第三章 繋いだ手と手
葉南蓮は微かに覚えている、ぼやけた世界であったあの日のことを。
「何してるの?」
上に仰げる幼い長髪の女の子は亭仔脚の下にある小窓を見つめながら聞いた。
酔潭の街にはこういった小窓がよく見られる物だ。木で作られた窓を横に滑らせると、小型の荷物を縄で釣り上げ、手早く二階の倉庫に運ぶことができる仕組みだ。
しかし今、そんな小窓からキョロっと突き出したのは縄ではなく、つまらない顔をした女の子の頭だった。
「あのう……妳會曉講和語無?」
南蓮は彼女の様子がはっきり見えないが、つやのある黒い部分が幅広いことから見て、多分髪は長いんだと判断した。そして、察することに、その長髪の女の子は自分に向かって好奇心満々に聞いているそうだ。
答えないと……
「私は……ここに通った人を数える、です」
長髪の女の子が話し掛けてくる前、南蓮はそんなくだらない独り遊びをしていたのだった。
街中の人の顔も服も見えないまま、通り過ぎた存在はただの存在ですぎなかった。誰も話し掛けてこない、顔のない人しかいなかった――亭仔脚の下に立ち止まった長髪の女の子を除けば。
「そっか……」
長髪の女の子は店内の革靴を見渡し、少し退いて、「滸清皮鞋」と店の名前が書かれた看板を見て、亭仔脚に戻って来た。
「じゃ、わたくしは何人目かしら?」
長髪の女の子が看板を見たら行ってしまうんだと思い込んだのに、戻ってくるのがびっくりだった。驚いた南蓮はその行動に思考が乱され、どこまで数えていたのかがわからなくなってしまった。
「あの……あの……彼號……彼號……」
眉をひそめても考え出せなかった。なんせ長髪の女の子が立ち寄る前、誰も立ち止まってくれなかった。そのせいで、その人達についての記憶は百回淹れなおしたお茶のようで、基本的に水だったのだ。
そこで、南蓮は閃いてしまった、考え出せなくても答えられるいい方法を。
「わ、忘れちゃった。でも……数えなおせる! だからあなたは一番です!」
……
待って、こんな誤魔化し方って本当にいい方法なのか?
相手の表情が見えない。唯一わかることはせいぜい長髪の女の子はまだそこにいることだけだ――まさか気まずくて動けないんだったりして…
「……ぷ、ははははは!」
何故か長髪の女の子は笑い出した。
「ぷっ」彼女の笑い声を聞くと、南蓮も自分の堅苦しい臨機応変に噴き出してしまった。
「玖瑠実~帰るわよ」
そこで大人の人の姿が現れた。その人は両手を長髪の女の子の肩に乗せ、囀りのような中音で言った。
「お友達にご挨拶差し上げましょう」
友達……
「ねぇ、また遊びに来ていい?」長髪の女の子は聞いた。
「……うん!またね!」南蓮は頭を縦に大きく振った。
その時の彼女はどうしても考えられないんだろう、それがぼやけた世界に住む彼女の人生を大きくひっくり返した序章だったことに。
×
「秋月千代」
「はい!」
「釘宮節子」
「はい!」
「江棠硯」
「……はい」
四年梅組の朝は名前の呼ぶ声から始まる。暑くも寒くも、担任の松田桜子先生は生徒全員の名前を呼び、出席の確認をする。
「松雪文子」
「はい!」
「葉南蓮」
「はい!」
その同時に、生徒一人一人に異様があるかどうかも確認するという立派なお仕事でもある……
「渡邊……待って、れんちゃん? 眼鏡はどうしたんですか?」
レンズ越しのない視線で、南蓮は真っ直ぐ先生のところへと見ていたのだが、なぜか普段にない迷いが瞳に付いているようだった。
「な、なくした……」
……
「からくり眼鏡に眼鏡がない?」「なくしたのか……」「眼鏡かけてないとこ、初めて見た……」
騒ぎ出した教室であった。
南蓮の目はクラスの中で有名な近視眼だった。いつも変なからくり眼鏡を掛けていて、授業中に黒板見るときも、教科書を読むときもカカカとレンズを切り替えなければならない。
