけ浮かぶそれは、彼女の目であった。
「で、その『猫の超人』が俺にいった……づっ !」
勤めて冷静な声色で声を発し、しゃべり始めた細長いシルエットが途中で痛みを訴えるような呻き声を上げる。
「あのね、君は余計なことは言わなくてもいいんだよ、個人的な理由だし、君とはほぼ初対面でこんな事を言うのもあれかもしれないけれど、私は君の事が大嫌いなんだ、できれば声も聞きたくないし、近くにも居たくない程だから、あんまり声を出して欲しくはないし早く個人的な用事を終わらせて君のそばから一刻も早く離れたいんだ……」
穏やかであるが明らかに怒気のこもった事のわかる威圧感のある声でまたも説明するように長々と話し続ける小さな影。
「次やったらもっと深く爪刺すから」
そして、最後に感情のこもらない声色で言い放つ。
細長い影に寄り添うように近づいていた理由、小さな影が先ほどの話にあった自らの『鋭い爪』を相手の腰元に突きつけているためである。
「私がわざわざここに来たのは他でもない、是非、君に聞きたい事があってね」
小さな影が先ほどの無感情で無機質な声色で言葉を発し始める
「君が今日『霧崎クリニック』の院長、霧崎李沙紀を襲って怪我をさせた『理由』が聞きたい」
先ほどよりも少しだけ語調を強めて問いかける小さな影、それに伴い瞳も少しだけ力の入ったように見開かれる、威圧感の混じったその声に少しだけ更にその辺りの緊張感が濃くなる。
「君が誰でどうして俺に対してこんな事をするのかわからん上にどうしてそんな事を……っ !」
「余計なことは言わなくていい、っていうのはさっき言ったよね……」
「それにもう一つ付け加えとこうか」
「『私の質問に口を挟まず、本当のことを淡々と語れ』っていうのをさ」
細い影が焦ったように搾り出すような声色で発した文句のような言葉に宣言通りに爪を深く突き立てさえぎり、言葉に制限を加えるように更なる縛りを付け加えるように小さな影が命令するように発言する。
「じゃあ、手加減はこのくらいにして気を取り直して再開しようかな」
再び口を開く相変わらず細長い影の背後にぴったりとくっついた光る瞳の小さな影が言葉をつむぎ出す。
「では改めて聞こうか……」
「何故、霧崎さんを襲った ?」
うっすらと光る目を細め、先ほどよりも更に重圧感のこもった凛とした声色で脅しをかける様に声を発する小さな影。
その言葉の発された直後、あたりが沈黙に支配され透き通った空気が充満する、まるで時間が停止したかのように微動だにしない二つの影。
「だんまりは困るね」
小さな影が先ほどの声色、淡々とした口調で短く言い放ち沈黙を破った。
「付き合ってられんな……」
冷静さが戻ったのか、先ほどの焦った様な声色は消え去りきわめて落ち着いた様子で言う細長くのっぽな人影。
「君は今まさに俺の腰元に突きつけている『爪』に絶対的な自信を持っているようだ」
「君はどうやら勘違いしているようだ」
「俺に『抵抗する力』や『機能』が無い、と」
ぽつりぽつりと淡々と喋り続けていく細長いシルエットの影、相変わらず小さな人影に『爪』を突きつけられた、いわば不利な状態であるがどこか自信の感じられるような声だ。
「つまり、何が言いたいのかというと、だ」
「蝙蝠にも硬い爪があるってことだっ !」
突如、細長い方の人影が小さな人影を振り払うように力強く振り返る。
それとともに細長い影が右腕を曲げたままに手のひらを広げ、五本のすべての指を折り曲げて熊手のようにしつつ上半身をひねり振りかぶる体勢を取る。
闇に映された振りかぶり、持ち上げられたその腕の先端の指がまるで曲線を描く鎌か、鷹や鷲などの猛禽類のように鋭く研ぎ澄まされている。
それに、少し突き飛ばされた様に仰け反る
小さな影、少しだけ体勢が崩れている。
「形勢逆転だな !」
