心
「はるつぐ」
自分をよぶ小さな声がした。
声の方を見ると、締め切ったベランダの戸の向こう側、脱衣所から出たミレナが俯いてそこに佇んでいる。服は着替えたようだが髪は濡れたままだ。
「はるつぐ、居る?」
「ああ」
ベランダの戸を少し開けてミレナに返事をする。
するとミレナは玄嗣の声のする方へ、一歩前に出た。
そのままふらふらと歩き出してから、目の前のテーブルにガンッと大きな音を立ててぶつかり、前屈みに転ぶ。
玄嗣がミレナに淹れたコーヒーが倒れ、テーブルに広がっていく。
玄嗣はベランダから急ぎ中に入り、持っていた自分のカップをテーブルに置くと同時に、反対の手でミレナのカップを掴んで瞬時に起こした。幸い、全てのコーヒーがテーブルに広がる前にカップを起こすことに成功する。
それから倒れているミレナの腕を掴んでぐいっと起こした。
「大丈夫か」
「ごめん。ぼーとしてた」
「見えなかったんだろ」
ミレナは黙り込んでまた俯く。長いまつ毛が僅かに濡れていた。
玄嗣はため息をついてミレナの腕を掴むと、ゆっくりとソファに誘導する。
「ちょっとここで待ってろ」
玄嗣はキッチンから持ってきた台布巾でテーブルに広がったコーヒーを拭き、床に零れていないか確認した。
よかった。被害は最小限のようだ。
次にソファに大人しく座るミレナの足を見る。テーブルにぶつけた時のガンッという派手な音が頭を過った。
玄嗣はミレナの前に跪くと、ミレナのスウェットを勢いよく捲った。ミレナの細くて白い足が露になる。
「え。なに」
幾つかの古い傷跡。
脛の真ん中辺りには、じんわり小さな赤が滲んでいた。
「少し血が出てる。かすり傷程度だが。後から痣はできるかもな」
「大丈夫だよこれくらい」
「そうだな。消毒するか」
「要らない」
「分かった」
玄嗣はミレナのスウェットを元に戻し、立ち上がってミレナの横に座り直した。
「いつもより今日は見えづらいか」
玄嗣はそう言って、半分になってしまったミレナのコーヒーを手渡す。
「ほんと面倒見いいよね」
ミレナはカップを受け取るとふふっと笑った。
「多分視力としては日によって見える見えないは無い。ずっと見えないまま。ただ、他の感覚が敏感になったり、そうじゃなくなったりするから」
「なるほどな」
「酷い夢を見て、起きて、シャワーを浴びたくなって。そのあとは大抵、感覚が鈍る。いつも分かる周りの音も気配も呼吸も匂いも全部。多分何も感じたくなくて、自分で感覚を遮断してるんだと思う」
ミレナは飲み終えたコーヒーカップをテーブルに置くと、玄嗣の膝に頭を乗せて横になる。
焦点の合わない瞳がこんなにもよく見えるのは初めてかもしれない。はちみつ色の瞳が何かを探すように微動する。
「感覚を自分でコントロールできるのか」
「コントロールって程、自分でどうにかできるものじゃないよ。どうにかしたくなって水に潜ることもあるけど」
「着衣遊泳ってやつか」
「水の中は重力も何も感じないから、鋭すぎる感覚に疲れた時はちょうどいい。シャワーの冷たさも音も、感覚を麻痺させるにはちょうどいい。でも、感じたいことだけ感じて感じたくないことを感じないようには、なれない」
ミレナは手を伸ばして空を探り、玄嗣の腕を見つけると、その先を辿り、手をとって自分の胸に置いた。
パーカー越しにミレナの体温が伝わる。玄嗣は初めて自分の手が冷たかったことに気づいた。
「ここと一緒。どうにもできない」
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