(第10話)あの日の再現~双子の兄ジャレット~
『いいえ。欲しいのは家族からの愛情だけなので、あなたのそれはいりません』
ソフィラが、その圧倒的なスキルと共に侯爵家のパーティーで放ったというその言葉を聞いた時に、僕は笑ってしまった。
あぁ。ソフィラ。やっぱり君には、僕だけが心の支えだったんだね。
結婚してもなお、君が求めていたのは本当の家族である僕だったんだ。
そんなソフィラなら、きっと僕を助けてくれるよね?
僕は君を助けたことはなかったけれど、それでも優しい言葉をかけてあげた。
だから君の希望だった僕を、僕の今の境遇を、君なら救ってくれるんだろう?
「伯爵が、資産を持って出て行った?」
ママから聞かされたことが信じられなくて、僕は聞き直した。だけどママは、泣いているだけで詳細を話そうとはしてくれなかった。
どうしてだ? こんなに大変な時にどうして父が、家族を見捨てるようなことをするんだ?
だって僕は、父にも愛されていたはずなのに。
確かに父は、僕が「パパ」と呼ぶことを許してはくれなかった。
この屋敷で唯一、僕とソフィラへの態度が同じだった。……僕とソフィラを等しく一切無視していた……。
だけど僕へのそれは、愛情だと思っていた。
ママがあまりに僕を溺愛するから。だから僕が驕り高ぶってしまわないように、バランスをとるために父はあえて僕に、厳しく接しているのだと思っていた。
それなのに、領地経営をすべて担っていた執事が逮捕されたこの大変な時に、伯爵である父がスタンリー伯爵家を捨てた?
「うっ、うっ。だけど……うっ、ジャレットが、うっ、伯爵になれるわ。うぅっ。私のジャレットが、伯爵に……うぅっ」
ママは泣きながら、壊れた機械のように同じことを繰り返し言っていた。
こんな状態の伯爵家で当主になったところで、真っ暗な未来しか見えないことは分かり切っているのに。
国からは再発防止の監視目的で、官僚が一人送られることになっている。僕には『経営』のスキルがあるから彼と協力しながらだったら、財政を立て直せるかもしれない。
だけどその元手となる資産は、あろうことか伯爵である父が持って逃げてしまった。
それだけではなく、ママの非人道的な所業のせいで、スタンリー伯爵家の評判は地に落ちていた。
これまでのソフィラへの虐待が明らかになると共に、過去に辞めた使用人達の証言と併せてママがした祖母への仕打ちも一気に社交界で広まっていた。
こんな状態のスタンリー伯爵家に手を貸してくれる貴族なんて、どこにもいなかった。
だけどソフィラなら。ブラウン公爵夫人となったソフィラなら。
スタンリー伯爵家で唯一の味方だった僕を、ソフィラは自ら進んで助けるはずだ。
資産の確保と、社交界での評判の回復。
そのどちらも今のソフィラになら、きっと簡単にできるだろう。
★☆★
「ソフィラ。久しぶりだね」
『会いたい』という僕からの手紙にソフィラは応えてくれて、僕はブラウン公爵家でソフィラと再会した。
半年ぶりに会ったソフィラは、スタンリー伯爵家を出て行った時とは見違えるように変わっていた。
男の僕でも分かるほどパサパサだった髪は、艶やかに輝いていた。
痩せっぽっちだった体は、丸みを帯びて柔らかくなっていた。
何よりその表情が。同席するブラウン公爵に向けるその表情が、僕が今まで見たこともないほどに穏やかなものだった。
「ジャレット様。お久しぶりです」
「そんな他人行儀な。昔みたいに『お兄ちゃん』と呼んでくれていいんだよ?」
「ありがとうございます」
そう言ったソフィラの顔がとても優しかったから、僕は安心した。
僕でさえ伯爵家で出されたことのない高級な紅茶や美味しいお菓子でもてなされたことで、僕は優越感に浸った。
やっぱりソフィラにとっての家族とは、僕のことなんだ。
リラックスして雑談をしている流れで、僕はソフィラにずっと気になっていたことを聞いた。
「ねえ? ソフィラ。君は、スタンリー伯爵家でスキルを試すことはママから禁止されていただろう? ……僕はもちろんそれは可哀想だと思っていたけどね……。それなのにあの日スキルを使えたということは、隠れてこっそり試していたのかい?」
「私が伯爵夫人の命令を破ったのは、あの日だけです。それまでは一度だって、どんなスキルか確認することも含めて、スタンリー伯爵家のお屋敷の中で使ったことはありません」
「嘘だ。そうでなきゃあんなにすぐにスキルを使えるはずがない」
「『夢』の中で鍛錬していました。伯爵夫人からの命令は、『この屋敷でたった一度でもスキルを使うことは許さないから』というものでしたから」
「……ゆめ……?」
何を言ってるんだ? ソフィラは僕を馬鹿にしてるのか?
「義妹であるレインのスキルなんです。とても素晴らしいとは思いませんか? 『夢』の中で鍛錬したことが、現実の自分の経験値として蓄積されるんです。だから私は、マナーもスキルもすべて『夢』の中でブラウン公爵家の皆様から、学ぶことが出来たんです」
あの傷物女のスキルがそんなに凄いものだったなんて!
