秘密
暮らし始めてから間もないが、ミレナは朝起きると、その後殆どをリビングで過ごしていた。
お馴染みのパーカーにサングラス姿。
若者らしい格好の癖にテレビやスマホは一切見ない(そもそも携帯を持っているか分からない)。
一日の殆どをお気に入りの白いソファで眠っているかぼんやり座っている。
たまにお腹がすくと玄嗣に「ごはんまだ」と強請る。
自分の部屋は基本的に夜寝る時しか使わない。
玄嗣はまだミレナの部屋に入ったことは1度もない。
子どものような言動の中に併存する危うさと陰。
それが今のところ玄嗣にとってミレナという人間だった。実際玄嗣は未だにミレナの年齢も知らない。
「今日夕方に出かける」
朝食を運びながら、玄嗣はソファにいるミレナに声をかけた。
「どこいくの」
「兄に会う。それと…他にも用がある。…お前も来るか?」
断るだろうと思いつつ尋ねる。
すると意外にもミレナは うん と言って何気ない様子で玄嗣の入れたコーヒーを啜った。場所についてミレナがそれ以上聞いてくることはなかった。
ミレナにとって外に出るのは久しぶりなのではないだろうか。少なくとも玄嗣はミレナと出会ってから4日間1度も外に出るミレナを見ていない。
自室で読書をして過ごし、夕方になってリビングに来るとミレナはソファにいなかった。
もしかして着衣遊泳中かとふろ場を覗くも見当たらない。トイレの電気も消されたままだ。
出かけたのか…?いや、自室にいる可能性もある。
朝、俺と一緒に出かけると言ってはいたが気が変わったのかもしれない。何にしてもそろそろ出かけないと兄との約束の時間に間に合わなそうだ。
まあ、そこまで守る必要も無いが。
部屋を一通り探すも見当たらず、廊下に出て玄関を見るとそこにミレナが座っていた。ただ座って玄関の扉を見つめている。
「なにしてる」
「なにって出かけるんでしょ」
ここで待ってたのか。いつから?
よく見るとパーカーにサングラスはいつもの格好だが、既に靴を履いていて出かける準備はできているらしい。
「…それじゃ寒い」
玄嗣は待ってろ と声をかけて自室からダウンコートを2つ持ってくると片方をミレナに渡す。
「着ろ」
流石に12月のこの時期にパーカー1枚で隣を歩かれてはこっちが寒い。
ミレナは嬉しそうに受け取ると「やっさしー」と悪戯に微笑み、ミレナには少し大き過ぎるダウンコートに腕を通した。
部屋を出ると途端に凍てつく空気が肺に流れ込んでくる。玄嗣は乾いた冷たさに思わずきゅっと息を詰めた。
特に12月の気温は夕方から夜にかけてぐっと下がる。
「寒いな」
「寒くていいね」
「寒いのが好きなのか」
「寒いと心臓が小さくなりそうだから。小さい心臓のが可愛いでしょ」
意味がわからない。
「…外出するならせめて上着は着ろ」
同居人に風邪をひかれるのも面倒だ。
「持ってないもん」
「…」
約束していたカフェに入ると兄は先に着いていたようで、窓際の席でひらひらと手を振っていた。
茶髪に青いシャツに紺色のネクタイ。相変わらずの胡散臭いセールスマンの様な格好だ。
「ミレナも来たんだね」
玄嗣とミレナが並んで兄の向かい側に座ると、兄はミレナに優しく微笑む。その笑顔は小綺麗で親しみやすくはあるが、やっぱりどこか胡散臭い。
「やよいに会いたかったから」
ミレナはそう言ってあの悪戯な笑顔を弥生に返した。
弥生は全く動じず「何か頼む?」とメニューを差し出す。
「はるつぐは」
ミレナは差し出されたメニューを見ようともせず玄嗣に渡す。
「俺はコーヒー」
「じゃあ僕も」
僕?兄貴の前だと自分のことをそう呼ぶのか。
弥生は店員にまたひらひらと手を振って注文を告げる。
そう言えば兄とミレナはどこで出会ったのだろう。
兄は医者だ。戦時中は軍医として働いていたらしいが玄嗣は詳しいことは何も聞いていない。
たが、自分が兵役中に兄にこんな年の離れた友人ができるとも考えにくい。
玄嗣が二人の関係性について不思議に思っていると、弥生が「それで」と口を開いた。
「どう?共同生活は」
「いい部屋だし問題ない」
「ルームメイトも最高だよ。ね」
ミレナがふふっと笑い玄嗣に寄りかかる。
弥生は玄嗣の無反応な顔を見てくすっと笑うと「それは何より」とカフェラテを啜った。
「ミレナ、玄嗣を頼んだよ」
ミレナは嬉しそうに頷いた。
どちらかというとこっちが面倒を見ている気もするが。
「家賃のことだけど、国に申請しといたから。控除で足りるし問題ない。ミレナの生活費の方は既に国から降りてるし」
「ミレナの生活費?」
兵役後の生活は国から保証されることになっている。
住所と家主のサインの証明書があれば、家賃も賄われる。
実際、怪我や心的外傷で働けない兵士も多いためだ。
玄嗣は幸い大きな怪我や働けない程の心の外傷を負ってはいないが、国がお金をくれるというならそれに甘えることにした。働き出すと国からの支給額は減るらしい(そんな仕組みでは誰も働かないのではと思うが)。
だがミレナの生活費までも控除の対象になる訳はない。
「ミレナ、玄嗣にまだ言ってないのか」
弥生がそう言うと玄嗣の隣で空気が一瞬固まる。
「ご注文のコーヒーです」
冷たい空気に割り込むように、明るい声がして注文したコーヒーを店員がテーブルに並べはじめる。
玄嗣は脇に置いてある角砂糖を2つ取ると、ミレナの前に置かれたコーヒーに入れた。
トポンというその音にミレナの緊張がふっと緩む。
「わかってないでやってるのか。凄いなお前」
弥生が2人のやり取りを見て苦笑いをした。
なんの事か全くわからない。
「はるつぐは凄く優しいから大丈夫。やよいよりもね」
「ミレナ。大きな事故になる前に言わないと…」
「わかってる」
ミレナは弥生の言葉をきつく遮った。
重い空気の中、ミレナはそれから黙ってコーヒーに口付けた。
「そろそろ行こうか。また連絡するよ兄貴」
しばらくの沈黙の後玄嗣はいつもの感情のない声でそう言った。
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