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OLYMPOS  作者: 天津石
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「なあ、カムパネルラはいつ列車に乗り込んだんだ?」

「彼もジョバンニも気がつくと列車に乗っていた。そういう描写なの」

「難しいもんだ、文学ってのは」

「そうでもないわ、物語に正解はない。書き手が伝えることと読み手が解釈することには違いがあっても構わないの」

「そういうもんか」

「そういうもんよ」

 片手に収まるほどの大きさの小さな本に栞を挟んでぱたりと閉じる。宇宙船の居住区画での何気ない問いに、マリナはさらりと返答した。

 現在、地球を旅立って数ヶ月。青く輝く地球は遥か彼方へ飛んでいってしまい、窓からはまばらな恒星群が闇の中にきらきらと点在するのみだった。マリナが言うには、じきにかの星が見えてくる頃だという。

 宇宙船の中とは思えないこの広大な居住区画にはつくづく驚かされた。俺達が乗ってきた船は、マリナの宣言通りそれ単体では火星を目指せるものではなかった。軌道上で待機していた巨大な母船と接続し、火星への航行を続けている。

 惑星間宇宙船「アーク号」は想定よりも巨大で、俺達の乗ってきた宇宙船を他にもいくつか格納できるドックに加えて数百人規模の居住区画、シャワー室に娯楽室、会議室と軍事作戦本部まで存在している。聞くところによるとこの船は地球の超大国間で激化した宇宙開発競争の最中に建造された戦闘艦で、その莫大な維持費から放棄されていたものをマリナが買い取ったのだという。

 中央ユニットを中心に回転することで人工重力が作られたこの空間は、地球に比べれば重力は弱いものの動くにはちょうど良かった。

「今感じているのが火星の重力。アストラ、慣れておきなさい」

「ああ。そういえば少しずつ重力が弱まっているように感じたが、順応させるためだったんだな」

「御名答、気温は全然違うけどね」

「俺は寒いのに慣れているがマリナ、お前はどうなんだ?」

「ウォームインナーと断熱スーツを着込むから平気よ。凍っちゃった今の火星は寒すぎるけど、氷が解ければ私にとっても過ごしやすくなる」

「そうか、なら良いんだが」

「見て!アストラ!」

「なんだ、急に」

「見えたのよ!フーリエ!来て!」

 マリナは興奮した様子で部屋を飛び出す。彼女を追った視線を戻し、窓の外に目をやる。それは、意識せずとも視界に飛び込んできた。

 火星。それを見て思わず、声を上げた。白く濁った氷に覆われたその小さな天体は、かつての文献や映像で目にした赤茶けた星とは全く異なる様相を呈していたのだ。

「ね、ね!すごいでしょ!アストラ!」

「うわっ!いつの間に」

「えへへ」

 探検と称して船内をうろつきまわっていたフーリエはマリナの声にすぐ反応してやってきた。

「少し早いけど夕食にしましょう。明日からは着陸に向けてタスクが発生するから、早めに休むの」

 マリナは冷静な口調であったが、興奮は収まりきっていない様子が見て取れた。

 その日の就寝時間は、どうにも胸がざわざわして寝付きが悪かった。地球で生活していた洞窟とおよそ変わりのない広さの個室。いつもは落ち着きをもたらしてくれるのだが、なんだか妙に違和感を感じた。推進機の振動と回転装置駆動部のくぐもった低音。視線のような、気配のような……。数週間前に観た、宇宙船が舞台のパニックホラー映画が脳裏によぎった。

