第一話
──あなたの隣人を愛しなさい。
隣人愛。
自堕落な俺にはそんな崇高な教えを実践できてなんていない。
それでもこの状況を見て見ぬフリをするのは、人として最低だと思った。
徹夜明け、朝七時。
その日は大学の授業が一コマも入っていないのを良い事に、前日からダラダラと特に目的もなく徹夜をしてしまった。
若い体のおかげか、夜に飲んだエナジードリンクのおかげか今もまだ眠気はきていない。
俺はちょうどパンパンになったゴミ袋が部屋に積み重なっていたのを思い出して、ゴミを捨てに行くために家のドアを開けた。
「きゃっ」
金切声と共にキンと鳴った金属音。
どうやら何かにぶつかってしまったらしい。
そっとドアを開けて様子を窺うと……制服に身を包んだ女の子が倒れていた。
愛らしい容姿を歪める彼女だったが、それより目を引くのは松葉杖と硬く固定された足のギブス。
骨折しているらしい、と一目で分かった。
そんな彼女を不慮の事故とはいえ倒してしまった。
罪悪感が波のように押し寄せてくる。
俺は大慌てで、彼女を助けるべく手に持っていたゴミ袋を部屋に投げ捨てた。
「えと……柏木さん? ごめんね、大丈夫?」
俺は目の前で倒れているその少女のことを知っている。
何故なら彼女は隣室の住人だから。
近所付き合いという概念が消えかけている昨今、付き合いが深いわけではないが母子家庭であり、目の前で倒れている彼女が高校生であることは頭に入っていた。
名前も下の名前は分からないが、「柏木」という文字列をパッと唇が形作れる程度には見慣れた間柄だった。
「大丈夫です……櫻木さん」
向こうも俺の苗字は覚えているらしかった。
武治という名前までは俺と同じく知らないだろうが。
柏木さんは「っ……」と顔をしかめて松葉杖をついて何とか立ち上がろうとしている。
俺は一瞬の逡巡の末、手を貸すことにした。
「柏木さん、ほら。掴まって」
「ありがとうございます」
俺は柏木さんの柔らかくて細い腕を掴んだ。
ガラス細工のように繊細で、すぐに壊れてしまいそう──なんて思いながら、体をグッと引っ張り上げる。
予想以上に軽くて体はスッと持ち上がった。
「それ……どうしたの?」
「あはは、ちょっと階段から落ちちゃって……」
持ち上げたついでに聞いてみると、ぎこちなさを残しながらも答えてくれた。
無精ひげも生えている汚らしい隣人。
多分柏木さんから俺はこう見えていることだろう。
だが、さすがにこの状況を見て放ってはおけなかった。
「制服ってことは……これから学校?」
「はい、タクシーで登校する予定です」
「そうなんだ」
このマンションの間取りはIK。
ほとんどが一人暮らしの住人ばかりだ。
そんな部屋に家族二人で住んでいる柏木さん。
母子家庭だし、それなりに苦労してるんじゃないだろうか。
タクシー代だって相当な負担だろう。
倒してしまった負い目と徹夜明けのハイなテンションのせいかもしれない。
俺がこんなこと
「もしよかったら──俺が送ろうか?」
なんて口走ってしまったのは。
「え?」
ほら、柏木さんだってキョトンとしてる。
バカだな、俺は。
よく考えなくても分かるだろ。
いくら隣人とはいえ年頃の娘が年上のムサい男からそんなことを言われて警戒しないはずがない。
少なくとも俺が柏木さんの立場なら絶対に断ると思ったのだが……
「……いいんですか?」
まさかのオッケー。
自分で言ってなんだがさすがに警戒心が薄すぎるんじゃないかと心配になる。
「ちょうど授業もないし、柏木さんさえ良ければだけど」
「助かります……! 本当に」
そう言って柏木さんはペコリと頭を下げた。
少なくとも社交辞令には聞こえなかった、本心からの言葉に聞こえた。
「やっぱりタクシーって高いもんね」
「はい……私のせいでお母さんに凄い負担かけることになっちゃうので……」
やっぱり本心はそこか。
お金と天秤にかけてギリギリ俺の提案を受け入れた、という所だろう。
なんて健気でいい子なんだろうか──不覚にも感動してしまった。
「それじゃ、行こうか」
「はい、よろしくお願いします!」
そして俺たちは駐車場まで向かった。
駐車場には俺の車がある。
