第14話再び合わさる転生軌道
自分でも想定外に取り乱したと思う。ムンムから宥められ一緒にヴィクトルをベッドまで運んだ。
ヴィクトルはシーツを本来の使い方に戻して眠っている。毛布を上に掛けたから全裸でも寒くはないだろう。
「ムンムどうなの彼は?」
「どうかご安心下さい。――風邪ですね」
「へ? 風邪?」
この上なくハラハラしてたのが嘘みたいに気抜けした。注意深く皇帝陛下の診察を終えたムンムがゆっくりと私を振り返る。
「お嬢様、単なる風邪と見くびってはなりませんぞ」
「し、深刻なの?」
「何の病であれ油断は禁物と言いたかっただけです。安静にしていれば陛下の若さと体力ならばすぐ快復なさるでしょう」
「な、何だ脅かさないでよ」
ホッとしつつ、枕元に寄って彼を眺め下ろせば罪悪感に苛まれた。
「私のせいだ。前に夜の雨に当たらせたから……。さっきだって私の代わりに攻撃受けたし」
「お嬢様、落ち込まないで下さい。陛下はきっとお目覚めになりますから」
ムンムは優しい目で慰めてくれる。その優しさプライスレス。
「ところで、逃げるなら今のうちですぞ」
「ムンム……」
嗚呼、感動台無し。でもその通りかもしれなかった。私もムンムも少なくとも彼が寝込んでいるうちは命はある。この機に二人で国外逃亡するのも選択肢としてはありだ……なんてここに入る前だったら疑問の余地なくすぐにもそうしただろう。
――今はしないけど。
命は惜しい。でも優先すべきはヴィクトルの看病だ。ムンムは困り顔になった私の様子から心境の変化を察したみたい。それ以上は何も言わなかった。
「ロジェ嬢のせいじゃないですよ。それにしても陛下のお子を身籠っていたとは驚きました」
満を持して……はないけどその声は!
「――エド!」
ダンゴムシ、ついに覚醒!
彼は徐に床から起き上がった。
「雨に濡れた程度じゃ陛下は風邪なんて引きませんよ。次の日に某を無情にも林檎に変えた時だって、ピンピンしてましたしね」
その時の悲運を思い出したのかどこか遠くを見るエドはぶるりと小さく震えた。
「原因は、長時間猫だったからだと思います」
「何で猫だったからって熱が出るの? 魔法の副作用?」
「いえ。陛下は昨日からこっち、ずっと猫姿でしたよね?」
「うん」
エドはこの機にリベンジの下剋上……なんて思ってはないだろうけどじっと彼の主君を見つめ下ろす。
「想像してみて下さい。見た目は猫でも、魔法で姿を変えているだけなので実情は全裸と一緒です。この地は年中泳げるような熱い地方でもないですし、夜間は気温が幾分低めです。衣服を着ていれば別ですが、姿は猫だとしても、人間がそんな環境でずっと裸で居たら普通は風邪引きますよ」
あー、なるへそ。
とは言え自責の気持ちは消えない。だって私を心配して猫になってくれて、そのせいで風邪を引いたんだから。彼が勝手にした事って言ってしまえばそれまでなんだけど。
せめてもの罪滅ぼしに、私は毛布の中のヴィクトルの手を励ますようにぎゅっと握り締めた。
こうやってこっちが案じても、元気になったら私を殺そうとするかもしれないとしても。
「あなたは子供を望んでないだろうけど、この子の父親が元気じゃないのは嫌だよ」
正々堂々親同士腹を割って話し合いたい。あ、帝王切開って意味じゃない。如何にこの子が尊いか理解してほしい。
「私、あなたならきっとわかってくれるって思うから」
アデライドじゃなくその中身の私そのものを好きだって言ってくれた人だからこそ、向き合いたい。向き合ってくれると思うんだ。
「だから、一秒でも早く良くなって」
そんな風に願っていたら、段々と体の芯からほかほかしてきて、その優しい熱が腕から掌へと伝わってヴィクトルの手までがじんわりと温まる。
「うん? 何これハンドパワー?」
大いに戸惑っていると、私と彼の体が更に淡く柔らかな黄金の光に包まれる。ここまでなってようやくエドとムンム、ジャンヌにも異変がわかったようで、皆驚いた顔で私達を見つめた。
「何ともはや……。何度かこの目で見た記憶がございますが、高位司教方の施すような祈りの魔法ですなこれは」
ムンムが感心したように瞬きを繰り返した。
え、どうしてそんな魔法が私から?
あ、これもお腹の子の力だったり……?
でもヴィクトルを攻撃したり回復させたりと一貫してないから違うかも。
手は握ったまま私自身も唖然として見つめる中で、奇跡の光がヴィクトルに吸収されるようにして消えていくと、苦しそうだった表情はだいぶ和らいだ。
そうしてすっかり光がなくなった頃、彼の瞼がゆっくりと開かれた。印象深い赤ルビーの瞳が少し虚空を彷徨ってから、私に焦点を合わせる。
「ヴィクトル陛下、気分はどう? フロイス司教には及ばないだろうけど……」
安堵して顔を覗き込めば「黙れ」って小さく呟いた彼から引っ張られた。
え?
疑問さえ浮かばないうちの出来事だった。
チュッとキスされた。
「夢でまで、お前の口から他の男の名なんぞ、聞きたくない。私だけを、見ていろ……」
無防備にとても幸せそうに微笑んだヴィクトルは少し浮かせていた頭をぽすんとまた枕に戻して目を閉じる。
無性に可愛いスマイルだった。
そう、不覚にも可愛いって思った。
私のファーストキスだって奪われた……。
エド、ムンム、ジャンヌと一緒に沈黙し呆然となりながら、だけど不思議と悲しくはなかった。初キスはイチゴミルクみたいに甘くはなくて、一瞬過ぎてよくわからなかった。恋愛なんてこんなものなのかもしれない。
「お嬢様、お顔が赤いですよ」
「かっ風邪がうつったのかもね! ジャンヌも気を付けて!」
「何ですと? ならばすぐに横になりませんと!」
「あー、某も青春したーい」
ヴィクトル・ダルシアク……! 人の気も知らないでっ。彼は完全に夢心地だったに違いない。きっと起きたら覚えてないパターンだ。でも私はしっかり覚醒中だったから忘れようもない。もうホントにどうしてくれるっ。
大丈夫だって思ってたのに。大丈夫タイプじゃないから好きにはならないって。
なのにいーーーーッ。
彼が自然に目覚めるまで私達は黙って静かにしていた。
私がキスの件には触れるな危険オーラを出したせいだ。
睨むように顔を凝視していた私の圧を感じたのかは知らないけど、ヴィクトルはハッと目を見開いた。その目は何度目かの瞬きの後にいつもの理知的な光を取り戻す。敏感に魔法の気配を察知したのか、彼は私がさっき握っていた方の手を顔の前に翳してじっと見つめてから、ゆっくりと上半身を起こした。
「ちょおーっと待って! 起きないで!」
しかし彼は上だけなら別にいいだろうとでも思っているのか、私の制止を無視してさっさと身を起こす。そんな破廉恥皇帝は私の目を真っ直ぐ見つめた。
「私の身に残る祈り魔法はノアが?」
「え、えーと、それがよくわからないんだ。ほら、私は魔法を使えないはずだから」
「そうだったな……」
ヴィクトルは乱れた前髪ごと額を押さえて真面目にも彼の疑問を黙考するようにした。
……案の定キスは覚えてないか。いいけど別に。
ところで、冷静になった私の感覚的なものを言えば、祈り魔法は私の中から湧き出た。
「やっぱりお腹の子の力なのかも。もしかして魔法の超天才、スーパーベイビーだとか?」
「私達の子が祈り魔法を使っただと?」
「うん、たぶん。お城やここでバチッて攻撃したあれも、たぶんこの子。父親の才能を見事に受け継いでるんだと思う」
…………って普通に喋ってから頬が引き攣った。
やばい、何平然と子供の話しちゃってんのッ。相手の出方を見つつ慎重にしないといけない話題なのに。しかも魔法使えるって余計な秘密まで教えてっ、私の馬鹿ーっ、災いの芽は早いうちに摘んでおこうなんて思われたらどうしよう!