そして今、そのからくり眼鏡がない時点で、この日は波瀾万丈な一日になることが決められていた。
「れんちゃん、今日はやっぱ帰ったほうがいいわよ」
昼休み、玖瑠実と棠硯は机を南蓮の席に合わせた。
「大丈夫大丈夫~午後の授業もちゃんとできるから……」
「えええええ!」南蓮がご飯を挟んで食べようとすると、玖瑠実は急に大声を出した。「れんちゃん、それ箸じゃないわよ!」
南蓮は動きを止まって、手の中にあった二本の鉛筆を下ろした。
玖瑠実は安堵の息を吐いたけど、坊主頭をした男の子が立ち寄ってきた。
「葉南蓮、遠足の調査表出…し……たああー!」
突然接近してきた南蓮の瞳に驚かされた男の子は上ずった声を放った――
「あ、高橋くんか。どうしたの?」
「うっ、ん、何でもない……」
――そして尻尾を巻いて逃げた。
頬を膨らました玖瑠実は不機嫌そうな顔をした。
「……すずりちゃん、わたくし、れんちゃんっちに行って眼鏡探すの手伝うわ。れんちゃん、今から先生に言ってくるわ!」
そう言った玖瑠実は南蓮の手を引っ張り上げて、ギシギシと鳴っている床を踏み、教室から駆け出した。
×
長髪の女の子は南蓮の手を握って、彼女を「滸清皮鞋」から引っ張り出した。
こんな走り方をするのは初めてだった。南蓮は亭仔脚の石床で転びそうだったけど、土の床に手を触れずに、彼女は長髪の女の子と共有する足の踏み方を見つけた。
「いいところに連れてってあげるわ!」
長髪の女の子が嬉しそうな声を後ろへ投げ出し、南蓮を遠くないところにある椅子の上に招いた。
「ramune一枝五仙!」
「彼是我愛講的、我才是頭家好無?」
「ジャッサイラッ!」
長髪の女の子と駄菓子屋店長の茶番を聞き流し、南蓮は足を巻いた革靴を触り、さっきの走りで付いた埃を拭き落とした。そうした彼女は長髪の女の子が履いているカンカンカンとなる木の靴に興味が湧いてきた、どんな形をしているんだろうって。
「はい!」
頭を上げて見えたのは深緑の光を映す物体だった。手に取れば、ツルツルな表面からひんやりとした温度差が伝わり、一瞬で手のひらにあった厳暑を取り除いた。
「これはこうやって開けるんだよ」長髪の女の子が言ったら、ぽっとした音がして、彼女は情けない唸り声をあげた。「ああああ……」
何がした?
南蓮は手の中の物体を目に近づけた。瞼に直接触れそうな超短距離で、手の中のガラスの瓶にはシールが貼られた口に小さいガラス玉が入っていることに彼女は気づいた。
これを叩き込んだのかな。
「これは……」「れんちゃん!目、見えないの⁈」
「……え?」
「這个、看會著無?」
気付けば、南蓮は匙状の物を持っていた。それで隻眼を遮って、黒い点々が付いている壁紙に凝視していた。
「(上――――)」耳元から長髪の女の子の囁きがした。
「玖瑠実さん、ヒントあげたら検査にならないからネ。阿蓮、妳就照實講」
そして南蓮は頭を横に振った、壁紙にあった点々にどんな方向性があるのかがさっぱりわからなかったから。
「看起來是真嚴重的弱視。毋過……無要緊、干焦需要閣做一寡檢查爾爾。妳等我一下喔」
医者の声は穏やかで渋みがあり、聞けば聞くほど、南蓮はポカポカな気分になった。
「れんちゃんは心配しないで、同じ検査はわたくしもするから」
長髪の女の子の場合は落ち着いた感じだった、でも同じ検査しなくてもいいのだが。
傍にいてくれるだけで、もう十分。
その日、南蓮が医者からもらったのは遠景が見える眼鏡だった。
それは医者の大人らしくて美形な顔を初めて見えたときだったが、同時にも初めて長髪の女の子の姿をはっきりと見えたときだった。
黒い髪、整った容姿、ミステリアスな深紅を帯びた瞳、そしてその明るい笑顔。
見える、本当に見える。
「どう?どう?これ、指何本かわかる?」
医者の背後から頭を突き出した女の子は中指と親指を捻り、狐なのか菩薩の印相なのかがわからない手振りをした。
見えても答えがわからないよ!
