婚約破棄された挙句、豚宰相にストーカーされて大変です!
マトモなイケメンなど必要ない。
軽くお菓子を摘まむつもりでお召し上がりください。
カテリーナ・グラッソ公爵令嬢は、耳を疑った。
今、なんて?
「だから、何度も言わせないでくれ。私は君とは結婚しない。婚約破棄させてもらう」
カテリーナの婚約者――第三王子エルンストは、さも当たり前のことのように、サラリと言い放った。それはもう、自然の摂理だと言わんばかりに、流れるような言葉だったので、カテリーナは三度も聞き返してしまった。
「エルンスト様? ど、どうして、いきなりそのようなことを……」
「それは、君には関係のないことだよ。私の事情だ。強いて言うなら、男の野望かな」
理由を尋ねても、こんな答えしか返ってこない。
もしかして、他に想い人が?
カテリーナの頭に、一人の少女が思い浮かんだ。
最近、エルンストの周囲をうろつく娘。庶民の出でありながら、将来有望で見目麗しい殿方たちを、次々と虜にしていく魅惑の娘だ。
まさか、エルンストも彼女の毒牙にかかってしまったのだろうか。あの儚げで繊細な容姿と、明るい性格に騙されたというのだろうか。
社交界の薔薇と謳われ、誰からも一目置かれる令嬢カテリーナを差し置いて、あんな娘に……カテリーナは悔しくなって、ドレスの裾をギュッと握り締めた。
そんなカテリーナなどには目もくれず、エルンストは身の丈ほどの大剣を軽々と背負って歩き出した。エルンストの背中は歴戦の勇士のように逞しくて凛々しい。風になびく青いマントが、別れを告げてパタリと音を立てる。
「どうしてですか……こんな……こんな……!」
カテリーナは感情の行き場を失ってしまう。ただ、その場に崩れて涙を呑みこむので精一杯だ。
だが、すぐに違和感を覚える。
誰かに、見られている気がする?
何者かの視線を感じて、カテリーナは背筋に悪寒が走った。ゾワリとして、身の毛がよだつ。ねっとりとした、気持ちの悪い視線を感じる!
勘は良くないし、魔法も得意ではない。そんなカテリーナですら、危険を察するほどである。
恐る恐る周囲を見回す。
誰もいない――いや、案外、わかりやすい位置に「ソレ」はいた。
エルンストが去っていった回廊とは逆側。柱の陰からはみ出る人物、いや、生物があった。
あれは「生物」と呼んで間違いないだろう。カテリーナは目を逸らして無視しようとしたが、あろうことか、その「生物」はこちらへ歩み寄ってくるではないか!
「ご令嬢」
のっそのっそ。そんな効果音が相応しい足取りで前に歩み出たのは、まさに、豚!
でっぷりとしたお腹をベルトの上に乗せて、ゆっさゆっさと歩くまん丸の容姿。一歩踏み出すたびに、肉がはみ出しそうな勢いで揺れている。
クルンと巻いた癖のある前髪や、上気して桃色に染まった頬はチャーミングと言えなくもないが……どう考えても、豚にしか見えない男だった。本当に豚にしか見えない。豚だ、豚。どんなに高価な服を着て、立派な肩書を持っていても、豚は豚である。
彼の名はヴィットリオ・ギルランダ公爵だ。まだ歳は三十手前のはずだが、太っているせいか、年齢不詳に見える。
通称、「豚宰相」であった。
皆、本人の前では口にしないが、陰ではそう呼んでいる。
その豚宰相が、カテリーナになんの用だろう。
「な、なにか……?」
問うと、豚宰相はその場で立ち止まり、身体を左右に揺する動作をした。
もしかして、これは「もじもじ」しているのだろうか。心なしか、足元は内股であった。
「ご令嬢……カテリーナ嬢……!」
声が震えているのは、緊張しているからか。それとも、声帯に無駄な肉がついているからか。
「これを」
そっと差し出されたのは、白いハンカチであった。
絹で織られた、なんの変哲もないハンカチだ。色が少しばかり黄ばんでおり、古いものだとわかった。
何故、ハンカチ? カテリーナは戸惑いながらも、つい流れで受け取ってしまう。
途端、豚宰相の顔がパァッと明るくなる。
顔の面積に対してだいぶ小さい灰色の目を細めて、にっこりと笑った。顔がホカホカと赤くなり、とても幸せそうだ。
「もう心配しなくても良い。カテリーナ嬢の運命は、この僕が変えてみせる!」
「え? は、はあ……?」
よくわからないことを言われて、カテリーナは首を傾げた。だが、豚宰相は気にしていないようだ。勝手に言い放って、踵を返して立ち去ってしまった。