「そうか、合点がいった。これまでお前から感じていた魔法の気配はそういうわけだったのか」
ヴィクトルは私のお腹を見据えて両目を細める。あの時はよくもって責められてるようでヒヤリとして、咄嗟に両手でお腹を庇って身構えた。
「この子はあなたの子だけど、私の子でもあるんだよ。あなただけの意思で好き勝手はさせない」
「……そうか、だからお前はここに来たのか? 私が魔法を禁止されているこの場所に」
「その通りだよ。子供を産むまでここからは出ない」
「何故?」
「は? あなたが言う? あなたの子を妊娠したら子供を望まないあなたに殺されるって聞いたからじゃん!」
「……」
ヴィクトルは何かを言いかけ、けど結局何も言わずに少し開いただけの口を閉ざした。少し待ってもヴィクトルは一言も言わない。反論もないって事だ。
そっか、やっぱり噂の通りなんだ。私はやるせなさと腹立たしさでしかと彼を睨み付けてやる。
本音を言えば否定して欲しかった。言い訳でも何でも言って欲しかった。
いくら子供が要らないからって、母子共に葬るなんて非道過ぎる。
私は私の身にも降り掛かるかもしれない最悪に、ぐっと拳を握った。
「さすがは残酷皇帝だよ、あなたって。あなたの酷い噂は噂でしかないのかもって少しでも思った私が馬鹿だった。私はあなたを全然知らないし、嘘か本当かわからなかったからまずは保身のために逃げたけど、正解だったんだ」
ヴィクトルはやっぱり何も言わない。それが何故だかとても腹立たしい。短い期間だけどこの身で体験した彼の人間性を信じたいと愚かにも期待を捨てられないから悔しいんだ。我ながら失笑ものだ。自嘲が浮かぶ。
「ロジェ嬢、それに関しては少々誤解が……」
エドが取りなすようにして間に入ってきたけど私は気を緩めずにはいられない。こうなっては、向こうは禁止事項を破ってでもここで私と子供を殺そうとするかもしれないんだし。
「ヴィクトル陛下。あなたが私を好きなら、この子を認知しろとは言わない。ただ見逃してほしい。遠くでひっそり庶民としてでもいいから、どうかこの子を生きさせてほしい」
互いににこりともしない対峙。ここで目を逸らしたら負けだって思って懸命に瞬きさえ惜しんだ。耐えろ私、ドライアイ……っ。
はっ、と投げやりにヴィクトルが息を吐いた。
「私よりもその腹の子供のために庶民に下ると? 私から遠く離れると?」
「生きるためならそうするよ」
「無駄な考えを。私がお前を逃がすわけがないだろう」
低く言って、彼はベッドから出るや一発芸テーブルクロス引き宜しく、華麗に器用にシーツを引っ張り出して体に巻き付けた。そこは毛布使った方が楽だったんじゃ……とは指摘しない。セクシー担当復活だ。それと同時に物騒担当でもあるヴィクトル様は私へと手を伸ばした。
私は身を引いて回避……と思ったら、後退を予想していたのかより踏み込まれて見事に腕を掴まれる。
「帝都に帰るぞ」
「放して、戻ったら公開処刑でもする気?」
彼はさっきからこういう問いには物言いたげにするだけで答えない。
「放して」
一度目よりも強く言った。でも放してもらえずもっと更に声を荒げる。
「放してっ!」
刹那、バチリと雷撃みたいな攻撃魔法が放たれて彼の手の力が僅かに弱まった。けど今回彼は手を離さずにそのせいで攻撃がバリバリバリと音を立てて彼を苛む。
彼の手や頬に傷が増えていく。
「なっ何してるの! また怪我してるのにどうしてそう頑ななのッ!」
ヴィクトルはそれでも聞かず、どころか私をぐいと引き寄せて抱き締めてきた。
「なな何!?」
「私はお前とただ共に居たいだけだ! 子供は殺さない!」
「嘘だッ。噂はともかく、さっき殺すしかないって言ったのをこの耳で聞いた。私は殺されてあげるつもりはないよ」
予想に反して腕の力が弱まって、その隙にと彼を突き飛ばした。
小さな無数の傷に血を滲ませる彼はどこかばつが悪そうにしている。
「あれは子供やお前に言ったのではない」
訝りを浮かべる私の沈黙が言葉の続きを促したとでも思ったのか彼は咳払いを一つした。何か言い辛い台詞でも言うみたいに。
「お前が妊娠しているのなら、私は私の気持ちを抑えなければならない。詰まるところお前への性的欲求を殺すしかないと、そういう意図だ」
「ストレートに言い過ぎだよッ」
「……説明しないと埒が明かなかっただろう?」
「そっ、それはそうだけど!」
エドとムンムとジャンヌがポカンとなっている。
皆もまさか皇帝陛下の高貴なお口から性的欲求なんて言葉が出てくるとは思ってなかったんだろう。
「でもだったら、あなたの子を妊娠した女性が処刑されるって話は?」
「それ以前に、私が好きでもない相手を妊娠させるようなヘマをするとでも? 女達の虚言だ」
「え? でも子供は天からの授かりものって言うし、万一ってことも……」
「万に一つもない」
んな馬鹿なって困惑しきりな私に、おずおずとしてエドが「ええと、それはですねー」と補足をくれようとする。さすがにこれ以上自らの主君たる者の口から下ネタを聞くのが忍びないのかもしれない。
「陛下は避妊の魔法にも通じておられるので妊娠は不可能だったんですよ。その上で嘘偽りの類でなく本当に妊娠したのなら、それ即ち陛下の血を引いてはおられない、と」
「うっそ大胆~。別の男の子供を皇帝の子だって言ったわけだ? 分別のない怖いもの知らずもいたもんだね」
同意に頷くエドが辟易とした声で続ける。
「そもそも陛下の暗殺目的で近付いたり、横暴にも使用人を虐げ殺したりと問題のある女性ばかりでしたし、そのように黒い裏があり、尚且つ分別がなく怖いもの知らずだったからこそ、もうこの世にいないんですけどね」
「あー……」
要は皆さん悪女でしたってやつかー。
爽やかなロマンスなんて微塵も感じられない殺伐とした王宮劇を想像したら恐ろしくて指先が冷えるッ。
ホントに背筋が冷えるッ。
まるで現在進行形で殺気にでも晒されてるかのように。
……ん? 殺気?
「そろそろその粗末な口を閉じたらどうだ、エドゥアール・ギュイ?」
ヴィクトルだった。
どうしてか猛烈に憤っている。
「へ、陛下? 急にどうなされたので……?」
エドが腰が引けた様子で無意識のポーズなのか両手を降参の形に挙げて主君を窺い見る。
「私はあの女狐達に、指一本たりとも触れた覚えはないのだがな? 体を重ねてもいない相手が妊娠などするものか。それをさも私が手を付けて捨てたかのような物言いは腹に据えかねる」
「えっ!? まさか一人も食ってなかったんですか!? 避妊の魔法は使えると言っていたじゃないですか」
「避妊魔法を使える事と、私が誰かと関係を持つ事のどこに繋がりがある?」
確かにそうだとエドは理解したようだった。蒼白になる。
「私が触れたのは後にも先にもアデライドだけだ」
「申し訳ありませんでしたあああ!」
エドはド派手に土下座した。
なら初めてがアデライドでアデライドの初めても彼。
え、何これ少女漫画とかロマンス小説か何か?
