Trident
街での異変には、すぐに気がついた。
いつも通り、街外れの出店で十数個のヤシの実がついた房を仕入れる。騒ぎ声が聞こえてきたのは、街の中心部からだ。
「泥棒だ!!」
叫ぶ男の声があった。その先に目をやると、屋台の上を何かが跳ね回っている。
がちゃがちゃという音を立てながら、その影が迫る。ようやく合った焦点が示したのは、ぼろぼろの布切れに身を包んだ少女だ。顔を見られたくないのだろう。上腕や腿、ところどころにその肌を露出しながらも、頑なにフードを深く被っており、その隙間から覗く眼光以外は観測が難しい。
少女は売り物のチーズやら果物やらを咥えながら露店街を駆け抜け、ついにはこちらまでやってきた。
「うわあっ!!勘弁だ」
ちょうどやり取りをしていたばかりの店主が思わず声を上げる。
「任せろ」
考えるより先に、手が動いていた。
「うぎゃっ!」
少女の短い悲鳴とともに、手中には泥棒娘の首根っこが収まった。少女はしばらくの間じたばたと暴れたが、力の差を感じたのか、ついには脱力して大人しくなった。
「この娘は、街の住人か?」
「いや、こんな奴はみたことがない。隣町のやつらとも面識があるが、この歳の娘は向こうにも居ないはずだ」
「そうか。おい、お前、どこから来た――ぶっ!」
少女は手に持っていたチーズをこちらに投げつけてきた。少し怯んだ隙に、少女はまたじたばたと暴れ始めたため、がしりと掴んだ手に力を込める。観念したように脱力した少女を小脇に抱えると、店主は少し申し訳なさそうに視線を外し、後ろめたげな表情で言葉をこぼした。
「この騒ぎを奴らが見たら、十年前のようにあんたが悪者にされちまう。俺は疑っちゃいねえが、今日のところは出ていってはくれねえか」
黙って頷き、足早にその場を去る。店主の男の言葉は最大限の心遣いによるものだ。
十年前。俺たち獣人と、人間の初めての好意的接触、あるいは意思疎通の機会だった。
昔話をするつもりはない。端的に言えば、山麓の開拓者たちに住処を追いやられた住民たちが、俺たち獣人の集落までやってきたのだ。
彼らは悪くない。そう、悪くないし、俺たちと同じ、被害者だ。
はじめは慎重だった人間たちの中に、俺たちを攻撃するものが居た。怯えた群れのうちの一人が、その人間を突き飛ばしてしまった。
急斜面に構える集落だ。バランスを崩し、転がり落ちた人間の末路は言うまでもない。それがきっかけで、彼らは俺たちを「討伐」し始めた。
どんなに逃げても、奴らは追ってきた。ついに逃げられないことを悟った俺たちは、奴ら人間と戦ったんだ。
結果は惨敗。惨敗というより、殺戮に近かった。奴らの扱う機関銃が、悉く俺たちを撃ち抜いたからだ。
運よく生き延びることが出来たのは、俺ともう一人だけ。その最後の友人さえも、家族の死を嘆き、食べ物が喉を通らなくなって衰弱した。
一方の俺は、図々しくも一丁前に腹をすかせた。自分のことしか考えていなかったのだ。
しかし、食べ物の取り方など分からない。湖で水を飲んでも、腹は膨れなかった。
ついに力尽き、倒れていたところに果物を置いたのが、目の前で商売をするこの男だ。当初は人間とのコミュニケーションが分からず、ただ果物を無心で食べていた。やがて恐れながらもこの男のもとに通うようになった俺は、少しずつ彼らの言葉を教わった。その結果わかったことは、彼らは俺を恐れており、深く関わるつもりはないということ、そして彼らは俺の身を案じ、獣人に近づくことを禁じたということだ。
これは疎外などではなく、お互いのための取り決めであると、すぐに分かった。
それから彼に取引という概念を学び、俺が食べ物を手に入れるために何を差し出すべきかを問うた。
そして毛刈りの対価にヤシの実を得るに至ったのである。
それより今は、抱えた小脇で手足をだらりと垂らすこの少女をどうするべきかと
いう話だ。街の人間は頼れないし、盗みを働くものだからこのあたりに捨て置くわけにもいかない。そう考えながら斜面を登るうちに、結局は住処の洞窟にたどり着いてしまった。