「まさか、な」

 何もいるはずのない天井の隅に視線をやる。向き直った瞬間、衝撃とともに視界が暗黒に染まった。

「どわあああああああっっっ!」

「うわああっっ!びっくりしたー!」

 俺の視界を奪った犯人、フーリエは飛び退いて驚いたように両手を広げた。

「脅かすな……まったく」

「ごめん……こんなにびっくりすると思わなかったんだもん」

「――まあいい。どうしたんだ、こんな時間に」

「今日はアストラと寝たい気分だったの」

「はあ、また怖い夢でも見たのか」

「ううん、実は、この間見た映画を思い出しちゃって」

「……もしかして『異星人』か?」

「そう!」

「俺もちょうどチラついてたんだ!それでお前が飛びついてくるから本気でビビっちまった」

 思わず笑いながら語りかけると、フーリエもそれにつられて笑っていた。

「それで、ね、アストラ」

「なんだ?良いぞ、ここで寝ても」

 フーリエはもじもじと頬を染めながら、観念したように口を開いた。

「あのね、さっきのでちょっと怖くなっちゃって、一緒に、トイレまで付いてきてほしいんだけど」

「なんだ、それくらい構わないぞ」

「良かったー……」

 フーリエは大げさに胸を撫で下ろしたが、自分の足で歩く気はなさそうだった。

仕方なく背中を差し出すと、フーリエはぴょんと跳ねて角にしがみついた。

 昼夜感覚を保つために消灯された船内は、最低限の誘導灯を除いては完全に暗がっていた。駆動音と推進機の振動。そして自分の足音以外、聞こえる音は存在しない。

「アストラ、やっぱり怖いから何か歌って」

「やなこった、なんで歌なんか」

 二人だけの話し声が、やけに反響した。

「だって――」

「怖がり過ぎだな」

 通路を進む。その時だ。船内で破裂音のような衝撃が響いた。

「っ!」

 咄嗟に身構える。

「むぐっ……!」

 声を上げそうなフーリエの口元を抑える。音が聞こえたのはトイレの方向だ。手に持ったライトを消し、ゆっくりと、音を立てないように忍び寄る。

 トイレの扉は閉まっている。心臓が跳ね上がりそうだが、今はただ、沈黙を死守するよりほかない。

 そしてその時が訪れる。不気味な軋み音とともにトイレの扉が開いたのだ。

フーリエは思わず俺の胸の中に潜り込むように顔を埋めていた。

「きゃあああああああ!!――何!?」

「マリナか?」

「アストラ?何してるのよ、灯りも点けずに」

「ああいや、すまん。つまるところ、勘違いだ」

 話を聞けば、マリナは明日からの火星へのアプローチについて計算しており、就寝前に用を足すために来たトイレから出てきたら目の前に巨大な獣人が無言で鎮座していたために驚いたのだという。

 つまるところ、先ほど聞こえた破裂音のような音は真空トイレのバキューム音だったというオチだ。

「あはははっ!なにそれ!可笑しすぎる!待って、もうだめ」

 対して俺達のここまでの経緯も話すと、マリナは盛大に笑っていた。笑われた

フーリエははじめ、ぷくっと頬を膨らませていたが、俺達があまりにも笑うものだから、最後は彼女もつられて笑ってしまっていた。

 出自も種族も異なる三人での惑星間航行。空虚だと思われた旅程は、さほど退屈しなかった。

 一つだけ恐れがあるとすれば、孤独。そして他者からの拒絶という感情が、日常ではなくなってしまっていることへの恐怖、またそれが前述の感情に立ち戻ることへの恐怖がある。

『火星に来て。君が周りを気にすることなく、自由に暮らせる環境がそこにはある』

 マリナの言葉が脳裏をよぎる。胸元で眠る小さな少女から感じる体温は、もはや当然のようにそこに存在している。

 窓から覗いた氷の惑星。そこで見る未知に思いを馳せ、ゆっくりとまぶたを落とした。



 支度を整えて操縦室へ赴くと、待ち構えていたように腕組みしたマリナが操縦席に座っていた。

「えらくご機嫌だな。ようやく故郷に帰ってきた実感が湧いたか?」

「ええ、それはもちろん。ただ、故郷に帰ってきた達成感というよりは、安堵の方が強いわ」

 マリナは窓から覗く、前方の白濁天体を指差す。

「改めて見ると、壮観だな」

「そうでしょう?地上に降りたら、もっといい景色を見せてあげる」

「そいつは楽しみだ」

「ところで、フーリエは?」

「ああ、あいつなら――」

 フーリエは昨日の騒ぎで興奮し、ずっと喋ったり飛び跳ねて遊んでいたので寝付くまで相当時間がかかった。

 ようやく寝付いたかと思えば今度は朝寝坊だ。あまりにも気持ちよさそうに眠っているものだから、起こさないように操縦室まで出てきたというわけだ。

「見て、アストラ」

 マリナに促され、眼前の火星に目を凝らす。

 その極圏に浮かび上がっているのは青紫色の薄い光波模様。オーロラだ。 

 火星は本来、磁場が不安定であり地上で暮らすには危険レベルの宇宙放射線が降り注いでいた。それをアカツキ・インダストリの技術で磁場を安定させているようだが、マリナの話す難しい理論や技術に関しては少しも分からなかった。