うっかりアデライドと彼のあれこれ~の記憶が脳裏に過ぎってしまって赤くなる。頭を振って煩悩退散っ。
「あ、でもそうならアデライドにはその避妊魔法を使わなかったんだ?」
ヴィクトルはうんともすんとも言わずに目を逸らした。
私はようやく張っていた気が半分くらい緩んで、その場にしゃがみ込んだ。
「はあ~~~~、何だよも~~~~」
彼はただの残酷皇帝じゃなかった。理由があっての地獄の沙汰だった。
「勝手に誤解してごめんなさい」
「こちらこそ怖がらせて悪かった。だがこれからは安心していい。生憎と愛する者を害するような奇特な趣味は持ち合わせていないからな」
シリアス過ぎる顔と声で言うから、逆にちょっと笑ってしまった。
「とりあえず手当てしないと。あなたは治癒魔法を使うのも駄目なんだよね?」
「いや、治癒魔法は原則別だ。人を救う魔法だからな」
へぇ、教会らしい線引きだ。行動が早い彼は私が安心するより前に外傷をさっさと治した。
帝都から逃げるまでした一番の心配事がなくなったら、また妙に半裸姿が気恥ずかしくなってくる。
「そうだ、早く服を頼まないと。ジャンヌ、シスターを捜してきて欲し……って居たんですかあ!?」
半分扉の開いていた部屋のすぐ外にいつもの老シスターが佇んでいた。私の驚きように彼女もさすがに気まずげに微笑む。ああそっか彼女がムンムを案内してきたのか。騒ぎを案じてそのまま去れずにいたんだろう。悪い事したかも。
でも、それなら全部見聞きもしていたわけで……。
私は急いでシスターを部屋に引っ張り込んで後ろ手に扉を閉めた。
「シスター、事情は後で必ず説明しますんで、その前にこの人の服をお願いします。それからどうかこの件は内密にして下さい。それからそれから、そこの二人を秘密裏にここから出すのを手伝ってもほしいんです。――これで!!」
これで、これで、これで、これで……と私の声がエコーがかった室内は急にしんと静まり返った。
これは、一か八かの賭け。
彼ら二人を見逃してもらえるか否かで、この国の命運が決まる……かもしれないし関係ないかもしれない。
シスターが両目をこの上なく大きく見開いている。
その双眸にはキラキラした金貨や銀貨、装飾品の輝きが映っている。
そう、私の両手には賄賂がてんこ盛りだった。
「お願いします! お金で解決なんていけないってわかってます、でもどうかご慈悲を!」
輝く金品を駄目押しするようにシスターの面前へと更に近付ける。これらはトランク鞄の二重底に隠していた物の一部だ。すぐにもっと何かで必要になるかもと取り出しておいて正解だった。
猫用品を頼んだ時以上の価値が、私の両手からは溢れんばかり。
キラキラ、キラキラ、キラキラ……。
シスターの目も私の目も欲深い輝きを反射する。
キラキラ、キラキラ、キラキラ、ギラギラ、ギラリ。
「――取引成立です。本当にアデライド様は世間をよくよくわかっておられますねぇ」
「うふふ、お褒めに与り光栄でっす!」
はい、かくして買収成功~!
悪徳令嬢を目の当たりにして固まってそうなヴィクトルとエドの方は敢えて見ないようにする。人間清濁併せのむものだ。うん。
ジャンヌとムンムは私寄りの思考を厭わないから心配なしっ。
そんなわけで、私は早速と必要な物を用意してもらった。
ヴィクトルも、エドに違わずシスター服だった。
まあ男の服を着ていたら目立つから仕方ない。やっと文明的な格好になったヴィクトルが、先のデジャブのように私の正面の席に腰掛けている。わかってはいたけど何着ても似合うなあ。女物でもさ。
エドは「二人で話し合ってきちんと今後の方針を出して下さい」って気を利かせて、心配顔のムンムとジャンヌを連れて部屋を出てくれていた。ほとんどダンゴムシだったくせにちゃんと私達の事情を把握していて、実は甲冑無しな方が有能なんじゃないのって思う。シスターは諸々を調達してくれてからさっさと他の仕事へと向かったっけ。
「ノア、まずはお前の希望を聞かせてくれ」
ヴィクトルの良く通るのに静かな美声が二人きりの部屋に響く。
私は改めて姿勢を正すと、一番お腹の子にとって良い環境になるようにと願いつつ今後の方針を話し合った。
正式にアデライド・ロジェはヴィクトル・ダルシアクと婚約をする事。
そして妊娠の件はまだ周囲には伏せる事。
前者のはそれが周囲への牽制にもなる。少なくとも表面だけの幼稚な嫌がらせはだいぶ減るだろう。
後者は念のため。
「ノアはそれでいいのか?」
「うん。だから全力で安産祈願してよね」
ああ、と嬉しそうに頷く彼はテーブルの上から手を差し出してくる。
「では共に帰ってくれるな、ノア」
「うん、帰ろう」
その手を交渉成立とばかりにしっかりと握りしめる。
帝都に帰るのは、彼もこの子を望んでくれているって今は信じられるからだ。
ただし、結婚は別。
そこはいつ戻るとも知れない本物のアデライドが戻った時に、最良の選択をしてもらいたいと思う。
本物が戻ったら別れるって言ってたけど、子供のためにもそれはしてほしくない。そう言ったら黙っちゃったけど。
「ノア、婚約後は城で共に暮らしてくれるな?」
「え? 何で? 実家暮らしのままでいいじゃん」
「身の安全を保証できない」
「えっ!? 刺客がわんさか送られてくるとか言わないよね……?」
「言う。自己の利益のために邪魔な婚約者を排除しようとする輩は確実に出てくる。だからこそ、厳重な魔法で護られた私の居城に居れば安全だ。危険な目には遭わせない」
「た、頼もしい言葉をありがとう。だけどそれなら尚更、当初の予定通りこの子を産むまではここにいるよ」
「何故そういう結論に至る」
ひいっ怖い顔! おおお怒った?