その小さな影の隙を付くかのように細長い影のシルエットがその作り上げた五爪の熊手を上から下へ振り下ろすようにして小さなシルエットへと攻撃を繰り出す。
熊手が小さな人影の頭上へ差し掛かるや否やの瞬間、それよりも速く黒い直線が延びる。
「ぐうっ !」
上がったのは細長い影のほうの苦しむ声。
細い人影の振り下ろした腕は小さな影の頭上でぴたりと止まっていた、そして、いつの間にか傾き、体勢の崩れていたはずの小さな影が元の細い影に密着するような体勢に戻り右腕を真っ直ぐに斜めへと突き出している。
伸ばされた腕は細長い影の調度顔の下、首を通り過ぎ、貫通するような形で止まっている。
「勘違い、か」
腕を伸ばしたままに小さな影が、いたって冷静な声色で声を出す。
「君が私に対して抵抗できると思ったのがそもそも最大の勘違いだったね」
「君の敗因は猫の『平衡感覚』を嘗めた事、後さきほど言ったとおり私と比べて圧倒的に『遅い』って所かな」
言い終わると、細長い人影が振りかぶった姿勢のままに後ろへスローモーションの映像が再生されているかのように傾いて行き、次第に地面へ仰向けにどさりと音を立てて倒れこむ。
「『霧崎クリニック』で霧崎さんを襲撃した理由は聞けなかったけれども、まあいいかな」
倒れた細長い影を見下ろすような体勢で言い放つ小さな影。
「動けないところ悪いんだけど、君には止めを刺されて死んでもらおうかな」
小さな影の宙にに浮かぶようにくっきりと、うっすらと浮かぶ大きな目の円形の瞳が霞むように、中の瞳孔が大きくなる。
「君が悪いのさ、恨むなら霧崎さんに手を出して、私を怒らせた自分を恨んでよ」
無機質な声色の呟くように小さな小声で言い終わる。
他に音も聞こえないためか、澄んで冷たい空気の暗闇の中で小さな声にもかかわらず、そこに彼女がいるとはっきりとわかる程に聞こえる声だ。
そして、その場にしゃがみこむように膝を折り曲げる小さな影、膝立ちになり、倒れた細長い影に覆いかぶさるように近づき、前のめりの体勢になる、まるで獲物を上から押さえ付けている肉食獣のような体勢である。
五本の指をまとめる様にくっ付け、指先から腕全体をぴん、と伸ばしてまるで腕で槍を作るかのように力を込めて固めると肘を曲げて再び倒れこんだ細長い影にその指先から伸ばされた薄く長い爪の先端で狙いを定める。
「それじゃ、さようなら」
冷たく簡潔な別れの言葉を発する小さな影。
しかし、言葉を発した直後にバチリ !と炸裂音が響いた。
「え ?」
炸裂音が鳴り響いたのは小さな影が相手にのしかかっている場所の左側、少し離れた場所からである。
思わず、音を感知した方向へ顔を向ける。
バチリ !バチン !と今度は2度ほど同じ方向から今度は位置が近いのか先ほどよりも大きな炸裂音が鳴り響く、そして、それとともにまるで雷雲から地上へ向かい走るような電流が音よりも遅れてぴかりと走る。
辺りに刹那的に閃光が走り、ほんの一瞬だけ周囲を照らす、それが眩しかったのか暗闇に浮かぶ小さな影の目が細まる。
「病院の場所はわかったが、真っ暗で迷っちまった」
一瞬だけ照らす光が止むと、炸裂音の聞こえた場所に少しだけ低い青年の声とともに背の高い中々に体格のよい人影が現れる。
「今、明かりで一瞬しかわからなかったがそこに二人いる、よな ?」
至って冷静な先ほどの低めの声で確認するように闇の中へ問いかける。
「で、そっちの乗っかってるほうが山音玲子でいいんだよな ?」
再び問いかける背の高い影。
「甲太郎君、結局来てくれたんだね」
山音玲子と問われた光を放つ瞳の小さな影が少しだけ嬉しそうに跳ね上げた明るい声で言う。
「色々と突っ込みどころ満載な場面だが、とりあえずこれだけは言わせてくれ」
甲太郎と呼ばれた方の背の高い影が舌打ちをしながら少し呆れたように言う。
「あの手紙には構うなって言ったろうが」
