十八
何かとても幸せな悪夢を見たような、そんな気持ちで目が覚めた。修学旅行はもうとっくに終わっている、あれから一ヶ月経ったから。私はいつも通り学校へ行き、いつも通りにあなたと会って、そして授業を受けて、休み時間には本ばっかり読んで、またあなたに話しかけられたりなんかして、やがて下校の時間になる。
「Aさん、一緒に帰ろうよ」「わかった」
私たちは今度は晴れた空の下を歩いている。「それで…あの後C君には告白とかしたの?」「今その話する?いやあの、どうもなってないよ、前とずっと同じ、何も変わらないよ」「…そう」「…」「あれからもう一ヶ月経って、それでも私が今日まで生きてきたのは、あなたの思い出を汚したくなかったから。修学旅行なんて一生に残る思い出を、あなたのその思い出を汚したくなかった。でももうあれから一ヶ月経って、もうこれ以上私をここに引き止めるものなんてないし、私は、私はもうそろそろいなくなるべきなのかもしれない」「なんでそんなこと言うの、私のために生きてって言ったじゃん」「でも私は、私が生きていることであなたが不幸になるとしか思えなかったから。私がこの世界に存在していることであなたはいずれ不幸になる、その気持ちはずっと変わらなかった。あなたのために生きるなら私は死ななきゃいけない、私のために生きるとしても私は死ななきゃいけない。結局、私はもう、生きる理由が見つからない」「なんでさ、そうやってさ、自分を卑下するの、もういいって、もう私のことちゃんと考えてよ、私はあなたが必要なんだよ」「今はそうかもしれない。でもいずれあなたは私のことなんてどうでも良くなる。私のことなんか忘れて幸せに生きることになる、そうなった時、私は耐えられない。この世界が、この世界が耐えられない、私も結局自己中でしかなかったから、あなたのために生きるなんて言っても本当は、私は私のためにしか生きられなかったから、私はあなたに好かれたかった。私はあなたに愛されたかった、そしてそれを失うのが何より怖かった。だから私は、それが消えてしまわない今のうちにいなくならないと、私は生きる意味がなくなる」「なんで、なんでそんなこと言うの、辛いよ、あなたと会話するといつも辛いよ。あなたがさ、そういうこと言って自分を卑下なんてするから、いつそんなこと言い出されるかわからなくて、辛いよ」「…そうでしょ、それはきっとあなたが私を必要としてない証拠だから。私は結局あなたを不幸にしかできない、あなたを依存させて不幸にさせることしかできない。私なんかがいなくてもあなたは生きていける、私はあなたがいなきゃ生きていけない。あなたは私のことをよく知らなかった、結局最後まで私の気持ちには気づかないし私のことも私自身のこととして見てくれなかった。だから私は、もういなくなるしかない。人間はみんな偽りの自分を繕ってそれで誰かと接して無駄な交友関係を広げてそうすることが人として生まれた上での美徳であるなら、私はそんな世界に生きていけない。最愛の人にすら自分を偽物として見せなきゃいけないような世界で私は生きていきたいと思えない」「…どうして心をさ、開いてくれないの、私に、私はずっとAさんと、分かり合えたなってさ、ずっとそう思ってたのに、どうしてAさんはそう思ってくれないの」「…」「結局さ、本当に信じてないのは、私じゃなくて、Aさんなんじゃないの、私のことを、私を私としてみてくれない、いつまでも、どうして、どうしていつもそうやって私を偶像にするの、崇拝しないで、私は神じゃない」「…ごめんなさい」「私はさ、あなたを信じてる。私はずっと信じていたい、あの日からずっと、だからさ、Aさんも信じてよ、私を、私の言葉を、私を信じて、あなたを捨てたりなんかしない、信じてよ、ずっと一緒にいてあげるから、ずっとあなたの私でいてあげるから」「…だったら」「何?」「だったら…私と一緒に死んでくれる?」「えっ?」「私をそこまで思ってくれるなら、私と一緒に、あなたも死んでくれる?」「…嫌だよそんなの、私は…私は死にたくない、嫌だよ、やめてよそんなこと言うの、死にたくない」「それならあなたは、やっぱり私を愛してくれない」「なんでそうなるの、私はあなたと違うんだよ、私には将来の希望もあるし自分で自分の才能を感じられる、それは仕方のないことで、私もあなたも人間である以上は信じることはできても同じにはなれない、同一の存在なんかになれないんだよ、違うのは当たり前なんだよ、考え方も生きることへの意味合いも、違うのが当然なんだよ、そこは弁えて」「…でも私はそんな人間を愛せない。