ちっ。どうして僕のスキルは平凡なんだ。特別なスキルは、ママに愛されている僕にこそ相応しいのに。
「いや、だけど! 屋敷から出ることを許されていなかったソフィラがレイン嬢と初めて会ったのは、ブラウン公爵と結婚した後だろう? そもそもブラウン公爵との結婚が決まったのだって、屋敷を出る少し前なのに。そんなに短い時間で鍛錬出来るはずがないじゃないか」
僕の疑問は、至極真っ当なものだったはずだ。それなのに、ソフィラはブラウン公爵と二人で笑い合った後で、僕に優しい顔を向けた。
「内緒です」
なんだ? それは。ソフィラにとって唯一の大切な家族である僕に、隠し事をするだなんて!
イラついた気持ちになった僕は、もう雑談は止めてソフィラに本題を話すことにした。
「ねえ? ソフィラ。僕は君を愛しているよ。だから僕を、スタンリー伯爵家を助けてくれないかい?」
僕はソフィラに、この世界でたった一人の双子の妹に、現状を話した。
だからこれで救われるはずだった。
見返りに、ソフィラが欲しいものを、家族からの愛情を、僕は与えることが出来るのだから。
だからこれでスタンリー伯爵家は、ママと僕は、救われるはずだった。
「ごめんなさい。私にはジャレット様を助けてあげられるような力はないんです」
それなのにソフィラは、申し訳なさそうには見えるけどどこか繕ったような顔で、信じられない答えを言った。
「はっ? 何を言って……。そんなはずないだろう!? 公爵夫人であるソフィラに助けられないなんてそんなはずはない! 僕がこんなに困っているのに、初めて助けを求めたのに、力を貸してくれないなんて酷いじゃないか!」
あまりのことに思わず怒鳴った僕を、それでもソフィラは優しく見つめていた。
「ジャレット様。スタンリー伯爵家のことはとても残念だと思います。私に力がなくて助けてあげられなくてごめんなさい。でも安心してください。私がいます。私だけはいつだってジャレット様の味方ですから」
何を言ってるんだ、こいつは? そんな上辺だけの言葉で僕が救われるはずがないだろう?
だいたい力がないだなんて、そんなはずがないじゃないか。僕より圧倒的に恵まれた環境にいるくせに!
申し訳なさそうな顔も、嘘くさい優しい言葉も、そんなものいらない。そんなものいらないから、助けてくれ。助けられる力があるはずなのに、どうして助けてくれないんだ。
……いや……。違う……。これは、再現だ……。
これは、六年前の……僕がソフィラの求めた助けを『面倒くさいな』と思って切り捨てたあの日の……。
立場が逆転した……これはあの日の……再現だ……。
ソフィラの台詞も、その表情も、すべてはあの日ソフィラを見捨てた、僕のものだった。
僕達は瞳の色は違うけれど、顔は確かに似ていた。
だから、本当にこれは、あの日、初めて双子の兄に助けを求めたソフィラが見た、その顔だったんだろう。
それは、表面を取り繕っているだけで温もりのない、仮面のような顔だった。
やっと分かった。初めて気づいた。
……あの日、僕は自分がソフィラを見捨てたと思っていた。そしてそれはソフィラには気付かれていないと。ソフィラにとって僕は、唯一の味方であり優しい家族のままだと思っていた。
だけど、違った。
あの日、ソフィラも僕を見捨てたんだ。
『お兄ちゃん』への期待も希望もすべて捨てたのは、ソフィラの方だったんだ。
「大丈夫ですよ。私だけはジャレット様の味方ですから」
その言葉が、その顔が、心に沁みるはずなんてなかったのに。
それが、希望になるはずなんてなかったのに。
その優しい言葉とは裏腹に、助ける力はあるのに助けるつもりはないんだろうということが、はっきりと伝わってきた。
僕は絶望した。
きっとあの日のソフィラと同じように。
★☆★
「ジャレット! 結果は、どうだったの?」
やっと家に辿り着いた僕を待っていたのは、ブラウン公爵家からの援助を疑ってもいない、出発する前の僕と同じように期待に胸を膨らませた、ママだった。
「……援助は貰えないよ……」
疲れ切った僕は、事実だけを告げた。
今は、ママの相手をすることさえも億劫だった。……ママさえソフィラを虐待しなければ……そう思う気持ちすら芽生えていた。
「そんな……。……そうよね。私が話をしないといけないのよね」
呟くママの言葉に、なぜか輝かせた瞳に、嫌な予感しかしなかった。
「安心してちょうだい。ママがソフィラに会ってくるわ。ちゃんと話せば分かってくれるはずよ。だって私達は家族だもの」
僕は、ソフィラが放ったという言葉を思い出した。
『いいえ。欲しいのは家族からの愛情だけなので、あなたのそれはいりません』
もうその言葉で笑うことは、出来なかった。
ソフィラにとっての家族が何を指しているのかは、分からない。
だけどきっと、少なくともそれは僕のことではないのだろう。
そうきっと、赤い瞳を悲しそうに伏せたソフィラが力なく去っていった、あの瞬間から。
ソフィラにとっての家族は、ソフィラが欲しい愛情を与えられる相手は、もう僕ではなくなっていたんだ。