床に下ろされた少女は一目散に逃げ出すかと思ったが、存外大人しくその場に鎮座した。
「どうした、逃げないのか」
思わず問いかける。少女がこちらを見つめる目は恐怖のそれではなく、反対に興味を示すような様子だった。
しかし改めて見るとこの少女、というには幼すぎる小娘はどこから来たのだろう。身体も小柄で、街の住人でないというのなら一人で山を登って来られる足腰には思えない。
懐より取り出した幅広の湾曲刀――彼らの言葉でククリと呼ぶらしい――を滑らせ、慣れた手つきでヤシの皮を剥く。その実が果汁を滴らせる頃には、少女は鼻を鳴らし、俺のすぐ足元までやってきていた。
おそるおそる実を受け取った少女が一口、その果汁を啜ると、今度は両手で実を
抱え込み、貪るような勢いで果汁を飲み干していた。それにしても驚くような食いっぷりだ。相当腹が減っていたのか、食い意地が張っているだけなのか、あるいはその両方なのかは分からなかった。
よく食う小娘だ。二つに三つ、剥いてやったヤシの実を、この少女はすべて平らげた。
「ぷはぁ〜!美味しいね!これ」
さっきまで死にそうな表情だった少女がけろりとした態度で満悦な様子だったのを見て、思わずため息をついた。
「わたし、フーリエ!助けてくれてありがとう、おにーさんの名前は?」
「名前なんて聞いてどうする」
「『仲良くなるにはまず名前を聞くこと』って教わったから!」
「……アストラだ」
少女の問いかけに、ため息をつきながら名乗る。
「アストラ!素敵な名前!よろしくね、アストラ!」
いったいこの娘は何を考えているのだろう。フーリエと名乗ったこの少女が何を目的にしているのかは分からなかった。
「おい」
「なに?アストラ」
フーリエが嬉しそうに聞き返す。
「食わせてやったんだ。さっきの質問に答えろ」
「さっき?」
「……お前がどこから来たのかって話だ。あの街の住人ではないだろ」
聞かれた少女は少しの間考え込むと、得意げに指を天井へ向かって突き立てた。
「……どういうことだ?」
追及を望んだが、聞こえたのは複数の足音。
返答を待つ間もなく新たな来客に気づき、入り口を振り返る。寒冷地迷彩を施した彼らの武装を見て、この小娘のように腹をすかせてやってきたわけではないということがすぐに分かった。
「人間か、何の用だ」
「君に用はない。大人しくその少女を引き渡してもらう」
リーダーと思われる男が口を開く。指差された少女を後ろ目で捉えると、彼女は
怯えた様子で俺の足元にしがみついていた。
「悪いが、この『食い物』は俺が先に見つけた。どうしてもってんなら譲ってやってもいいが、相応の駄賃は貰いたいところだ」
「駄賃、か。良いだろう――」
甲高い炸裂音が鳴り響く。男がその手に持つ小銃を発砲したのだ。腹に感じたのは、衝撃。銃口は俺の腹部を的確に向いていた。
思わず後ずさる。視界の隅には、口角を吊り上げる男の姿があった。しかし、その表情は瞬く間に歪むことになる。
「むぐっ!?」
顔面を捕まれ、男は容易く宙吊りだ。掴む指の隙間から覗いたそれを見て、男は取り乱したように暴れ始めた。
懐に収まっていた大きなククリ。彼が撃った五・五六ミリ弾は幅広の刀身に容易く防がれており、花形に潰れたそれは重力に従ってぽとりと落ちる。
武装を施した他の男達はへっぴり腰で銃を構えるが、カタカタと震える手とぶれる銃口は脅威にはならなかった。
めいっぱいに息を吸い、咆哮する。その衝撃に数人の男は失神し、かろうじて意識を保っていた者は硬直し、すでに戦意を喪失していた。
「目障りだ。消えろ」
軽く吐き捨てる。
妙だ。名のある軍隊の特殊部隊のような見た目にしては、手応えがなさすぎる。
その疑問を解決したのは、彼らのさらに奥から現れた女の存在だった。
「下がって。これ以上の手出しは無用よ」
つややかな黒髪とぱっちりと開いた目でこちらを見た女は、その瑞々しい唇を開き、よく通る声で呼びかけた。
防寒着を着込んではいるが、相当細身なのだろう、彼女自身の小さく整った顔立ちも相まってかなり華奢な印象を受ける。