「ごめんなさい、話し過ぎたわね」

「構わないさ、それにしても随分と楽しそうに話すんだな」

 簡単な返事のはずだったが、マリナは頬を染めて俯いた。

「すまん、気に障ったか?」

「いいえ、大丈夫。――私ね、昔からこうなの。自分が話してばかりで、人の話を

聞くのが苦手」

 無理して作ったような笑顔で、マリナは目を細めた。彼女の境遇についてはおおよそ理解しかねるが、少しだけ同情というか、心を痛めるような気もする。

「私って天才だし、顔も良いでしょ。人は勝手に集まってくるけど、私の話に着いてこれる人は多くなかったわ」

 なんというか、こういう所のような気がする。持ち合わせた頭脳と見た目、そして自己肯定感の高さが彼女をどこか高圧的な印象にしてしまっているのかもしれない。

「ナントカ理論とか、そういうのは詳しく知らないし、俺が聞いたところで理解は出来ないだろうが、マリナが楽しそうに話すのを見るのは好きだ。だから遠慮なく話してくれ。その方が退屈しないしな」

「そ、そう……?なら、いいけど」

 マリナは耳の先まで赤くしたかと思えば、今度はぷいとそっぽを向いてしまった。

 それから少しの間、沈黙が続いた。徐々に大きくなってゆく火星を見つめながら、刹那にも悠久にも感じる時間を過ごした。

 その静寂を破ったのは、操縦席の入口の開閉を知らせる電子音だった。

「どうしたの?二人とも。喧嘩でもした?」

 目を覚ましてやってきたフーリエが、何か察したかのように呟いた。

「ははは、そういうわけじゃないんだが、なあ?」

「ふふ、そうね」

 子どもの感覚というのは不思議なものだ。改めて先程のやり取りを思い出すと小恥ずかしい気持ちだ。そんな様子の二人を交互に見渡したフーリエはにんまりと笑い、マリナの胸元に飛びこんだ。

「えへへ」

 わしゃわしゃと頭を撫でられたフーリエは満足気に相好を崩して喉を鳴らす。

 フーリエが着ていたのは、地球でマリナに買ってもらった可愛らしい子供服だ。

火星の寒冷環境にも耐えられるように、空気を多く含む素材で作られたコートを、フーリエは大層気に入っていた。

 半年ほど前に出会ったばかりなのに、なぜだか彼女たちとはずっと一緒にいた気がする。

 そんな物思いにふけり、呆然と眼前の星を見続けていたが、マリナの呼び声で我に返った。

「あった……」

 マリナは静かな興奮を隠しきれない様子で前方を指さした。

 白く凍りついた火星。その惑星表面に存在する、宇宙からでも十分に視認出来る

特異な地形。巨大という一言で片付けられないほど大きなその山は、火星全体を覆い尽くさんとする白氷にただ唯一、赤々と抗っていた。

「あれが、オリンポス……」

「そうよ。標高二万七千メートル、直径は六五十キロメートル。火星最大にして、

太陽系最大の火山。本当に凍っていないでしょ」

「ああ。こいつは驚いた……」

 地球で俺が暮らしていた地域は、世界最高峰の山脈だ。その中で最も高い山ですら、標高は一万メートルに届かない。一万を超えない標高ですら十二分に過酷な環境だ。それの二倍、いや、三倍となる標高で何が起こるかという事象の予測は、到達しうる想像のはるか彼方に存在していた。