とは言っても俺が買ったわけではなく、親戚が乗らなくなった車の中古だ。
バイトでそれなりに稼いでいるとはいえ車を買えるほどの余裕なんてない。
だから友人連中と遊びに行く時はいつも俺が運転係を任されることになる。
運転は好きだから別に構わないが少しは感謝しろよな。
なんて思いながら後ろをチラチラと振り返る。
骨折してすぐなのか柏木さんは松葉杖の扱いに慣れていないように見えた。
俺は意識して前を行きすぎないように注意する。
駐車場にある赤のセダンの前で俺は足を止めた。
鍵をかざせばガチャリと音が鳴って鍵が開く。
「荷物もあるし、後ろに乗りなよ」
「はい、ありがとうございます」
俺は後ろのドアを開けて柏木さんを案内する。
自力で体を引きずりながら車へと乗り込んでいった。
本当ならリラックスしておいてほしい所だが、さすがにそれは無理だろう。
俺は柏木さんが車に乗り込んだのを確認して運転席へと座った。
「学校は……」
「ミナミ高校です」
「オッケー、ここなら三十分くらいで着くかな」
「良かった……」
「タクシーだと結構するもんね」
「はい……あのガソリン代とかは……」
「これはさっき倒しちゃったお詫びだから気にしないで」
「じゃあ、はい。お言葉に甘えて」
何とも律儀で礼儀正しい子だ。
俺が高校生の頃はもっとクソガキだった気がするんだが……。
軽い自己嫌悪に陥りながらも俺は車を発進させた。
車を発進させてすぐ、ソワソワとし始めた柏木さんをバックミラーが捉えた。
やはり落ち着かないのだろう。
「スマホとか見てていいから」
気遣って伝えると
「じゃあ勉強しててもいいですか……?」
と遠慮がちに答えた。
真面目……っ!
偉すぎるでしょこの子、俺とは大違い過ぎるんですけど。
単語帳を取り出した柏木さんを見て俺は再び声を掛けた。
「もしかしてテスト近いの?」
「はい、来週テストなんです」
「そっか、頑張ってね」
実は俺も今月末にテストがあるのだが……今は考えるのをやめておこう。
エンジン音と、ブツブツと英単語を読み上げる柏木さんの声だけが車内に響いて。
それが思いの外心地よくて。
朝の快適なドライブはすぐに終わりを迎えた。
もうこの信号が青になればミナミ高校はすぐそこ、というところまで来ていた。
脇の道を柏木さんと同じ制服を着た生徒がワイワイとはしゃぎながら歩いている。
どうやらただ単に柏木さんが大人びているだけらしい、と俺は少し安心した。
俺の友人連中だってここまで礼儀正しくない。
爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
そう思うくらいには俺は柏木さんに好感を抱いていた。
だから──俺は思い切って提案してみることにした。
「ねえ、柏木さん」
「……はい!」
「もしよかったらさ、明日からも俺が送って行こうか? 行ける時は帰りも」
「そんな……悪いです」
「じゃ、タクシー使う?」
「う……それは」
弱みに付け込むようで申し訳ない気持ちになったが、どう考えても足が骨折したまま歩いて行ける距離じゃない。
必然的に誰かがこの役割を果たす必要があるのは間違いなかった。
どうせ俺は暇人だ。
この役割を引き受けるのに──柏木さんの気持ちを無視すれば──適任だろう。
「じゃあさ、帰ったらお母さんと話し合ってちゃんと細かいところまで決めよっか」
「……分かりました。お母さんに伝えておきます」
今日はキッカケがあったから、と言い訳ができるが母親としても隣人というだけでどこの馬の骨とも分からない男に娘の送迎を任せるわけにはいかないだろう。
ガソリン代くらいはもらって金銭の発生する契約を結んだ方がいいかもしれない。
無償の善意より有償の商魂の方が信頼できる場合も時にはあるのだ。
「ここでいい?」
「はい、ここからなら大丈夫です」
正門前に車を止めると当然視線が集まった。
車で登下校する生徒なんていないから物珍しいのだろう。
「それじゃ、いってらっしゃい」
「はい! ありがとうございました」
再びペコリと頭を下げると松葉杖を不器用に操って校舎の方へ歩いて行った。
その姿を見届けてから俺は再び車を走らせた。
こんなに朝が爽やかに感じたのは久しぶりだった。