第1話 訪問者
第1話 訪問者
雨。
空は黒い雲が広がり、太陽も、青空も、覆い尽くされている。
雨が降り注ぐ深い森からは、土の匂い、水の匂い、草の匂い…あらゆる匂いが溶け込んだ香りが立つ。
それは、豊かな命の匂いでもあった。
その深い森の中に一筋、街道が走っている。そして、その道をポツンと一人、歩く人影がある。
ズシッ ズシッ ズシッ ズシッ
重い足音だ。雨でぬかるんだ土に、沈み込んだ足跡が残る。大きなブーツの跡だ。
風が吹き荒れ、雨が強さを増す。しかし、その人影は雨風を全く意に介さないで、そのまま進み続ける。
やがて姿が見えなくなり、重い足音が雨音に溶けて消えていく……
「あー、やっと雨が上がったぜ。長かったなー!」
村の男は朝日に向かって両手を伸ばし、喜びの声をあげる。
雲ひとつない青空。数日間続いた雨がようやく止み、太陽が燦々と大地を照らしていた。
この地方には"緑龍の森"と呼ばれる、広大な古い森がある。その森の東の境に、この小さな村はある。ハル村という名で知られるこの村は、"風吹き平野"にあるフルトという小王国の、西の果てにも位置していた。平野を含めて、フルト王国の土地そのものは広いのだが、国の人口は少なく、他の国に比べて国力は劣っていた。
しかしながら、他国はこのフルトという国を軽視などしていない。むしろ、畏敬の念さえ抱いていた。その理由としては、この国は現在知られている限りの、人間の暮らしている地域の最西端にある。つまり、人間の世界の境にある国なのだ。
そして、その先には緑龍の森がある。
緑龍の森からは、人間を脅かす怪物がやってくる。その種類は様々だが、ある時は異常に巨大な猪や熊などの獣。ある時は古代の魔法的な力で蘇り、近くにいる生き物に襲いかかる、動く死体や骸骨などの死の者たち。
そして…太古の昔から生き、人々に伝説として語られる緑龍も、この森には現れるという。
これだけの脅威に対峙しているこの国を、他国は尊敬すると同時に、壁として利用している。だが、フルトの人々にとって、怪物たちの脅威は天災と同じだ。天災には頻繁に訪れるものと、長い周期でやってくるもの、防ぐ事ができるものと、人が抗えないものがある。それがフルトの民の常識だった。だから、武力を用いて無謀に戦うことよりも、素早い避難などの対応の方に力を注いだ結果が、この小王国を護ってきたのだ。国民も、そのことを誇りにしていた。
言い伝えによれば、緑龍の森には昔、人間の国があったようだ。しかし、怪物たちとの長い戦いの果て、遥か昔に滅びている。それ以来、緑龍の森にある古の街道を歩く者は無く、森の先には何があるのか、知る者はいなかった。
それに、わざわざ知りたがる者もいなかった。
「おい、ハンス。そんなとこで遊んでないで、畑の見回りに行ってこい」
中年の男がやってきて、先ほど太陽に手を伸ばしていた、ハンスと呼ばれる男に声をかける。金髪に優男な雰囲気のハンスはクルッと振り向くと、とても気だるそうな顔をする。
「おいおい、オヤジさん、こんな晴れたいい天気の日は久しぶりなんすよ? 少しは羽を伸ばしてもいいじゃないすか?」
やる気のないハンスの言葉に、通称オヤジさんは顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
「能天気なこと言ってないで、畑に足を伸ばせ! この馬鹿もんが!! 怪物や獣どもが来やがったら、どうする!?」
「おっと、やばい」
ハンスは渋々返事をして、小走りで畑へ向かう。ハル村の畑は森に面しており、畑の先には緑龍の森の奥深くに向かう道があった。そこにある見張り台から森の入り口を警戒するのが、ハンスの役割だ。
ハンスは他の若い村人と交代で見回りをしている。村に危険が迫ってきた時には警鐘を打ち鳴らし、村人の避難を誘導するのだ。数日続いた雨が上がり、今日もいつも通り見回りに出発した。
「まったく…いい天気だってのに、なんで俺が見回りなんだよ…」
ハンスはブツブツと呟く。すると、前から若い娘が歩いてくるのが見えた。よく知っている顔だ。
「ハーイ! おはよう、ハンス! 今朝も見回りに行くの?」
「よう! リリアじゃないか! そうなんだよ…まったく、こんないい天気なのに、貧乏くじだぜ」
リリアはクスクスと笑う。彼女はこの村でハンスと共に育った幼馴染だ。リリアの家は馬の世話をしており、時折フルトの都、ゲランまで足を運ぶこともあった。