「これからオリンポスにアプローチする。あの山に眠っている大量のマグマを噴出させて、火星全体を加熱してやるわ」

「そういや、あんなバカでかい火山をどうやって噴火させるんだ?」

「それはね――あ、話しても良い?」

「ん?ああ」

 さっきのことを気にしていたのか妙にそわそわした様子のマリナは少しはにかむと、小さな咳払いをして操縦席中央の立体ディスプレイにオリンポス山のスキャンデータを投影した。

「作戦は大きく分けて二段階に分けられるの。第一段階の掘削と第二段階の起爆」

「掘削と起爆……」

 思わず反芻した言葉に、マリナが頷く。

「オリンポス山は、マグマの埋蔵量も膨大だけど、その巨大すぎる山体の自重によって発生した圧力がマグマの噴出を押さえつけているの。過去噴火を続けて成長してきた巨大火山が二百万年という休眠期間に入ったのもそれが原因だと推測している」

「推測、って」

「残念だけど、詳しいことは分かっていないの。それでも事実、あの山が凍結を退ける温度に保たれている。その中には加熱要因、すなわちマグマが膨大に存在し、なおかつ継続的な供給があると推測することは、理にかなっているはずよ」 

 言い切ったマリナは、今度は立体ディスプレイの表示を宇宙規模に切り替えた。

「まず、火口部分めがけて大気圏外から金属柱を撃ち込むの。もともとは宇宙戦争構想の中で計画された質量兵器だけど、想定以上にコストが跳ね上がって凍結になった試験兵器がこの船に搭載されている」

 マリナの作成したシミュレーションがディスプレイ内で進行した。カルデラ内は爆発と衝撃波で塵も残らないほど壊滅的な被害が起きるが、他の居住地域に与える影響はごくわずかだという。

「爆発の後、タングステン弾殻から分離したターボドリルが地中奥深くへ穴を掘る。ここでマグマ溜まりを露出させるのがベストね」

「マグマが露出すれば、自然に噴火するんじゃなかったのか?」

「ええ、これであの山が機嫌よく噴火してくれればそれでいいの。第二段階を用意しているのはそれが不調になった場合よ。軌道上から効果を確認できなかった場合、その煮えたぎった火口めがけて地中貫通式のヘリウム反応弾を撃ち込むの」

「反応弾って……」

「その破壊力が危険であることは承知している。それでも火星を救うには必要なの。加えてヘリウム反応弾なら、噴き出した溶岩への汚染影響もごく軽微なはず。月のやつら、ふざけた値段で売りつけてきたけど、火星を救えるなら手段は選ばないわ」

 マリナの決意は固かった。眼前に捉えたオリンポス山に向けて掘削兵器を投射する準備が着々と進められていた。

 彼女の話を聞いている最中、電子音が繰り返されていることに気がつく。全域の通信に、断続する微弱かつ単純な信号が繰り返し入電していた。

「マリナ、さっきから妙な信号が入っている。音声通信じゃない、単純な符号の羅列なんだが、機械の故障か何かか?」

「見てみるわ」

 その信号音に耳を傾けたマリナの表情が歪む。使い分けられた短音と長音が断続する単純符号(モールス)は、緊急事態を知らせる救難信号だったからだ。

「救難信号だと?どこからだ」

「……研究自治区」

「それって――」

 それを聞いたフーリエの耳が、ぴんと立った。

「マリナ!」

 フーリエが泣きそうな声で、マリナの胸元にしがみついた。大してマリナは、手を震わせながら歯を食いしばった。

「マリナ……」

 彼女の葛藤はここにあった。手の届くところに、オリンポス作戦の実現がある。

しかし、受信した救難信号は、フーリエの故郷である研究自治区。そこは紛れもなく、『火星で最も安全で、発展した都市』なのだ。その場所から救難信号が発信されているという意味。

 最悪の可能性が、脳裏をよぎった。

「なあ、マリナ――」

「黙ってて!」

 感情的になって声を荒げたマリナの肩は、小刻みに震えていた。もしも、彼女が計画していた作戦が成功したとして、火星が安定した気候を取り戻したとする。しかしそれで、火星に住んでいた人々を誰も救うことができなかったら……。

 仮に、救難信号に応じて集落の救援に向かったとする。だが、アーク号に大気圏再離脱能力は無い。つまり、オリンポス作戦は失敗することになるのだ。そして、救援に向かったところで、その後にどうするというのか。凍え続ける火星から脱出する