私は結局自分と同じものしか求められない、自分と同じものしか好きになれない。あなたは…私と同じだと思ってたのに」「確かにさ、Aさんと私は似てるけど、でも同じなんかじゃないんだよ、でも、それは人間だから、だから仕方ないよ、諦めないと、それは諦めないと生きていけないんだよ」「じゃあ私は生きられない。私は私と同じものしか必要とできないから、私は結局、あなたという人を最後まで諦められない」「…でもさ、信じることならできるでしょ、私はあなたを忘れない、そのことをさ、信じられるでしょ、信じて」「…それは…どうかな。…私は最近考えることがあるんだけど」「…何?」「もし私たちがこんな人間の体なんかじゃなくてお互いの心をお互いに分かり合えて、お互いを簡単に信じ合えたなら、それでどんなに私は生きやすかったか、そんな世界ならどんなに良かったかって」「無理だよ、だって人間なんだよ、私たち、そんなの無理に決まってるじゃん、みんなきっと一度はそう思うけど、でもみんな無理って諦めてるんだよ、きっとこの世界の誰もが」「…でも私はあなたとはそれでありたかった、他の誰の心も分からなくていいからあなたの心だけはあなたとして知っておきたかった、それができないのが悲しい」「…だから信じてって言ってるじゃん、私をさ、私はあなたに嘘なんてつかない。本当にあなたに嘘をついてるなら、こんなにあなたのことを気にかけないよ。私は本当に大切に思ってるからここまであなたと一緒にいられるんだよ、大切に思ってないんだったらもうとっくに見捨ててるよ」「…それでも私は、あなたをあなたとして信じられても、他の誰のことも信じられない」「いいよ、私を信じてくれれば、それで私はあなたを愛せるから」「…話変わるけど、どうして今日私がこんなこと言いだしたか分かる?」「…どうして?」「…C君に告白されたから」「えっ?」「あいつは、あいつもあいつなりにずいぶん悩んで、私はあいつの気持ちもわかるけど、きっとここまで辿り着くまでには並大抵じゃない苦しみがあって、人に自分の思いを伝えるなんて苦しいことだしあいつみたいな人間にとっては殊更に苦しいのに、あいつは私に、想いを伝えてきた。あいつは、私のことを好きって、そう言ってきて、本当に精神的な愛を抱いたのは私だけだとか、そんなこと言ってきて、私はあいつの気持ちも十分分かるから、その場で断れなくて、でも私にはもうこの世界でどうすればいいか、わからなくなった」「…だったらなおさら死んじゃダメだよ、今ここで死んだらさ、C君は、自分が告白したせいでAさんは死んだんじゃないかってさ、そう思っちゃうじゃん。一生傷になるよ。C君の気持ちを本当にわかってあげられるなら死んじゃダメだよ、ちゃんと断りなよ」「…だからこそ」「えっ?」「私はあいつの気持ちが十分わかる。だからこそあいつのその気持ちを自分にできる最大の方法で裏切るから、それが私にとっての復讐になるから、残酷だけれど、でも私はあいつを、あいつという人間を人間として終わらせたいから、だからあいつの心に一生治らない傷を残したい」「…そんなのひどいよ、酷すぎるよ」「…自分でも嫌な人だなとは思うけど、でもこれが私。私は、あなたとはやっぱり違う。そう思えた。私はBさんともCとも兄とも違う、きっと誰よりも酷くて、生きる価値がないような人、そんな人間だから、だからあなたは、私を嫌いになって」「…もうさ、やめようよ、そんなの、なんで自分が死ぬことを主軸にすることでしかさ、自分の人生を描けないの、あなたはさ、あなたは…死んじゃいけない。あなたのためにも、C君のためにも、他のいろんな人のためにも、私のためにも、死んじゃいけない」「…それでも、私は人間として生きていけないから。私には欠陥があって、きっとこの世界から消えていくべき存在だから。私が死んだらきっと多くの人に迷惑がかかって人によっては悲しむけど、でも私はそれが嬉しい。たとえどんな形であろうと私の存在がこんなに人に影響を及ぼせることが、それが嬉しい、だから」「…」「私は、私は…もういなくならなきゃ。