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第一話



  ともに歩んでいくと思っていた。

  ずっとそばに居るのだと思っていた。

  その人は蜉蝣かげろうのように儚く、

  空の青へ融けていった。


  流れに抗うすべもなく、

  静かに微笑むその人は、

  音もなく大気を震わせる硝子の翅をまとい、

  独り向こう岸の淵をさまよいゆく。


   せめて安らかに。

   せめて穏やかに。

   私は祈る――。



 妻と子供との三人家族、どこにでもいるごく一般的なサラリーマンである小暮こぐれ 雄二ゆうじ、彼には長らく忘れられない人がいる。

 彼女の事を思い出すと、いつも心の奥がずきりと痛んだ。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 ようやく桜前線が日本を一通り巡った頃、その日は春だというのに猛暑日だった。

 折角の休日をゆっくりし過ごしたいが、その望みは数日前に告げられた息子の言葉でとうに諦めている。

 小暮は台所で、黙々と野菜を切り刻んでは大きなボウルに盛っていた。盛り付け終わったボウルを背後のテーブルに置くと、今度は茄子を手に取りザクザクと切り始める。

 適当な頃合いを見計らい、若干急ぎ足の妻が刻み終わった野菜を受け取りに来た。手には空のボウルと大皿が一つ。

「あなた、それが終わったらお肉も頼める? パックから出して大皿に盛るだけでいいから。それと、もしかしたら追加でお肉だけ買ってきてもらう事になるかもしれないわ」

 小暮の妻は話しながら、冷蔵庫から肉のパックを取り出して台所に積み始める。こちらで用意した物もあるが、殆どは来客たちが持ち込んだ。彼らはクーラーボックスに入れておくと言ったが、この猛暑ではそれにも限界があろうと、気を利かせた妻が冷蔵庫に入れたのである。

「わかったよ。ところで、飲み物はまだ大丈夫かい? 氷は足りてる?」

 小暮は野菜を切る手を止め、半笑いで応じた。

「そうねぇ、飲み物はまだ余裕があるけど……、氷をお願いするわ。飲む用と、冷やす用、両方お願い」

「了解」

 テーブルから野菜が盛られたボウルを抱え上げると、彼女はリビングを通り抜け一直線にベランダへ向かう。サンダルをつっかけて外に出ると子供たちの群れへ向かった。

 妻の動きを追って視線をやれば、大して広くもない庭先では息子が部員達とバーベキューで盛り上がっている。同輩に先輩後輩を含む総勢十人ほどの男子の中には、意外な事に大学生も数名混じっていた。

 なんでも、ある教師が趣味で立ち上げたという運動部はマニアックなジャンル故に部員が少なく、大学部にあがったOBも部活によく顔を出すのだという。

 楽し気な息子の様子から察するに、アットホームな部活なのだろう。

 それにしても――。

(すげー食欲だな……)

 小暮は思わず空いている手で胃のあたりを押えた。見ているだけで胸焼けしそうだ。

 少年達は賑やかに騒ぎ立てながらも、焼き上がっていく野菜や肉を次々とタレに付けては口に放り込んでいく。彼等の胃袋はブラックホールに違いない。時折妻が世話を焼きながらも、OB達が中心になって場を仕切っていた。網焼き担当を時折交代しつつ、食欲魔人の群れを上手くさばいている。

 見事な食べっぷりを眺めていたらOBと思しき青年と目があった。周りに比べて少し細く感じる大人しそうな青年だ。軽く頭を下げてきたので同じように応じ、はっと我に返る。

「見てる場合じゃなかった。これ、さっさと切ってしまわないと」

 早いとこ終わらせて肉と氷の用意をしなければ。

 小暮は慌てて作業に戻った。



「は――、やれやれだなー」

 一仕事やり終えた小暮は、ビール片手にリビングで彼等のおこぼれに与っていた。テレビではバラエティ番組の再放送を流している。

 妻も、「何かあったら呼んでね」と言い置いて家の中に戻ってきた。今は台所の後始末中だ。夕飯はバーベキュー食材の残りを使ったものになるのだろうか。

 庭先で繰り広げられていた嵐の様な宴会は、二時を過ぎる頃にはテンションが抑えられていた。流石に満腹なのだろう。まったりとお菓子やジュースを摘まんでは、飽きもせず雑談に花を咲かせている。