「もう、ハンスったら、我儘言わないの。そんなこと言ってたら、森から猪が突進してくるよ?」
「リリア〜。あの時のことは言わないでくれよ」
いつだったか、ハンスは見張りを怠けていた時、森から猪が突っ込んできて、見張り台を壊されたことがあった。幸い、ハンスはお尻をぶつけたぐらいで大事には至らなかったが、村長にこっ酷く怒られた挙句、見張り台の修理をやらされたのだ。
「ふふ、お尻にあざをつくりたくなかったら、頑張んなさいよ。それじゃね!」
長い茶髪を揺らして、ハンスの前から駆け抜けていくリリア。その後ろ姿を見送り、ハンスは再び歩き出す。
畑に到着し、見張り台に上がると、視界には緑龍の森がいっぱいに広がる。雨上がりのせいか、その深い緑色はさらに深く、見ているだけで吸い込まれそうだ。
「今日はまた一段と鮮やかな…。見ているぶんには、いい森なんだがなぁ…」
ハンスはまた呟く。緑龍の森は、確かに怪物の脅威に晒される、危険な森だ。だが、ハンスはこの森を嫌ってはいない。炎を吹く火山、氷に閉ざされた雪山、荒涼として荒れ果てた大地…人間が知る、この僅かな世界の中にも、苛酷な環境の土地は色々ある。だが、その危険な景色ほど、美しく見える時もある。緑龍の森も、そういうものなのだろう、と、ハンスは自分に心で語りかける。
そうしてぼーっと、ハンスは森を眺めていたが、不意に入り口の方に目線が向く。
何か、いる。
ハンスはギョッとした。森から伸びる古代の街道の上に、黒い影が見えたのだ。
正体を確認したかったが、まだ森の中でよく見えない。
「マジかよ…! どうする!? 鐘は鳴らしたほうがいいか?!」
ハンスはハンマーを手に持ち、鐘を叩く準備をする。だが、正体はなんなのか?
避難の猶予はあるだろうか? 様々な思考が頭を駆け巡り、ハンスは手を止める。
「まずは…何が来るのか確認しよう」
もしかしたら、大きい鹿かもしれない。ハンスは、甘い期待を寄せる。
恐る恐る、再び入り口を見ると……そこに立っていたのは、人だった。
「え?! 人が…いる? なんで!?」
そんなはずはない。この村からも、そして森からも、あの道を人が通ることはないのだから。ハンスは困惑する。正体を知ろうとして見たのに、正体がわからない人が現れたのだ。
混乱するハンスの脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。
動く、死体……
古代の魔法。その中には、現代に伝わっていない、禁忌とされたものがある。その最たるものが、死霊術。死者の魂を利用した魔術だ。
古い伝説によれば、この死霊術は緑龍の森にあった国が編み出し、死者の声を聞き、様々な助言を得るという目的を果たすために生み出された術らしいのだが、その試みは失敗に終わり、多くの犠牲が出たとある。
その名残なのか、緑龍の森にはその類の死体が歩き回っている。ハンスは目の前に見えている人も、その死体だと判断した。
決断したハンスは鐘を打ち鳴らす。畑にいた村人は顔色を変え、必死に走り出し、村に避難する。村の中でも、警鐘を聴いた人々が村からの避難準備を始め、自警団の男たちは時間稼ぎのために武器を手に取り、畑の方へ向かった。
しばらくすると、ハンスと自警団は森の入り口で謎の人に対峙する。その顔には恐れと緊張があった。
「いいか…奴が変な動きをしたら、無理はしなくていい。時間さえ稼げればいいんだ」
自警団の団長が団員に言う。そうだ、倒さなくてもいい。
この村には、日常から数々の襲撃があった。最初は犠牲が増え、村を捨てることも議論されたが、ある日、高名な魔法使いが都から訪れた。彼は森からくる怪物たちを見て、倒すことはできない、と言った。
だが、その魔法使いが足止め用の結界を発動できる護符を置いていってくれた。そして、結界を張ることで犠牲を劇的に減らすことができたのだ。
今回も、その結界を発動を考えた。だが、動く死体を一体相手するのに使うべきかは迷うところだ。
団長が悩んでいる、その時……
「お…おい! 奴が動き出したぞ!」
森の入り口から、一歩一歩、こちらに近づいてくる。すると、謎の人物は手を上げ、被っていたフードを脱ぐ。
壮年の男だった。その顔は生傷だらけで、髭も伸ばしっぱなしだ。村人はどよめくが、同時にある事に気付く。
そう、男は生きた人間だったのだ。
「生きてる…? ああ、あの男は生きてるぞ? どうなってんだ?」
ハンスは自分の目を疑う。生きた男が、森からやってきた? こんな事は初めてだ。一体、何者なんだ?