立ち去る姿は、まさに跳ねる肉達磨。「ぶぉっぶぉっぶぉっ!」と、変な息をあげながら去っていく豚宰相の背を、カテリーナはただ呆然と見つめたのだった。
思えば、これがストーカーのはじまりでした。
「だから、付き纏わないでくださいませっ!」
「つ、付き纏ってなど……! 僕はカテリーナ嬢を守るために、今日この場にいる必要があるのだっ!」
「はあ!?」
そんな遣り取りをして、カテリーナは早足で馬車を降りた。
令嬢たちが集まる茶会に出向いたカテリーナを待ち伏せていたのは、豚宰相。
振り切るために、カテリーナはヒールの高い靴で出来るだけ早く歩いた。運動は得意ではない。それでも、肉達磨の追跡を振り切るのは充分だった。
「ぶぅぉお……ま、まっておくれ、カテリーナ嬢!」
「嫌ですわ! ごきげんよう、もう二度と現れないでください!」
最初は身分ある人物が相手なので、それなりに敬意を払って接していた。
しかし、このように付き纏われて、もう一ヶ月になる。いい加減、うんざりしてぞんざいに扱ってみるが、豚宰相は諦めなかった。むしろ、日に日に悪化している。
「く、くそぅ! ぶぅうおおお! 【エアロ】!」
気合いの入った声が、すぐそこまで近づいてくる。嫌な予感がして振り返ると、豚宰相の顔がすぐ傍まで迫っていた。
「ひぃっ!」
「ぶぉっはっはっ! こうすればラクチンなのだ! 飛べない豚は、ただの豚であるからな!」
お得意の魔法で身体を浮かせて、豚宰相は悠々とカテリーナの隣へと移動する。ふわふわと宙に浮かぶ姿は、まさに豚風船だ。
ギルランダ公爵家は魔法の名門。特に彼の場合は、周囲から天才と謳われるほど魔法に秀でた逸材らしい。政治手腕もあるようで、まだ二十代だと言うのに、宰相の地位に上り詰めていた。
肩書だけを見ると、超エリートだ。
しかし、見た目は豚そのもの。
顔の面積に対して小さく見える目も、潰れているように思われる鼻も、白豚感を増長させている白い肌も、痩せれば幾分マシになりそうなものなのに。いや、痩せた姿が想像出来ないので、やはり豚かもしれないが。
魔法を使うと体力の消耗が激しい。だが、豚宰相の場合は並み以上の魔力量があるらしく、尽きる様子がなかった。こうして魔法に頼って運動することを避け、空腹に任せて食べまくった結果、こんなに太ってしまったのだと、カテリーナは推測する。
「とにかく、カテリーナ嬢。僕が君を守るから、安心したまえ!」
「だから、わけがわかりませんわ。ただのお茶会ですのに。守って頂く必要など、ございません!」
「ぶぉぅ! わかっとらん。良いか、君の破滅エンドを回避するには、このお茶会でのフラグを折らなければ――」
「豚語は豚小屋でお話しくださいませ!」
わけがわからない単語を並べて捲し立てる豚宰相の腹を、思いっきり両手で押してやる。すると、豚宰相の身体は風船のようにふわふわと浮いたまま、窓の外へと流されていってしまった。
ただ浮くだけの風魔法だ。制御を失った豚宰相、いや、豚風船は「ぶぅぅああああ!」と叫びながら、そのまま空へと浮かんでいってしまった。出来れば、そのまま上空で爆ぜて欲しい。
「さて」
カテリーナは一息ついて、ドレスに仕込んでいた小瓶を取り出す。
魔法薬の入った小瓶である。これを飲めば、永遠の眠りに苛まれる毒薬だ。心臓は動いているが、眠ったように、一生目が覚めなくなってしまう。
「これを、あの娘に……!」
カテリーナから婚約者を奪った娘が憎い。ギリリと奥歯を噛んで、その娘の名を呟く。
「シモーナ伯爵令嬢シルヴィア!」
庶民出身の伯爵令嬢を陥れてやる。
これを飲ませて、エルンストを取り返すのだ。
カテリーナは決意を固めて、茶会の会場となっている中庭への道のりを進んでいく。
華やかなドレスに身を包んだ令嬢たちが、淑やかな笑みを浮かべている。彼女たちは蝶のように茶会の席に群がり、お喋りに興じていた。
エルンストから婚約破棄される前のカテリーナは、このような茶会の席では常に主役であった。しかし、今は……婚約者に捨てられた哀れな令嬢に向けられる視線が突き刺さる。
今のカテリーナは、以前のように「王族の婚約者」ではない。自分が築いたと思っていた地位は、単に権力を笠に着ていただけであると思い知らされて、歯痒かった。
自分がどれだけ苦労してきたか。
