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チヨの総て  作者: 水上栞
Vol;7 All about Chiyo
75/77

7-5



 時は流れて、今年は淳とチヨが出会って記念すべき30周年に当たる。


 アニバーサリーに興味のない二人のことなので、特に何かイベントがあるわけではないが、映画の神様が思いがけず大きなお祝いをくれた。世界でも最大級の映画祭に、淳の作品がノミネートされたのである。



 最優秀作品賞から特別賞まで、大小いくつもの賞があるが、どれかひとつでも受賞すれば日本では久々の栄誉である。そんなわけで、淳とチヨは式典の会場である南フランスの都市に招待された。本人たちより周りが大騒ぎで、テレビに映るからと配給会社が手配した助手やスタイリストなど、御一行様での渡仏である。



「普通のスーツじゃあかんのか。なんや動きにくいわ」



 仙台平の袴を着つけられた淳が、窮屈そうに腰のあたりをひねる。昔と変わらず痩せ型ではあるが、50歳を迎えて下腹がちょっと出てきたのはご愛敬である。若いころはもさもさのくせ毛が特徴だった髪は、すっかり白髪に覆いつくされている。鼻の上には大きなセルフレームの眼鏡。ただし、今は伊達ではなく老眼鏡だ。


 アイドルのようだった美少年は、いつしか眼光鋭い中年親父になってしまい、爽やかさの欠片も残ってはいないが、それでも妻のチヨの前では甘い表情をする。海東淳が愛妻家かつ恐妻家であることは、この業界で知らぬ者はいない。




 その妻であるチヨも、久々の着物に苦戦していた。スタイリストさんは、着崩れしないようしっかり帯を締めたいのだが、授賞式後のパーティーでご馳走が出ると聞いたチヨは、食べる余裕を残すべく緩めが希望である。



「そんなに締めたら食べられないじゃない、今日の料理はすごいシェフが作るって聞いたわよ。ドンペリとかサロンとかも、ばんばん開くらしいわよ」


「今日は飲み食いはあきらめてください、この着物を汚したら、私の首が飛びます」



 チヨが着せられているのは、銀ねず色の訪問着で、絵羽に見事な牡丹と鶴が描かれている。ある映画の中で大女優のために糸から作られたもので、値段はおそらく数百万円。最初は配給会社が授賞式用にドレスを仕立てる予定だったが、チヨが「わざわざ新調しなくていい」と主張したため、急遽手配されたシロモノだ。



「防水スプレーしときゃいいんじゃない」


「ちょ、勘弁してください」






 伽藍堂の2階でスタートした「スタジオ海東」は、現在社員40人の大所帯になった。淳が映像制作会社と映像系スクール、チヨが翻訳会社と翻訳の専門学校を経営しているからだ。儲けは二の次なので稼ぎは少ないが、やりたいことを貫いているので、二人とも充実した日々である。



 自主制作時代の「チーム海東」も、引き続き現場で淳に力を貸してくれている。ハナちゃんはコーディネーターとして、業界では泣く子も黙る大姉御になり、元彼の嘉助くんもサウンドクリエイターとして第一線で頑張っている。遠藤さんは数年前に引退して、今は悠々自適に蕎麦打ちをしながら隠居生活を楽しんでいるらしい。



 最も仲間うちで出世したのは、「冥加」で主演女優をしてくれた伊佐山玲子さんで、あの作品をきっかけに個性派女優として注目度が高まり、現在は海外の作品にも数多く出演している。ただし、夫の伊佐山さんとは離婚してしまい、彼は故郷の新潟に残って農業を営んでいる。


 びっくりニュースはツキちゃんである。彼の技術がハリウッドで高く評価され、10年ほど前にアメリカに移住。そして、なんと一回り年下のスタントマンと同性婚をした。この時はチーム海東総出でお祝いのためLAまで押しかけた。



 ひとつだけ残念なことに、福井さんが交通事故で亡くなった。享年53歳。ロケの帰りに対向車と接触し、帰らぬ人となった。その時は淳の落ち込みが激しく、チヨもなぐさめようがないほどだった。遺品となった彼のカメラは、今もスタジオ海東に保管してある。




「ほな奥さま、行きまっか」



 準備が終わり、ホテルから専用車で会場へ向かう。椅子から立ち上がり歩く妻の姿を見た淳は、人生何度目かの「惚れ直し」をした。170㎝の長身をまっすぐに伸ばし、最近はちらほらと白髪が混じっているが、相変わらず艶やかな長い髪を結い上げている。薄くそばかすの浮いた鼻の付け根にキュッとシワを寄せて、「行きまひょか」とチヨが口元を三日月にした。






 テレビやスクリーンでしか見たことのない、有名な俳優や監督に興奮しているうち式典は進み、やがてその瞬間はやってきた。



「スナオ・カイトウ」



 淳はしばらくポカーンとしていたが、ステージで封筒を持ってニコニコしている司会者が、自分の方を見ていることに気づいてハッとした。



「あんたや、あんたや!」



 チヨに引っ張られて立ち上がり、案内人に誘導されながらステージへ向かう。どうやら最優秀監督賞をもらったらしい。ステージに上がると斜め後ろに通訳さんが来て、そっと教えてくれた。