「おい、お前は何者だ。人間と関わるつもりはないがただで帰れるとは思うなよ。こっちは一発食らってんだ」
少しだけ声を荒げた。しかし女はそれに怯むことなくこちらを見つめ直すと、先程の強い命令口調から転じた穏やかな声でこちらに語りかけた。
「私はマリナ。マリナ・アカツキ。驚かせてしまってごめんなさい。あなたに用があって来たの、アストラ」
名を呼ばれた俺は思わず眉を潜めた。胸を張って名乗った女は、「想定通り」といった表情で言葉を紡いだ。
「『なぜ私があなたの名前と居場所を知っているのか』についてだけど、理由は
『条件に見合う人材を探していた』から。端的に言えばヘッドハンティング。あなたには私と来て欲しいの」
「待て待て待て!どういうことかさっぱりだぞ!」
思わず動揺が露呈した。マリナと名乗ったこの女は現在の不可解な状況すら愉悦を感じているように見える。
「ボス、契約は履行した。報酬の約束だ、彼女を――」
「いいえ、契約更新よ。『本命』はそれの後」
軍服の男の要求に有無を言わせずに返答するマリナ。彼女は立て続けに条件を提示した。
「初期の提示額ならあなたの国際口座に振り込んであるわ、もちろん現金でね。報酬は提示額の十倍、危険度は五倍、といったところだけど引き受ける?リーダーのあなたには率先してもらう必要があるから、今すぐに前金を払っても良い」
「ふざけんな!金なんざどうでもいい、俺が欲しいのはなあ!」
リーダーらしき男が声を荒げ、マリナに組み付いた。
「聞き分けが悪いな」
マリナは巧みな体捌きで男の股下に潜り込むと、担いだ男を豪快に投げ飛ばした。
相手の重量を利用してより大きな力を発揮する、異国の体術だ。投げ飛ばされた男は積もった雪に半身を埋め、苦悶の声を漏らした。
「次からはあなたがリーダー。どう?引き受けてくれるかしら」
「……その、前金ってのは……」
おずおずと聞いた痩せ型の男に、マリナはスマートフォンの画面を見せつけ、
「今すぐにでも」と言わんばかりにいたずらっぽく首をかしげて見せた。
「やる!やらせてくれ!」
「決定ね」
跳ね上がった残高を見せられた男は思わず口角を吊り上げる。
起き上がり、今すぐに離反してもおかしくなさそうに歯を食いしばる元リーダーの男を、マリナは余裕の表情で覗き込んだ。
「今ならさっきの前金分を成功報酬に上乗せしてもいい。もちろん、完遂が条件だけど」
「――次で最後だと約束しろ」
「約束するわ、すぐに次の指示を出す。今日のところは引き上げなさい」
マリナと名乗ったこの女は、軍服の男たちに命令し彼らを撤収させると、こちらに向き直して満足げに口元を結んだ。
彼女は一体何者なのだろうか。謎の武装集団を操り、俺の名前も調べている上に
相当な余裕だ。見る限り、すさまじい権力と金を有しているように見受けられる。
「まず俺の質問に答えろ。お前はどこから来て、何のために俺を訪ねた?」
「私がどこから来たかって?いいわ、答えてあげる」
マリナはフーリエと同じように、高らかに天上を指さした。天は依然として漆黒のみで、何かが見当たる気配はない。だが彼女たちの共通する主張にようやく、思考が追いついた。
「火星、か」
「正解。あなたを訪ねたのもそれが理由」
「火星!マリナも火星から来たの?」
足元にしがみついて話を聞いていたフーリエが、飛び跳ねるように喜んだ。
「そうよ、小さなお嬢さん、お名前は?」
「わたしはフーリエ!よろしくね、マリナ!」
「ということはお前も火星人か。だがなぜわざわざ地球に戻ってきた?『希望のフロンティア』じゃなかったのか?」
にっこりと笑うフーリエがさらに言葉を発する前に口を挟む。
「あなた、本当に知らないのね」
「悪かったな、俗世には疎いんだ」
「良いわ、説明しましょう」
マリナの物言いに少しだけむっとしたが、それを気に留める様子もなく彼女は説明を始めた。
『希望のフロンティア』火星。エネルギー革命によって爆発的に加速した異星の開拓は、莫大な経済効果と広大な未開地を生み出した。
巨大企業や失墜者、そして野心家たちは船に乗り、こぞってその星に向けて旅立った。