第三王子の妻に相応しい女性になるために、どんな思いをしてきたか――。
「あ、カテリーナさん! 来てくださったのね、よかった!」
腹立たしいほど明るい声で駆け寄ってきた令嬢を、カテリーナは一瞬だけ睨んでしまう。だが、すぐに愛想笑いを浮かべた。
「あら、シルヴィア嬢。お招き頂きまして、光栄ですわ」
カテリーナはドレスを摘まんで、丁寧にお辞儀した。一ヶ月前までは、絶対に頭を垂れなかった相手に対して。
この茶会を主催したのは、シルヴィアだった。
王宮で有力視されている数々の美男を手玉に取る魔性の女。以前は庶民出身の伯爵家の養女ということで全く注目されていなかったが、今では後ろ盾の大きさから、社交界で話題の人物となっている。
これでは、立場が逆だ。
カテリーナは奥歯をギリリと噛みながら、笑顔を装った。そして、台車に乗せてあるティーセットへと手を伸ばす。
「カテリーナさんがお茶を淹れる必要なんて、ありませんよ!」
「いいえ、シルヴィアさん。わたくし、紅茶を淹れるのが得意なんですのよ。どうぞ、わたくしが淹れて差し上げますから、飲んでくださらない? ……わたくしが淹れたものが飲めないのでしたら、仕方ありませんが……」
「いやいや、そんなことありませんよ! カテリーナさんが紅茶を淹れてくれるなんて、とっても楽しみです。嬉しい!」
シルヴィアは日なたのような満面の笑みを浮かべている。毒気を抜かれる笑顔に、カテリーナは一瞬、良心の呵責に捕らわれそうになってしまった。が、すぐにこの女がなにをしたのか思い出す。
わたくしの全てを返して!
手順通りに紅茶を淹れながら、カテリーナは用意していた魔法薬を手にする。これを飲ませれば、この女はいなくなる。
こいつさえ……この女さえいなくなれば、きっと、エルンストはカテリーナの元へ戻って来てくれる……!
そう信じて、カテリーナは魔法薬を紅茶に垂らし――、
「ぶぅぉぉお! 必殺、フライングプレス!」
声と共に、上空から物凄い速度でなにかが落下する。
嫌な予感がした次の刹那、どこからか降ってきた豚宰相が、カテリーナの淹れていたティーセットの上に墜落した。
上等な茶葉も、ティーカップも、ティーサーバーも……全てが木端微塵である。
丸い身体でティーセットを粉砕する様は、フライングプレスというよりは、豚プレス。豚宰相はでっぷりとした腹をさすりながら、「ぶぉ……流石に少し痛かった」と言っていた。
「今ので死んでくだされば良かったのに。この豚!」
「ぶぉっ!? 今、ダイレクトに豚と言ったか!?」
「ええ、言いましたわ。豚に豚と言って、なにが悪いのです! どこまで、わたくしの邪魔をする気ですか、豚!」
「邪魔とは失礼であるぞ! 何度も言うが、僕はカテリーナ嬢の破滅フラグを叩き折っているのだ! 感謝される理由はあっても、罵られる言われはないぞ!」
「はあ!? またわけのわからないことを……」
フラグとか、破滅とか、意味がわからない。なんの話だ。
ただ邪魔をされているとしか思えない。一発蹴りでも入れてやらなければ、気が済まなかった。相手は宰相であり、権力者だが、それがなんだ。今更だ。
「ちょっと、そこの豚!」
だが、カテリーナの他に宰相を豚呼ばわりする者がいた。物凄い殺気のようなものを感じて、ゆっくりと振り返ってみる。
先ほどまで、満面の笑みで座っていたシルヴィアが鬼の形相で立ち上がっていた。
当然だ。自分が主催した茶会を、豚によって台無しにされたのだ。カテリーナでも、怒ったかもしれない。
されど、彼女が発した言葉は、カテリーナの想像していないものだった。
「この豚! 今、良いところだったのに、なんてことしてくれるのよ! シナリオの邪魔したいわけ!?」
シナリオ? なんの話だ。
カテリーナは早々についていけなくなっていた。けれども、シルヴィアは構わず、地面に転がる豚の胸倉を掴んだ。
「ぶぅぉ。そっちこそ、わざとカテリーナ嬢の毒を飲んで、エルンスト殿下ルートを終わらせようなどと、小賢しい真似を!」
「いいじゃない。シナリオ通りなんだから! ヒロインがシナリオ通りに動いちゃいけない理由があるわけ!?」
「僕のカテリーナ嬢を陥れるシナリオなんて、クソ喰らえである!」
「うるさいわよ! だいたい、アンタ本当はイケメン宰相キャラのはずなのに、なんでこんなにダラしなく太ったわけ? アンタが太ったって知って、泣く泣く全キャラコンプリートを諦めたのよ。わたしの逆ハー無双返せ! このデブ!」
