第9話 ドラゴン・ベル
第9話 ドラゴン・ベル
ある者は、後にこの時のことを思い出してこう言った。
「地獄に堕ちたら、こんな場所に叩き込まれるんだろうな」
その日……あの場にいた者は、確かに地獄にいた。
人が抗うには強大過ぎる暴力の嵐。一人、二人、そして十人、二十人と、なすすべも無く血飛沫をあげて大地に伏していく。
しかし、大地に倒れた者はまだ幸運なのかもしれない。
あの化け物に喰われ、骨まで噛み砕かれた人々は最期に何を思っただろうか。
……背筋が凍りつく。そして、生き残った我々はこう言うだろう。
なんで、こんな目に遭うのだ、と。
だが、彼らの物語はこの惨たらしい地獄の中から始まったのだ。
そう、彼ら「冒険者」の物語が。
「避難民を救います!! 行くぞ!!」
精鋭の騎馬隊を率いるラーナ・デイルは、部隊を鼓舞する。しかし、騎馬隊の兵士たちの中には目の前の光景に目が釘付けになり、震えている者も多い。
無理もない。あんな巨大な化け物が、目の前で人々を惨殺し続けているのだ。そこに突入するなんて、怖いに決まっている。しかし、行かなければ護るべき民が全滅してしまう。
ラーナはもう一度、剣を掲げて声を張り上げる。
「我らはなんのためにここにいる!? 我らは目の前の、護るべき民の希望なのだ!! あの化け物に一泡吹かせてやろう!! 我に続け!!!」
先頭を切って、ラーナは巨大な化け物に突撃する。その後ろ姿は小さく、か弱い。だが、部隊の兵士たちはその背中を追う決心がついた。そして、各々が声を振り絞り、叫んだ。
辺りに兵士たちの怒声が響き渡り、騎馬隊が押し寄せる。その動きに反応した巨大な化け物は、足を止めて振り向いた。
「あの化け物…おそらくあれが緑龍ね。でも、なんでこんなところに出てきたの? それにあの黒い煙は…。セルゲイ、奴はまさに暴力の化身よ。正面から挑むのは自殺行為だわ。隊長達を止めなくていいの?」
セルゲイの後ろで一緒に馬に乗っているシモーネが警告する。勿論、セルゲイも彼女の言う通りだと思っていた。
「わかっているさ。だが、避難民から奴の注意を引く必要がある。このくらいの突撃をしなければ、反応しなかっただろうな」
「確かにね。でも、このままでは隊長が真っ先に死ぬわよ。どうするの?」
「こうするのさ!!」
セルゲイは手にした槍を構えて、勢いよく緑龍の顔を目掛けて投げる。その一撃は命中したが、造作もなく弾かれた。しかし、緑龍は怯んだのか、その場で首を振る。
「今だ!! 左右に分れろ!!」
セルゲイの叫び声は騎馬隊の全員の耳に届くほど大きかった。ラーナも含めて、その声を聴いた者は反射的に馬の進路を左右に変える。
その直後に、緑龍の剛腕が前に振り下ろされ、地面が激しく揺れる。騎馬隊は間一髪でその一撃を回避できた。
「セルゲイ!? なにをするの!?」
ラーナが振り向くと、その一瞬の隙をついてセルゲイが馬から飛び降り、大地に打ちつけられた緑龍の腕を駆け上っていた。そして緑龍の首元に向かって斧の一撃を見舞う。しかし、浅い。
「くそっ! 外したか!!」
「セルゲイ、危ない!!」
セルゲイは離脱しようとしたが、緑龍が虫を払うように手で薙ぎ払う。その手にセルゲイは吹き飛ばされ、宙を舞った。だが、彼は空中で身を翻し、受け身を取る。
「くっ……。やってくれるな。こいつめ、あの時よりも遥かに強くなってないか?」
「あの時? 前に戦ったことがあるの?」
馬で駆けつけたシモーネが尋ねる。
「ああ。私があの森に入ったのは、この緑龍の討伐が目的だったんだ。しかし、一緒にいた仲間たちは全滅してしまったが……」
「そう……」
「気にするな。危険を承知で、誰かが行かねばならなかったのだ。今度こそ、私が勝つ」
そう言うとセルゲイは立ち上がり、再び斧を構える。緑龍はセルゲイを標的に決めたようだ。
