第10話 酒場の異邦人
第10話 酒場の異邦人
大地を激しく打つ雨。
燻る緑龍の亡骸が、急速に冷たくなっていく。
緑龍に殺された人々の血で染まった地面も、雨水が洗い流していく。しかし、雨の中を流れる水の朱さは震えがくるほどに鮮やかだ。
緑龍が森から現れて数日のうちに、ハル村を始めとするフルト王国西側の村々は壊滅した。その死者の数は不明であり、生存者はごく僅かだ。この突然の襲撃により、王国は大きな傷を負った。そして惨状を生き残った人々には、一生の癒えることのない、心の傷を刻み込まれる。
後日、王都ゲランでは大規模な追悼式典が執り行われた。国王の口から、犠牲になった村々の名前と、最西端のハル村に駐留し、最期の瞬間まで民の盾になり続けた部隊、精鋭騎馬隊"牙"の名前が告げられる。
そして、今はただ、犠牲になった者たちを悼むよう、国王アーネスト・ロサは静かに国民呼びかけ、黙祷する。
式典が終わった後、国民は各々で死者を悼む。ある者は墓に向かい、ある者は家族と抱き合って泣き、そしてある者は酒場で騒いだ。
一方で、部隊をほとんど丸ごと失ったラーナ・デイルは、犠牲者への献花台の前で泣き崩れ、近衛隊のアレンに支えられている姿が目に入った。
本来ならば式典の場で、緑龍の討伐を果たした勇者たちを讃える場が設けられるはずだったが、死者の数が多すぎた。勿論、討伐した者たちを蔑ろにする気は誰にもない。しかし、今は悲しみが優っているのだろう。
人々には、時が必要だった。
王都に帰還し、戦いの報告を終えたセルゲイとシモーネは、王都の奥にひっそりとある酒場に足を運んでいた。
"龍の尻尾亭"
おそらく、今この酒場に訪れるのは、この二人くらいだろう。セルゲイとシモーネは、ゆっくりと扉を開ける。
中に入ると、やはり人の気配が殆どない。奥に一人だけ…リュートを爪弾いている女性がいるだけだ。
店内は歴史を感じさせる古風な装飾に彩られ、使い込まれたテーブルと椅子が並ぶ。ランプの灯りが優しく照らし、落ち着きのある佇まいだ。ここはなんとも居心地の良い。
四人がけのテーブルに、セルゲイとシモーネは向かい合って腰を下ろす。すぐに店の青年が注文を取りに来て、二人はワインをボトルで注文した。
二人は黙ったまま、酒が来るのを待つ。爪弾かれるリュートの、明るくもなく、暗くもない、ただ染みるような音色だけが、店内に漂う。
ワインがテーブルに運ばれてくると、二人ともグラスは使わず、お互いにボトルを手に取り、しばし顔を見合わす。
「死んでいった者たちと…」
「…森の王、緑龍に」
セルゲイの言葉を、シモーネが繋ぐ。そして静かにボトルを打ち鳴らすと、それを二人は一気に飲み干す。すぐに、追加を注文した。
「…シモーネ、まさか君がこの献杯に同意してくれるとはな」
「まあ…私以外には、この国の人たちは誰も理解できないでしょうね。死者だけではなく、仇を弔うなんて」
「眷属…だからか?」
「あの龍に情があるわけじゃないわよ? でも、そういう事にしておいて」
シモーネは緑龍との戦いの最中、自分は赤龍の眷属であると語っていた。その意味はわからないが、龍との何か特別な関係があるのだろう。それに、セルゲイはシモーネの魔法から、赤龍の力の一端を見た。確証は無くとも信じる事は出来る。
「あなたこそ、なぜ自分の仲間の仇を弔うの? みんな、森で奴に殺されてしまったのでしょう?」
「そうだ。みんな、あいつに殺された。今でも、あの森の中で野晒しになっているだろうな」
「じゃあ、なぜ?」
追加の酒が来て、それをセルゲイは喉に流し込む。それから少し黙ったが、表情は柔らかく、穏やかだった。