算段を立てなければ、いずれは消耗する。

 操縦桿を握りしめ、マリナは声にならない声を押し殺した。フーリエは俺の膝下に座り、マリナの方をじっと見つめている。

「――作戦は保留、救難信号の発信源、研究自治区に急行するわ」

 マリナは操縦桿をぐっと倒し、船をさらに加速させた。広大な裾野を広げるオリンポスの山体が、眼下を横切った。遠ざかる巨山を背後に、マリナはぎりと歯を鳴らした。

「マリナ!」

 フーリエがマリナに飛びついた。対してマリナも、フーリエをぎゅっと抱きしめた。

「……勇敢な決断だ。尊重する」

「何言ってるの?オリンポスを諦めたわけじゃないわ」

 気にかけた発言に、マリナはきょとんと返した。

「は?」

「作戦遂行に想定外は付き物よ。研究自治区も救うし、オリンポス作戦も何らかの形で実行に移す。この私を誰だと思ってるの?火星丸ごとだって救ってやるわ!」

「はは、そうでなくちゃな」

 自信に満ちあふれた表情でマリナが豪語する。その威勢の良さに思わず安堵を抱いた。

「少しきつめの入射角で大気圏に突入する。危険だけど、氷点下の気温と吸着するドライアイスが断熱圧縮の発熱を軽減するはず」

「ああ、任せる」

「回転停止、アプローチ開始」

 人工重力装置が回転を停止し、宇宙船が突入体制を取る。大気圏表層に到達したことを、システムの電子音で知覚した。空気抵抗による減速を感じる。発達した雪雲に、これから飛び込むのだ。警告を知らせる極めて普遍的な警報を、マリナは無視した。

 直後、白く凍りついた大気が、アーク号を飲み込んだ。時折窓にぶつかる氷は瞬時に蒸発し、やがて水滴すら寄せ付けない温度まで加熱された船殻が船内温度を緩やかに上昇させた。

 激しく吹き荒れる吹雪の中、視界の確保は不可能と言って良かった。船が風に煽られていることを計算に入れ、慣性航法とレーダー地形探知システムを頼りに降下を進める。

「フーリエ、つかまってろ」

「うん」

 激しく揺れる船内は、船殻が受ける風や氷と機器類の軋む音以外、発せられる音は多くなかった。マリナは自律航行システムに船を委ねながらも計器とレーダーを注視している。 

 瞬間、視界が開けた。雪雲を抜けたのだ。視界はやや回復したが、依然として地上の様子をうかがうことは困難だった。

 フーリエの故郷である研究自治区には、火星全域をはじめ、地球とも通信可能な巨大電波塔がそびえ建っているのだという。地球の重力の制約下では建設不可能な構造を採用して建築されたその電波塔は、火星繁栄の象徴として大々的に宣伝がなされていた。

「おかしい。電波塔が見つからないわ」

「無理もないだろ、この吹雪だ。想定地点に着陸して車両で向かうしかない」

「いいえ、電波塔を見失うはずがないの。だって――」

 マリナが眉をひそめる。

「あの電波塔の高さは六千メートルなのよ」

「――現在の高度は」

「七二〇〇。まもなく研究自治区も視認範囲になるはずなのに――」

「マリナ正面だ!上昇しろ!」

「――!」

 マリナは咄嗟に操縦桿を引き上げた。不明の人工物が、眼前に迫っていたのだ。

 あちこちで鳴る警報音。そしておよそ健全なものだとは判別のつかない破断音が船内に響いた。

「まずい、居住区が――」

 破断したのは、回転式人工重力装置の駆動部。船体を中心に輪のように広がっていた居住区画が中央部より脱落し、推進機を押しつぶしながら地上へ落下していった。

 がたがたと激しく、船体が揺れる。無数の警報音の中で、フーリエは悲鳴を上げて俺の胸元にしがみついていた。

「船体に亀裂発生、推力喪失、高度低下!……マリナ!」

「分かってる!推進機はやられたけどドッキング用スラスターは生きてる。旋回して空気抵抗で減速、雪上への不時着を試みる!」

 自律航行制御から切り替えた宇宙船は衝撃にさらされた。それでもマリナは怯まずに操縦桿を握り込む。

「アストラ!高度計読み上げて!」

「ああ、今三〇〇〇、二五〇〇、二〇〇〇」

 吹雪の中を滑るように旋回する船内で、身体を押し付けられるような感覚すら感じられる。減速しながら高度を落としてゆくには熟練した技術が不可欠だ。破損した宇宙船を、マリナは決死の思いで操っていた。