でもね……
「るみちゃん、ありがとう」
×
「ん――やっぱすずりちゃんの紅焼肉っておいしいわね――」玖瑠実は飴色の皮付きばら肉を一切れパクっと食べたけど、目はまだ棠硯の弁当箱を見つめている。「もしかしたら阿琴姉が作ったのよりおいしいかも」
これ程の称賛を受けた棠硯は普段なら「……おにいちゃんのために作ってたから」とか言いながら照れてしまうところだが、今の彼女は答えじゃなくて質問がしたかった。
「……何で帰ってきた?」
昼休みはまだすぎてはいない。なのに教室から駆け出した二人は机に戻り、何でもなかったように食事を進んでいた。
「先生が『急に帰らせる訳にはいかない』って言ったから、それで…」「ええええそれ鉛筆!」
南蓮がじっくりと鉛筆を見たら少しびっくりした顔をした。
「えへへへへへ……」そして照れ隠しのように笑った。
「はぁ、わたくしが食べさせてあげるわよ。さあ口上げて、あ~~」見ていられない玖瑠実は南蓮の弁当箱を持ち上げ、自分の箸で食べ物を少し取り上げて、南蓮の口元に運んだ。
「あのね、るみちゃん」でも、南蓮は玖瑠実の餌付けを遮って言った。「ありがとう、あの時、私の将来の夢見付けてくれて」
癒しの笑顔が突然南蓮の顔に咲き誇り、箸を持った玖瑠実は俄かに太陽の光に浴びたように、箸を落とそうにボケっとした。
棠硯は自分の紅焼肉を友人の二人に一人一切れに分けた。
「今日は眼鏡掛けてないから、昔のこと思い出しちゃって――私を目の検査に連れて行ったあの日にも、こうやって手をつないでくれたよね……ありがとう、るみちゃん」
そう、南蓮が医者になりたいという願望のきっかけは、玖瑠実が彼女を診療所まで連れて行った日だった。
棠硯はお肉のまた一切れを玖瑠実に分けた。
「きゅ、急に何よ、それ……」
棠硯はお肉のまた一切れを南蓮に分けた。
「待って。わたくしが目の検査に連れて行ったげなかったら、雪谷先生のこと惚れるなんてなかったわよね?」
「だって雪谷先生はカッコいいんだもん……って、そうじゃなくて!」両手を前に振り舞う南蓮は赤く染まった頬を隠したかった。
「なんか急に損した気分……ってすずりちゃん! もうお肉渡すのやめて!」
棠硯はお肉を全部配り終え、ドヤっとした眼差しで二人のやり取りを見ていた。
「……るみちゃんはもう食べたくない?」
「まあ食べたいけどさ」行動派な玖瑠実は言いながらパクっとお肉を食べた。
噛んで、噛んで、噛んで……飲み込む。
「将来の夢か……」袖を捲り上げ、玖瑠実は頬に片手を当て、真剣そうに将来のことを考えたような顔をした。「わたくしはアイスクリームの商売をして、氷菓店を開くわ」
「それ、バブーのお姉さんの夢でしょ!」
「実はね……」玖瑠実は両手を頬に当て、南蓮に言った。「好きな人とか、将来の夢とかより、わたくしはね……ずっとれんちゃんと一緒にいたいんだ」
「るみちゃん……」
「だからわたくしの氷菓店はれんちゃんの診療所のすぐ傍に開いて、毎日風邪の病人を作ってそっちに送ってやるわ!」
「え――!」
何その怖い氷菓店……聞いた棠硯はビクッとした。
「あ、れんちゃんもずっと一緒にね! だからだから……一緒にかき氷作ろう!」
闇黒氷菓店の共犯者として一緒にいるってこと?
棠硯は箸を持つ左手に見つめた――この義肢の力があれば、かき氷は何杯だって作り出せてしまうんだろう。しかし、袖の下に隠された呪符はまるで囁いているように、不可視な未来に彼女の小さな頭が予想できない困難が溢れることを言っているようだった。
ずっと一緒にいたい、けど……
三度目で鉛筆を箸扱いにしたがる南蓮のことを見て、棠硯の頬には少し笑みの色が染み出した。
「あの……その時になったら私、二人の昼ご飯を作ってあげる」
料理の腕前への自信を持った棠硯が考え出した未来は、多分この日と同じような景色になっているのでしょう。
2019.10.04著作
2019.10.11翻訳
皆さんこんばんわ、こっちはネツミです。
変な日本語ですみません。
作中にあるルビ付きの「洛語」は実際台湾語です。今後もいっぱい出ることもあるだろう……っていうか今回は出しすぎだよなw
序章を除けば、今までの内容はキャラクター紹介だと思って書いていたので、第一章はるみちゃんの家にすずりの紹介、第二章はるみちゃんの紹介、第三章はれんちゃんの思い出でるみちゃんを……いや待ってれんちゃんはどうすんの!
まあ、今回は南蓮のことが書けないからちょっと百合っぽい営業しただけの一章だったので、楽しんで読んでいただけると嬉しい。
それで、今回はここまでにします。ここまでよんでありがとうございます。一旦シャーペン放します。
2019.10.11幻華 鼠
ちなみにれんちゃんは次回で眼鏡掛けなおすから心配しないでね