 ぼんやりテレビを見ていたが、疲れてしまったせいなのか今一つ面白く感じられない。小暮は飲み終わった缶を台所に持っていくと、冷蔵庫から次のビールを取り出し緩い足どりでベランダへ向かう。

「少し、庭に出てくる」

「それはいいけど。空き缶、そこに置かないで、ちゃんと捨てておいてよ」

 洗い終わった食器を片づけている妻の小言に生返事で庭に出た。夕方にはまだ早い時間帯、暑さはまだ続いていて室内よりもきついが、気分を切り替えるには丁度良い。ビールを零さないよう注意しつつ両手を上げて伸びをする。

 辺りには炭と肉や野菜を焼いた後の独特の匂いが満ちている。ニンニクのきいたタレの匂いは、どうしてこうも食欲を刺激するのか。

 益体やくたいもない事をつらつらと思いながら、少年達の声を背景にぐるりと視線を巡らせると、家の前に停めているワゴンの車内に青年が一人座っていた。ワゴンは遠方に住む子の送迎と食材運搬にと彼等の一部が乗って来たのだ。片側のドアを開け放っている車内は薄暗く、外より幾分涼しそうに見える。もしや猛暑にやられたかと心配になってよくよく見れば、野菜を切っていた時に小暮に挨拶をしてきたあの青年だ。

 何となく気になり、ふらりと足を向けた。

「大丈夫かい?」

 車に近寄り青年に声をかけると、ゆるりと黒い頭が動き、問うような視線と共に少しだけ首を傾げる。微かに女性的な柔さのある面差しは、同性から見てもそれなりに整った容姿だ。

 彼が持つペットボトルの麦茶は盛んに陽光を反射していて、近づいた小暮の目を刺しに来る。頭を軽く動かして光線を避けつつ目の前に立つと、おや? と思った。何となく胸の奥が騒めくのを感じたのだ。

 もう一度、今度は違う言葉を選んで口の端に上げた。

「車内の方が涼しい?」

「あまり変わりませんけど、日光直撃よりは大分ましです」

 軽く頷き、青年は麦茶を一口飲んで眩し気に視線を上げた。

「まったく、今日は熱いよねぇ」

 つられた小暮も手をかざして空を見上げる。雲のほとんどない真っ青な空に強い陽射し。吹く風まで熱を含んでいて、網焼きの肉の気分だ。気晴らしで外に出たがそれはそれ、早く夕暮れになればいいと思った。

 それきり会話は途切れ、二人の間に緩い沈黙が生まれる。青年も特に話しかけてはこない。小暮は息子達を眺めながら車の側に突っ立って、ビールをちびちびと胃に流し込んでいた。

 ちらりと車のシートに収まる青年を窺う。自分と同じように少年達を見ていると思ったが、違うと気付いた。改めて視線を辿った先にあるのは小さな花壇。それを静かに見つめる横顔に、ふと脳裡に閃くものがある。思わず声をかけた。

「何か、面白い花でもあったかな」

「?」

「あれ」

 小暮は口元に缶ビールをあてた手で、人差し指だけを動かし花壇を示す。

「ああ。懐かしい花があると思って……」

 青年の視線の先、花壇と言っていいのか微妙な程度にささやかな場所には、水仙などに囲まれて朱鷺とき色の花をつける躑躅つつじが一本植えてある。若いころ住んでいた小暮の地元では、大体の家庭に植わっていた木だ。数年前にホームセンターの園芸コーナーで苗を見かけ懐かしくて購入したのだった。

「昔、子供のころ住んでいた家にもあったんです。同じ色の躑躅が」

 彼が目を細める。遠くを見るように淡く微笑んだその顔は、何故か哀しげに見えた。


 青年は、「夜刀神やとがみ 孝顕たかあき」と名のった。


  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

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