雷刀、敵を穿つ
薄灰色の煙の様な雲の広がる太陽の隠れた空、あまり天気がいいとは言えない初夏の空に真っ黒な無数の煙が昇っていく。
その下には川原、生活排水の流れる清潔とはいい難い川幅の広い浅い川に茶色の土のむき出しになった岸のような川縁。
しかし、その土で固められた川岸がごうごう、とまるで背の高い壁のような炎があたりを焼き尽くさんばかりに川岸を取り囲むように燃え上がっている。
そんな囲うような火炎の中に背の高い人影がひとつ。
ぼさぼさの真っ黒い跳ねた耳にかかりそうな髪、背中に付きそうなハリネズミのように刺々しい首元を隠した後ろ毛、眉の下辺りまで伸びた前髪、少し辛そうに歪んだ精悍な顔立ち。
なかなかに筋肉質な体格の良い高い背丈に真っ黒な前のボタンの全て外れた学ランに中に着た紺色のシャツ、同じく真っ黒な学校指定の真っ黒な制服のズボンといった格好の青年。
ごうごう、と燃え盛る煉獄の火炎の中、この小説の主人公、加賀見甲太郎が開幕からピンチにおちいっていた。
「煙を吸い込むとまずいな」
と、呟きつつその場に立ち膝でしゃがみ姿勢を低くし、手の平で口元を押さえる甲太郎、煙は上へと昇っていくので高い位置に居れば煙を吸い込んでしまい一酸化炭素中毒の恐れもある。
「取りあえず、どう脱出すべきか……」
屈みこんだ状態で考えるように呟く甲太郎、相手は目の前に燃え盛った巨大な炎の壁だ。
炎は甲太郎の前後左右、まさに四方八方を塞ぎ、甲太郎の背丈よりも高く盛大に燃え盛り、壁のように取り囲んでいる。苦しそうな表情で身構え、炎に包まれ何もできない様子の甲太郎。
「あの炎、良く見れば酸素の供給率が高いみたいだ」
甲太郎が冷や汗をかきながら口元に手を当て、呟く。
甲太郎を取り囲む炎は真っ赤、というより橙色に輝き燃えている炎だ、アルコールランプで燃えている青い炎は大体1700℃まで達する、甲太郎を囲んでいる炎は蝋燭が燃えているものと同じ感じの炎、燃え始めは実に2000℃はあるが時間が経ち、今は約1400℃。
「それに、よく見てみればこの炎の大きさなら脱出は不可能じゃないかもしれないな」
甲太郎が何かを思いついたように小声でささやく。
そして、甲太郎が口を手の平で塞いだままに立ち膝で屈んだ体勢のまま、ゆっくりと前方へと器用に進んでいく。
「あっつい……」
しばらく進むと甲太郎は5、6歩程前でめらめらと燃え盛っていた炎の壁の手前まで近寄り、顔面を汗だくにし暑そうに表情を歪めていた。
甲太郎の眼前が高温の熱のせいか熱でゆらゆらと揺らぎ、視界が少し曲がりくねって見える。
「ま、上よか断然にマシだろうがな」
苦笑しつつ言葉を吐き出しながら上半身に着ている学ランを脱ぎ、頭からすっぽりと包まるようにかぶる。
少しだけ立ち上がり中腰になり、上半身を炎の方へと向ける甲太郎。
「ちょっと怖えが……覚悟決めるしかないな」
自分を勇気付けるように少しためらいのある震えを含んだ不敵な声で言う甲太郎。
「はっ !」
甲太郎が気合のこもった声をあげる。
なんと学ランを頭から被り、中腰の体勢から前方のごうごう、と燃え盛る炎の塊の中へと思いっきり頭から飛び込んだのだ。
甲太郎が包まれていた炎の壁の対面する外側、怪しげな人影がひとつ。
まるで、山のように盛り上がったシルエットに真横から棒が日本前へ突き刺さったような人かどうかも危うい人影。
その山のようなシルエットは、よく見ると蜂蜜のような薄い透明感のある飴色のべたべたとした粘液の塊であり、突き刺さった棒も先端に紅葉の葉のような手のひらの付いた腕が飛び出していたのである。
まるで人間一人がとめどなく流れ出るゼリーのような粘液に包まれ、猫背の体勢で立っていたのだ。
時折、粘液の塊が滴り、べちょべちょ、と地面へ垂れ下がりそこへ小さな飴色の流動体の層を作り出している。