先ほどと変わらぬ呆れたような口調で続けて言う。
「でもいいじゃない、こうやって霧崎さんを殴った犯人を捕まえたんだから」
また先ほどと変わらぬ明るい声で今の状況を簡潔に説明する山音玲子、相変わらず闇の中で光り、瞳に妖しい霞がかかっている瞳が背の高い体格のよい人影を捉えている。
「その下敷きにしている奴か……」
甲太郎が見下ろすように首を下げ、玲子がのしかかっている細長い影に目をやる。
「そう、後はこいつに止めを刺して殺せば終わり……」
無機質な声色で、のしかかっている細長い影へと顔を向けて言う玲子。
「……何 ?」
驚いた声色で、少し声のトーンを落とした甲太郎が短く一言だけ言う。
人数の増えた真っ暗闇の中、再び空気が変わり始めた。
「だから、殺すんだってば、こいつのせいで霧崎さんがああなっちゃったんだよ、当然の報いじゃないか」
顔を倒れた影に向けたままに少しだけ瞼を下げ、目を細める玲子。
「おい、何言ってやが……」
「止めるの ?」
少しだけ強めた口調で発言しようとした甲太郎の言葉を玲子が一言だけ発して言葉を制するように威圧感のある感情のこもらない声を発する。
辺りの変動した空気がまるで冷凍室にいるかのように凍りつく、闇の中玲子の方を向き、立ち尽くす甲太郎と相変わらずにのしかかった獲物をゆがんだ目で睨みつけている玲子の動きがまるで停止された映像のようにぴくりとも動かずに止まっている。
「……甲太郎君には前にちらっと言ったよね」
「私、自分が『超人』になってしまったせいで死にかけた事があるって」
「確か、俺が始めて『霧崎クリニック』へ行ったときの帰りに」
突如、静かに語り始める玲子、それに思い出すかのように甲太郎が答える。
「それとこれはまだ甲太郎君には言ってなかったけど、私がウィルスの『進化』で手に入れたのは『猫の身体機能と酷似したもの』だった」
「猫……」
玲子の言葉に驚いたように反応し、抑えた声で答えるように呟く甲太郎。
「そう、でもさ、私の場合どういう訳か『進化』による影響が大き過ぎた」
「もはや猫への『変化』と言ってもいい位にね、私が手に入れたものには『猫と同じような体質』も混じっていたのさ」
変わらない体勢、声色でぽつぽつと語り続けていく玲子。
「私も甲太郎君と同じ、自分がいつ『進化』していたことにまるで気付いていなくてね、それがいけなかった」
「あれは私が中学二年生のとき、商店街で急に目の前が歪んで息苦しくなって、体中がバラバラになりそうなくらいに痛くて、あの時は本当に死ぬかと思ったよ」
「そこからは完全に意識が無かった、起きた時にはあの薄暗い『霧崎クリニック』の診察室のベッドの上だった」
玲子が静かに言葉をつむぎ続けるたびに彼女の過去の出来事の一片が明かされて行く。
「霧崎さんが私を倒れた場所から抱きかかえて運んでくれた上に治療してくれたのさ」
「霧崎さんがそのときに教えてくれたよ、私が『猫の超人』になってしまったこと、そして私が倒れた理由が何も知らずに食べた『タマネギ』に原因があった事」
「『タマネギ』 ?」
真剣みのこもった声で語り続ける玲子に怪訝そうな小声でオウムのように同じ単語を言う甲太郎。
「言ったろ ?『体質も猫とほぼ同じ』ってさ」
「猫にとっては、さ、ユリ科の植物、タマネギとかニラとかラッキョウは体質的に猛毒も同然なのさ」
玲子が甲太郎の疑問へ答えるように、説明するように先ほどと同じ口調で語り続ける。
玲子の言うとおりに、猫や犬などの動物はタマネギ等のユリ科の植物に含まれている成分が体内の赤血球を破壊してしまう。
摂取してしまうと、貧血や衰弱、胃腸の障害などの症状が約1日後に発症、食べた量によっては死に至るほどである。
「私の場合、前日の夕食のハンバーグに混じってた『タマネギ』が私の命を奪おうとしたわけさ、処置がもう少し遅ければ危なかったそうだよ」
「だが」