「一〇〇〇を切った!八〇〇、七〇〇、六〇〇――五〇〇!」

「スラスター全通!逆噴射開始!」

 轟音とともに、氷が舞い上がる。がたがたと揺れる船体はついに強烈な衝撃とともに、雪上をいくらか滑って停止した。

 無数の警報音は鳴り止まない。頭上にあるトグルスイッチで警報音のすべてを消音したマリナは、こちらを向いて安堵と尚早が入り混じった表情をしていた。

「無事か」

「ええ、なんとか。でも……」

 マリナが中央のディスプレイに被害状況を表示する。残念ながら、船は使い物にならなさそうだ。母船も、そして地球から打ち上げたときの往還機も潰れている。

 俺達は探査車両や機材の残骸をつなぎ合わせてなんとか走れるように整備したが、持ち出せたのは無事だったいくらかの補給物資とヘリウム反応弾のみだった。

「まあ、全員が無事だったのは幸いよ。私たちはとにかく、進み続けるしかない」

 マリナは静かに号令をかける。俺達は探査車両に乗り込み、格納庫の扉が開くのを待っていた。

「開かないな。電力系がやられたか?」

「そのようね、じゃあ行きましょうか」

 運転席に座ったマリナは俺の言葉に相槌を打ったが、その返答はどこか噛み合わない様子だった。

 踏み込まれたアクセル。探査車両のディーゼルエンジンが、黒煙を噴き上げた。

「おい待て馬鹿――」

 必死の静止も虚しく、車両は閉じたままの隔壁に突っ込んだ。衝撃とともに隔壁がゆっくりと倒れ、白んだ視界の中で轟音と雪煙を上げてひしゃげていた。

「何してんだよ!」

「扉を開けたのよ。見て、車体はバンパー以外無傷」

「バンパーがやられてるじゃねえか」

「細かいわね、バンパーなんて飾りよ、飾り。過酷な環境に耐えなきゃいけない探査車両と気密さえ保てれば良い宇宙船のペラペラ隔壁とでは重量差があるの。だからこうやって小突いてやればすぐに道ができるわ」