そんなものがまるで前方の炎を見つめるように離れた場所で立ち尽くしている、この人影こそが甲太郎ごと周囲を多大な炎で焼き尽くした張本人だ。
まるで甲太郎が焼き尽くされるのを観察でもするかのようにじっと炎を見ているのだ。
突然、その見つめていた炎の壁の前方が膨れ上がるように歪む。
そして、赤々と燃え盛る炎の中から飛び出してくる黒い大きな影、先ほど自らの学ランを頭から被った甲太郎がその炎の壁の内部から飛び出してきたのだ。
そして、土で固められた地面の上へと大きな音を立ててうつ伏せに倒れこむ甲太郎、あの炎を潜り抜けることに成功したのだ。
「ばーかーなー」
「うわっちゃっちゃっちゃ !」
粘液の固まりに包まれた人影が男か女かわかりづらい掠れた間延びした低い声で言う、一方、甲太郎の方は脱出の際にズボンに着火してしまった小さな火種を被っていた制服でばんばん、と叩き消化していた。
炎の一番温度の高い部分は酸素を取り込み燃え上がる内側である『外炎』の部分だ、逆に根元の部分は『内炎』、酸素を取り込まず一番温度の低い部分である。
甲太郎はなるべく炎の燃えている幅の狭い場所を見繕い、『内炎』の部分へと飛び込むように姿勢を低く構え、自分に炎が燃え移らぬように学ランを頭から被り素早く炎の中へ飛び込んだのだ。
思ったよりも炎と向こう側への層が薄かったため、最小限に被害を食い止めることに成功した甲太郎である。
「よお、また会ったなぁ」
消火を終えた甲太郎が甲太郎が粘液の固まりに包まれた人間へ向き直り友人へ会釈するように手の平を開き、右手を挙げる。
顔には口元の釣りあがった怒りの混じった笑みが貼りついている。
「それにしても、この『油』あれだけの量でこの『火力』と『燃焼時間』とは……」
「あんた、『油』を分泌出来る『超人』だな ?」
甲太郎が余裕交じりの声色で横目に炎へと目を走らせた後に言い放ち、粘液の固まりに包まれた人間に再び視線を戻す。
甲太郎を包んでいた炎は彼の目の前に居る人物が現在進行形で垂れ流している液体、『油』を燃やし、発生させたものであった。
『超人』とは。
適正のある人間が特殊な『ウィルス』により遺伝情報を弄られてしまい、それによりその本人の『願望』した新たな『機能』を得られることが出来る。
それにより、普通の人間にはない新たなる『機能』を手に入れた人間のことをある医者がそう呼び始め、その存在を知っている人間はそれに習い同じように呼称しているのだった。
甲太郎の対峙する相手、彼は体中から強大な『火力』と長い間燃え続ける『燃焼時間』を兼ね備えた『油』を体中から分泌することの出来る『機能』を持った『超人』である。
「あーたーりー」
再び緊張感に欠ける間延びした声が油人間から発せられる、どうやら甲太郎の言ったままのようである。
「随分と余裕そうじゃねぇか ?」
甲太郎が怒りの笑みで右手に拳を作り腕を上げる、すると、バチリと肘の辺りから拳までに無数の青白い電流が走る。
油人間と同様、甲太郎も『ウィルス』により遺伝子の情報を弄られてしまった『超人』であった、甲太郎が得た『機能』は電気の無力化、吸収、蓄電、放出、いわゆる『充電器人間』である。
過去に雷に直撃したことのある甲太郎は体内に計測不能なほどの電力が蓄電されているので、ほぼ尽きる事は無い。
「さっきはあんたの『テリトリー』ってやつだったかも知れんが」
「今度は俺の『テリトリー』ってやつなんだよ !」
甲太郎が怒声をあげ、作った拳を振りかぶった体勢のままに油人間へと駆け出す。
腕全体に青白い無数の細い電流が這い回るように炸裂音を上げながら点滅するように光輝いている。
ドスン !
大きな音が響く、甲太郎の拳が油人間の丁度胸元に突き刺さるように直撃する。
ゴウッ !