「奴は森の主だ。本来、畏敬の念を抱きこそすれ、恨むような奴じゃない。それを人間の都合で、命を奪いに行ったんだ。当然、俺も仲間たちも、命を奪われる覚悟をしていた。それだけさ」
「ふーん。狩人のしきたりなのかしら。今回は、逆に奴が人間を狩りに来たけど」
そこでセルゲイの表情が変わる。
「ああ……だが、俺たちが倒した緑龍は、以前出会った時とは明らかに様子が違った。元々、言葉が通じるわけでもないし、脅威には変わりない。だが、あの時の奴は確かに狂っていた。ただごとではない、何かの邪悪な力によってな。だから、俺は奴も犠牲者だと思っている」
セルゲイが言い終えるが、シモーネは沈黙する。そうしていると、今度は手頃な肉料理がテーブルに運ばれて来た。二人はしばらく、黙々と料理にかぶりつき、酒を飲む。
ある程度食事が進み、一息ついたところでシモーネは再び口を開く。
「あなたの推論は、おそらく正しいわ。情報は少ないけど、あの森にはまだ厄介な黒幕がいる。それを見つけ出して止めない限り、犠牲者は更に増える」
「…ならば、あの遺跡だろうな。そして俺は行くまでだ。でないと、落ち着いて仲間の亡骸を埋葬できん」
「…故郷の帝国に頼んで、援軍を呼ばないの?」
「いたずらに犠牲者が増えるだけさ。それに、若い魔闘士たちが、無茶して寿命を削る姿を見たくない」
「ふふ。あなたならそう言うと思ったわ。じゃあ、決まりね。行きましょう」
セルゲイはシモーネの顔を睨み、更に追加のワインを頼む。
「おい……君も来ると言うのか?」
「そうよ。役に立つでしょ?」
「それはそうだが……危険だぞ? それに、魔導機関とやらの仕事はほっといていいのか?」
「私は魔導機関に所属しているけど、居候みたいなものよ。昔、陛下と少し御縁があっただけ。どこに行くかは、王国の意思ではなく、私の意思で決めるわ。この権利を奪うことは、誰にも出来ない。あなたもそうでしょう?」
シモーネにそう言われて、セルゲイは豪快に笑い声をあげた。
「はっは! 違いない! 俺も帝国の民だが、これは帝国の意思じゃあない。紛れもなく、俺の意思だ」
己の向かう方向は、己の意思で決める。二人が確かめたのは、ただそれだけだ。セルゲイとシモーネは、互いに意見が一致したことに乾杯し、また一気に飲み干す。ボトルをテーブルに勢いよくおろし、互いに笑っていた。
その二人を遠巻きに見ていたリュート弾きの女性が急に立ち上がり、近づいて来た。面識のないその女性が、テーブルの前に黙って立つと、二人は不思議そうに彼女を見上げる。
「あなたたちのお名前は、なんと言うのですか?」
唐突に名を尋ねられる二人。シモーネは少し不機嫌そうな顔をする。
「あのね、お嬢さん。人の名を尋ねる前に、まずは自分の名を名乗るのが礼儀じゃないかしら?」
セルゲイも頷き、同意する。
「……失礼しました。私はシズ。ここ、フルト王国の出ではありません。東のタキという国から来た、旅の吟遊詩人です」
長い黒髪に、黒目。小柄で少し子供っぽい顔つきだが、とても整っている。服装もよく見れば、この辺りでは見かけない仕立てであり、確かにフルト王国の出ではないようだ。
「吟遊詩人……珍しいわね。はるばる流れて来たのかしら?」
「そんなところです。地元では退屈な日々を過ごしていたので…。あの、よろしければ私も皆さんと御一緒に飲みたいのですが、いいですか?」
突然現れた、異国の女。普段ならば、とっくに追っ払っている。しかし、シモーネは不思議と彼女に興味が湧いたらしい。セルゲイも、他の国の話を聞ける丁度良い機会に思えたので、シズに座るように促した。