「こっこの子の安全が最優先だからだよ。ここに滞在した方が外に情報が漏れないでしょ」
「確実に隠し通せる保障はないし、むしろどの勢力の人間でも滞在できるからこそ危険かもしれない。お前を害する目的で訳あり令嬢に扮し入り込んでくる可能性もある。加えて、賄賂や脅されて動くシスターがいるかもしれない以上、城の方が安全だ。少なくともここよりは私の目が届く」
それは一理ある。アデライドを害そうとする者の手が密かに伸びないとも限らない。
少しでも危険度の低い方を選ぶのであれば……。
「わかった。帝都に帰る。でもまずはあなたとエドの二人がここの外に出ないと何にもならないけど。あの高い外塀をよじ登る……のはさすがに落ちて死にそうだし、あっそうだアドリアンが使った抜け穴は……人間に戻ったんじゃ無理か。また猫になってくれたら話は別なんだけど、魔法を使えないし……」
「それなら、あのシスターが適任だろう」
「適任?」
「ああ。見たところ彼女は優秀な魔法の使い手だ。何か理由があるのかここでは力を伏せているようだがな。彼女に猫化魔法を掛けてもらえばいい」
「……」
「ノア?」
「これは、シスターともっと親しくなっておいて損はないって事だよね!」
「あ、ああ……」
ヴィクトルは私をがめついと幻滅したかもね。でもこれが私。きっと本質は彼の嫌った社交界の令嬢達と変わらない。
「あははっ引いた? 私も利己的な人間なんだよ」
「……最高だな」
「え?」
「そのくらいしたたかなら、私としても安心するし頼もしく思う。私の隣でそのしたたかさを存分に発揮してくれ」
優しく頬を緩められて、私の中で不可避の鼓動が響いた。
何だろう、彼には敵わない気がする。
出発は翌日に決め、シスターに頼んで当日に男二人は猫に……ううん、何故かエドはまた赤林檎だったけど、姿を変えてもらった。彼女は別に魔法使いだとひた隠していたわけでもなかったようで、ヴィクトルから暴かれても驚いたり不愉快にしたりはせず、あらあらバレましたわねって品の良い感じで微苦笑していた。彼女には今後とも何かあれば宜しくどうぞと手に金貨を握らせて念押しもした。
アドリアンにも、黙って去るのも悪いかと思って別れを告げに行った。そうしたら大泣きして私から離れようとしなかった。母親が何度も言い諭し、私も必ずまた会いに来るからって指切りげんまんしてようやくだった。
また会う日まで元気でいてね、アドリアン。
そんなわけで私はヴィクトル達と帝都に帰還した。
元の予定では一年だった女子修道院への滞在も、たったの何日間かで終了したのだった。
帝都に戻ってすぐにヴィクトルとは婚約して、ほとんど日も置かずに皇帝の賓客として、あの地獄のティータイムでも訪れた彼の豪華な居城に引っ越した。
当初、ロジェ伯爵夫妻は未婚の娘をどうして残酷皇帝の宮城に住まわせねばならんのだといい顔をしなかった。
渋る二人を説得するのは結構骨が折れたっけ。
会心の一手「彼の子を妊娠したから警護の十全な場所に居る必要がある」って言ったら、伯爵は白目を剥いて卒倒した。もう反対はされなかった。
まあ伯爵も以前はヴィクトルとアデライドの関係を貴族の利益的な面からしめしめって思ってたんだし、そこにヴィクトルと居る方が愛娘が殺される心配はないってわかってやっと折れてくれたって感じかな。
夫よりもむしろこっちの方が倒れそうに繊細なロジェ伯爵夫人だったけど、孫ができたのねって嬉しそうにしていた。女は強し。
ジャンヌはジャンヌで妊娠を内緒にしてたのに拗ねてはいたものの、侍女としてはきちんと仕事をこなしていた。彼女を巻き込まないようにって配慮だったのはわかってくれていたっぽい。
加えて、私の中身云々にも否定的な態度は見せず、今も昔も仕える相手として不足はないと言ってくれたよ。うぅっジャンヌ~!
今回は誰にかじってもらったのかは知らないけど、林檎から人に戻ったエドも通常任務に戻っていて、相変わらず銀甲冑で徘徊……じゃない巡回しているそう。
彼は面倒を見てる街の少年ジョンに護身のためか剣を教え始めたとも聞いた。
……あぁ、ジョンが林檎を苦手になったとか何とか風の噂で聞いたなぁ~。
お調子者のロベールはその独特の愛嬌から帝都の淑女に人気だし、優しいフィリップは何だかジャンヌと怪しい。
お城の廊下でばったり会ったりするとジャンヌもフィリップも揃って頬を赤くしてそわそわし出すんだよ~。
これは私が一肌脱いで差し上げないといけませんわねオーホホホホホ!
もう一人、忘れちゃいけない人がいる。フロイス司教だ。
笑顔の裏には隠れた謎がありそうな彼とは、何と愚痴友達になった。
若くして出世した彼も彼で色々とムカつく日々を送っているんだとか。聖職者も聖職者で必ずしも常に真っ白な心でいられるばかりじゃない。人間だもの。
私が彼と仲良くするのをヴィクトルは猛反対。教会側とある部分では対立もしている皇帝陛下としては警戒してるんだろう。
日々少しずつ大きくなるお腹を不思議な感覚で見下ろしながら、時に二人でそうしながら、この世界での私の時間は少しずつ増えていった。
アデライドになってから何カ月と経ったけど、未だに彼女の魂は見つからないのか天使からの音沙汰はない。
もうそろそろ臨月だってのに。
当初は隠していた妊娠もお腹が出てきてからはそうもいかなくて公表した。
それもあって私は貴族令嬢どころか一国のプリンセスかってくらいに丁重な扱いを受けている。
ヴィクトルとは変わりない。
甘い事は何もない。まぁ婚約はお腹の子のためだから。
いつか元の私に戻るならこれ以上は踏み込んだらいけないって私の中には歯止めがあって、彼も私のそんな心を察しているんだろう。
それでも二人で帝都のパークを歩いたり、食事も大抵一緒だし、彼の休憩時間にお茶だってする。甘々~。
「ノア、先程からボーっとして何を考えている?」
ヴィクトルの声に私はドキリとして我に返って顔を上げた。
現在は夕食後、照明の柔らかな書斎で互いに思い思いの書物を手に取って寛いでいる時間だった。
クッションの効いた長椅子に隣り合わせに腰かけていて、それぞれ楽な姿勢でいる。使用人も下がらせているし純粋に二人きりだ。
余計な目がない。だからこそノア呼びなんだけど。
そして、こんな風にゆったりした雰囲気の中で過ごせるくらいには彼に気を許していた。
不思議だけど、腐れ縁な友人といるのにも似たまったり感だ。
ただ不意打ち同然だったせいか、真っ直ぐに見つめられてちょっとドキリとした。
……そんな自分が意外じゃない。
私は読んでいるようで読んでいなかった書物をパタンと閉じると片手で目元を覆った。
「こんなつもりじゃなかったのに……」
「ノア?」
告白されてだいぶ経つけど、彼は返事を急かさない。
私も本当は自分の気持ちには気付いている。友情なんて言って自分自身を欺瞞しているだけで。
ゆっくりと手を外し横のヴィクトルを見つめた。
恋人にできるかできないかって、よくキスできるかできないかだって言うよね。
――できた。
彼を二度目の猫から人に戻したのは、私だから。
あの時は必要な処置だと言い聞かせてそうしたけど、その裏には願望もあったんだと今ならわかる。
だけど、彼は覚えていない。寝ている時にそうしたからだ。
寝ぼけた時と合わせて二回、私は確かに彼とキスをしていた。
進展させるつもりがないからそれでいいと思う反面、妙に腹立たしい。私ばっかり思い出して動揺して、そんな私を彼に悟られないように努めて落ち着かせてってのを結構やってて、こんなの不公平って思ったら悔しくて…………ああ、そうか、とどの詰まり私は気付かせたいのか。
後悔するから動かない選択をして、どうしようもなく後悔するところだったのにやっと気付いた。
いつか離れたっていい。
それこそ後悔も吹き飛ぶくらいに一生分の好きをぶつけて燃え尽きるくらいに愛しちゃったらさ。
「ヴィクトル陛下」
「うん?」
愛してる。
「……」
「……」
ちゅっと頬に不意打ちしてやった。手からポロリと本を取り落としたヴィクトルが、鳩が豆鉄砲を食らったような初めて見る顔をして固まっている。
「これさ、実はあなたとの三回目。……覚えてないだろうけど」
薄らざまみろーって復讐心を覗かせて、私は彼の綺麗な綺麗なご尊顔を見つめてにんまりとした。
止まっていたヴィクトルが、ようやく動き出す。
彼は何故かふっと笑うように息を吐き出した。
「……やっとだな」
「え?」
「やっと食いついた」
「はい?」
何? 今の台詞はどういう意味? 食いつく?
釣り宜しく餌を撒いたと?
まさか。
「この私がお前とのキスを覚えていないわけがないだろう? 寝ぼけたあれは私を意識するように仕掛けた罠だ」
「へ」
「二度目のは、狸ならぬ猫寝入り」
「な」
何だそれっ、何だそれーっ。
「ノアが決心するのをずっと待っていた。こちらから強引にしても決して私のものにはならないだろうからな」
「な、な、な、な……狡くないっ!?」
「策士と言ってくれないか」
どうしよう、私ってばとんでもない男に引っ掛かっちゃった?
「煽ったのはそっちだからな」
彼はがらりと纏う空気を変えるや一旦逃げたくなった私が動くより前に私を抱き寄せた。見る間に顔が近付いた。
えっ、こっちはほっぺにしたのに?
