モデルと作品と。(仮タイトル「純粋渡辺淳一批判」)
渡辺淳一作品をまとめて読んでいた時期があった。ただ、エンタメとして読んでいたはずが、「この題材をこの形で世に広めて良かったのだろうか」と感じることがあった。医師としての経験も、その前の経験も、あまりに表現が「ナマ」じゃないか、と。
◎阿寒に果つ
高校の同級生である「純子」の自殺の真相を探ろうとする物語で、渡辺淳一の自伝的私小説の側面を持つ作品である。書かれた時期は1971〜72年、渡辺が札幌医科大学の講師を辞め、専業作家になった直後であった。
ヒロイン「純子」には明確なモデルがいる。文庫版の解説や、本人も他のエッセイなどで触れている。
私が引っかかったのは、「明確なモデルがいる」作品で、(遺族には承諾を得たのかもしれないが)脚色した部分まで「事実と認識される(可能性のある)」作品を書いて良かったのか、その前に事実であったとしても故人が知られたくなかったかもしれないことを「表現」として出して良かったのだろうか、という危惧だった。故人のプライバシーというものが、「小説だから」「創作物だから」の一言で勝手に侵して良いのだろうか、という戸惑いだった。確かにこの作品は、渡辺淳一の女性観を形作った重要なマイルストーンであると感じるのだが、そのために故人を利用し、何人もの関係者の想いを「消費」することは許されるのだろうか、という命題には、私は割り切れなさを解消できない。
ヒロインのモデルである「純子」は旧制女学校〜新制高校在籍時代から画家として期待されていた人であり、渡辺淳一の同級生であり、初恋の人だった。作品は北海道立近代美術館にも所蔵されていると思われる(常設展で一枚だけ見たことがある)。18歳で夭逝しなければ画壇に大きな足跡を残していたかもしれない。
なお、この「純子」をヒロインとした小説は他に、荒巻義雄の「白き日旅立てば不死」がある。荒巻は渡辺淳一と「純子」と札幌南高で同級生だった。所蔵している図書館を見つけたので、近いうちに読みたいとは考えている。
◎小説心臓移植(単行本/文庫は「白い宴」と改題)
1968年8月8日、札幌医科大学で日本初の心臓移植手術が行われた。本作品は、これを受けて書かれ、これが元で渡辺淳一は札幌医科大学を追われることになる。
和田寿郎は当時、札幌医科大学胸部外科教授の職にあり、心臓の人工弁を開発し、弁置換術において日本一の実績を誇っていた。心臓移植を受けた患者は心臓弁膜症を患い、第二内科から胸部外科に紹介された患者であった。和田は「弁置換では治療できない」と第二内科に相談することなく心臓移植術を行った。患者死亡後、大学内外から批判が噴出、日本の移植医療を長年にわたり止める契機になった。
渡辺は診療科は違うが和田に気に入られ、患者を紹介されるなど一方的に便宜を図られた、と後にエッセイに書いている。小説を書くことでマスコミに露出することがある渡辺を和田が利用しようとしていたのかもしれないし、旧制札幌一中〜新制札幌南高の同窓であったこともあり可愛がっていたのかもしれない。
そんな渡辺が、職務上(かどうかは怪しいが)知りえた情報で小説を書き、大学内の移植擁護派と避難派双方から距離を置かれ、職を辞することとなる。
公益性のある作品だった、のだろうか。吉村昭も心臓移植を題材にした小説「神々の沈黙」「消えた鼓動」を同時期に発表している。しかし渡辺は、和田や移植の現場にあまりにも近く、一方ではエンターティメントとして書いたために職務上知りえた情報を私のために利用した、と見られることを行った。作中の教授のキャラクターづけなど、近しい人であればあるほど事実と脚色を混同しかねないと危惧したのではないだろうか。
◎廃坑にて
若手医師が赴任した炭鉱町の病院で出会った子宮外妊娠患者の話である。
これも渡辺淳一の女性観を形作った(医師としての)経験を小説にしたものであろう。
問題は、前二作がモデルが著名人で、内容に公益性があると言い張ることができなくもない作品であったのに対して、本作品はモデルが一般の無名の患者であり、エッセイなどによれば実在する(エピソード全てが一個人とは限らないが)個人を描いたものである、という点である。モデルになった人、周りの人があまりにプライベートな「子宮外妊娠で死にかけた」エピソードを小説にされたことを知ったら、その方は許容し納得するのだろうか。作中でその患者は瀕死になりながらも生きながらえ、次の子を産み、作家となった元医師のサイン会に会いに行き、後に夫を炭鉱事故で亡くして街を去る。それらが全てモデル個人の事実と認識される危険が、とても気になった。モデルとなった患者に許諾を得たとは、とても思えないのだが。
以上の三作、作者の経験を創作物に昇華した、と言えないこともないが、私は読んだ時に引っ掛かり、渡辺淳一への不信感を感じた。
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「小説になろう」は、基本的に著者作者のための場である。投稿すること、作品に星がつくことが重視され、読者や作品の題材となったモデルは軽視される嫌いがある、と常々感じていた。
先日、ある事件を扱った作品を読んだのだが、読み進めることが嫌になり放棄した。
事件の詳細は述べない。
ルポルタージュの形式を取っていた。しかし作者の行動は、あまりにも準備が足りない。作者の覚悟を感じられない。旅行記の形式を描きたいのか、事件の詳細を明らかにしたいのか、読み取れない。調べたことを、関係者のプライバシーをただ垂れ流すだけの文章だった。
作者にとっては題材の一つでしかないのかもしれないが、事件には関わった関係者があり、人が死んでいる。故人や遺族が尊重されていない、そう感じた。
私は、この作品について感想を投稿することも、評価することも、ブックマークを保存することも、拒否することとした。一切、利することをしない。