第三話
距離が縮まったように感じたのは気のせいではなかった。
翌日から分かりやすく舞衣の態度が軟化したのだ。
ぎこちなかった笑顔は自然なものになり、沈黙が続いていた車内は、ずっと他愛ない話と笑い声で満たされるようになった。
そして学校帰りに迎えにいくとその日あった楽しかったことを話してくれたり、愚痴をこぼしてくれるようになったのだ。
ただ一点まずいな……と思ったのは寄り道の味を覚えさせてしまったこと。
たまにコンビニで買い食いをねだるようになってしまった。
……お母さんごめんなさい。娘さんに変なことを教えてしまいました。
俺にとっても初めは同情となけなしの優しさから始めた送迎だったが、次第に朝起きて舞衣に会うのも、舞衣を迎えにいくのも、楽しみな日課に変わっていった。
だが、そんな時間も永遠には続かない。
俺が舞衣の送迎を初めて一ヶ月もすると、ついに舞衣のギブスが外れ、それからもう一月もすれば高校は夏休み。
そうなるともう、俺の役目は終わりだ。
きっとそれなりに仲の良いお隣さんに戻るのだろう。
そう思っていたのだが……。
「櫻木さん、今日……お家にお邪魔してもいいですか?」
「え?」
夏休み前、最後の日。
話題が切り替わろうとしていた一瞬の間。
その間を突いて舞衣がまくし立てるように言ってきた。
唐突なその言葉を最後に車内は沈黙に包まれる。
蝉の鳴き声がやけに大きく聞こえてきた。
「えと……これじゃ変ですよね。あの、今まで送ってもらってたお礼がしたいなって思って、だからその……」
顔を紅潮させた舞衣は手をブンブンと振って明らかに焦っていた。
それでも何とか必死に
「夜ご飯をご馳走させてください……私が作るので!」
と言葉を最後まで口にした。
「いいの?」
色んな意味で大丈夫なのか、という疑問が頭に浮かぶ。
「大丈夫です、お母さんには言ってあります!」
「まさかの親公認か」
「はい、なので帰りが遅くなっても平気です」
その言い方はちょっと誤解を招きかねないんじゃないか、と思いつつもあえてツッコミはしない。
俺は少し悩んだが彼女の厚意を受け取ることにした。
幸いなことに部屋はこの前片付けたばかり。
今なら部屋に人を呼んでも恥ずかしくない状態だ。
「分かったよ、じゃあご馳走になろうかな」
赤信号が青に変わって車を発進させる。
その時ちょうどバックミラーによしっとガッツポーズをする舞衣が映った。
何とも健気で可愛らしいものだ。
そしてその日の夕食時、約束の時間通りにインターホンが鳴った。
ゆっくりとドアを開けるとお盆に二食分の料理を載せた舞衣が少し緊張した笑顔を浮かべながら立っていた。
「いらっしゃい」
「……っ! お邪魔します」
大きく深呼吸をした舞衣がドアを支える俺の横を通って部屋に入っていった。
舞衣が通ったのを確認すると俺はドアを閉めて靴を脱ごうとしていた舞衣からお盆を預かった。
「まあ、テキトーにかけてよ」
「はいっ!」
初々しい反応に思わず笑みがこぼれてしまう。
年上の男の家に一人で来たのだ。
そりゃ緊張するな、という方が無理だろう。
だから俺は緊張をほぐしてやるついでに聞いてみることにした。
「美味しそうだね、これ。ハンバーグ?」
「はいっ!」
「舞衣が作ったの?」
「そうです……私いつもお母さんの分も作ってるので」
「へー、偉いな~」
健気な上に親孝行。
何この子、完璧すぎるでしょ。
「だから味も……大丈夫だと思います」
「いやいや疑ってないから。今もいい匂いしてるし」
舞衣が持ってきてくれた食事に目を通す。
ハンバーグに付け合わせのポテトサラダ、それに豆腐の味噌汁。
……美味そうだ。
毎日コンビニ弁当ばっかり食ってる俺にとってこんな感じの家庭料理は久しぶりだった。
だから猶更美味しそうに見えた。
「何か飲む? お茶かジュースくらいしかないけど」
「じゃあ……お茶でお願いしましゅ」
噛んだな……
顔をリンゴの様に紅くしてる舞衣は見なかったことにして俺は冷蔵庫のあるキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開ければ、お茶、ジュース、食べかけの総菜、ビールにエナドリ……以上。