胸の鼓動が強くなって息さえ詰まる。唇を塞がれたからだけど。
最高にドキドキして、甘くて熱くてのぼせて死にそうだ。
「愛してる、ノア」
優しい吐息の合間の睦言に泣きたくなるくらいに胸が愛しさで痛くなる。
「私も――」
人生で初めて愛を囁くのにひと際心音が大きくなった刹那、突然フッと全ての音が消え、空白になった聴覚に目覚まし時計のベルが大音量で鳴らされるような煩わしさをねじ込まれた。
「はーーーーい! お~待ったせ~~~~!」
いつぞや聞いた天使の元気な声だった。
大音量のスピーカーの真ん前に立ったみたいにガンガン頭が痛くなって続く言葉を口に出来ないまま、気付けばいつぞやの何もない不思議な白の空間にいるのを認識する。まさに空白って言葉が相応しいような場所だ。
「あぁ、またここ」
「そうだよ。アデライドの魂を本体に戻したんだ。だからノア、君の魂はもう元の世界に返してあげられるよ。嬉しいでしょ~?」
「は、い……?」
頭が真っ白になった。
よりにもよってどうしてこのタイミング……。
「ああそれと、アデライドからの伝言。体を護ってくれてありがとう、子供が無事に産まれるように大事にするから安心してだって」
「そ、そう……」
我ながら抜け殻みたいな声が出た。
「前に言ったように昼寝の続きからだからね~。今まで御苦労様、本当に助かったよ。それじゃあノアライフをエンジョイするんだよ~………………また時が満ちるまで」
最後の声は薄れ過ぎてて聞き取れなかった。
でもそうか、ヴィクトルとはもう会えない。
後悔しないって決めた途端にこれか。人生簡単じゃないってわけか、ふうーん。ふうーーーーん。
喪失感に心が潰れそう。
こんな風に奪われるように唐突に別れを迎えるなんて思わなかった。
「……せめて、バイバイくらいは、言いたかったな」
苦しい。
まるで急転直下で奈落の底に落とされたみたい。
心が痛くて、鼻の奥もツンとして、涙が……。
魂だけの存在で涙なんておかしいけど、諸々の感情が集約されたような涙がぽろりと目から零れ落ちた所で、私の意識は瞬間的にポイントが切り変わったように現実世界を認知した。
体感時間的には結構久しぶりの良く知る実家のベッドの上。天使が昼寝の続きからって言ってた通りの。
昼寝しながら泣いていたのか、目尻から耳の方へと涙が一筋滑り落ちて行った。
あれから、こっちの季節は夏から秋に流れた。
大学生の日常に戻った私は何の事はない、ごく普通に大学生してバイトして、女友達や腐れ縁な男友達と遊んだりしながら、それなりに楽しく過ごした。
特に腐れ縁の男友達コウヨウは無駄に顔を見せるから、楽しくふざける合える彼のおかげで落ち込んでいる時間はかなり減った。
コウヨウはさ、女子人気は高いし結構なイケメンなのに、ずっと彼女を作らない。
コウヨウ七不思議の一つだよねって揶揄ったら、怒ったのか軽く鼻先をつままれて「誰のせいだ」って恨みがましい目で睨まれた。
コウヨウって時々よくわからない。まぁいいけど。
ねえヴィクトル、こっちはマイペースにやってるよ。そっちの世界はどう?
本当のアデライドとは、そこは恋愛感情じゃなくても穏やかに家族として暮らして欲しいと思う。
「……もう産まれたかな」
放課後の大学構内を一人歩きながら、見事に黄色く染まった鮮やかな銀杏の木を見上げてポツリと呟いた。見上げれば首が疲れるくらいに背の高い銀杏並木。
あ、れ……?
無理したつもりはなかったけど、ちょっと長く見上げていたせいで立ちくらみしたのか、視界がブレて後ろに傾ぐ。
あ、転ぶ。
強く後頭部を打ったりしたら運が悪いと死ぬ事だってある。でも思うように体が動かない。防御も取れずに意識が遠ざかる。
だけど地面に倒れ込む寸での所で私の体を誰かの腕が支えた。
背中に感じるのは相手の力強い腕だ。
「ふう、危なかったな。走ってきて良かった」
薄ら開けた私の目には、同年代の若い男の姿が映っている。
あ、れ……コウヨウ?
黒髪に色素の薄い灰色の瞳。外国の血が入ってるコウヨウの顔だ。いつの間に。
彼を見たら何だか安心してしまって、私はもう一人で頑張らなくてもいいんだと感じれば、意識を手放していた。
「……あの天使も酷な真似をしてくれる」
押し殺した声で、彼はこの世界の言語にはない言葉で毒づいた。
「――早くもっとお湯を運んできなっ!」
なに、
「お嬢様っ頑張って下さい。いきんで!」
ごと?
「気を抜かないで下さいアデライド様!」
え、何、いきなりの急かし声は。それにいきむ?
誰か出産でもす――
「――っっ」
私は覚醒直後に猛烈なお腹の痛みに襲われた。
くっ……ッ……ッ、何この痛さ!? 尋常じゃない!
それにアデライド?
ってあのアデライド?
「ちょっとまたなの天使! 今度は全然暇じゃなかったのに!?」
「お嬢様お気を確かにっ、まだ天に召されては駄目ですっ」
さっきからジャンヌの声がする。あともう一人知ってる人の声も。周囲を認識すればどこかの貴族の寝室っぽい。えっと何これ。豪華なベッドで出産とか。分娩室は? この国の貴族ってこんななの? それか急な事態だったのか。
まあどっちでもいいけど、どうしてよりにもよって出産時にチェンジしたわけ?
アデライドの魂はこんな大事な時にまたどこへ?
お腹の子を大事にするんじゃなかったっけ?
……ん? でも待って。産むとは言ってなかった。大事にするってだけで。
そうだよ、彼女は端から産むつもりはなかった?
何故って?
――私が産むからだあああーーーーッッ!
それにしても痛いっ!
こんな激痛に耐えて世のお母さん方は子供を産んでくれたのか。
ありがと、本当にありがとうーっ!
そして私も何とその一員に加わるよいぇーーーーい!!
痛過ぎてテンションが崩壊してる~う。
ともかく、私が無事に産んでやるぜって意気込んでたから、正直ノアに戻った時は後ろめたさを感じなくもなかったけど、だけど……ッ、今この通り望み通りになって、正直ッ――このぶっ込みはないでしょヒッヒッフーーーーッッ!!
「アデライド様っ、ハイッ、いきんでーっ、もういっちょおーっ」
あ、意識飛びそ……。
「アデライド様駄目ですよここで気を失っては! 母子共に危険です! あと少しですからどうか頑張っていきんで下さいませ!」
ううう、そんな事言われても……、だってもう痛くて痛くて痛すぎて無理だっつーの!
もう嫌、もう限界……――こんな場面を時代劇のドラマか何かで見た事がある。
難産で母体が意識を失って、終いにはどっちも死んじゃうってやつ。
そうだよ……駄目だ、死んだら駄目だ。
出産時のリスクを乗り越えてきっと無事に産むって決めたでしょ。
そう思ったらもりもり意欲が湧いてくる。
よーし待っててよ、今ノア母さんがすぽーんと産んだるからねーーーーッ!!
そんな無上の決意の片隅で、聴覚なのかもっと深いところでなのかは判別できないけど、よく知る声が聞こえたように思う。この体になって親しんだソプラノボイスが。
――良かったです。一時はハラハラしましたけれど、もう心配はなさそうですね。子供達と彼を宜しくお願いしますね、ノアさん。
いきんでたせいもあってか、私は声じゃない声で「勿論、任せて!」って叫んだっけ。
――おぎゃあああああーっ! おぎゃあああああーっ!