でもやっぱり死にたくなんかない、私はずっとあなたと一緒にいたい、C君にもちゃんと断ってあげたい、また小説なんか書いて、それできっと自分の望み通りのものはできないかもしれないけどそれで何度も何度も書けば上達するかもしれないし、高校に入って、淡い恋なんかして、それでいい大学にでも入っていいところに就職してそれからずっと働いてやがて定年になったりなんかして、それで幸せに老後を過ごしたりなんかしたかった、でも…あなたの存在がそれを不可能にした」「…」「私は、嫌な人でありたかった、あなたにとっての最後の印象としての私が途方もなく性格の悪いクズであって欲しかった、でも私はそれが耐えられない、私は…私は死にたくない、死にたくないしあなたが大切だしC君も大切だし誰のことも傷つけたくない、私は…私は私の気持ちがもうわからない」「…落ち着いて、辛いのはもう十分わかったから、落ち着いて、いいから、よくあるよそういう風に思いたくなることって、私にもあるよ、誰にでもあるんだ、あなただけじゃない。あなたはさ、存在しちゃいけない人間なんかじゃない。だからさ、今は辛くても、きっとあなたは幸せになれるから。だから、そう、思春期だもんね、よくあるよそういうの、だから、落ち着いて」「…結局最後まで、あなたは私という人を本当には理解してくれなかった」「…どうして」「…もう行かなきゃ、私はもう、そろそろ行かないと、あなたと話せて嬉しかった。だからもう、何も悔いなんてない、私は結局、自分のために生きるから、だから私は誰のためでもない、自分のために死ねる。だからあなたも、認めてほしい、私を、あなたの顔を見せて、あなたは…きっと私がいなくても生きていける。名声、愛情、友情、プライド、嫌悪、嫉妬、これまで通りの生活、その全てが私の前から消えていった。この上もう何も、私には存在してないから。さよなら」「待ってよ、勝手に話を終わらせないでよ」「…バイロン」「えっ?」「“ご無事で、これがもし永遠の別れなら永遠にご無事で”…バイロン、私のバイロン、最愛の人、私のバイロン、結局あなたは、それでしかなかった、さよなら、また明日」
私は全速力で走った。あなたに追いつかれないように、自分の全ての力を使って。
「待ってよ、待って」あなたは私に追いつけるわけがなかった、あなたは運動があまり得意じゃないから。
“また明日”……私は、明日またあなたに会いたかった。あなたに、結局、諦めきれなかった、それでも、私は私を終わらせるしかない。
家に帰って、しばらく部屋の中にこもっていた。あなたのことを思い出しながら、私の家には今は誰もいない。だから死ぬなら今しかないけど、でもあなたのことを思うと、あなたの気持ちを思うとなぜかそれができなかった。
やがて兄も帰ってきて、彼の部屋に入る。私は兄に話しかけた。
「…最近何書いてんの?」「…小説」「どんなのか読ませてよ」「いやちょっと」「いいから」「じゃあ読ませてやるけど」
兄の作品は私なんかのものより何倍も端正でクオリティが高かった。結局、私は最後まで兄に勝てない。
「…いいんじゃない」「なんで急に読ませろとか言い出したんだよ」「…私はあなたが羨ましかった、全てにおいて私に優っているあなたが…でも私はもう今日でそれを感じることもない、幸せになれるから。だからあなたはもっと自分の才能を、自分の才能を磨いてほしい、私の分まで、あなたにはそういう力があるから、じゃあ」
私は自分の部屋に戻る。窓から夕焼けが差し込んでくる。私は太宰治が好きで、最後に読んだのは『斜陽』だった。だからBさんとの会話にも斜陽に出てくるセリフを引用してみたりして、“私のバイロン“というのはまさにその類なのだが、それで私も滅びゆく運命なんだと思った。窓を開けて、ベランダに出る。春の終わり独特の空気が流れ込んできて嬉しい、私は春にしかないあの空気が好きだった、脆くて切ない空気が。私はベランダの柵に足をかける。怖くて体が震えて、でも私はきっとこれよりもっとひどい苦しみを生きていれば感じなきゃいけないんだと思うと勇気が出て、上半身を乗り出してあと少しで落ちそうな時、後ろの方から声がした。「何やってんだよお前」「来ないで、邪魔しないで」「待てよ、おい待てって」兄が私に近づいてくる。私は…私は兄に助けられたくなかった。あの人には助けられたくなかった、もし母親とか父親とかが私を見て必死で私を止めようとしてくれたりしたら思いとどまれたりもしたかもしれないけれど兄だけは、兄だけは嫌だった。自分の生死を握られたくなかった。結局最後に感じたものは弱い自尊心だけ、私の人生はきっとそれだけで、私は兄がこちらにくるより早く飛び降りた。
落ちていく間、私の頭の中をさまざまな思い出が駆け巡って、それはBさんとの思い出も、楽しかった日々のことや辛かったことや全てが私の中から蘇ってきて、それで私は満足してもう終わりでいいと思えた。
そう、そこで終われたならまだ良かったのに。




