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第五話(改)


 結婚後、彼女は本州にある本家に夫婦で身を寄せたらしかった。

 夫婦関係は表面的には平穏だったが、実際はそうでは無かった事、結局は離婚して子供と北海道に戻った事。母子二人の生活は大変ではあったが穏やかだった事、そして、彼女の自死。子供だった彼は父親に引き取られた事、引き取られたが事情があって青年の籍は母方のままである事――。


 青年は、小暮の知らなかった彼女のこれまでを簡単な言葉でさらりと語った。物語の粗筋を朗読するような淡々とした口調に、時折穏やかな笑顔が混じる。その様子が余計に事の深刻さを窺わせ、小暮の胸を抉った。

「喧嘩をするわけでもなく、暴力を振るわれたり、酷い事をされる事もありませんでした。ただ、会話がありませんでした。両親の間には、必要最低限の言葉のやり取り以外、なにも……」

 両親はどこまでも他人の様だったと、青年は紅茶を口に運ぶと遠い目をした。

「どうして……」

 茫然とした小暮の唇から、掠れた呼気に混じって零れ落ちる。

 いくらなんでも命を絶つなんて、せめて助けを求めてさえくれたら。覆せない過去とわかっていても考えずにはおれない。

「ここに僕がいる、それが答えです」

 鉛のような言葉を紡ぐ穏やかな声音が俯いていた小暮の顔を上げさせた。目が合うと青年はふんわりと笑う。透き通った硝子を思わせる笑顔の向こうに、荒涼とした景色が広がっているのを感じた。


 二人が喫茶店から出ると雨は止んでいた。青年と別れ自宅へ戻る道すがら、小暮は閉じた傘を揺らしながら灰色の空を見上げる。

「あ、タバコ……」

 じめじめした大気は、すぐにまた雨を呼びそうだった。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 他に比べて一回り以上小さな墓石を、持参した雑巾で丁寧に拭う。蝋燭立てや埋め込み式の花立はなたてなど外せるものはすべて外し、汲んできた水に浸しては擦る。積年の汚れを無心で剥がした。

 掃除を終えて強い陽射しを反射する御影石に花を供えると、蝋燭と線香に火を灯す。するすると伸びていく白煙の後を追うように、小暮は視線を上げた。


 季節は移り、夏も佳境に入っている。

 少々遅めの夏休みとして数日の休暇を得て、今度は家族と共に来道した。各々の実家に顔をだし、食事だ何だと引き留めに掛かる親達をかわした小暮は、一旦家族と別れて霊園を訪れていた。妻と息子は今頃、動物園を満喫しているだろうか。


 小さな墓石に手を合わせ、彼女と心の中で挨拶を交わす。知らなかったとはいえ訪れるのが遅くなったことを詫び、こんな形ではあるが再会できた喜びを語り、懐かしい少女を思い遣って目を細める。眼裏まなうらの愛しい影はいつも、切ない想いと辛い記憶を伴っていた。


 狭い車内から引きずり出し何度も殴りつけた男を、今でも忘れていない。少女の押し殺した泣き声を後ろに、薄笑いを浮かべてこちらを見つめていた酷薄な瞳が、脳裡にこびりついている。

 たまたま彼女の家で顔を合わせ、遠縁の親戚だと紹介された事があった。親戚の子供達は長期の休みに入る度、内地から遊びに来ているのだと。整った顔立ちに似合わぬ鋭い目つきが妙に印象的で、何となく嫌な感じがした。

 あの男が彼女の、そう思うと腸が煮えくり返る。

 大人達の対応は初めからおかしかった。通報したのは小暮だったが、事件として処理しようとする警察を押しとどめ、ただの痴話喧嘩で片づけた。彼自身も説得に名を借りた脅しに屈するしかなく、心のケアすら受けられない彼女は、傷の治りに反比例して次第に塞ぎ込んでいく。娘を心配する母親が父親と言い争う声を耳にした事もあった。

 家まで迎えに行けばよかったと思う。年明け間もないこの時期、厳冬はこれからだ。寒いからと渋る小暮に構わず、久しぶりのお天気だし外で待ちたいと携帯越しに笑った声。約束の場所にいなかった少女。陸橋の袂、除雪で集められた大きな雪山の奥に隠すように停められた白いワゴン。待ち合わせ場所の、目と鼻の先だった――。


