4,宿屋
俺は今、非常に幸せだ。
寝床にありつくことがこれ程までに幸せだと感じたことが今までにあっただろうか。
「ふうぅ……」
ベッドに腰かけると、自然とため息が漏れる。ああ、疲れた。
結局、俺は宿屋を8つも訪ねることになった。
やはり俺は、王都を甘く見ていた。
町の中心部の宿屋では、最も下級の部屋でも金貨3枚は下らない。
はずれのほうへ出ても、普通は金貨2枚、安くて銀貨16、7枚といった模様。
マジで物価高すぎだろ。ぼったくりだ。
そんなことを言ったところで、物価が安くなるわけではないが。
途中で厩にでも泊まろうかと思ったが、仮にも俺は人間だ。流石に馬の隣はちょっと……というわけである。
最終的には、銀貨15枚の宿屋を見つけ、渋る店主を押し切って、2枚分値引いてもらったのだ。ありがとうよ店主。
確かに最安とあって、外装は今にも崩れそうだ。出来れば湯でも浴びたいところだが、そんなものはもちろんない。食事も出ない。
でも大丈夫だろう。
盛大に腹が鳴ること以外は、何ら問題ない。
ベッドに仰向けに寝転がりながら、残りの干し肉を炙りもせずに、喰らう。
行儀が悪い? 許せ。どうせ碌な飯じゃないんだ。
今日の粗末な晩飯を済ませた俺には特にすることもない。
思えば、ちゃんとしたベッドで寝るのは久しぶりだ。旅に出てからは、ずっと野宿だった。
ああ、明日からは真面目に働かなくてはいけないのか。少しだけ気が滅入る。
そんなことを思うか思わないかのうちに、俺の意識は遠のいていった。
コンコン、と扉をノックする音がする。
「誰だよ、こんな夜中に……」
俺の安眠を邪魔したやつに、行き場のない憤りを覚える。
俺は眠いんだ。邪魔しないでいただきたい。
そう思いながらも、俺はランタンを手に取り、扉へと歩を進めた。
眠い目を擦りながら、扉の取っ手に手を掛け、半開きにして、隙間を作る。
もしかしたら、盗賊ってことも有り得る。完全に扉を開けて、その瞬間にグサリ、なんてのは御免だ。
外を覗くと、そこから見えたのは女の顔だった。
「これは……」
つい声が出て、慌てて俺は口を掌で押さえる。
でも、これは仕方がないと思ってもらいたい。
何故か?
それは、目の前の女の顔が、余りにも美しかったからだ。
いうなれば、目が腐りそうなほどの美女。
美しい茶色の長髪、揃った顔立ち、澄んだ純白の肌、垣間見える整った胸。
そして何より、その吸い込まれてしまいそうな瞳。
俺の下半身の欲望を全て持って行かれそうな程の美貌である。
もうこれは直視できない域に達していた。
眠気など何処かへ吹き飛んでしまったようだ。
だが、驚くのはまだ早い。
余りにいきなり、女の口から驚愕の台詞が飛び出した。
「夜遅くにすまないな。 唐突だが、私を助けてはくれないか?」
「はぁ?」
やべ、つい声が出た。二度目だぞ、おい。
「だから、助けてくれないか、と私は言ったのだ」
いや、それは分かっている。その意味が分からないと言っているんだ。
「とりあえず、手っ取り早く事情を説明してくれ。 納得したら、考える。 手っ取り早く、だぞ」
「中に入れてはくれないのか?」
「俺は疑い深い人間だからな。 信頼できない人物を部屋に入れるなどという不用心なことはしない」
こいつが俺を獲物として見ていない確証はない。
女の盗賊だっているのが、この世の中。全く、世も末だ。
「ならば、ここで説明しよう。 私は或る男たちに追われている。 その男たちを撒かなくてはならない。 その手伝いをして欲しいのだ」
女は急ぎ足で捲し立てる。
「ちなみに、君が力を貸してくれるなら、我々が捕まる確率はほぼ皆無と言っていい。 確実に男たちを撒ける方法があるのだ。 但し、それは私一人では実行できない」
一人でやりゃあいいじゃねぇか、俺の思考を完全に見切った答え。
なかなかやるな、こいつ。
しかし、いくら本人が危険はないといっても、説得力がないってもんだ。
俺は、警戒心を解かないまま、こう答える。
「断らせてもらう。 巻き添えを食らうのは嫌なんでな」
「ならば、仕方ないとしよう」
