大樹のそばに立っている
男は太い樹のそばに立っている。
踏み台にするは愛用品の黒塗りのアタッシュケース。
成人男性が乗ってもビクともしない丈夫さに、男は惚れ惚れとする。やはりカバンはイギリス製に限る。目線を上げれば、手のぎりぎり届く高さにある太い枝。
そこに荒縄を絶対にほどけないように結びつけ、長さを調整した。ちょうど目と鼻の先に縄の首飾りが来るように。
輪っかの向こうに見えるのは、人里外れた深い森だ。昼間でもなお暗く、しっとりと冷たい微風が吹く。人間はおろか鳥獣の気配すらない。密接に生い茂る木々のせいで、日本が誇る霊峰は見えなかった。ここならば誰にも迷惑が掛からないだろう。
男は縄の輪っかを前にし、おもちゃの発売日を楽しみにする少年のように鼻息を荒くした。これに成功したあとの栄光を思うと興奮が抑え切れなかった。
男は自分の腕を見た。研究続きの毎日で、病人みたいに青白い左腕の腕にはカミソリのためらい傷ばかりが残っている。この方法は何度も試したが本当に痛かった。
痛いのは恐くない。苦しいのも悪くない。
もう僕には恐いものは何もないのだ。
自分の揺らがぬ決意に背中を押されて、男は静かな精神状態で輪っかを自分の首に通し、踏み台のアタッシュケースを蹴った。
一瞬の鋭い落下。首への圧迫の一撃。
大樹の枝は期待通りに男の体重を受け止め、縄がほどけることもなく、首飾りは首根っこを荒々しく絞めつける。
飛び込んだ勢いで前後に揺れる不愉快な果実がそこに生まれた。
始めの頚椎の圧迫で意識を失った男の肉体は、しばらく揺れていた。
男が首を吊って、ちっとも動かなくなってから五分が経過した。
そこへ、スーパーの袋を片手にぶら下げた女が草むらを掻き分けながら、大樹のそばにやってきた。女の格好はユニクロのTシャツに足元はサンダルで、黒髪を一まとめにしている。
袋の中身は、特売品の卵十個パックと豚肉二百グラム、玉ネギ三個、ナス一袋、牛乳一パック。ちなみに、ここから一番近いスーパーは二十キロメートル先である。何せここは山梨が富士の青木樹海のど真ん中なのだから。
買い物帰りの女は、大樹にぶら下がる果実を見上げ、苔生した岩の上に設置してあったビデオカメラを停止させて、男の胴体を乱雑に蹴った。
「ったく、人ん家の前で死んでどないすんねん。何度目じゃ、クソボケ」
「……ッ、ぶはあ! ……ゲホッ! ゲホッ!」
首吊りしていた男が、あっさりと息を引き返した。しばらく首吊り男は目を白黒させながら、クルクルと横に回転していた。女がその回転を止めてやった。
首吊り男は、買い物帰りの女を見て、にっこりと笑った。
「お帰りなさい、魔女さん。今日も人体実験に成功したよ!」
「メシが不味くなるわい、はよ降りんさい、ひよっこ錬金術師」
魔女はそう言って、草むらへ踵を返していった。残された首吊り男は、「了解です」と明るく笑ってから首に食い込んでいる縄に手を掛けて、自分を持ち上げようとする。
だけど貧弱な彼の腕力では、どうしようもできなかった。
「……え? あ、あれ? やばい無理だコレ! 自分じゃ降りられない! 首吊りってやばいな! おーい、魔女さーん! 降りるの手伝ってくださーい!」
「ド阿呆か、ワレ」
魔女の背中が草むらの奥に消えていく。少ししてその奥から光る矢が飛んできて、枝と男の首を繋いでいた縄を断ち切った。男は尻から落ちた。
「ありがとーございます、魔女さん」
男は感謝を告げてから立ち上がり、魔女のあとを追っていった。