そこで、自警団の団長が会話を試みる事になった。近づいてくる男の前に立ちはだかり、声をかける。
「止まれ! ここはフルト王国領、ハル村…我々は村の自警団だ! 貴様、何者だ!?」
団長は剣先を男に向け、その歩みを止める。男は黙って立っているが、その威圧感は凄まじかった。
男の外見はいかにも戦士だ。大柄で屈強な体躯、鋼鉄の脛当てと手甲、丈夫な革を鋲で補強して作った鎧、背中には大きな荷物を背負い、手には使い込まれた鋼の片手斧と円形の盾を持っている。
しかし、外見の威圧感はともかく、随分と静かな佇まいだ。男はこちらの様子をゆっくりと見回している。団長はずっと剣を構えて返答を待っているが、男はまだ何も答えない。
「貴様…もう一度聞く! 何者だ!」
団長が堪らず、再度男に問う。男は団長に目線を向ける。その目つきは睨むような感じではないが、明らかに団長を値踏みするかのような、油断のならない目だった。
しばらく沈黙の時は続いたが、不意に男の背後、緑龍の森の入り口から何かが飛び出てきた。
「な!? あれは獣……! 猪だ! でかいぞ!」
団長が後ろの団員に叫ぶ。猪は一般的に知られる獣だが、この森の獣は体が大きく、油断できない。ハンスを含め、団員に緊張が走る。
だが、猪が真っ先に狙いを定めて向かったのは、目の前にいる例の男だった。男は猪の方を振り返るが、棒立ちしている。
「お、おい!? 貴様、その猪は普通の獣じゃない! 突っ立ってるとやられるぞ!」
団長がつい癖で、まだ正体もわからない男に警告する。男は黙って頷き、盾を構えた。
「あの男…迎え討つ気だ!」
幾ら何でも無茶だ! ハンスはそう思ったが、足が動かない。それどころか、妙な考えが脳裏に浮かぶ。
あの男は、猪に勝てるのか?
見てみたい。そんな衝動に駆られてしまう。周りを見ると、他の団員も同じ気持ちらしい。全員がその場に立ち尽くしている。
そうしている間にも、大きな猪は男に突進する。盾を構えていても、正面から受けるのは得策ではない。だが……
「お前…何を…」
団長は目の前で見た。男が盾を構えながら、逆に猪へ突進したのだ。
猪と男の距離が急速に縮まる。もう、横には避けられない。誰もが男の悲惨な結末を想像していた。しかし、その結末にはならなかった。
男は衝突の瞬間、盾で猪を弾くように殴り飛ばしたのだ。強烈な打撃で宙を舞う猪は、そのまま男の背後の地面に叩きつけられる。そして、動かなくなった。
男は、盾の一撃で猪を倒してしまった。
自警団は全員、開いた口が塞がらない。
団長も何か言いたげだったが、声にならぬ声を発し続けていた。
すると男は振り返り、団長の元に寄る。そして、一言だけ告げた。
「俺は……西からきた」
だが、男が発したその言葉は、誰も知らない言語だった。