木々が生い茂り、青く水が揺蕩う、かつて赤かったその星に。
母星より持ち込んだ炉の火が消えることはなく、降った雨粒が次第に土を染めていくように人々の居住域は拡大していった。畑を耕す者、家を建てる者、探検に出かける者。移住民たちはそれぞれの野望を抱き、開拓と帰化を繰り返していった。
数々の企業闘争の末に、火星での絶対的優位を勝ち取った企業があった。
アカツキ・インダストリ。もとは軌道上に散らばった宇宙ゴミの処理を請け負っていた小さな宇宙開発企業だ。重力の制約が少ない火星に降り立ってからは巨大な採掘機械やプラントの建設で大経済圏を作り出し、独自の通貨を流通させるほどにその存在感は強まっていった。
だがある日、その星の命運は尽きる事となる。
比重の大きな貴金属を多く含み、その小ささの割に凄まじい質量を持っていた小惑星が、火星北部の港湾都市、沿岸数十キロの海面に落下した。スコーピオン隕石だ。
隕石衝突による爆発で沿岸部は壊滅、大平原に降り注いだ海泥とナトリウム化合物は数十年の地質改良を無に帰すほど農地を汚染した。舞い上がった塵により日光が遮られたことが原因で未曾有の大氷河期が到来、火星全体が氷に覆われてしまったのである。
繁殖していた動植物のほとんどは死滅し、移民者たちは反応炉を中心とする数個のコロニー以外、完全に生活圏を失った。
全球凍結という言葉は、文明紀以来、考古学的な言葉だった。「俗世」の人間たちの間ではかなり大きな事件として報じられ、そんな火星から、マリナは十五年前に、フーリエはつい最近になってやってきたのだという。
「さっぱり分からんな。なぜ俺と火星が結びつく?」
「それは私がそう結論付けたから。アカツキ・インダストリが蓄積した膨大なデータと研究の結果」
「アカツキ、って……」
「そう。私はアカツキ・インダストリの暁鞠南。火星の指導者『レイ・アカツキ
博士』こと暁黎は私の父よ」
マリナはその質問にすらきっぱりと答え、それからすこし考え込むような素振りを見せて、もう一度口を開いた。
「火星は見ての通り全球凍結状態。それでも一カ所だけ、凍結を免れている場所が
ある」
マリナが示したのは、吹雪の中撮影されたと思われるノイズまみれの空撮と、その全貌を捉えた鮮明な衛星写真だった。
座標にして北緯一八・六五度、東経二二六・二度。猛吹雪の中、その巨山は赤々とそびえ立っていた。
オリンポス山。火星最高峰にして太陽系最大の火山であるその山は長年の研究の結果、火山活動を停止した死火山であるとされていた。
だがなぜ、その山は凍結していないのか。
「断言するわ。オリンポスは生きている」
マリナは、まっすぐな目で俺を見た。
「オリンポス山には火星全体を再加熱するほどの熱源が眠っている。200万年分の、膨大なマグマがね」
「つまりは、どういうことだ?」
「あの山の噴火をせき止めている天蓋を破壊して、地上にオリンポスの熱をもたらすの。人工噴火を誘発すれば、火星を覆う氷も溶けるはず」
「ばかげてるな。大体、火山噴火なんてのは隕石衝突に匹敵する災害だ。人間が到底コントロール出来るものじゃねえ」
「今まではそうだった。でも、これからは違う」
続く押し問答にも、マリナは怯まなかった。
「人間が寒冷化した火星の過酷な環境に耐えられるようにするには、先進的な軍事訓練と十年以上の適応訓練を要するわ。それでも、種族の壁を超えることは到底叶わない。だけど」
マリナは顔を上げ、もう一度目を合わせる。
「お前、まさか……」
「高山帯寒冷地に住み、優れた身体能力を持つ獣人であるあなたなら、火星の環境に耐えられる。だから――」
マリナは深く息を吸う。そして、
「私と一緒に来て、共に火星を、私の故郷を救ってほしい」
俺の目をまっすぐ見て、唇を震わせながら懇願した。
人間に頼られることなど、初めてだ。物陰に隠れながら生き続けていたこれまででは、到底想像もつかなかった。
「なぜ俺を、獣人である俺を頼る。俺は世界を知らないし、今後知るつもりもない。ただこの地に生き、この地で果てる宿命だ」
