序章
太陽系から惑星がひとつ消えたのは西暦二〇〇六年八月のことだった。
消えたと言っても、太陽に飲み込まれて蒸発したわけでも、巨大隕石がぶつかって砕け散ったわけでも、ましてや前触れなく現れたブラックホールに吸い込まれたわけでもない。
天文学を飯のタネにする業界団体・国際天文学連合=IAUが、自ら提唱する『惑星』の定義に当てはまらなくなった直径二,三二〇キロメートルの氷と岩の塊から『惑星』を称する栄誉をとりあげて『準惑星』へとカテゴリーを変更したという、ただそれだけの話だ。
この降格人事は、長い間あやふやのまま放置されていた『惑星』の定義を、IAUがいまさら正式に定めたことによる副次的なものではあったのだが、太陽系の惑星を九つから八つに減らしますよという寝耳に水な通達は関係各位に衝撃を与えた。
一部の天文学者や天体ファンらが声高に異議を唱え――。
数多の占星術師たちが、表面上は毅然としつつもどうしたものかと動揺し――。
常日頃、天文学の話題なんてとり上げようともしない一般メディア、その元惑星をキャラクターの名前に使用していたテーマパークの運営会社、果ては名を売る好機だと目敏く察した政治家までもが、なんだかんだと騒ぎたてた経緯も顛末も、本人にとってはどうでもいい話で――。
太陽から凡そ六〇億キロメートル離れた宇宙空間に、かつて太陽系第九惑星『冥王星』と人類が勝手に呼んでいた天体は、今日も変わらず素知らぬ顔でぽかんと浮かんでいるのだった。
そんな冥王星の傾いた軌道の上を高速で横切る何かがあった。
彗星や塵の類ではない。
米国禁酒法時代に活躍したギャングが嗜みそうな葉巻のような形をしたそれは、しかし全長五〇メートルを超え、人が咥えるにはあまりにも大きい。
ダークレッドに塗装された重金属の横腹に、地球上で使用されている二十数種類の文字のどれとも異なる奇妙な紋様がペイントされたその巨大葉巻は、繋ぎ目のない滑らかな装甲を激しく振動させながら、捕食者から逃げる魚のように冥王星の軌道の内側へと一目散に飛び込んでいく。
それは追われていた。
そしてそれを追いかけているのは。
少女だった。
あどけない顔立ちをして、ちんまりとした小さな体を申しわけ程度の面積の布切れで覆い、足首まで届く長い銀髪をプラズマのように閃かせて、秒速三〇万キロメートルで高速移動する少女だったのだ。
生命維持装置なしで放り出されたら体中の水分が瞬時に蒸発するか凍りつくはずの宇宙空間を、肌も露わな少女が銀矢のように貫いて飛ぶ。
「――!」
か細い腕をぶんぶんと振り回し、小さな口を全開にしてわーわー叫ぶ。
その声が聞こえているのかいないのか、巨大葉巻の底部で光る《対消滅機関》の噴出口はその出力を弱めようとしない。
極大と極小。
無機物と有機物。
逃げる者と追いかける者。
どこまでも対照的なふたつの物体を、太陽光がギラリと照らす。
網膜を突き刺す鋭い眩しさに、思わず顔をそむけた少女は。
「――」
息を飲んだ。
青
眼下に広がる鮮やかな青。
ときに底が透けるほど淡く、ときに深淵を塗りつぶしてしまうくらいに濃い、渇いた闇のただなかに忽然と現れたそれは、惑星の表層が湛える大洋だった。
色彩の乏しい宇宙空間にぽつりと浮かんだ場違いなくらい美しい青に、少女の視線と意識が吸い込まれる。
そして。
それが命取りになった。
前方を飛んでいた巨大葉巻が、なんの予備動作もなくいきなりピタッと停止したのだ。
気付いたときには手遅れだった。
特殊相対性理論が許す上限速度で巨大葉巻の装甲板に衝突した少女は意識を失い、その青い海を持つ惑星――、その星の住人たちが『地球』と呼称する岩石惑星の引力に導かれて、ゆっくりと自由落下を開始した。