5,逃避
「魔法を使うのか?」
「もちろんだが。 それがどうかしたか?」
今少し逃げ出したくなった。まさかこんな羽目になるとは。
「ちょ、ちょっと待て。 そんなこと言ってたか?」
「いいや、言っていない。 言う必要があったのか?」
「はぁ? あるに決まってんだろ! なんで言わなくてもいいと思った? 普通に考えて、魔法を使う奴なんぞ、危なくて近寄れんだろうが!」
「君は魔法に関してだいぶ誤解があるようだがな。 まぁ、それはいい。 何故言わなかったか、と君は聞いたな。 それは君が手っ取り早く、と言ったからだ。 だから私は要件を最低限言ったまでのこと。 どうだ、満足か」
確かに言った。揚げ足を取られたのか。
つまり、魔法の話を出せば俺に確実に断られると分かっていたために、俺の言葉尻を捕らえて、巧妙に言葉を発さなくて良いようにしたという訳だ。
クッソ、この女かなり性格悪いな!
女は確かに笑いを堪えていた。手玉に取ってやったという顔だ。
「さて、準備は出来たか?」
女に問われ、慌ててナイフを鞄にしまう。
何故だか分からないが、俺はこの女に従っている。
それは相手が魔法を使うということを知ったからだろう。
その「魔法」というたった二文字の言葉は、俺の脳内の選択肢を全て「完全服従」に染め上げるのには、十分過ぎたようだった。
もう何も考えない。あれだ、所謂保身本能による思考停止ってやつだ。
「よし、いいな。 君もこちらへ上がってくれ」
「ベッドの上にか?」
「ああ、そうだ。 さぁ、始めるぞ」
そういうと、女は杖をベッドに向かって振り下ろした。
一陣の風が吹き抜ける。
女の茶色い髪は、風にたなびき、さらさらと流れゆく。
そして、その瞳は、さらに深い深い何かを湛えているような漆黒だった。
譬えるなら、底の見えない落とし穴のようで、光の届かない海の底のようで。
はたまた、暗く広い星の広がる宵の空のようであり。
俺は、まさに虜になっていた。心が吸われてしまったようだった。
そして気づいた時には、女の足元には昨日の昼間にみたような紋章が広がっていた。
本当に魔法を使うのか、とやっと実感が湧いてくる。
同時に、冷静を保っている部分の脳が危険を察知し、俺を一歩後ずさらせる。
女が突然口を開いた。
「これが魔法陣だ。 今から呪文を詠唱する。 これは非常に重要なのだ。 しっかり聞いていてくれよ?」
「お、おう……」
俺は一応の返事をする。
すると、彼女は目を瞑り、何かを唱え始める。
「我が魔力の枠を超え、その力を与え給え。礎ノ術、第2段、『積術』」
その瞬間、魔法陣がまばゆい光を溢れんばかりに放ち始めた。
「準備は整った。 君、もっと近くヘ寄ってくれ」
「魔法陣の中に入ることになるぞ? いいのか?」
「構わない。 むしろそうしてくれ。 そうでないと、この呪文を使った意味がないのだからな」
そう言って、女は一枚の紙切れを、俺に寄越した。
紙には、なかなか読みやすい字で、何だか難しい言い回しが書かれている。
これは、もしや。
「呪文か?」
「ああ、そうだ。 それを読み上げれば、魔法が使える。」
さらに、こう付け加えた。
「君でもな」
真剣な表情の女を見て、やっと言いたいことが分かった。
「つまり……俺に魔法を使え、ってことだな?」
「大当たり」
言ってくれるじゃねぇか。こいつは何を勘違いしているんだ。
「俺はなぁ、つい最近故郷から出てきた田舎者だぞ。 魔法だって、昨日初めて見た。
そんな俺に使えるわけがねぇだろう? 悪いが流石にその願いは見当違いだ」
女は首を振る。
「いいから、読み上げろ。 荷物も魔法陣の中へ入れろ。 集中して、全神経をその紙に集めるのだ。 分かってると思うが、一度噛んだら、全てが初めからだ。 あくまで慎重に、だぞ」
俺は混乱していたが、きっと断ることはできないと悟っていた。
女と目があった。女が口を開く。
「大丈夫だ、君ならできる。」
何を根拠に言っているかは分からないが、どこか説得力があった。
俺は意を決し、詠唱を始めた。
「我の属する、印よ、歪の力を以て、空間を飛べ」
ゆっくりと、慎重に、集中して。
「天ノ術、第13段、『飛空動』」
次の瞬間、体が、浮いた。
1章ラストです。ついに逃げる時が来ました。
まさかの魔法を使っちゃうというね、、、