第二話
そしてその日の夜、俺は柏木さんの家に招かれて、具体的な話をすることになった。
その中で柏木さんの下の名前が「舞衣」ということも知った。
やはり母子家庭の柏木さん一家にとって今回の出費は相当苦しいものだったらしい。
すぐに俺さえ良ければ是非送迎をお願いしたい、という話に収まった。
無論、有償で。
最初は一回につき千円、という話だったのだが、さすがに俺の運転にそんな価値はない。
議論の末一回五百円で、という有償の契約を結ぶことになった。
有償──即ちバイトであるからにはちゃんと義務を果たさなくてはいけない。
俺は生活習慣をこの機会に整えようと決意した。
連絡のため、ということで舞衣と連絡先を交換してその日はお開きになった。
こうして自堕落な大学生の俺が、美少女JKの送迎係に任命される、という奇妙な毎日が幕を開けることになったのだ。
翌日から早速、舞衣の送迎を正式に行うことになった。
朝、まだどこかぎこちなさを残しながらも精一杯礼儀正しく振る舞ってくる舞衣はとても可愛らしかった。
多分これだけ大人びていて可愛いのだから、学校でもモテるんだろうな。
ひょっとしたら彼氏くらいいるのかもしれない。
だが、そんな不躾なことを聞けるような間柄ではもちろんなかった。
他人行儀に最低限の会話をして……それで終わり。
あくまで俺と舞衣は雇用主の娘とバイトの大学生。
きっとこれからもそうで、怪我が治ればちょっと仲のいいお隣さんにまた戻るのだろう。
──そう思っていた。
それは俺が舞衣の送迎を初めて一週間と少しが経ったある日のことだった。
その日はちょうど午前授業しかない日、バイトも夜からだから舞衣の送迎が可能な日でもあった。
だから授業終わりの連絡を受けた俺は車を走らせていつも通りの校門の前へ。
そしていつも通り、舞衣を載せてマンションへと帰る……はずだった。
「……何かあったの?」
「……いえ、その」
舞衣の様子が明らかにおかしかった。
目の周りが赤くなっていて、顔には涙の跡が残っている。
何かがあったのは間違いないが、言葉を濁して話してくれそうな様子はない。
まあそうだ、俺は車で送り迎えをするだけのただの隣人。
だけど……さすがに泣いていた女の子をそのままにしておけるほど冷淡な性格はしていなかった。
だから舞衣が車に乗ってすぐ、後部座席を振り返って、イタズラなガキっぽい笑みを向けた。
「寄り道、してかない?」
「え?」
いつもよりフランクな口調で、友人に話しかけるように。
俺の態度の変わりように舞衣は大きな目を更に大きく見開いて驚きを露わにした。
「ほら、この時間って微妙に腹減るじゃん。俺が奢るからコンビニで買い食いでもしようよ」
「……でも」
「大丈夫だって、回り道するから誰にも見られたりしないって」
あとお母さんにもナイショな、とおどけてみせた。
すると初めて舞衣の顔から柔らかな笑みが零れ落ちた。
「はい……じゃあ、ご馳走になります」
「オッケー、じゃ行きますか」
俺はいつもより強く、エンジンを踏み込んだ。
「ほら、これ。コーヒーとロールケーキ」
「ありがとうございます」
通学路から少し逸れた脇道にあるコンビニ。
俺は駐車場に車を停めてコーヒーとスイーツを買ってきた。
元気がない時は甘いものを食うに限る。
これで少しでも笑顔になってくれたらいいんだけど。
「それじゃ、食べよっか」
「はい、いただきます」
「おう、召し上がれ」
そう言って舞衣はロールケーキに口を付けた。
ゆっくりと小さな口でモグモグと噛み締めるように。
そして音を立ててゴクリと飲み込んだ舞衣の目からは──涙が溢れ出て来ていた。
「あの……これは、その」
「学校で何かあったんでしょ? 俺でよかったら聞くからさ」
大人びて見えてもまだ高校生。
誰かに頼りたい時だってあるだろう。
俺に何かができるわけではないけど、疲れた時にもたれかかる寄木や、羽を休めるためのとまり木にくらいにはなれる。
俺だってそうだった。
高校生、多感な時期は何かを聞くより自分のことを話したがるものなのだ。
舞衣もきっとそうだったのだろう。
コーヒーを啜って、大きく息を吐いて、そしてゆっくりと朱唇を動かし始めた。
「……テストが全然できなかったんです」
「あー、そりゃ辛いな」
「奨学金を借りてるから……絶対に点数を取らなきゃいけなかったのに……私」
本当にこの子は……偉すぎるな。
そして同時に自分の境遇がとても恵まれたものなんだと俺は実感した。
大学受験を経て、一人暮らしを始めて、少しは大人になった気でいただけのガキだ。
この子の方が俺よりよほど大人だ。
俺が舞衣にアドバイスしようだなんておこがましい。
俺に出来るのは……。
「じゃあ、思いっきり泣くか」
「え?」
「だってもう終わったんだろ」
「そうですけど……」
「だったらいっぱい泣いて悔しがればいい。愚痴なら俺が全部聞くから」
俺に出来るのは愚痴や泣き言の捌け口になることくらいだ。
酔っ払いの友人の愚痴を聞かされるのに比べれば、高校生のピュアな泣き言を聞くくらい何てことはない。
「なんで私にそこまで良くしてくれるんですか?」
「そりゃ偉いな、って思ってるからだよ」
「私より……櫻木さんの方が断然偉いです。怪我した私を朝早くから送ってくれたり……こうして話に付き合ってくれたり……」
「俺が偉い? そんなことありえないね。だったら聞くか? 俺が普段どれだけ自堕落に生きてるか」
そして俺は友人とした代返計画の失敗談や、酒の席でのやらかし、純粋な柏木さんにとっては毒にしかならないようなくだらない話をいくつか披露した。
最初はどう反応していいのか戸惑っている柏木さんだったが、次第に純粋で自然な笑顔を見せてくれるようになった。
そしてロールケーキが無くなる頃にはすっかり笑顔を取り戻してくれた。
「よし、ちょっとは元気でたか?」
「……はい、櫻木さんのおかげで」
「こんな話でいいならまだまだあるからさ。柏木さんがいいならいくらでも話すし、俺でよかったら何だって聞くよ」
「あの……」
「ん?」
頬を桜色に染めた舞衣がもじもじとしながら、両手の人差し指をつんつんとしている。
何かを言いたそうにしているように見えた。
俺は急かさずにゆっくりと舞衣の口が開くのを待つ。
「あの……櫻木さんの方が年上なのでさん付けじゃなくて……下の名前で……舞衣って呼んでくれませんか?」
予想外の言葉だった。
だが驚きは心の中だけにしまっておいて、表面上は余裕のある大人の顔を崩さずに
「分かったよ舞衣……これでいい?」
そう言ってニッと笑った。
どうやら少し、いやかなり距離が縮まったらしい。
コンビニの駐車場を出てから家に着くまで、一度も会話が途切れることはなかった。