自らの『超人』に関する過去の経緯を語る玲子の言葉に甲太郎が発言する。
「今までそんな『超人』らしい素振りは見なかったが」
と、甲太郎が玲子へ疑問をぶつける。
「霧崎さんが作った『薬』で抑えていたのさ、薬が効いている間は私は『猫』では無くちゃんと普通の『人間』としていられた、今はいざという時のためのもう一つの薬で『超人機能』を抑える効果を和らげているのさ」
「そう、全ては霧崎さんのおかげなんだ……」
「私がせめてもの償いにとなけなしの貯金を持っていったときも『何も知らずにこんな目に合っただけだから、気にしなくていい』と言って受け取らなかった」
「そればかりか薬の都合をしてもらったり、私の相談に乗ってもらったりと感謝してもしきれないほどさ」
更に抑えられた声で言う玲子、首を下げうつむく様に顔を傾けている。
「私にとっての霧崎さんは『白馬の王子様』もとい『白衣の王子様』って感じかな ?」
抑えられた声色で言い終わる玲子。
「そんな大切な人があんな目にあってたらさ、黙っていられないじゃないか……」
しかし、言葉は終わらず、少し震えた声で言う。
「それで、殺す、と」
今度こそ全てを言い終えた玲子、それに続き甲太郎が口を開く。
「ああ、今にもこいつの喉笛を掻っ切りたい衝動に駆られているよ」
まだ少し震えながら言う玲子、心なしか息が荒いでいるようにも聞こえる。
「だが、そいつを殺した所でお前の気が晴れるだけだ」
甲太郎が無機質な声で言い放つように言う、あたりは相変わらず暗く初夏であるため少し蒸した空気を感じるがどこか冷たい空気が充満している。
「それは、一体、何が、言い……たいのかな ?」
一瞬だけぴくりと、その黒い影のシルエットが震え、少しだけイントネーションの狂った小さな声で反応する玲子。
先ほどよりも息の荒ぎが強い。
「確かに、そいつが霧崎さんにしたことは許せない……
「だが、お前がそいつを殺すつもりなら俺も黙っちゃいられないな」
先ほどの口調で、闇の中に一直線に飛ばすようにはっきりと言う甲太郎。
「甲太郎君、まさかこの男を庇うつもりかい ?」
「こいつを庇うんじゃない、お前を止めるんだよ」
互いが同じ、無感情な声色で言う、玲子と甲太郎。
そして、辺りが再び沈黙に包まれる、暗闇の中には相変わらず倒れた細長い影にのしかかっている小さな人影とそれを凝視するように立ち尽くしている体格の良い背の高い人影。
「どっちでもいいよ、結局は私の邪魔するって事でしょ ?」
そうかすれた声でつぶやくと玲子は細い人影へのしかかるのを止め、ゆっくりと音も立てずに立ち上がり始める。
「予定変更だ」
「甲太郎君にはちょっぴり痛い目を見てもらおう、それで動けなくさせてから、あとでゆっくりと止めを刺そう」
そして、立ち上がると底冷えするような声で一言だけ言い放つ玲子。
そんな玲子の様子を見た甲太郎も腕をほぼ直角に曲げ、体の前へと突き出し両脚を肩幅ほどに広げ臨戦態勢を取った。
「ごめんね、甲太郎君、この状況じゃきっと君の『特殊機能』では私の『特殊機能』には歯も立たずにやられてしまう……『戦車とミニ四駆のぶつかり合い』位のハンデの差だけど」
真っ暗闇の中で立ち上がった玲子のシルエットが甲太郎の方へと向きを変える、顔は微かに傾き、腕はだらんと垂れ下がり全身から力が抜け落ちているように立ち尽くしている。
「甲太郎君の事は好き、だからせめて苦しまないようにしてあげるからね……」
寝起きの一言のように力の抜け切った一言を言うや否やの瞬間、その玲子の人影が微かにゆらりと揺らぐ。
すると、まるで手品のように甲太郎のシルエットの前から玲子の人影がそこに存在していなかったかのように消えてしまった。
「……馬鹿なっ !」
次の瞬間、構えの姿勢をとっていた甲太郎のシルエットがくぐもった苦しそうな声とともに体勢を崩したのだった。