思わず問いかける。正直、変化が怖かった。気が遠くなるほどの時間をかけて一部の人間と信頼を築き、辛うじて食うのに困らない世界を手に入れた。目の前の女は、それらを手放して未知の星、それも滅びかけの星に出向いて大仕事をやってのけろと言うのだ。
足が震える。足だけじゃない、怒りや恐怖、不安が入り交じったような感情が脳天を支配する。目の前の華奢な人間を、すぐにでもめちゃくちゃに出来そうだった。
しかし、そこに立つマリナは、極めて冷静かつ、慈悲深い目をしていた。
「それがあなたの望むことなら私は君を否定しない。でもそれは、外に出ないことは君が望むこと?」
「それは……」
マリナの放つ、槍のような言葉が心臓に突き刺さった。
この環境で、無理やり自分を納得させていた自分。日々感じていた、「なぜ自分だけ」という怒りと孤独。感情の糸がぐちゃぐちゃに絡まって、その結び目が喉につっかえた。
「火星に来て。君が周りを気にすることなく、自由に暮らせる環境がそこにはある」
強い口調でマリナは言い切る。彼女のその自信にまみれた姿が、なぜかとても眩しかった。
心臓の拍動を感じる。漆黒の空に、ぎらぎらとした太陽が全身を照りつけた。
「ならば一つ聞こう。火星に、あの極寒の惑星に、ココヤシの実は成るのか?」
その問に、マリナは口元を綻ばせた。
「当然。私を誰だと思ってるの?宇宙一の科学者、暁黎の一人娘よ!火星を救った暁には、必ず成し遂げてみせる!」
まるで歌劇のように手を胸に当てて高らかに宣言したマリナの姿がおかしくて、思わず吹き出した。笑ったのなんて、いつ以来だろう。
決めた。どうせここにいても変わらないんだ、この女についていってやる。ついたため息とは裏腹に、口元が緩んでいることを自覚したが、気が付かないフリをした。
「あ、アストラ笑ってる!」
「うるせえ」
「ねえマリナ、わたしも、わたしも火星に連れて行って!」
足元にしがみついたフーリエが、いらぬ口を挟みながらぴょんぴょんと跳ねて主張した。
「フーリエ、君はどうして火星からやってきたの?」
マリナを見上げるフーリエに、彼女は屈んで問いかけた。
「うーん、なんでだろ?気が付いたら輸送船の貨物室で眠ってたんだ。地球に着いたとき、『密航者だ!』って追い回されたよ!」
「そういうことか……」
思わずため息をつく。先ほどの武装集団は惑星間を統括する入国管理局のようなものだろう。それにしては簡単に銃を撃ったり金に目がくらんだりと荒くれ者の集団だったような気もするが。
「そういうことなら、火星に送り返される分には問題ないんじゃないか?」
「確かに、私たちが彼女の強制送還を代執行するという名目なら、問題なく連れ出せるでしょうね。でも――」
「なんだ、まだ何かあるのかよ」
「この子が地球に送られた意味よ。何か理由があるに違いない」
「わたしはなんにも知らないよ!早くお父さんとお母さんに会いたいな」
フーリエは無邪気に天を見上げる。それを見て思わず、マリナと顔を見合わせた。
「フーリエ、やっぱりあなたを連れて行くことは出来ない」
「そんな……!どうして!」
「お前は生かされたんだよ、両親に」
氷に閉ざされ、希望を失った火星。フーリエの両親が彼女を生かすために意図的に「密航」させたのではないか。
「フーリエ、あなたの生活していた環境は、豊かで、生活に困らない温暖な環境だったかしら」
マリナが続けて問いかける。直後彼女の表情が歪んだのは、まったくの想定と異なる回答だったからだ。
「うん、わたしの街はすごいんだよ!色んなおっきい建物と、火星で一番高い電波塔があるんだ!」
俺たちの推理とは異なり、フーリエは誇らしげに語って見せた。
「研究自治区……」
結論づけるように呟くマリナに、思わず首を傾げた。
「簡単に言ってしまうと、この子の環境は火星の中で一番ともいうべき恵まれたものよ。私も幼い頃、父に手を引かれて竣工セレモニーに参加した覚えがある」
