第18話 悪夢の霞
第18話 悪夢の霞
その日は雨になった。
大柄の体を覆う灰色のマントを着込み、深々とフードを頭に被ったセルゲイは空を見上げる。上から打ちつけるように降りしきる雨粒が、布越しに肩や頭上で勢いよく弾けていた。
フルト王国の西の境、ハル村を朝方に出立したセルゲイたちは緑龍の森へと足を踏み入れ、森の中を西へ真っ直ぐに延びている一本の古い道を歩いていた。
ここは道と言っても、長い年月の経過で荒れており、ほとんど森にのみ込まれている状態だ。足元はぬかるみ、石畳みの隙間も大きいので、油断すると転倒してドロドロになってしまう。
「また雨になるとはな」
憂鬱そうな呟きを口から吐き出すセルゲイ。彼は以前にこの道を通った時のことを思い出していたのだが、少し眉間に皺を寄せていた。
そんなセルゲイの隣に、慣れないぬかるみに苦戦しながらもエドが駆け寄って来て、並んで歩き出す。
「セルゲイさん。今、何を考えていらっしゃったんですか?」
「ん? ああ…ちょっとな」
そう言葉を返すが、エドは期待の眼差しでこちらを見つめてくる。
「いや、大したことじゃないんだが…西の帝国から緑龍の討伐に赴き、そして緑龍に敗れた後、俺はひたすらこの道を歩いていたんだ。その時もこんな感じの雨がずっと降ってたんでな。」
「へぇ…」
意外な反応だ。セルゲイは拍子が抜けた…というより、妙な違和感を感じてしまう。てっきり、エドは好奇心に満ち溢れた顔で話の続きをせがんでくるかと思ったのだが、彼は急に素っ気ない返事をすると、遠くをボンヤリと見つめているような表情になっていた。
どうしたのかと、セルゲイはエドに尋ねようとしたのだが、強さを増した雨の降り注ぐ音に声を遮られ、結局何も聞けずに黙々と先を急ぐことになった。
そのまま歩き続けていると、もう昼頃になっていた。相変わらずの勢いで降り注ぐ雨は、森の土や草の匂いを一層強める。
地面が荒れて多少の起伏があっても、道の景色はずっと変わらない。これがいつまで続くのかと、シモーネはウンザリした顔になっている。
今にも文句が後ろから聞こえて来るかと思っていた、その時だった。セルゲイは前を歩く老人の動きに目を止めた。
「いかん…これはいかんぞ」
先導していたガーランが急に足を止め、道の先を鋭い目で凝視して固まる。
「どうした?」
セルゲイはガーランの隣に立ち、その視線の方向を見る。しかし、セルゲイの目から見て、真っ直ぐに延びる道の先に何かあるようには見えなかった。
「おい、何か見えたのか? 俺には何も見つけられないが…」
隣の老人に尋ねるが、彼は何かに集中しているようだ。黙って微動だにせず、その場に立っている。このままでは埒があかないと考え、セルゲイが少し先に進んでみようと一歩を踏み出した、その瞬間…
「くっ! 小僧、止まれい!!!」
雨音を全てかき消すような怒声を唐突に発するガーラン。セルゲイは反射的にその場から後ろに飛び退く。後方にいるシモーネたちも異常を察し、その場で身構えた。
それからほんの少しの間があったが、周囲に動きはない。しかし、空気は張り詰めている。
セルゲイはゆっくりと、しかし手際よく斧と盾を構え、周囲に意識を集中させる。
「…ガーラン。どうなっている?」
低めの声で、セルゲイは前にいるガーランに改めて尋ねる。
「よいか。そこを動かんようにせい。今、儂がそちらに下がる。話はそれからじゃ」
前を向いたまま、ガーランは静かに、細心の注意を払って後ろに移動する。その様子を見たシモーネたちも、気配を殺すように身を低くしながら、セルゲイがいる位置まで前進した。
合流するまでに僅かな時しか経過していないにも関わらず、ガーランの額からは玉のような汗が雨粒に混ざって滴り落ちていた。
「…さて。ガーラン、状況を説明してくれ」
「ねぇ、何があったのよ? 異常事態というのはわかったけど…」
「…なんて空気でしょう…森の中とは思えません」
「…はぁ…」
集合するなり、一同はガーランに小声で同時に質問を浴びせる。
「まったく…若いもんはこれだから…まずはやかましい口を閉じぬか。順を追って説明するわい」
ガーランは思わず声を荒げそうになるのを堪え、呼吸を整える。
「この先…いや、この場にも既に達し始めておる。これは瘴気じゃ」
「瘴気? なんだ?」
「目には見えない、霞のようなものじゃ。儂以外は誰も知らんじゃろう。じゃが、これは一言で言えば"マナの毒"なんじゃよ」
「マナの毒!? ありえないわ!」
興奮したシモーネが叫ぶと、すぐにセルゲイが声を抑えるように促す。シモーネは慌てて口を押さえて再び話を聞く姿勢に戻る。
「…そんな魔法、聞いたことないわよ。なんなの?」
「儂も理論的にはわからんわい。じゃが、それがドワーフの冒涜者どもが産んだ禁忌の魔法である"死霊術"に関係があると、儂は考えとる」
死霊術はフルト王国をはじめ、この世界においては古い物語にのみ存在する魔法だ。生物が持つマナを"魂"と考え、それを魔法として行使し、死者を操る技だとされてはいる。
だが、既に失われた魔法だ。荒野を彷徨う屍肉喰らいの獣や動く死体など、知られているアンデッドは全て緑龍の森が起源となっているらしいが、正体は誰にもわからない。