こんな空っぽの冷蔵庫、見せるわけにはいかないな。
俺はコップにお茶を二人分注いで、再び舞衣の待つ部屋へと戻る。
──そう言えば。
舞衣の私服姿を見るのは初めてだった。
涼し気なサマーワンピースを着ていて制服を着ている時より清楚な印象が強い。
他にもよく見れば艶やかなロングヘアの毛先は緩やかなウェーブがかかっているし、顔を見れば薄っすらと化粧もしているように見えた。
普段はこんな感じなのか。
こりゃ学校の男子が放っておかないだろうな。
なんて下世話なことを考えながら、舞衣の向かいに腰を下ろした。
「それじゃ、食べてもいい?」
「はい、どうぞ」
「じゃあ、いただきます」
まずはハンバーグを箸で切って口に運ぶ。
……期待交じりの視線が突き刺さってどうにも食べ辛い。
それでも口に入れれば、ジュワっと肉の旨味が口に広がった。
ケチャップベースのソースもいい仕事をしている。
すぐに白米が食べたくなる味だ。
「あの……どうですか?」
「うん、めちゃくちゃ美味しい」
そう言うと舞衣の表情がぱぁっと華やいだ。
嬉しかったのか頬の緩みが隠しきれていない。
その様子が何とも可愛らしかった。
「凄いね、店で出せるよこれ」
素直に褒めると、舞衣の表情が更に溶けていく。
料理が褒められたのがよっぽど嬉しかったらしい。
ポテトサラダも味噌汁も絶品だった。
それらに初めて口をつけようとする度に期待交じりの目線を向けてくるのがちょっとだけムズ痒かったが、食事代にしては安いものだろう。
それぞれの感想を言う度に舞衣は破顔させて喜びを露わにした。
そしてきゃっきゃとはしゃぎながら感想を聞いてくる舞衣に見守られながらあっという間に完食してしまった。
「ご馳走様。すごく美味しかったよ」
「そんな……お粗末様です」
「いや本当に美味しかった。こんなの久しぶりだよ」
「普段は何を食べてるんですか?」
「恥ずかしいけど……外食ばっかりなんだ」
最初は俺だって自炊にチャレンジしようとしたのだが、とにかくめんどくさいのだ。
誰かのために作るわけじゃないのだから自然とテキトーになって、それすらもめんどうになって。結局作るのをやめてしまった。
「いけませんよ、それじゃ!」
「あはは……健康に良くないのは分かってるんだけど、どうしてもね」
「じゃあ、私が作ります!」
「え?」
「元から毎日二人分の食事を作ってるんです、それが三人分になっても大して変わりません」
「いやでもね……」
申し出はありがたかったが、さすがにそこまでお世話になるわけには行かない。
「分かりました、サブスクならどうですか?」
「サブスク……ってあの音楽アプリとかの……?」
「そうです、月額いくらかで私が毎日櫻木さんのためにご飯を作ります。もちろんリクエストも可です!」
「いや、あの舞衣さん?」
舞衣の顔は真っ赤になって湯気をしゅぽしゅぽと発している。
明らかに暴走しているように見えた。
「私は本当に櫻木さんに感謝してるんです! だからこれはそう、恩返しなんです」
「いやお金はちゃんともらってるし……」
「お金と気持ちは別問題です。違いますか!」
「確かにそうだけど……」
「だからこれは感謝の気持ちを返すためのサービスなんです! お安くします、だから……私と一緒に夕食を食べてください……一人だと……寂しいんです」
おそらく後半部分が本音なのだろう。
舞衣の母親は朝早くから大抵の日は夜遅くまで働いている。
そうなると当然、舞衣はいつも一人で夕食を食べているはずだ。
確かに一人で食べる夕食は寂しい。
美味しい物を食べても胸のどこかに穴が開いているかのような虚しさに包まれる。
健気な上に弱さを滅多に見せない舞衣の弱音。
叶えてやりたい気分はあるのだが……
さすがに母親の許可なく決められる話でもないだろう。
年頃の娘が男の家に一人で行くのだ。
事情があって仕方なくだった送迎とはわけが違う。
──と思ったのだが。
なんとあっさりオッケーが出たらしい。
翌日の夜、嬉しそうに二人分の晩御飯を持って舞衣が俺の部屋にやってきてそう言った。
なんか外堀を埋められているような気分になるな……