「はあ……取り敢えずお前がいつも通りで安心したよ」

 なんてこと無い軽口を叩き、マリナは車両を火星の大地に走らせた。外気の温度は、人間が暮らせるようなそれでは到底なかった。

「なあ、電波塔って、もしかして――」

「電波塔が見えたの?」

 呟きに、フーリエが目を輝かせる。だがそれは、彼女の気体を裏切る様相だった。

 根本を残し、自重によってひしゃげた鉄骨の駆体。研究自治区の電波塔だった。

「嘘、でしょ……」

 先に声を上げたのは、マリナだった。この倒れた電波塔こそ、先程緊急回避した人工構造物の正体だった。

 倒れた電波塔が存在する、すなわちここは、研究自治区のはずだ。だが、街のようなものは全く見当たらない。突如、マリナが車両に急制動をかけた。

「おい!いくらなんでも荒すぎるぞ!」

「違うの……見て」

 マリナは憔悴しきった様子で前方、いや、眼下を指さした。そこにあったのは、

数百メートルもの単位で陥没した地盤に墜落した研究自治区の都市だった。

「おい、どういうことだよ、これ」

「分からない。分からないけど、何らかの理由で地盤が崩落、あるいは陥没、それで反応炉がやられて機能停止したのね……」

「お父さん!お母さん!」

 突如、フーリエが飛び出した。

「おい、待て!」

「アストラ、フーリエを追って!」

「ああ分かった!」

 つられるように、車外へと飛び出す。

 なるほど。初めて吸い込んだ火星の大気は、確かにマリナの言う通り高山の寒冷地に等しいような息苦しさを感じさせた。

「フーリエ!」

 身体の小さな少女は、数百メートル走ったのち、氷上に倒れていた。

「フーリエ、しっかりしろ!フーリエ!」

「ア、スト……ラ」

 呼吸がうまくできていない。極低温の大気が肺を焼いたのだ。加えて酸素濃度の低い火星の大気中を走り、急速に酸素を消耗したことで酸欠のような症状が出ている。

「吸い込め、ゆっくり」

 携帯式の吸入器をフーリエの顔に押し当てる。吸い込ませはしたが、吐き出せていない。背中を叩いて呼気を促す。

「大丈夫だ。装備を整えて一緒に探そう。マリナ、聞こえるか」

『ええ、フーリエは大丈夫?』

「酸欠と凍傷、肺もやられているかもしれない。応急処置はしたが休ませたほうが良い」

「や、だ……」

「フーリエ……」

「アストラ、お願い、お父さんとお母さんを、助けて」

 フーリエは涙をぽろぽろとこぼしながら、ぐしゃぐしゃの顔で俺を見た。その目は彼女が初めて見せる、懇願だった。

『アストラ!聞こえてるの?状況を知らせて!』

「フーリエが両親を探したがっている」

『だめ、一度車内に戻りなさい!今の環境はアストラ、あなたにとっても危険なのよ!』

「分かっている。だが何のためにここに来た?彼らを助けるためだろ?」

『命を危険にさらすことは許さないわ!今すぐ戻りなさい!』

 吹雪が吹き荒れる。刹那の葛藤を噛み潰し、苦渋を飲み込んだ。

「車両に戻る」

 その時だ。フーリエが腕からするりと抜けてしまったのだ。そしてまた走る。俺から奪った酸素吸入器を抱きかかえながら。

「この泥棒娘!」

 意を決して、走り出す。一度強く吹雪いた後に彼女の姿はなく、立ち尽くすよりほかなかった。

「マリナ、フーリエが行っちまった!彼女のトラッキングデータを寄越してくれ!」

『ええ、今送るわ』

 腕部に装着された全天候デバイスにフーリエの座標が入力された。彼女を見失わないように、とにかく走る。そして行方を阻んだのは、二、三メートルはありそうな幅広い断崖だった。

「マリナ、だめだ。この先に進めない」

『そんなの飛び越えなさい!』

「バカ言え!三メートルの奈落だぞ!」

『ここは火星よ、重力は地球の三割。思い切り踏み込みなさい!』

「ああくそ――!」

 意を決して、踏み込む。ふわりと舞う自分の身体が、不自然なほど軽く感じた。あっという間に飛び越えた奈落を後ろめに見ると、想像以上に働いた慣性に驚いて思わず氷に顔を埋めた。

「ちっくしょ――」

『大丈夫?』

「おかげさまでな。これ、どっち行けば良い」

『向かって右側、その後三叉路まで出て、モノレール駅を超えた突き当りを左、その先の壁をよじ登って、ビルの間にある狭い路地を抜けて右』

 言われるがままに、吹雪の街を駆け抜ける。

 居た。小柄な獣人の少女、フーリエだ。

「フーリエ!」

 振り返った少女は、浮かべる涙を凍らせて立ち尽くしていた。見つめる先、彼女の家、だった場所は断層のように半壊しており、抱き寄せ合いながら氷漬けになった、獣人の男と小柄な白衣の女の姿があった。

 フーリエの両親であろう彼らは半壊した部屋の中で学術書や木製の家具を燃やして暖を取った形跡があった。それでも燃やすものが底をつき、夫であろう獣人の男が妻であろう小柄な白衣の女を抱きしめ、最後まで氷に抵抗していたのだろう。生への執着とその無念が生々しく、言い表せないような感情が全身を支配した。