研究自治区とはその名の通り学術機関や研究所、実験場などが複合した研究都市で、アカツキ・インダストリが資金を投入し、研究の自由競争と高水準の生活を約束している政治特区だ。技術者を中心に形成された市街は次第に飲食店街や娯楽施設、学校、集合住宅が充実してゆき、研究施設を囲むように巨大化していった。街のエネルギーはすべて市街中心部の反応炉から供給され、立体的かつ網目状に張り巡らされた電磁モノレールは街のどんな場所へのアクセスも可能にしているという。
火星で最も発展している都市と言っても過言ではない、そんな良好な環境を抜け出してフーリエは地球までやってきたのだ。よほどの地球への愛着があればその理由を推察するのは造作ないが、火星への帰郷を懇願する彼女が到底そのような考えを持っているとは思えない。
「今さらだが、俺達が旅立ったあとはこいつの身柄はどうなる」
「それなら、あなたが追い返した男が身柄の保護を約束してるわ。一刻も早く引き渡すよう催促までしているくらい」
「あいつはこの娘の血縁か何かか?」
「フーリエ!名前を教えたんだから名前で呼んでよ、アストラ!」
フーリエはその身をぶるぶると震わせて威嚇してきた。小さいながらも少し恐ろしいように感じた印象を受ける。
「調べた限りでは、特別な関係はなかった。強いて言うなら、あの男たちが紛争地域での孤児を積極的に保護する非営利団体、ということくらいかしら」
「待て、あの男たちは入国管理や国境警備の人間じゃなかったのか?」
「いいえ、用心棒や傭兵のようなものよ。獣人の情報を詳しく知っていたからあなたを追うために私が雇ったの」
「――!」
脳裏に電撃がよぎる。瞬間、思わずフーリエの身を隠す一枚布を剥ぎ取った。
「うにゃっ!!」
身に纏う布を剥がされたフーリエは顔を真っ赤にしながら反射的に丸まった。
「ちょっと!何してるの!?発情?」
「うるせえ!……やっぱりな。そういうことか」
剥ぎ取った布を、フーリエに対してばさりとかけ返す。
「アストラ!ひどい!エッチ!ヘンタイ!」
「……悪かったよ。――痛ってえな!叩くな!あと蹴るな!噛みつくのもナシだ!」
「ちょっと!私にも分かるように説明しなさい」
「マリナ、こいつを火星に連れて行く理由が出来た。少なくとも、あいつらのもとに引き渡すわけにはいかない」
「だから理由を説明しなさいよ!」
地団駄を踏んでマリナはその小さな身体を震わせた。さっきからこの女にやられる、理由もなく話を進められる事象に対する仕返しのつもりだった。自身の知り得ない
情報に場を支配されるのがよほど屈辱なのか、マリナの目元に光るものが見えたので思わずため息をつく。
暴れるフーリエを抱きかかえ、彼女の脚の間から伸びる尾をマリナに差し出して
見せる。
「これを見ろ。フーリエは俺と同じ獣人、いや、より希少な半獣人だ」
マリナに伝えるが、手応えはいまいちだった。
「確証は無いが、奴らは獣人売買カルテルの手先か何かだ。あくまでも動物として買われた少女が、金持ちのクズどもにどういう扱いを受けるか知っているか」
マリナの眉がぴくりと動く。様子からして、想像したくない答えを推理したのかもしれない。だがおそらくそれは的中しているだろう。
「加えてこいつは半獣人。人間の身体的特徴を多く引き継いだ、獣人と人間の子供だ。あの男がこいつに執着していたのは金持ちに売りさばいたあとの大金のためか、自身の歪んだ欲望を満たすためかどっちかだ」
吐き捨てるように言うと、マリナは身体を小刻みに震わせていた。彼女なりの俺達への同情や哀情のような何かが湧いたのかもしれない。
「……分かった。この子を連れていきましょう。でもフーリエ、今の火星は過酷な
環境であることに違いないわ。あなたを研究自治区に連れていける確証はない」
「分かってる。それでも、わたしはお父さんとお母さんに会いたい」
不安気に唇をきゅっと噛み締めたフーリエは、決意の眼差しで二人を交互に見つめた。
「決まりね」
マリナは何か覚悟を決めたような表情でさわやかに笑い、こちらを見つめ返す。
「改めてよろしくね、アストラ。協力してくれてありがとう」
「ああ、マリナ」
マリナが差し出した小さな手を握り返す。彼女の手から伝わる体温は、じんわりと温かかった。