「シモーネ。今のうちにラーナ隊長の元に行って、騎馬隊に避難民の誘導を頼んでくれないか? ここはしばらく、私が持ち堪える」
「ちょっと!? 一人では無茶よ!?」
「大丈夫だ、やれる自信がある。一人で倒すには厳しいが、時間稼ぎはやってみせるさ」
盾を構え直し、斧を緑龍に向けて構え、迎撃の姿勢を取るセルゲイ。普通に考えれば、無謀だ。だが、彼ならできるかもしれない。そう思わせる何かが、彼にはあった。
シモーネはセルゲイに背を向け、ラーナの元に馬を進める。
「すぐに戻るわ! それまではちゃんと生きててよ!」
「任せとけ!!」
背中越しに互いの信頼を預ける。出会って間も無い二人だが、不思議と息が合っていた。
「それにしても…シモーネは最初と性格が変わりすぎてないか? 変わった魔法使いだと思っていたが、この戦さ場では随分と勇ましくなるのだな…」
謁見の間に入ってきたシモーネの姿を思い出し、口元に笑みが浮かんでしまう。しかし、そんな回想を裂くように、緑龍の咆哮が浴びせられた。
「そのやかましい叫び声、黙らせてやる!」
突進する緑龍に向き合い、セルゲイは斧を構えて跳躍する。
一人の人間対、化け物。その光景は、まるでお伽話のようにみえる戦いだった。
ラーナたちはシモーネの伝言を受け取り、生き残った避難民の誘導を始める。しかし、その数は少ない。
「ここから西は……全滅ということなのか…」
ラーナは人には聴こえないくらい小さな声で呟く。ハル村を始め、この先の西には誰もいない可能性が高い。彼女が率いていた騎馬隊"牙"の兵士たちも、やられてしまったのだろうか。少なくとも、この場でそれを確かめる術は無かった。
その時、ふとラーナの耳に、叫び声が聴こえてきた。声の主は若く、泣いているのか怒っているのかわからない。
ラーナが声の主の元に近づくと、馬車の中で血まみれの、怪我をした若い青年がそこにいた。暴れる彼を、隣の若者が押さえている。
「ちくしょう!! ちくしょう!! あの化け物、絶対に許さねえ!! ちくしょう!!」
「おい、落ち着けって!! お前も怪我をしてるんだ!! 死んじまうぞ!?」
「俺が死んだっていいさ!! 奴を殺せるなら、手でも足でも心臓でも、なんでもくれてやる!! 奴を殺せるならなんだってしてやるさ!!」
「馬鹿野郎! せっかく生き残ってるのに、そんなこと言うな!! お前がここで死んだって、リリアは帰ってこない!! 誰も生き返らないんだぞ!?」
「なら、エリクは奴を許せるのかよ!? 俺の目の前で!! リリアは奴に喰われたんだ!! 奴は今もその血を滴らせてるんだぞ!!?」
「わかってる!! わかってるよ、ハンス!! 奴を許せるわけなんかないさ!! だが、お前は死ぬな!!」
二人の傷ついた若者たちが、 悲痛な叫び声をあげていた。大切な者たちを失い、怒り、悲しんでいる。 ラーナは目の前の青年たちにかけられる言葉を思いつかなかった。
(私は、彼らの希望になれるだろうか?)
拳を握り、考える。だが、ラーナには答えが出せなかった。しかし、唐突にその答えを口にした者が現れる。
「…あなたたちの仇、私が、私たちがとってあげるわ。見てなさい」
シモーネだ。いつの間にか隣に現れ、二人の青年に告げた。仇をとると。
「あ…あなたは?」
エリクという青年が震えた声で尋ねる。
「私はシモーネ・ベル。魔法使いよ。そして、あなたたちはこれから見るのよ」
「なにを…?」
クスッと笑い、シモーネはクルリと背を向ける。
「魔法使い"ドラゴン・ベル"と異邦の戦士の物語を、ね」
緑龍の目には、かつて見えていた色鮮やかな世界は映らない。思考もない。見えるのは、黒い闇。頭に浮かぶのは、敵を殺すことのみ。そして、敵は動くもの全てだ。
脆く、小さな虫のような敵を造作もなく殺してきた。赤い血は果実から滴る果実のような甘さだ。だが、満たされない。殺したりない。喰らい足りない。
緑龍は飢えていた。だが、なぜ?