「名前は、シズと言っていたな。俺はセルゲイだ。あんたと一緒で、俺も余所の国から流れてきたのさ。よろしくな」
「私はシモーネ。一応、この国の民だけど、出身は北方の国よ」
「はじめまして。様々な地域の出身の方と、こうしてお話が出来て嬉しいです」
三人は挨拶を終えると、一度乾杯をする。既に相当な量を飲んでいるセルゲイとシモーネだが、全く平気なのか、またもやグイッと一気に飲み干す。シズも一見は礼儀正しそうにしているが、中々の量の酒を喉に流し込んでいた。
「あなた、いい飲みっぷりね。気に入ったわ。ところで、なぜ急に私たちと飲む気になったの? 最初はあまり関心が無いように、奥でリュートを弾いていたじゃない」
ほろ酔いなのか、シモーネは少し頰が赤くなっていたが、ワインのボトルを更に追加で注文する。
「そうですね。実は、お二人のお話が少し耳に入りまして…ここでは献杯をされていましたよね? 先の惨事の話は知っていますが、仇である緑龍の弔いもされていました。そのお話に興味が湧いたのです」
「シズはその話を聞きたいのか? 変わったお嬢さんだな。普通は、あれだけの犠牲者を出した怪物を弔うなんて聞いたら、いい気分なんかしないだろう。なんでその話を聞きたいんだ?」
シズは何か言おうとして躊躇う。それから少し考え込むと、急に立ち上がって、奥のテーブルに置いてあったリュートを手に取る。
そして、おもむろに曲を弾き始めた。セルゲイとシモーネは黙って演奏に耳を傾ける。感情がこもり、勇ましさと切なさが織り成す刺繍のように、心を締めつける曲だ。しかし、違和感もある。
それからしばらくして、曲が終わる。セルゲイとシモーネは、自然と拍手をしていた。だが、同時に質問も投げかける。
「いい曲だ。それに、リュートの音色もいいな。でも、なんで歌が無いんだ?」
シズはリュートを隣のテーブルに置き、そのネックを優しく撫でる。
「…相応しい歌詞が、まだ思い浮かばないんです。この曲は感情の表裏が一体となっています。それを歌詞で伝えるには、私の中の物語が足りないのです」
「物語だって?」
「そうです、物語です。その物語には、勇者の英雄譚も、死を悼む嘆きも、なくてはならない。私の自己満足なのかもしれませんが……そうしたいのです。そこで、あなた方の話を聞いて、興味を持ったのですよ」
セルゲイは、シズの事を酔狂な女性だと思っていたが、シモーネは中々彼女のことを気に入ったらしい。
「ふふふ。私、物語が大好きなのよ。あなたが歌にする物語はどうなるかしらね?」
何か含みのある言い方だ。その言葉に対し、シズも妙に可愛らしい笑顔で応える。何か嫌な予感がするセルゲイ。
「その答えは、これからの道中で得られると思います。森に行くんですよね? 行きましょう」
やっぱり。シモーネはニヤニヤしているが、セルゲイは酔いが一気に覚めそうだ。
「シズよ……俺たちはあんたと会って、まだそんなに時間が経っていないはずだが、なんで一緒に行くことになってるんだ?!」
「旅は道連れ、ですよ。私は吟遊詩人。物語が私を待っているのです」
最初から唐突に物事を話す女だとは思っていたが、ここまでとは。自分が何を言っているのかわかっているのか? セルゲイは内心腹をたてるが、なんとか抑える。シズは世間知らずのお嬢様なのかもしれない。
「なあ…あんたは吟遊詩人で、リュートの演奏も見事だとは思うが、これから俺たちが行くところは化け物たちの狩り場だ。気づけば命を落としているかもしれない。大人しく、酒場で物語を集めているのが懸命だ」
常識的な意見だ。シズは屈強な戦士でも、魔法の達人でもない。彼女の音楽が聴けるのは素直に嬉しいが、あんなところに連れて行くのは無謀の極みだ。