もう少し粘るかと思ったが、意外とあっさりとした諦めだ。こちらとしては、なんだか複雑な心境になる。暫くの間、この女を見ていたかった。
その姿を目に焼き付けておこうと思ったのだが。
後ろで、硬貨が地面に落ちる音がした。思わず、振り返ってしまう。
警戒を怠り、金を優先した。男として、旅人として、あるまじき行為だ。
見ると、床に落ちていたのは3枚の金貨だった。
彼女は、クックッと不敵な笑みを浮かべると、立ちすくむ俺を無視して、こう言った。
「予想通り、相当困っているようだ。 それは夜中に君を叩き起こした迷惑料だと思ってもらって構わない。 ただ、君が手伝ってくれるなら、それの十倍の額を支払おう」
「本当か?」
あっ、クソッ、しまった。つい訊いちまった。
「ああ、本当だとも」
と彼女はいい、ニヤッと口角を持ち上げ、手に持っていたジャラジャラと音のする袋を掲げた。
諦めるつもりなんて微塵もなかったってことかよ。
つくづく嫌な女じゃないか。こっちの「金欠」という状況を知っていたということだ。
しかし、今の俺にとってみれば、金ほど魅力的なものはない。
考えれば、こんな華奢な女が俺に危害を加えられるはずがない。もし襲われたら、その時は襲い返せばいい。それはそれで楽しそうだ。脳内に邪かつ下らない妄想が広がる。
確かにこんなに金を持っている女が怪しくないとは言わない。追手もいる。正気な人間なら、断るのが筋だ。
だが、俺は男だ。困っている女がいたら、颯爽と助けてやる。それがあるべき姿ではないか。
だんだんと、この女を助けてやらなくては、という気になってくる。
それに、俺は人である以前に一匹の男という餓狼だ。どうやっても腹は背に変えられない。
ああ、俺の思考回路が、明らかに都合のいい方に暴走していく。
もしかしたら、罠かも知れない。騙されているのかも知れない。
そのことを自覚しながらも、俺は色欲と金銭欲のダブルパンチには勝てなかった。
俺は一つ舌打ちをすると扉を開けて、女を部屋に招き入れる。
女はうむうむといった風に頷き、してやったりの表情を浮かべる。
気を取り直した俺は、改めて、満月の光に照らされた女の顔を覗く。
やはり、こうして見ても、美しいという以外に表現が見つからない。
その唇は溶けるように滑らかだし、髪は艶やかで色気さえ感じさせる。
特記すべきその瞳は、まさに『妖艶』という言葉がふさわしい。
ああ、本当にぼんやりしていたら、俺が何をしでかすか分からない。
気が付いたら襲いかかってました、なんてことになったら、旅はおろか、故郷にすら帰れない。
監獄入り確定である。それは流石に悲しすぎる。
何としても理性で本能を押さえつけなくては。
そんなこと他愛もないことを考えていると、唐突に女が口を開いた。
「宿屋にもう金は払ってあるな?」
なぜそんなことを聞くのか、不思議に思いながらも、俺は「ああ」と返事をする。
すると女は立て続けに言った。
「今すぐ荷物をまとめてくれ。 5分でできるな? すぐに取りかかって欲しいのだが……」
「何だって、そんなことをするんだ?」
堪え切れずに問うが、女はあとで分かるとしか言わない。
少し不安になったが、男に二言は無い。今更止めるわけにはいかない。
俺は無言で荷物をまとめ始める。そんなに多くの物を持ってきていないのだから、すぐに終わるだろう。
作業はみるみる内に進み、俺は、ナイフを鞄にしまうという最終作業に取り掛かっていた。窓枠の上に置いていたナイフを手に取り、鞄の場所まで戻ろうとした。
その刹那だった。
俺はついナイフを落とした。
またあの感覚に襲われたからだ。あのぞわっとした感覚。しかも、今までで一番強い。
俺は身の危険を感じ、ものすごい速度で首を後ろに捻った。
俺の視界には、ベッドの上に立つ女。俺に危害を加える様子は無い。いや、無さそうと訂正しておく。
しかし、女の手には杖が握られていた。それも、いかにも魔法を使う時のものといった風であった。
もしかして、もしかしてだが……
遅れてすいません。
ついにヒロイン登場です。
レイ曰く、目が腐りそうなほどの美女だそう。
そこは皆様の妄想で補って頂けると幸いでございまする。