その浮かんだ疑問も、すぐに黒い闇に沈んでいく。身体中から排出される黒い煙と共に、霧散していく。残るのは、尽きぬ飢餓感と、破壊の衝動のみ。
しかし今、その満たされぬ感覚が更に増幅している。目の前の虫を殺せないからだ。
手を振り下ろしても当たらない。噛みつこうとすれば頭によじ登られる。振り払っても壊れない。咆哮しても怯まない。チクチクと、喉や足に噛みついてくる。
苛立つ緑龍を相手に、セルゲイは持ちこたえていた。重い一撃はなんとか躱し、攻撃の隙をついて仕掛ける。ひたすらその繰り返しだが、決定打は与えられない。
「やはり…浅いか。強化した一撃を加えるにしても、このままでは致命傷を与えられるかどうか…」
セルゲイは既に身体強化魔法を使っていた。その強度はかなり抑えているため、寿命が減る程ではないが、長期戦には向いていない。それに、一時的に強度を上げて一撃を放っても、緑龍を倒しきれる自信は無かった。なぜならば、前に一度試しているからだ。
「…腕自慢の友たちと一緒でも、こいつを仕留めきれなかったんだ。何か別の手を打たねば…しかし、どうする?」
「それなら、私の出番ね!」
背後から突然声が投げかけられる。シモーネが戻ってきたのだ。
「シモーネか! 戻ってきたのだな!」
「当たり前よ! それで、どうできたら奴を倒せると思う?」
致命的な一撃を与えるには、最低限足は止める必要がある。そして、弱点を突く。だが、弱点はどこだ?
「シモーネ、奴の弱点がわかるか? 私には見つけられない!」
「あなたほどの戦士が見つけられないってことは……見えないのよ! まずは弱点を露出させる必要があるわ!」
ただでさえ硬い鱗に覆われているのに、急所と思われる場所には鎧のような岩の塊が付いている。今更ではあるが、何か不自然だ。
その時、セルゲイは思いついた。
「シモーネ、あの岩を剥がせるか!? 弱点が隠されているかもしれない!!」
「ふふ…私の炎を舐めたら火傷じゃ済まないわよ? 見てなさい!」
すると、シモーネは突然服を脱ぎ始める。セルゲイは呆然とする。
「おい!? なぜ服を脱ぐ!? こんな時に、何を見ていろというんだ!?」
「失礼ね。乙女の柔肌を見れるのだから、素直に喜びなさいよ! それに、私の魔法は炎よ!? 服が燃えたら嫌じゃない! これ、お気に入りのローブなんだから!」
「そんなこと言われても、なぁ…」
どう反応すればいいのやら。やはりシモーネは変わった女だ。しかし、彼女の表情は真剣そのものだ。そしてすぐに、彼女は炎を纏い始める。まるで、火炎のローブのように。それに、髪の色も赤々と染まり、揺れている。
「刮目しなさい。これがドラゴンの炎。さあ、行くわよ!!」
シモーネは炎を翼のように広げ、足先から勢いよく噴射すると、宙に飛び上がる。そして上空から火炎弾を撃つ。
いや、撃ちまくっていた。
「おいおい…なんて魔法使いだ。あれは人間技じゃないだろ!?」
「だから言ってるでしょ? 私はドラゴン・ベル。赤龍の眷属よ」
「赤龍の…眷属?!」
さらっと信じられない事実を話すシモーネ。北の山の赤龍の話は、帝国でも有名なおとぎ話だ。緑龍がいるのだから、赤龍もいるのだろう。だが、眷属ってなんだ?
「昔、色々あってね〜。まあ、後で話すわ。それより、弱点出たかしら?」
セルゲイはハッとして振り向き、素早く確認する。緑龍はまだ健在だが、岩の装甲が吹き飛び、その下の鱗が見えている。しかし、他の箇所に比べれば柔らかそうだ。そして頭の後ろ、首の上側が少し火傷している。
「見つけた!! おそらく首の上だ! 足止めしてくれ!!」
「まっかせっなさーい! ドラゴンのブレスは熱いわよ!!」
今度は緑龍の足元を焼け野原にするシモーネ。セルゲイまで燃えそうだったが、おかげで緑龍の足は止まり、苦しそうにしている。
「空気も奪われているからな…。さあ、終わりにしてやる!!」
落ちていた槍を拾い上げ、セルゲイは緑龍の体をよじ登る。首元に達すると、咆哮し、その手にした槍を突き立てた。
緑龍は悲痛の叫び声をあげる。だが、まだ仕留めきれていない。セルゲイは傷口を強引に拡げ、上空にいるシモーネの名前を叫んだ。その意図を察し、シモーネは頷くと、火炎で作った槍を放つ。
炎の槍は開いた傷口に直撃し、緑龍の中で燃え上がる。その炎は頭にも達し、緑龍の目鼻や口からも炎が噴き上がる。
そして、その巨体は大地に崩れ、黒煙を上げて燃え上がった。
緑龍は死んだのだ。
その光景を、避難民は遠くから眺めていた。静まりかえった中から、一つの叫び声があがる。
それは、ハンスと呼ばれている若者が、涙を流しながら発した叫びだった。