これまでのセルゲイとガーランの話から、この森で栄えていたドワーフという種族の魔法ということで、死霊術の話は道中も何度か議論されていたのだが、まさかマナを毒の瘴気に変質させているとは思いもつかず、セルゲイたちは唖然としてしまう。しかし、ガーランの話は終わりではない。
「この霞の毒が、狂気と死を振り撒いているのじゃろう。とにかく、儂が前に使った魔法はこの毒を中和する浄化魔法なのじゃ。効果範囲は狭いし、体力の負担も大きいのじゃが、それでもかなり有効じゃった」
そう言われて、寒気に震えていたシズは少しホッとする。ガーラン頼りにはなるが、無防備ではない事がわかったからだ。
「なるほどね…。まあ、細かい理論の話は事が済んだらゆっくり研究するわ。それで、どうするの?」
「ガーランが今言っていた通りなら、ここで浄化魔法を使ってもらえばいいんじゃないのか? 体力的に厳しいのであれば、この場で休憩も兼ねても良いしな」
いざとなったら、セルゲイがガーランを担いで移動するのだと、シモーネたちもその案に納得する。当のセルゲイはそこまで考えてないのかもしれないが。
ところが、ガーランの表情は険しい。体力面の不安があるから、というわけではないようだ。
「それが出来れば、なのじゃが。儂が感じているこの気配は尋常ではない。近くに何かがおるぞ。恐らく、毒の主かもしれんが、見当もつかん」
「確かに、何か嫌な気配がいるわね…。私のマナも荒ぶってるわ。セルゲイはわかるかしら?」
「ああ…なんとなく、肌にピリピリとした刺激を感じる。シズの寒気もこいつが原因だろ……。おい、エド?」
ふと、静かすぎるエドを思い出したように、セルゲイは後ろを振り向く。しかし、エドの姿がよく見えない。
「エド? エドはどこだ?」
一同も振り向く。警戒の為に身を低くしているが、やはりエドの姿が見当たらない。
「エドっち!? どこいったの!?」
「エドさん!? さっきまで私の後ろにいたのに…」
ガーランの声で警戒し始めてすぐ、確かにエドはシズの側にいた。それなのに、今はいないことにシズも動揺し、慌てて辺りを見回す。
「エド坊!? どこじゃ!? 返事をしなさい!!」
最早、声を潜めての会話どころではない。エドが消えたのだ。しかも、あれだけ全員が周囲を警戒している状態で、だ。
ガーランはエドを見つけたい一心で力一杯に叫ぶ。だが、返事はない。
焦り、動揺しているのか、彼はその場を駆け出しそうになるが、そこはセルゲイが腕をしっかりと掴み、その場に留まる。シズもシモーネに止められていた。
「こら! 離さんか! このままではエド坊が…」
「落ち着け、じいさん! あんたらしくもない! 闇雲に探しても、この雨と毒の霞の中では見つけられないだろう!」
混乱し、暴れるガーラン。その力はセルゲイが全力で抑えねばならないくらいだ。
「早く…早く見つけなければ、エド坊が…エド坊が変わってしまう!! それだけは!」
変わる?
言葉の違和感に、セルゲイはまたざわざわと心が波立つ。
ドシャ。
全員の耳に聞こえた。
それはぬかるんだ土を踏む音だ。重さはさほどない。
一同が音のした方向、前方に目を凝らす。方向から、ガーランの言っていた"何か"を予想して身構える。しかし、予想は違っていた。
「エド…エド坊!!」
前に立っていたのは、間違いなくエドだった。雨具として灰色のローブにフードを被っていたが、背格好、何よりも彼が愛用しているメモ帳がポケットからはみ出している。
「エド坊! 無事じゃった…あぁ、良かった…今行くから、待ってなさい」
セルゲイは驚きで腕の力が一瞬緩んでいた。それをガーランは振りほどき、エドの元へ駆け出す。シズも責任を感じていたのだろう。シモーネの元から急いで駆け出す。
だが、ガーランとシズが駆け出した途端に、エドはその場で力無く崩れ落ちた。
その様子にガーランはショックを受け、一瞬足が止まるが、再び走り出そうとする。しかし、それもまた凍りつくように止まった。
シズは一刻も早く駆けつけようと、ぬかるみに足を取られながら走り続ける。そしてガーランの横を通り過ぎた時だった。
「い…いかん! おシズさん、待つんじゃ!!」
「え、ええ?」
なぜ止められたのか、わからない。シズは無意識にガーランを振り向くと、彼の表情が苦悶に満ちており、呼吸が止まったかと錯覚する。だが、そう思った瞬間に、背中から強烈な衝撃を受けた。
ドンッ
「キャアア!!!」
体が宙を舞い、眼下をガーラン、セルゲイ、そしてシモーネが順番に通り過ぎて行く。そして間も無く、地面に衝撃と共に打ちつけられ、シズの意識は消えた。
「し、シズ…?」
セルゲイはゆっくり後ろを振り返る。先程まで前にいたシズが、自分たちの後方で地面に倒れている。
そしてもう一度前を向き、驚愕した。
手足を地につけ、まるで四つ足の動物のような姿でこちらを見つめるエド。その顔は蒼白になり、眼球は夜の深い闇のように真っ黒に染まり、口からは黒い煙が漏れていた。
「エド坊…そんな……あああぁぁ!!!」
そのガーランの悲痛な叫びは、まるで丸太を薙ぎ倒す緑龍のようだった。