十六
もう文体で自分を繕うのはいい加減よそうかと思う。そういう風に思える出来事ばかりなので、私の人生は。
「…Aさん、おはよう」「…おはよう」「寝れた?」「…あんまり」「そっか、私もさ、全然眠れなくて」「…ごめん」「なんで謝るの、Aさんは何も悪くないじゃん、私がただ単に寝つきが悪かっただけなんだから」「…えっ?」「ほら、もう起床時間なってるしさ、布団片付けたりしようよ」「…昨日の…ことは?」「何のこと?」「…えっ?」「昨日のことって何?」「…なかったことにしようとしてるの?」「覚えてないな、私、あんまり。なんかあったっけ昨日」「…えっ?」あの人は私に近づいて、耳元で「…もう忘れよう、あれは、私はもう忘れるから」と言いやがった。忘れようったって忘れられるわけがないのに、私の気持ちを、この気持ちを侮辱するつもりなんだ。
朝食を食べ終わって、歯磨きも済ませ、本当に何も起こらなかったかのようにことは進行し、ただとある生徒がこっちへ来て「なんか昨日トイレの中でケンカしてなかった二人、夜中に」と言ってきて、「喧嘩なんかしてないよ、いやちょっと口論みたいなのにはなったかもしれないけど、だよねAさん」「…まあ」という会話があった、その程度で。
その日は一日目、二日目とは違う班編成で寺へ行き、あの人とは別の班で、話す機会はなかったが、C君の班やその他の様々な班と道の途中で出会い、なぜか私たちの班は一時的に合流してしまった。
私はC君に話しかけてみた。彼と自発的に話すのはこれが初めてで、きっとこの先も二度とはないことだと思う。
「…あんた副校長知ってる?」「僕ですか?」「…うん、話したことある?副校長と」「ありますよ」「どんな話を?」「やっぱり文学とかですね」「そう、自分でも書いたりした?小説を」「一回だけしましたよ」「どう言われた、副校長から」「割と褒められました」「…そう」「Aさんの作品も読んだことありますよ」「…どうだった?」「いやまあ、直接目の前で評価するのは避けたいですけど」「変に遠慮しなくていいから言えば、あんたらしくもないけど」「…まあはっきり言わせてもらうと面白くはないです」「でしょうね」「まあでも人によっては面白かったりするんじゃないですか、僕は嫌いですけど」「いやあれは誰も面白いとは思わないから」「どうなんですかね、人によっては刺さったりするんじゃないですか」「そういう人が実在するかが問題だけど」「まあそうですね」「…Bさんのことどう思う?」「…どう思うっていうのは」「なんかやたら話してるけど、どういう風に思ってるのあの人のこと」「…まあ性格が明るいなと思ってますね」「…別に意外と明るくないけどねあの人」「そうなんですか」「根は暗いよ」「へえ」「っていうか、あんたの書いた小説ってどんな内容?」「端的に言えば恋愛ですね」「恋愛ね、どういうあらすじ?」「…言いづらいですけど」「言えば」「人をバカにしていた内気な少年がある少女によって恋を知る、みたいな」「それは自分がモデルなわけ?」「いや違いますけど、あくまで客観的な問題として」「Bさんのこと好きなの?」「いやなんでそうなるんですか、だから別に自分は元ネタじゃないですよ」「Bさんのこと好きなんだったらそう言えばいいんじゃない」「いや違いますよ、っていうかこんな人がたくさんいるところでなんでそういう話するんですか」「いやどうでもいいけど、どうでもいいけど人の恋愛ってなんか面白いし」「あっそういうタイプの人間なんですか、Aさんって」「違うけど、っていうか今自由時間だし班のメンバーもやたらバラけて駄弁ってるし誰もいないところ行く?」「いやいや、なんで俺がそんな話しなきゃいけないんですか」「いいから」
私たちは、周りに生徒が見えないほどの場所まで行き、「それでBさんのこと好きなんでしょ?」「いやなんでそういう話になるんですか」「理由とかどうでもいいからさっさと言えば」「それを聞いてどうしたいんですか」「どうもしないけど」「仮に僕がBさんを好きだったとしてそれであなたの人生に関係あるんですか」「ある」「どういう」「それはあんたの気持ちがわかるまでは言えないけど」「ちょっと気味悪いなあ」「気持ち悪いと思うのは勝手にすればいいけど、で、どうなの」「…結論から言うと誰でもいいんですよ」「…誰でもいい?」「そう、正直どの人が好きかなんてなくて女子なら誰でもいいんですよ」「…舐めてんの?」「そうなんですけど、ただあなたも知ってるであろうある人に対してそれとは違う感情というか、所謂異性愛とかじゃない精神的な愛情を抱いてるのは事実ですね」「へえ」「それでどうしたいんですかそれを聞いて」「どうもしないけど」「あなたの意図がよくわからないんですよね」「いや、私はあんたのことなんて正直どうでもいいしBさんへ精神的な愛情だろうがなんだろうがどうでもいいけど、私はBさんが大切だから、だから、…なんかただの親切で話しかけてるのに変に恋慕されてたら可哀想だなとか思って聞いてみただけ」「…Aさんって意外と喋るんですね」「…普段は面倒だから口数減らしてるだけで必要に応じて喋る」「へえ」「じゃあもう用ないからさっさと自分の班のところに戻って、私も戻るから」「…はあ」徹頭徹尾下手な会話だが、こうすることでしか、自分の気持ちを落ち着かせられなかったので。
それから、私たちはまた班のメンバーのところに戻り、やがて歩き出し、彼の班ともしばらくして離れ、ああ、もうやめようこんなもの、こんな二番煎じでしかないものはやめよう、人の文体を真似して何が小説だ、まだ雅文調の方がマシだ。
私は結局誰かの真似をすることしかできなかった、誰かに追随することしかできなかった。兄にもBさんにも副校長にもそしてCにも勝てず結局手を替え品を替えては偽りの文章で自分を飾ることでしか存在意義を見出し得なかった。しかもそれも不完全で、真のコピーになりきれない。やめよう、こんなものはもうやめよう。私は私、他の誰でもない、私自身だから。もう私の生きる道は完全に閉ざされた、あの人はC君を愛しC君はあの人を愛している、私は兄に勝てない、私の書いたものはみんなから否定される、私は所詮劣化した人間だ。矮小化された、劣化した人生しか歩めない人間の屑だ。もうやめよう文体で自分を繕うことは、もうどうせ道なんてないんだ。私の道は閉ざされたんだ。こうなったらもう自分は自分であると白状するしかない、人の猿真似を捨てる努力をしなければならない。
それから私はしばらく何事もなかったかのように過ごし、また夜が来て何事もなかったかのようにBさんと話し、やがて消灯時間が訪れて誰もが布団につき、2時間ほど後、今度は私の方からBさんの布団へ近づいて「トイレ行かない?」と言った。「…私もう眠いよ、今日は寝かせて」「無理」「忘れようって言ったじゃん、もうさ」「忘れられない。あなたが勝手に忘れようとしても私は忘れられない、勝手なこと言わないで、勝手に私の気持ちを無視しないで」「…そこまで言うならわかった」
そして私たちはまた部屋を抜け出した。