 司会者は通り一遍の祝辞を述べ、淳も「もし受賞したらこう言う」練習をした通りに応えたが、やがて「今の喜びを伝えてください」と言われ、瞬間的に思いついたことを喋ることにした。



「今日は最優秀監督賞をいただきまして、ありがとうございます。監督は映画において、現場の仕切りをする役目ですが、その私を監督する役目の人がいます。それは私の妻です。彼女は私のサポーターであり指導者でもあり、もちろん恋人でもあり……、とにかくいちばん理解してくれている人です」



 チラッと客席を見ると、チヨが「何ぬかしとんねん」という仁王顔になっている。しかし淳は気にせず続けた。



「要するに、監督を監督する人間がいて、この作品は出来上がりました。そういう意味では、彼女も今回の受賞の功労者です」


「あそこにおられる、素敵な着物のマダムですね」



 瞬間、チヨにスポットライトが当たり、会場がワーッと沸いた。こうなれば、出て行かないわけにいかない。司会者に「どうぞ奥さまこちらへ」と言われ、迫力の着物姿で壇上に上がったチヨは、顔では笑顔を保ちつつ、夫の横で「覚えとれよ」とつぶやいた。




 あれこれと司会者に弄られ、チヨは流暢な英語で答えていたが、最後にやはりという振りが司会者から淳に飛んできた。あなたを支えてくれた奥さまに愛の言葉を、というやつだ。何も考えていなかったせいか、淳の口からとんでもない言葉が出た。



「頼りにしてまっせ、おばはん」



 旧い日本映画のファンなら知らぬ者はいない、豊田四郎監督「夫婦善哉」の台詞である。通訳さんは一瞬固まったものの、さすがに映画業界で長年活躍しているベテランだけあって、素晴らしい意訳を当ててくれた。彼女の口から出た訳は……



「I love you」



 これに対し、司会者が目線で返事を促す。チヨも何も考えてなかったのだろうが、これまたとんでもない返しが反射的に出た。



「I know」



 瞬間、会場から拍手が巻き起こる。意図せずして、スターウォーズのハン・ソロとレイア姫の台詞になってしまった。この夫婦の掛け合いが軽妙洒脱だったとして、翌日の新聞には夫婦善哉の解説まで加えた記事が大きく取り上げられた。もちろん、同時中継していた日本のメディアでも話題になったことは言うまでもない。




「あんたのお陰で、ご馳走もシャンパンもパーになったわよ」



 あの後あまりに取材攻勢が激しく、チヨと淳は挨拶だけ済ませると、早々にパーティー会場を辞去したのである。そのため翌朝、チヨは大層ご機嫌ななめだったが、淳は長年心の中で抱えていた「妻あってこその海東淳」を言葉にできてよかったと思った。






 帰りの飛行機の中で、ようやくシャンパンにありついたチヨは、ご機嫌を直して窓の外に浮かぶ雲のじゅうたんを満喫していた。そのヘッドセットを持ち上げ、淳が耳打ちする。



「チヨさん、チヨさん」


「なによぅ」



 音楽鑑賞を中断されて、口を尖らせたチヨが振り向く。いくつになっても少女のような表情を見ると、つい淳の眉尻が下がってしまう。



「お願いがあるんや」



 なあに、という風にチヨが首をかしげ、長いストレートの髪がさらりとこぼれる。淳はいたずらそうに笑うと、妻にお伺いを立てた。



「引越ししませんか」


「引越し?」



 彼らの長女であるミコちゃんは、23歳の社会人でひとり暮らし。次女のテルちゃんは19歳でアメリカに留学中。現在の3LDKのマンションは、確かに夫婦二人ではやや広いかもしれない。しかし、特に差し迫って転居の必要性も感じないので、チヨは不思議そうな顔をしている。



「チヨのマンション、こんどの春に空くんやて」



 チヨのマンションとは、今の家に引っ越す前に暮らしていた家である。ずっと賃貸にしていたが、間もなく現在の入居者が出て行くと、管理会社からメールが来たらしい。それを聞いて、チヨの目に光が灯るのを淳は見逃さなかった。



「またあそこで、二人で暮らそ。できたら、終の棲家として」



 チヨは力強く頷いた。子どもたちを育てた今の家も大好きだが、あの小さなマンションは、夫婦の特別な思い出が詰まっている。あの場所にまた戻れると思うと、チヨの心は懐かしさでいっぱいになった。



「新婚生活、パート2だね」


「瀬川チヨさん、結婚してください」


「プロポーズも、2回目」


「何度でも繰り返したらええがな。俺たちは、いつもスタートでゴールや」


「飛行機が日本に着くの、待ちきれない」




 そう言ってチヨは夫の鎖骨におでこを乗せた。やがて夢の世界に迷い込んだ瞼の裏で、二人は小さな部屋の景色を思い出していた。映画を見ながらカウチで夜通し語り明かした、切ないほど懐かしい日々を。






チヨの総て――本編:終





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