と、轟音を上げ、突き刺さった拳の先からまるで火山から噴火するように甲太郎へ向かい炎が飛び出す。
「うおぁっ !そうだった !」
今までの戦いと同じノリで電流をまとったパンチを繰り出した甲太郎、しかし、相手の体はゼリーのような油の層の塊であるため電流により着火してしまい一瞬ではあるが火炎放射器のように炎が飛び出したのだ。
直接、本体へ流し込むのなら別であるが、纏っている油の層が厚いため発火するのみにしか至らないのだ。
「ひがついたー」
いつの間にか油人間から少し離れた場所で拳を作り、そこへふぅふぅ、と息を吹きかけている甲太郎に間延びした不思議そうな声で言いつつ、めらめらと燃え盛っている炎の着火している油の部分、根元を手で掬い上げそこらへ放り投げる油人間。
投げられた火のついた油が地面へべちゃり、と水音を上げて着地する、灯った炎は相変わらずめらめらと燃え盛っている。
「あっつつつ……ちょっと火傷しちまった」
恨めしそうに油人間を見つつ手の平をぶんぶんと振る甲太郎に先ほどの甲太郎。
「まさかーでーんーきー ?」
甲太郎の腕に流れた青白い電流を見て気づいたかのような言葉を相変わらず間延びした口調で言う油人間。
「くそっ ! 電流が使えない相手か……」
悔しそうに言う甲太郎。
もっと強大な電力を流すことができれば相手の油を焼き尽くすことができるのだろうが、なるべく殺害へつながるような致命的な攻撃は避けたくもある甲太郎。
しかし、そうでなくとも甲太郎の放出できる電力は限界がありその最大の電力をもってしたのが先ほどの結果だ。
電流の遠距離攻撃で全身を連続で電流を撃ち込む方法もあるが甲太郎の限界の問題で最大でも10cm程度しか伸びずそれも不可能。
「それに、さっきあいつを殴ったとき、あまり手ごたえを感じなかったな」
甲太郎が身構えなおし、油人間へ向き直りつつ呟くような小声で言葉を紡ぎだす。
油人間の纏っている油の塊が意外にも厚く柔軟性に富んでいるため、ある程度の衝撃は緩和される。
「あの厚さ、刃物でもなけりゃ通らねぇか、打撃のダメージは無いものと思っていいな」
ゴオッ、と再び轟音とともに火の玉の塊が甲太郎へ向かって飛んでくる。
「……っと、とにかくあの油の塊を取り除くか何か突き刺せるような物を使って、中身に直接電流を流すかだな」
油人間の投げた一直線に飛んでくる火の玉を後ろへ飛び下がり、かわしながら考えうる対抗策を口にする甲太郎。
「…おっ ?」
後ろへ飛び下がった甲太郎が何かに気づいたような声を出す。
随分と時間が経過したせいか、先ほど甲太郎を包んでいた炎は勢いをなくし、真っ黒に焼けた土の地面にライターの火程度のものがあちこちにちらほらと着いて見えるだけとなっている。
その向こうにある緩やかに流れる生活排水を運ぶ浅く広い川と川岸も今ははっきりとその姿を現している、向こう側のコンクリートでできた土手から飛び出した土管の口からは相変わらず白く濁り、泡を吹いた洗剤の混じる汚れた水を吐き出されている。
「あれは使える」
その光景を見た甲太郎が、川のほうへと走っていく。
「まーてぇー」
そして、それを見た油人間もすかさず追いかけるが体に付いている油が重いせいかのそのそ、とお世辞にも早いとはいえない口調と走るスピードである。
走っていた甲太郎が川縁へと辿りつく。
バシャン !