 過去、幾度も悩み悔やんだことを、つややかな灰色の石の前で再び繰り返す。

 誰も幸せになれない選択を押し付けたのは何故だ。ただ傷つけるだけの方法を取ったのは何故だ。自分には理解できない思惑がおそらく、いや、確実にあるのだ。青年から得られた話と記憶を突き合わせて考える。不幸を生む必要性。言葉のおぞましさに身体が震えた。

 会いたい。

 ふわりとした柔らかい笑顔を、この目にもう一度映し出したい。

 久し振りと笑い合って、スマホで写した子供やペットの自慢をしあって、ほんのちょっとだけ愚痴をこぼしたりして、あの頃は色々あったねとまた笑いあって。過去の辛い蟠りも何かも、全てを取り払って無心に。

 君には話したいことが沢山あるんだ。

 彼女がいない、その事実が小暮をどうしようもなく打ちのめしていた。


 随分と長い時間、小暮は霊園に留まっていた。

 長年の想いに区切りをつける事も出来ず、辛い記憶と行き場のない思いを、これからも抱えていくしかないのだと悟るまで。

 自分の中の妥協点を探してどうにか納得し、日が傾き始める少し前にやっと、宿泊先のホテルに戻った。



 翌日、小暮達は帰宅の途に就く。

 機内で離陸を待つ間、並びの座席では妻と息子が数日間に体験した事柄を厭きもせず話していた。スマートフォンで撮影した動画や写真を覗き込んでは、この時はどうだった、あれが美味しかったなどと笑顔が絶えない。時々自分も一緒に画面を見やってはつられて笑う。家族との他愛ないやり取りは、強張っていた小暮の心を優しく解してくれた。

 機内放送が流れると動いていた客達は続々と席に戻りベルトを締める。小型旅客機はゆっくりと動き始め、暫く滑走路を走り滑らかに離陸した。

 小暮は窓の遥か下方、次第に小さくなっていく街並みに何となく霊園を探してみた。もう一度彼の人を偲び、喫茶店で見た笑顔を脳裡に描く。

 今頃どうしているのだろうか。

 自分がどうやって生まれたのかを知っているあの青年は、どんな思いを抱えてこれまで生きてきたのだろう。

 青年の面差しに彼女が重なり、言いようのない感覚が沸き上がる。苦しくなった胸の奥を宥めるように上着の襟元に手をのばした。


『僕がいなければ、きっと母は生きていた……』

 静かな喫茶店。席を立つ間際の吐息のような呟きを、小暮は確かに聞き取っていた。青年の凪いだ瞳は何も見ていないように思えた。応答を求めたのでもなかろうと、気付かない振りでそのまま席から離れたのだ。

 別れの挨拶に言葉と共に返ってきた柔らかな笑顔は、どんな感情も含まれていなかった。重い内容に反して、彼は時折笑顔を浮かべた。落ち着いた表情の他に小暮が見たのは笑顔だけだ。緊張からとも違う、後から考えると不自然に思える程度には、穏やかに笑っていた。「穏やか」 としか表現のしようがない綺麗な笑顔で。

 彼女に似て物静かな青年なのだろうと感じていたが、違ったのかもしれない。


 ――ああ、そうか。


 あれはおそらく、死者の穏やかさだ。


 はじめて会った時に彼を覆っていた静けさ、公園で人形の様だと思い、笑顔の奥に荒涼とした景色を感じた。それらの理由に何となく思い当たった。


 あの青年は生きていない。

 確かに存在しているのに、別の場所にいる。


 去っていく青年の背中を追いかけ、抱きしめてやれたらいいのにと、不意に思った。

 君のせいではない、生きる事は罪ではないのだと。

 陳腐な言葉しか思い浮かばないが伝えたかった。起きてしまった事は取り返しがつかない事だった、けれど君には生きていて欲しい。彼女の代わりにとも、彼女の分までとも思わない。君は誰の代わりでもないのだから。

 君は、生きていいのだ。

 いつか、彼を救い上げてくれる誰かが現れることを切に願った。彼岸をゆく青年をこちらに連れ戻してくれる存在を。どこにも救いのなかった彼女の様に、あの儚い青年までもが救われないのはあまりにも非道だ。

 かつて愛した人の面影を宿す青年を、静かに慈しむ。

 はるか遠くに霞む故郷を見つめる小暮の頬を、涙が一筋流れ落ちていった。



   ―――― 了 ――――

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