しかし、シズは引き下がらない。
「ええ。でも、あなたたちの物語の結末を、誰が伝えるんですか? お二人が森に入って帰らなかったら、そこで終わりではないですか。だから、私がついて行くんですよ。大丈夫です、私、弓で援護できますから」
「おいおい、まだわからないのか!? 死ぬかもしれないんだぞ?! シモーネ! あんたも何か言ってやってくれ!」
セルゲイは声を張り上げてそう言うが、シモーネはニヤニヤとしている。面白がっているんだろうが、こんな無謀な話を聞くわけにはいかない。
「なぜ、そこまでこだわる? あんたが命をかける必要などないだろう? 酒場で大人しくしていれば……」
「吟遊詩人をなめないでください!!」
突然、シズが怒鳴った。セルゲイは呆然とし、固まる。
「危険なことくらい、百も承知です! 私が命を賭けても、それを得られる保証は無いこともわかっています! それでも、行かなければ絶対に得ることはない! 実感のこもらない話から、物語は形を成さないんです!」
凄い気迫だ。先ほどまでお嬢様だと思っていたセルゲイの考えは頭から消え去った。腕を組み、セルゲイの前で仁王立ちしているシズに、叱られている気分になる。というか、叱られていた。
「私は、私の行きたいところに行きます!! 強引について行こうとしていることは謝ります。でも、私の意思で決めて行くのです! 後悔はありません!!」
その一言を聞いて、セルゲイは一気に全てを理解した。そうなのだ、このシズという女性も同じだったのだ。己の行き先を自分で決められる、そういう人だったのだ。
その時、ずっとニヤニヤしながら沈黙していたシモーネがようやく口を開いた。
「決まりね! セルゲイの負け! いいじゃない、彼女がいれば、旅の道中でお酒が美味しくなるわよ?」
「お前さん…気楽にも程があるぞ?」
「苦難の多い旅ほど、気楽が一番よ。ただね……」
急にシモーネの表情が変わり、シズを睨む。空気が変わり、シズは蛇に睨まれた蛙の気持ちになる。
「セルゲイの言う通り、危険な場所よ。覚悟をしておきなさい。後で泣き言を言って、私たちの邪魔をしたら、私があなたを焼き尽くす。いいわね?」
背筋が凍るとは、こう言うことなのだろう。シモーネの目が語っている。これは脅しではない。これが、緑龍を倒した者たち……シズは息を呑み、頷く。声を発することは出来なかった。
シズの反応を見て、また急に空気が変わる。張り詰めた緊張感が嘘のように消えた。
「じゃあ、決まりね! よろしく、おシズちゃん!」
「よ、よろしくおねがいします、シモーネさん…」
いつの間にか呼び方が変わっている。セルゲイは深いため息をついて、諦めた。
(先が思いやられるなぁ…)
心でセルゲイが呟くが、この騒動は終わらなかった。
「あ、あの、実はもう一人、同行したそうな方がいるのですが……お話ししてもいいですか?」
恐る恐る尋ねるシズ。
「もう一人? 吟遊詩人仲間なら、もう結構だ。そこまで面倒を背負う気はない」
「いえ…吟遊詩人ではなくて…実は…」
シズが指を指し示す。その先は店のカウンターだ。しかし、客はいないはずだ。だが、誰か立っているのが見えた。薄暗がりで顔はよく見えないが、男のようだ。
「あの人…この店の主人です…」
「……はぁ?」
セルゲイとシモーネは、同時に声が出てしまった。目を凝らして男を見ると、そこには薄い髪にふさふさの髭を蓄えた小柄な老人が、こちらをジッと見つめながら腕を組んで立っていた。
「この店は……なんなんだよ?」
酒の酔いはすっかり覚め、セルゲイの長い受難は続く。