と、水のはねる音が聞こえる、甲太郎が緩やかに流れる浅い川の中へと飛び込むように倒れこんだのだ。
すると、甲太郎が浅い川の上を倒れこんだまま横へごろごろ、と鉛筆のように転がり始める、次第に甲太郎の服は水浸しに濡れ、体中汚水にまみれた状態になる。
「なんだー ?」
油人間が思わず立ち止まり、不思議そうに間延びした声を上げる、その視線の先の甲太郎が立ち上がる。
「ようし !これで十分だ……」
体中がべたべたに濡れ、真っ黒い学ランや中の紺色のシャツ、制服のズボンが体に張り付き、時折雫を落としている。
甲太郎が再び油人間目掛けて矢のように飛び出す、先ほど電流を纏った拳を繰り出した時よりも明らかに早い速さだ。
甲太郎が自らの『機能』で脚の筋肉へ微弱な電流を流したのだ。
医療などで筋力の低下した患者などに施すこともある、これにより筋力が強化され先ほどよりも力強い脚力で油人間へと駆け出したのだ。
「はーやー」
それを見て間の抜けた驚きの声を上げる油人間。
バシン !、と乾いた音とともに甲太郎がいつの間にか脱いだ水の滴る学ランを油人間の真正面に叩きつける。
「……」
相変わらず甲太郎の意図のわからない行動に何も言ず、固まったように止まる油人間。
そんな中でも甲太郎は濡れた学ランでバシバシ、と叩き続けている、勿論ダメージは全くなく油人間に変わった様子は全くない。
「すきだらけー」
ゴオォッ !
再び甲太郎へ油に着火させた炎の塊を甲太郎へと投げつける、炎は明るく燃え盛り尾を引きながら甲太郎へ接近する。
「うおっと !」
濡れた制服で油人間を叩いていた甲太郎の顔面へ向かい飛んでくるが咄嗟に体を横へ逸らし間一髪で回避することに成功する。
「水ーじゃー油ーはーはーがーれーなーい」
相変わらず間の抜けた声で甲太郎へ言い放つ油人間、甲太郎はおそらく水で濡らした学ランを使い、油の層を流れ落とそうとしたのだろうが油は水を弾くため落とすことはできない。
「……そういうことは、まず自分の体を見てから言うことだな」
至って冷静な口調で油人間を指差し言葉を放つ甲太郎。
「…… !」
自らの体へと視線を落とす油人間、なんと甲太郎の学ランに引っ叩かれた腹から右肩にかけての油の層がどろどろ、と分解し溶け始めていた。
ドン !
「げぇっ !」
そして、甲太郎が再び疾風のように駆けだし、油人間の腹部へ自らの腕を突き刺した、しかし、今度は拳ではなく手の平をまっすぐに広げた形、手刀を作り、指先を腹へとめり込ませている。
いわゆる『貫き手』と呼ばれるものだ。
油の層を突き抜け、腹にめり込んだために油人間の口から苦痛の声が漏れた。
「俺が濡らした水はただの『真水』って訳じゃない、あの土管が吐き出した洗剤をそのまま流したみたいな『生活排水』」
「洗剤には、油を分解する『酵素』が混じってる、全部は無理だとしてもお前のその油を『ちょっとだけ』溶かして、あんたの本体の部分まで到達できれば十分」
「こうして『中身』に攻撃が通れば」
貫き手を油人間の腹部へとまるで刃物でざっくりと突き刺すようにめり込ませたまま、油人間へ感情のこもらない声で言い放つ甲太郎。
「十分に『電流』が流せる」
バチバチバチバチッ !
変わらない口調で言い放つ甲太郎、そしてそれと同時に炸裂音が辺りへ鳴り響いた。
甲太郎が油人間へ電流を流したのだ、神経系へ直接訴えかける痛みだ、防ぐ事や耐えることはまず不可能な攻撃である。
バチバチッ !バリッ !
そして、突き刺した手刀を油人間の腹から抜き取る甲太郎。
それと同時に電流を流された油人間は悲鳴も上げずに、地面へうつ伏せにどさりと倒れる。
「……」
それを無言で見下ろしながら、立ち尽くす甲太郎。
「……っ、はぁ、はぁ」
油人間が完全に倒れこむのを確認し、しばらくした後、緊張の糸が切れた甲太郎が両手を膝につき、疲れきったかのようにな表情で、息切れの吐息を吐き続ける。
こうして、甲太郎の知ぬところで生まれた思惑に乗った一人目の刺客は倒された。
しかし、刺客はまだまだ甲太郎を狙って止まない、その上甲太郎はその思惑に気づいてすらいない。
これからいったいどうなるのであろうか。
次の敵は一体どういった『超人』なのであろうか。
「……こいつ、結構持ってんじゃねぇか」
そんなことも露知れず、甲太郎は倒れた油人間の体から見つけ出した財布から台無しにされたスニーカー代を勝手に徴収していたのだった。