意識が何度も飛びかけ助産師の呼び掛けに従いながらも、あまつさえ痛みで何が起きてるのかわけわかんなくなりながらも、私は何とか無事産んだ。
「アデライド様おめでとうございます! 元気な皇子様と皇女様ですよ!」
……ええ、はい、そう、元気な二人で良かっ……――え?
ふたり?
二人いいいーーーーっっ!?
ええはい、アデライドの子は何と双子だったようです。
それ前以て言っといて!? 心構えが違うじゃん!?
ムンムめ、よくも黙ってたな。後でとっちめてやる。
でも全くホントによくやったよ私……。
ほとほと疲れ果てた私の枕元に見えるようにして寝かせられている新たな命達を潤んだ目で眺めながら、だけどなるほどなーと納得してもいた。
電気みたいな魔法でヴィクトルに攻撃的だった方と、祈り魔法で風邪を治してやった方。
どっちがどっちだかはわからないけど、二人がそれぞれ使った魔法なんだって思う。
何となく、この子達は性格も正反対に育ちそうだとも思った。
その時だ。
「アデライド!」
赤ん坊の声を聞いて居ても立ってもいられなくなったのか、バーンと魔法か何かで扉を吹き飛ばして部屋に踏み込んできた男がいた。
「ヴィクトル陛下……?」
ああ、ヴィクトルだ、ヴィクトル・ダルシアクだ。
私は私の時間軸的に何カ月ぶりかで見た彼に感動もひとしおだった。ずっとどうしてるかって心配してたんだよ。部屋を破壊するくらいに元気そうで何よりだけど。
「よくやったなアデライド。ありがとうお疲れ様だ。……これが私達の子か。小さいな」
彼は助産師から双子の片方を抱かせてもらって目元を和ませる。その眼差しを私にも向けた。
「きっとノアも向こうで喜んでいるはずだ」
「その言い方だと私まるでもう死んでるテイストじゃん」
ヴィクトルは目をパチパチと瞬いた。そしてハッとするや子供を一旦助産師に戻した。ベッド脇に膝を突いて私をじっと見つめる。
「ま、さか……」
「久しぶり、ヴィクトル陛下」
「――ノア!」
感極まったように抱き締められた。
「陛下ッ、アデライド様はご出産されたばかりなんですよ。乱暴に動かしたら駄目ですって!」
「……す、すまん!」
そんなに乱暴でもなかったけど、すんなりヴィクトルが助産師に謝った。
……謝った。あのヴィクトル様が。
どういう心境の変化? 家族ができて丸くなったとか? まあ何であれ助産師さん強い……って、あれあれあれ?
そこの助産師、――ニコラ!?
さっきからジャンヌの他にも知り合いの声が聞こえると思ったわけだ。ちゃんと確かめたかったけどヴィクトルがそれを許さなかった。私の視界一杯に彼の心配そうな顔。仕方がないなあ後でにしよう。
「本当の本当にお前だ、ノア」
「え、あ、うん」
彼は注意されて少しだけ腕から力を抜いたけど、それでも私から離れないで私の肩に顔を埋めるようにする。周囲の皆は産後のケアがあるからと部屋にはいたけど、気を遣ってかそっとベッドからは距離を取った。
「アデライドはお前にまた会えると言っていたが、本当は半信半疑だった。どこかでもう会えないのではないかと思っていた。ノア、頑張って産んでくれて心からありがとうな」
「うん」
気のせい? 声が震えて……ううん、そこは気付かなかったふりをしてあげよう。
「……お前に、とても、すごく、会いたかった」
パタパタと背中に回した手であやすように叩いてやりながらふうと疲労と安堵の息をつく。
この状況に混乱がないと言えば嘘だけど、とりあえず今はこれでいいか。
「私も、あなたの顔すっごく見たかった。――ただいま、ヴィクトル陛下」
出産して一月経った。
だけど結婚はしてない。
そうなんだよ、二人は結婚してなかった。てっきり二人できちんと話し合ってデキ婚ですってとっくに式を挙げちゃってると思ってた。
知ったのはほんの一週間前。
勝手に結婚済みって思い込んでてそれまで確かめなかった私も私だけど。
だって子供は大事にしてくれるって言ってたのに。
養育できる財力だってあるんだし、身分とか肩書きが違うだけで使用人の態度にまで影響が出ちゃうようなこの世界の階級意識の中で、双子達がナメられたらどうしてくれるって話だ。
だから無責任なヴィクトルに怒ってて、今現在は喧嘩みたいにしちゃってる。
彼はだけど言い訳もしない。
産後の体調回復を経て、有能な皇帝として普段はシュッとしてキリッとしてるくせに、私や子供達にだけは蕩けるような優しい顔をしてくれるそのギャップには驚いたし照れ臭かったけど、それとこれとは別だ。
とはいえ暗黙の了解で子供達は正式な直系として恭しく世話をされてるようだけども。
ああ話は逸れるけど、女盗賊ニコラは一度は教会騎士に捕まったけど、彼女の入団事情と女子修道院での善行なんかを考慮されて恩赦の形で釈放されたのち、村医者をしていた腕を買われて助産師になったんだって。
だけどそんな経歴の女性が皇帝の子の出産に関われるなんて栄誉、普通は得られない。
私が彼女をずっと気に掛けていたのを知っていたヴィクトルが色々と手を回したんだって、そうニコラ本人から聞いた。人生大逆転だって喜んでたっけ。その際にはヴィクトルから細かく諸々を誓約させられたらしいけど「ま、まあそのうちにね」と青くなった彼女はお茶を濁した。……あー、はは、一瞬残酷皇帝たる彼の所以が垣間見えたー。とは言えニコラが何か邪心を抱かない限りは心配はないんだろうけど。
更に彼女は現在では双子の乳母の一人になってもらっている。
話を戻すと、どうして結婚しなかったのかって思うよね?