 フーリエは酸素吸入器での呼吸も忘れ、大声を上げて泣いた。それを俺は止めることもできず、ただ、その小さな体を抱きしめることしかできなかった。

『アストラ、返事しなさい、アストラ!』

「ああ、フーリエは無事だ。だが――」

 端的に、そしてあくまでも結果を、マリナに伝える。

『そう……残念ね』

「お父さん、お母さん……」

 ゆっくりと両親の亡骸に歩み寄るフーリエ。吹き荒れる吹雪が鳴らす笛のような空気音は、静寂に浸ることすら許さなかった。

 ぱさぱさと、紙がはためく音。俺もフーリエも、それを聞き逃すことはなかった。

 ごく小さな、ありふれたノートブック。学術書や家財には火を点けても、この一冊だけは焼かなかった。ノートは凍っていたが、極めて乾燥していたためにページを開くのは容易だった。そこに綴られていたのは、フーリエと過ごした日々の記録と彼女を地球に送り出したことへの懺悔、そしてある日に発生した大陥没と反応炉事故の記録、限られた資源を巡り暴徒化する集落民と街が滅びていく様子、その最中に開発し、秘密裏に実現させた研究成果の所在と、自分たちの娘に会いたいという切実な願望だった。

 ぽつぽつと、ノートブックに涙が落ちる。それは紙を濡らしては凍らせ、環境の過酷さを改めて示した。

「フーリエ」

 呼びかけた少女は、ただ背を向けて立ち尽くすのみだった。担ぎ上げる。脱力した彼女はだらりと腕を垂らし、抵抗もしなかった。

『アストラ、聞こえる?他の生存者は?』

「それについてだが、期待は乏しい。この集落は――」

 この集落は、数ヶ月前に滅びていたのだから――。

 フーリエの両親が残した記録。『街に誰の声もしなくなった』という記載から数週間で途絶えた日記。その日付は、現在の火星日から遡って数ヶ月前を記している。

 無理もない。地盤が陥没し、電波塔が倒れ、反応炉が破損しエネルギー供給が途絶えた巨大都市の内部で争いが起きたのだ。考えうる最悪のシナリオが重なり、叡智が積み上げられた都市は純粋な自然の力によって緩やかに破壊されていた。

 ノートブックの記述を頼りに、破損した反応炉の内部に足を踏み入れる。

『アストラ、戻ってこられそう?あなたの座標の近くまで車を寄せることが出来た。生命維持が困難になる前に戻ってきて、あなたも相当消耗しているはずよ』

「ああ、だがマリナ、見てほしいものがある。俺のところまで来てくれ」

『時間を無駄にすることは出来ないわ。ただでさえ、燃料をかなり消費してしまった。この気温じゃバッテリーだけでオリンポスに向かうのは不可能よ』

「ああ、それについて、解決できるかもしれないんだ」

『まさか反応炉まるごと持っていくとか言わないでしょうね』

「そのまさかだよ。実現したんだ、フーリエの両親が、命がけで」

 その一言が、マリナを動かした。対寒冷探査スーツに身を包んだマリナが反応炉内部にやってきた。

「これは……超小型反応炉(マイクロリアクター)!驚いたわ、完成させるなんて」

トレーラーに搭載された、超小型の反応炉。使い切りのため燃料交換などは出来ないが、一度反応を起こせば数十年にわたって熱を取り出すことが出来る代物だ。

「確かに、この出力ならバッテリーと車内の温度を保ちつつ動力も確保できる」

「フーリエ、あなたの両親は残念だった。でも、火星を救うほどの偉業をか彼らは成し遂げたのよ」

 マリナがフーリエを覗き込む。ぐったりとしたフーリエは朦朧とさせた意識のまま、力なく笑っていた。

 反応炉を始動し、トレーラーを探査車両に接続する。

 長い旅路。オリンポスを目指す長い旅路が始まった。夜が更け、暗黒の空でも吹雪は止まなかった。

 それでも車両は進み続ける。ゆっくりと西へ、彼方の巨山を目指して。

 胸の中で眠る少女をもう離すまいと抱きしめる。

 この星で初めての夜を越えるべく、隣に座るマリナの手を取った。

「ふふ、どうしたの?」

「なんだか、心細くなってな」

「私はここにいるわ、アストラ」

 思わず、頬がふっと緩んだ。今日は疲れた。久しぶりに体力を使い果たしたように感じる。

 心地よく揺れる探査車の中。気がつけば、俺の意識は無意識の深層へゆっくりと落ちていった。


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