十
Aさんの兄君は学生が職業である。
学生という概念には勉強をしているということが伴う。兄君は学生が職業である癖に、なんにも勉強をしていない。中学校を卒業するときにはよほど勉強をして、とある大学の附属高校へ合格した。それからというものは、なんにも勉強していない。
しかし学生であるからテストは受ける。教員の評判では、勉強を沢山している生徒よりも兄君の成績の方がいいということである。
小説は沢山読む。勿論近頃の学生であるから動画やSNSなどやらないわけではないがそれ以上に小説を読む。しかし若し何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。兄君は歳の癖に芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。兄君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから兄君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいう積で書いているものが、極めて滑稽に感ぜられたり作者が滑稽の積で書いているものが、却って悲しかったりする。
兄君も何か描いてみたいという考は折々起こる。そして彼の金井君と根本的に違うところはそこで本当に書くところである。日々何か脚本だか小説だか書いているようだがそれは他人には見せない。家族にも誰にも見せない。
そのうち異世界ものの流行ということが始まった。兄君はこの流儀の作品を見た時に、格別技癢をば感じなかった。特に面白がりもしていなかったようであるがそれはそれとして兄君は妙な事を考えた。
兄君は異世界系の小説を読む度に、その作中の人物が、行住坐臥造次顚沛、何に就けても意気がり的写像を伴うのを見て、そして感想が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外れて冷笑家であるのではないかと思った。
そこで兄君の有り余った創作意欲が、妙な方角に向いて動き出した。ただし彼のまた金井君と違うところは高尚なことなど一切考えていない、ただなろう系を俺も書いたら名声を得られるだろう、暇つぶしに最適だという考である。彼は普段何を思って過ごしているのか分からないが、小学生の頃の卒業文集には小説家になりたいとでも書いていたようだ。それの為の練習として、また自分がかねてより書いている某作品をより良いものにするためには知見が必要であるという思いから彼は筆をとった。ただしそのことは家族は知らない、彼の妹が偶然知り得ているのみである。
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三年生になった。
この年はクラス替えがあった。AさんはまたBさんと同じクラスになった。実はこの学校にはクラスが三つしかなくまた教員に気に入られた生徒もしくは扱いに困る生徒はずっと同じクラスに留まることとなるため他のクラスになることの方が難しいのである。クラス替えとともに多少は他の生徒からのいじりも和らいだが、Aさんは相も変わらずBさんのみを唯一の友人として暮していた。
「Aさんのお兄ちゃんってさ、今何やってるの?」「さあ、よく分からないけど」「なんかあれだよね、どっかの大学の附属高校みたいな、そんなところ行ってるんだっけ」「うん。あの高校ってよほど何かやらかさない限りはそのまま内部進学できるからマジで勉強とか全然してないらしいよ」「確か生徒会だっけ、そんな感じのことやってたよね、中学の頃」「私たちが一年の時にね。あいつ生徒会とか全然向いてるタイプじゃないと思うんだけど何でやれてたのかな」「そうかな、私たち目線だと普通に何というか、頼れる先輩的な感じだったけど」「表面上だけだよそれは。あいつはマジでクソみたいな人間だから」「そっかぁ、まあ妹として見てるとまた違うだろうからね」「うん。今何やってるのかはよく知らないけど大体友達と遊びに行くか部屋に引きこもってるかしてるよ。すごい陰気だからあいつは」「でも頭いいんでしょ?なんか将来にさ、将来というかこれからの人生にさ、何ら支障がなさそうで憧れる」「でもあいつレールの上を走るのは嫌とか言ってるんだよ。だから大学出てもいい会社とか行こうとせずになんか別のことやると思う」「別のことね、例えば?」「あいつ小説書くの好きらしいから小説家にでもなるんじゃない」「Aさんが文章書くの好きなのってお兄ちゃん譲りだったんだ、やっぱり兄妹って感じするね、私弟しかいないから憧れるんだよねそういうさ、兄とか姉とか」「いや、いてもいいことないしやめた方がいいよ」「そうかな…いいと思うけどね、そういう気がねなくなんか言える存在って」「いや気兼ねないわけではないけど、むしろ最近は割と気まずいし」「でもさ、Aさんのお兄ちゃんってなんか、割と大人しそうだしいいんじゃない、所謂強権的な兄とかよりもさ」「大人しいっていうか陰キャだからね。強権的な方がまだマシかも」「でも小説好きなんだったらさ、Aさんもなんか話合いそうじゃん。小説読むの好きなんでしょ、お兄ちゃんも」「小説に関しては話合うけどね。私が太宰治とか森鴎外好きなのってあいつの影響だし。まあ私は樋口一葉好きなのにあいつは忌み嫌ってたりするからそういう細かい好みの問題だと話合わなかったりするけど」「でもいいじゃん、身近にそういう話できる人いるのって。