ヴィクトルがわからない。
私はパタンと読んでいた書物を閉じる。
ここはお城の書斎。正確には、私に与えられた宮殿内の書斎。
この場には子供と乳母と、そしてヴィクトルがいる。
ここのところは私が怒ってて口を利かないでいるから、文字通りただ居るだけなんだけど。彼は公務が終わると毎日こっちに来る。今日なんて早い方だし。まだ外は明るくて夕食前。
ニコラじゃない方の乳母は白髪の混じる年齢で、ヴィクトルの乳母でもあった女性なんだとか。物腰柔らかで、早くに母親を亡くした彼は母親とか祖母とかそんなように思っている人らしい。見てたらわかる。辛い幼少期誰も信用できないでいた彼も、実は彼女だけは例外だったみたい。そういう存在が居てくれたからこそ、彼は本当に残酷皇帝にならずに済んだのかもしれない。
で、乳母二人はさっきからチラッチラッと私とヴィクトルを見てくる。
仲直りしてないのを心配しているのは明白だ。
うーん、もう一週間だしね。
どうしようかなって彼を盗み見たらバッチリ目が合った。ずっとこっちを見てたの? 確か猫になってた時も妙に引っ付いてきてこっちを気にしてばかりだった。……イメージないけどそういう気質なのかもしれない。
慌ててまた顔を逸らしちゃったけど、書物に顔を隠して今度こそ盗み見た。
天下の皇帝陛下ともあろう者が俯いてどこか寂しげで、チクリと胸が痛んだ。
私も頑な過ぎたかもしれない。
「ねえ、陛下」
ハッと息を呑むような顔で彼は顔を跳ね上げた。
「何だ、ノア」
「ごめんなさい、あなたの話も聞かないうちから怒って。だから訳を聞かせてほしい」
彼もようやく私が聞く耳を持ったんだってわかったんだろう、硬い表情だったのが和らいだ。
「アデライド、彼女は祝福されるべきなのも、花嫁衣装を着るべきなのも、私の隣で華やかな式に臨むのもお前の役目、お前でないと駄目だと言っていた」
「私のため!?」
「そうだ。だから、待っていたんだ。お前がいつか私の元に戻ってくるのを信じていたからな」
「博打が過ぎるでしょーっ。ずっと戻らなかったらどうするつもりだったわけ、もうっ」
ヴィクトルってやり手で頭のキレる男なくせに時々すごく馬鹿。
それに、アデライドは思いやりのある本当にいい子だね。
「酷い態度取ってごめんなさい」
長椅子の上で彼の方を向いて頭を下げた。乳母達はさすがにハラハラとしたように息を呑む。子供達も不穏なものを感じてか二人同時にぐずり出す。
殺されるひい~っなんて風にはもう思わないけど、さあさあさあ怒るならバシッと怒って!と覚悟する。
書物に置いた両の手にギュッと力が入って指が白くなる。竦めた肩も首も硬くなる。
その時、そっと頬に指先が触れた。
勿論、ヴィクトルの。
「悪かった、泣くな」
すぐ横に座り直した彼から顎を上げさせられて見つめ合う。
「な……んで、どうしてあなたが謝るの」
「私の選択がお前をこうやって泣く程追い詰めていたからだ」
「これはっ、嬉し涙だからいいのっ。私のためだったなんて感動するじゃん!」
「嬉し涙……」
安堵に弱るみたいに眉尻を下げる彼がとても愛しい。
「彼女は、いい人だね。あなたの気持ちを一番に考えてくれて、そんな風に言ってくれるなんて。きっと私にはできない」
だから私で本当にいいのかって躊躇いがないとは言えない。ヴィクトルも黙り込んじゃった。
「悪い事は言わない、彼女を美化するな」
「……んん? 美化?」
全く埓外の言葉がきた。
「そうだ、美化」
「???」
本気でわけがわからない。ヴィクトルは悩んだように眉を寄せながらも私の涙を拭ってくれる。
気掛かりそうにしていた乳母達は空気が違うのを察してか、二人で顔を見合わせ安心の笑みを浮かべると静かに子供達を連れて出て行った。
「結局のところ彼女とは似た者同士、お互い様だった。だからその点は気兼ねしなくていい。余計なものを取っ払ってそこに残ったノアの純粋な気持ちだけで考えてほしい」
隣に座るヴィクトルは彼にしては非常に珍しくも頬を赤らめている。
俯いて小刻みに肩を震わせると、ヴィクトルが「ノア?」って心配そうな声を掛けてくる……掛けてくれる。
「ふふ、ふふふっあははっ何だよぅ、何だか気が抜けたー。私って結構単純なんだからね」
優しく涙を拭ってくれたその手に頬を擦り寄せる。猫ヴィクトルが私にそうしたみたいに。
大事にされていつしかその優しさを享受するのが当然って思ってて、心地いいって感じていた。
彼の傍が最も安心できる場所になっていた。たとえ喧嘩をしていても。
「私、あなたしか旦那様にはなりえないって思ってる」
ヴィクトルが大きく両目を見開いた。
「嘘ではないな?」
「嘘ついてどうするの。国の事とかまだまだほとんど素人だけど、私は私なりにあなたを支えていきたい」
「それは、つまり」
「うん。――結婚しよ」
プロポーズなんてした事がないから、微かに睫の先が震えた。
彼はくはって感じで鮮やかに破顔する。
「ああ、結婚しよう」
ヴィクトルは私の膝の上の書物を何故かぽいっと床に放り投げた。えっ結構高そうな本なのに。
呆気となる私を嬉しそうに見据える彼は、いとも簡単に私を彼の膝の上に乗せる。
え、この体勢は……。私から僅かな緊張を感じたのか彼は顔を覗き込むようにしてくる。
「ノア、何を考えている?」
「ええと、いつぞやの甲冑椅子を思い出すなーっと」
「…………あれは忘れろ」
彼もやっぱり常識的な感覚を持ち合わせていたようだ。良かった。
「だが、またやってもいいぞ」
はい、激しく間違っておりました、常識なかった!
「ははっあれはもう二度としなくていいよー」
声を引き攣らせると、何故かヴィクトルは「そうか」って明らかにガッカリした。
「ところで、ノアはもう少しくらい肉を付けてもいいな」
「はっ! ちょっと何どさくさにっ、脇腹の肉つまんでんのーっ。無駄肉は要らないよ!」
「そんなにないだろうに」
「ふんだ、乙女心のわからない男めっ」
パシリと軽く叩いてお腹に回された不埒な手を撃退する。
そんなヴィクトルは吐息で笑った。
「世の乙女心はわからなくても、ノアの心だけはわかるようになりたいと思う。だから、好きな事嫌いな事をもっともっと知っていきたい」
あっそれ同じ、と気持ちが爽快にクリアになるみたいに思った。何だか無性にこそばゆい。
「ノア」
彼はとても穏やかな声で私を呼ぶ。
「ずっと愛してるよ」
言葉に詰まった。何度囁かれても心に刺さって、嬉し過ぎて。
「あ、ははそれはまた、言葉だけ聞くと愛が重いよね」
「嫌か?」
「……さあ?」
我ながら素直じゃない。ヴィクトルはそこをわかっているのかいないのか、いや、わかってるねこれは。にやりとした。
「曖昧にしたのを後悔するなよ?」
この一月、大事を取って長く休まされたのと喧嘩のせいで一切何もしてこなかったと言うか、できなかったヴィクトルさんは、その反動なのか待てを解かれたわんこみたいにいきなり頬にキスしてきた。
ちゅっちゅって吃音が上がって頬だけで怒涛のキスの嵐を食らってさすがにこっちも恥ずかしさに狼狽する。
「あっあのねヴィクトル陛下擽ったいって、ちょっと待って急にガッツキ過ぎ!」
「ヴィクトル」
「え?」
「そろそろもう陛下は付けなくてもいいと思うが?」
「あ、あー、うん、そうかも……ヴィクトル」
呼んだらまた優しいのに激しかった。
「待っ、心の準備がっ。自慢じゃないけど私恋愛初心者なんだよっ。急に甘過ぎる展開はなしでっ、それにほらまだ結婚してないし!」
「別にここで服を脱がせるわけでもない」
「あああ当たり前でしょーっ、何事にも順序ってものが、ふぐっ!?」
声ごとその唇に押さえ込まれたよー。嗚呼色気駄々漏れ~。
嬉しいけど恥ずかしい私としては真っ赤になるしかない。そんな再び目を潤ませる私を眺めるヴィクトルは「悪い」って反省したけど、耳元に口を寄せると擽るような声で、
「とは言え、三人目もすぐかもな」
なんて際どい事を囁いた。
真面目な話をすると、ヴィクトルが言うにはアデライドは私に人生丸投げしたそうで、私はこの世界で死ぬまでアデライドでいるだろうって。
だから、遠慮なく飛び込んでこいって彼には言われた。
うん、そうか、ならこっちも遠慮はしない。
とことん、あなたを愛しちゃうぜ。
――ってなわけでまた日は過ぎて、今日は遂に私達の結婚式。
皆と花々が見守る中、何とフロイス司教が式の進行役。
彼はいつでもヴィクトルの愚痴を聞くよなんて、私達以外の周りには聞こえない声で囁いてきて、ヴィクトルが殺気立ったから冗談抜きに焦った。彼をわざと怒らせるのホントやめてほしい。血みどろの結婚式になりかねない。
ヴィクトルはどうにか堪えると、私を見て優しく蕩ける笑みを浮かべた。彼の見た事のないその笑顔に招待客の大半は目を剥いた。
うん、理解はできる。最初は私もそうだった。
「……生涯愛する事を誓いますか?」
何事もなかったようにしれっとしているフロイス司教の言葉に、内心拳を握ったものの私はヴィクトルと微笑み合った。
「誓います」
「誓う」
「それではお二人、誓いのキスを」
ヴィクトルの唇が待ってましたとばかりに近付いて、私はそっと目を閉じる。
先なんてわからないから、だからこそ悔いのないようにこの臨時代行人生を過ごそうと思う。
確実なのは、この世界にいる限り、私はこのヴィクトル・ダルシアクって唯一無二の男の隣で愛を育むって事かな。
……ってねえ、キスが長くない? 長いし深いってこの破廉恥皇帝!
こうして皆の前で食べられるかと本気で焦ったこの日、私と彼は晴れて正式な夫婦になった。
私と彼の実質的な初夜はまぁ、ね。ホント三人目もすぐできそうだよ。
結末から言うと、私はアデライドを全うした。
アデライド人生では色々あった。
きっともうヴィクトル以上の人には出会えないだろうって。
こんな気持ちと記憶でノアに戻ったら一生結婚はできないともさ。まぁそれでもいいかって実は思ってる。
だから、たとえ夢だったとしても、大きな幸せをありがとうヴィクトル。
いつまでも大好きだよ。
あと、バイバイ。
ふ、と意識が戻った。
私どうしたんだっけ?
ああそうだ。大学で急に目眩がしてそれで……。
「ノア? 大丈夫か?」
天井の照明で逆光になる視界に人影が入ってきた。
声は聞こえてたのに、まだ思考が鈍くてぼんやりと眺めていた私は誰かわからずに、だけどふと浮かんだ名前とその人の顔が重なって見えた。
声になっていたかはわからない声で名を呟いた。
「ヴィク、トル……?」
その時、聞こえたのか相手がピタリと動きを止めたように思う。ううん、硬直したって言うのがしっくりくる。
相手は暫し動かない。私はようやくちゃんと目が覚めてきて視界に入る人物を見つめた。
「んー……ヴィクトル、て誰だっけ……あれ? コウヨウ?」
あぁそう言えば倒れた時に彼がいたっけ。
目が覚める直前まで何かとても幸せで切ない気持ちだった気がするけど、夢の内容は一切思い出せない。
残念で、だけどそれは手放さないとならないものなんだと何となく納得している自分がいる。
それでもどうしてだろう。全てが完結しているのに消化不良みたいな気分だよ。
「ノア……心配させるな」
気付けば枕元で被さるようにして友人のコウヨウから抱きしめられていた。カーテンと室内の薬品のにおいから、たぶんここは大学の医務室だ。
今し方幻覚のように見えた誰かはもう記憶にも像は残ってなくて、逆にコウヨウの顔がしっかりと意識にはある。
何故だか、彼を見たら心底安心した。消化不良も解消したし。
「えぇとありがとう、コウヨウが運んでくれたんだよね?」
「ああ」
「へへっ、ありがとうホント」
感謝と嬉しさで顔がにやけたと思う。
ピンチを救ってくれたなんて、まるで王子様じゃん。
それがコウヨウで妙に嬉しい。
「うんうん、さすがは腐れ縁だよ」
「何だよ、どうした急に?」
「うん、コウヨウだ~ってさ」
「何だそれ」
彼は困ったように微苦笑する。
その眼差しには、今までは気が付かなかったけど、どうしてだかたった今気が付いたものがある。
おかしなの、まるでそれまで魔法でわからないように封印されてたみたいに全然気付きもしなかったのに。
彼の中の私への感情が眼差し一つから伝わってくる。
どうして彼が恋人を作らないでいるのか、わかった。わかってしまった。
途端、漫画にあるようなキラキラの欠片が心にどっさり降り積もってとびきり明るくなって、自分の気持ちが余す所なくよく見えた。隠れていたものさえ全部。
コウヨウがフリーでいてどうしていつもホッとしていたのか、今ならそれがどこから来ていた気持ちなのかわかる。
ずっと当たり前に近過ぎて心のピントが合わなかっただけだ。
例えば眼前に浮かんだ魔法文字みたいに。
……ん? 魔法文字ってなんだっけ? まぁいいか。
もしも私の自惚れだったとしても、それならそれでいい。
私から手を伸ばすよ。
「コウヨウ、いきなりだけどさ、そろそろ恋人欲しくない?」
一瞬目を点にした彼はだけど、私が挑むように顔を赤くしている様を悟って、ふはっと笑って肩を揺らした。彼は頬だけじゃなく耳まで赤くする。
「そうだな、コウヨウ七不思議だっけ? それを一つなくすか。ってわけでこれから宜しくな、――ノア?」
あ、また。
彼が私の名を呼ぶ時、発音がこの世界じゃなくて、どこか別の世界の誰かみたいだって思う時がある。
別の世界の誰かだなんて、馬鹿げてるし、そんな不思議な感覚に混乱するんだけど、嫌じゃない。
だってファンタジーみたいで面白いじゃんってね。
今度その話をコウヨウにしてみようか。
きっと彼は最後には揶揄うにしても、きちんと話を聞いてくれるだろうから。
それくらいには彼の為人を知ってる。
「こちらこそ宜しく、コウヨウ」
ふふっ、蕩けるように目を細めた彼からおでこにキスされるまで、あと三秒?
「兄さん、初彼女おめでとうございます」
その夜、コウヨウ宅では幸せを胸に帰宅した彼を玄関まで妹が出迎えた。彼の妹も彼に違わず容姿端麗だ。
コウヨウは思わず顔をしかめてしまった。
「……どうして知っている」
あの時絶対に医務室では二人きりだった。他に誰もいなかったはずだ。妹はわざとなのかキョトンとした。
「わたし、ノアさんには逐一探りを入れていますもの。ずっと前から連絡先を交換していますし……ってあら、兄さん知りませんでした?」
「…………」
「嫉妬深い男は嫌われますよ?」
「ぐっ……! 色々と便宜を図ってもらってこの世界に転生できたのも、ノアにこうしてまた会えたのも、お前が天使の所であれこれ手を回したおかげなのは感謝している……が、ノアとの事に干渉してくるな」
「そう怒らないで下さいよ。ノアさんと早く愛を深められるように協力しようと思っていますのに」
「……」
コウヨウが眉間から余計な力を抜いたのを見て取って、妹は薄く微笑む。
「実を言うと、ノアさんの近くに感じるのです。わたしの真実の愛の相手がいると。うふふっ欲しいもののためならわたしはどんなものだって利用しますよ。それがノアさんでも兄さんでも。兄さんだってそうでしょう?」
「まあな。ただ、お前とよもや本当の兄妹になるとは正直思わなかったが。あの天使め……」
「そこは同感です。わたしもまさか冗談でしょうって呆れましたもの」
前世から色々と突き抜けてマイペースな娘が兄と同じ灰色の瞳を少し曇らせる。
「ノアさんに、もう記憶がないのが少し残念です」
「否定はしないが、それでいいと思う。俺が覚えていれば十分だ」
妹は兄を、かつての人生では一時イイ仲だった相手をジッと見つめる。そうしてふっと眼差しから力を抜いた。
「まあそうですね。ところで兄さん、いくら付き合い始めたからとそんな風に悠長に構えていても宜しいんですか? この世界の男達はあの美形司教以上に最大のライバルになり得るってわかってます?」
彼はムッとしながらもしっかりと視線を返す。今までも彼は密かに牽制し妨害してきたのだ。
「……彼女は誰にも渡さない」
「そんな仏頂面をしてノアさんに無駄に怖がられて逃げられても知りませんよ~? 前の時みたいに」
「何だかんだで結構言うよなお前は」
「それ程でも~?」
彼は褒めてないと溜息を落とした。
いつまでも玄関で話していたからか、お玉を手にした母親が怪訝にして台所から顔を覗かせる。ちょうど良かったと二人は会話を終了した。
妹は上機嫌に兄に先んじるようにして軽やかな一歩を踏み出す。
やれやれと嘆息すると彼も靴を脱いで家に上がった。
そんな下界をどこぞの横着天使が見下ろして、にんまりしたとかしないとか。