私いないんだよね誰も、お母さんくらいしかいないかな、そういう文学とかの話できる人」「いやBさんは友達多いからさ、家族でいなくても友人とかでいるでしょ」「いないんだよそれが、なんか、なんだっけ、文豪を擬人化したみたいな作品がさ、あるじゃん、あれ好きな友達ならいるけど」「文豪の擬人化?文豪はもともと人間でしょ」「いやまあそうなんだけど、なんというか、あの、現代に文豪を蘇らせた、みたいなやつ、あるでしょそういうの、知ってる?あれ好きな人はいるけどさ、本当に文学の話できるのってAさんくらいしかいないから」「ああなんかどういう作品を指してるのかは見当ついた。あれよく知らないんだけど夏目漱石が探偵にされてるんだっけ」「そうなの?」「いやよく知らないけど、漱石が探偵になって江戸川乱歩としのぎ削ってるらしいよ」「史実とかけ離れまくってるじゃん、そもそも漱石と乱歩って関わりあんまなくない?なんかあった?漱石と乱歩の繋がりって」「ないね何も」「ないよね、いや史実ねじ曲げちゃってるじゃんそれ」「あと太宰治と川端康成が仲悪いらしい」「そこは史実通りなんだ」「でも太宰治の例の手紙ってさ、『刺す』のところだけよく取り上げられるけど私はその後の『ひねこびた愛情』のくだりの方が好きなんだよね、だから単純に仲が悪いとされることにも違和感はあるというか」「どんなのだっけそれ、なんかそんな感じのこと書いてあった気はするけど」「“川端は自分でも気づかないうちに俺にひねこびた愛情を抱いているからこそ俺を否定しているんだ!“みたいなことが書いてあるくだり」「気持ち悪くない?いや文豪なんてみんななんか大なり小なり気持ち悪いけどさ」「太宰はあの5メートルの手紙とかもあるしずば抜けて気持ち悪い方だと思う」「だよね」「あとさ、小学生の頃の知り合いから聞いたんだけど森鴎外がショタになってるんだって」「なんて言った?」「森鴎外がショタになってる」「ショタって何?」「えっ、知らないんだ」「知らない」「そっか知らないんだ、いやまあ知らない方がいいけど」「えっ何?」「真面目だねやっぱり」「えっ何何、えっ私が知識不足なのこれ?」「いやあんまり知るべき言葉でもないから知らなくていいと思うけど、まあ森鴎外の見た目が少年みたいになってるって話」「ああ、えっ?森鴎外が、なんで鴎外だけそんな仕打ち喰らってるの」「分かんないけどギャップ萌えでも狙ってるんじゃない」「そっかぁ…鴎外ってむしろ年重ねてそうな見た目にした方が良いんじゃないのかな、何というか、文豪の中でもかなり古参って感じするでしょ鴎外」「まあそうだけどそこはギャップ萌えだから」「怖いなぁギャップ萌えって…そういえば森鴎外で思い出したんだけどさ、あの後ろの方の席に座ってるC君って知ってる?」と級友の名前を突然挙げる。「…名前だけは」「あの人さ、朝読書の時間に森鴎外読んでるんだけどさ、それで何読んでるの?って聞いたら『ヰタ・セクスアリス読んでる』って言ってたんだよ」「朝読書に?ヰタ・セクスアリス?ヤバくないそれ?朝読書で読むもんじゃないでしょあれ」「そう私もそう思ってさ、ですごいねって言ったらさ、2年生の途中までは『痴人の愛』読んでたっていうんだよ」「そんなんばっか読んでるんだ、もっとまともなの読もうよ朝読書は」「うん、ヤバいんだよあの人、それで面白いから2年の終わりくらいからたまに話しかけてるんだけど」「いやでもちょっと危険人物感あるよね、朝読書にさ、ああいうの読んで、いやヰタ・セクスアリスはまあいいかもしれないけど痴人の愛はもう無理でしょ」「まあ太陽の季節とかじゃないからまだマシなんじゃない」「太陽の季節読んでたらもう無理だけどね、太陽の季節読んだことないけど」「えっ読んだことないんだ、私は読んだことあるよ」「どうだった?」「なんというか、ヤバいね、内容が」「まあそうでしょうね」「知ってる?あれで障子突き破るんだよ、気持ち悪くない?」「うんそのくだりは知ってる、あんなこと書いててよく東京都知事になれたなと思うけど」「でさ、C君に太陽の季節読んだことある?って聞いたらないって言ってた」「そこはまだ救いようがあるんだ」「でも痴人の愛だよ、朝読書に、で今度は何読もうと思ってるの?って聞いたらドグラマグラらしいよ」「急に方向性変わったね、ドグラマグラって別にそういう描写が主じゃないんじゃないの」「でも怪作って呼ばれてるから読みたいらしいよ。とにかく変なのが読みたいんだって」「“変なの“ね、でもドグラマグラって朝読書として読むにはカロリー高すぎじゃない」「長いよねあれ、でも中学生のうちに朝読書のみの時間を使って読み切るのが目標なんだって」「絶対無理でしょ」「そう、私も無理なんじゃないって言ったんだけど自分にならできるって言ってたよ」「相当自分の読解力に自信があるみたいだね」「そうなんだよ、まあそんな感じの人でさ、色々と面白いからさ、今度話しかけてみるといいよ」「でも私陰キャだからあんまり人に話しかけたいとか思わないけど」「でもC君は話しかける価値があるよあれは、ただの陰キャと違うよ」「まあヤバそうだね性格は」「そう、ヤバいから、話して見ると面白いよ」「そっか」
予鈴が鳴ったので会話は終わったが、その日AさんはC君というものの存在を知ると同時に、Bさんの興味を強く引いている彼に対して少し嫉妬を抱いたのである。また彼女は家に帰って何気なく例の文豪擬人化作品について検索してみた時、森鴎外は別にショタになっておらず小学生時代の友人に嘘をつかれていたことを知った。