「うるさいのだー! そこには触れるでない! 転生して、チート級の魔力を授かったものだから、つい楽な方へと使ってしまって……」
「クズね」
「こんな口汚いヒロインに攻略されるくらいなら、太って正解だったぞ」
目の前で繰り広げられる会話についていけない。カテリーナは呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「邪魔者は始末よ! 出でよ、【ゲイボルグ】!」
そう言い放って、シルヴィアは右手に白い魔法石を掲げた。魔法石を使えば、上位の魔法を素早く発生させることが出来る。便利なようだが、魔力の消費が激しいため、誰でも使えるものではない。
一瞬にして辺りが眩い光に包まれる。魔法石によって生成された光が槍のような形に凝縮されていった。
シルヴィアは光槍を掴むと、躊躇なく豚宰相に突きつける。
「ぶぅふぉ! 甘いわ、【フリーズウォール】!」
槍は弾かれた。
一瞬にして現れたのは分厚い氷の壁である。豚宰相もまた、魔法石を使用して氷を産み出したようだ。
「【フリーズブレス】!」
空気中の水分が一瞬で凍りつき、細かい刃となって浮遊する。
無数の氷は豚宰相の合図で、シルヴィア目掛けて飛来した。けれども、シルヴィアは光槍をぐるりと振り回して、氷刃を難なく退けてしまう。
対魔物向けに開発された攻撃魔法を人間相手に撃ち合う状況など、見たことがない。茶会に参加していた令嬢たちは悲鳴をあげて退散している。
カテリーナは目の前の光景に震え上がって、一歩も動けずにいた。意味がわからないし、理解を越えている。
「だいたい、なんでアンタ、悪役令嬢の味方なのよ! おかしいでしょ。ヒロインは、わたしよ!? 攻略対象のくせに。攻略しないけど!」
「ええい、黙れ! 僕はカテリーナ嬢が好きなのだ!」
凍らせた地面の上をお腹で滑って、豚宰相はシルヴィアとの距離を一気に詰める。だいぶ息があがっているが、体力的な問題だろう。これだけの魔法を使っても、彼の魔力は少しも枯渇していないらしい。
シルヴィアの方も余裕があり、光の壁で豚宰相の突進を防いだ。
「【フリーズブレイド】! 【ウィンド】!」
豚宰相が叫びながら、氷の双剣を作りだす。
運動能力は低いが、魔法で全てをカバーする戦い方だ。豚宰相は双剣を持ったままクルクルと回りながら、地面に敷いた氷の上を滑る。速度が出ているのは、同時にかけた風魔法のお陰か。
「きゃっ!」
シルヴィアの握っていた光槍が易々と両断されてしまう。
武器を失って、シルヴィアが体勢を崩した。
「僕に……こんな僕に手を差し伸べてくれるのは、カテリーナ嬢だけなのだぁっぁあああ!」
手を差し伸べる? そんな覚えはない。勝手に過去をねつ造しないで頂きたい。
そんなことを考えているうちに、豚宰相がシルヴィアを追い詰める。勝負はつきそうだ。豚宰相が最後の呪文を口にしようと、蒼い魔法石を掲げた。
「貴様ら、そこまでだ。【ファイアボール】!」
力強い声が響いた刹那、紅いものがカテリーナの視界を横切る。
丸い玉のような形を成した炎が豚宰相とシルヴィアの間に割って入るように飛来した。
「ぶ、ぶぉっふぉ!? あ、あづ! ぴぎぃぃい熱い!」
シルヴィアに手を伸ばしかけていた豚宰相の腕に炎が纏わりつく。
火傷を負った豚宰相は自分の魔法で腕を冷やしながら、シルヴィアとの距離をとった。そのまま、焼き豚になればよかったのに。
「見苦しい真似を……」
振り返ると、そこに立っていたのは身の丈ほどもある大剣を背負った青年――エルンスト王子だった。彼は掲げていた紅い魔法石をおろして、燃え盛る炎の魔法を消した。
「エ、エルンスト様……!」
シルヴィアが驚きの声をあげている。
彼女はエルンストに媚びを売る気なのか、急いで自分が使っていた白い魔法石を隠す。既に遅いと思うが。
「なにを勘違いしているのか、わからないが……シルヴィア。シナリオ通りに動いたところで、私が君に攻略されることはないと、言ったはずだぞ」
シナリオ……攻略……エルンストまで、カテリーナが知らない言葉を口にしていた。
けれども、全く状況が呑み込めていないカテリーナを放置して、話は進む。
「そんな……でも、わたしが毒を飲んだら、きっと奇跡のキスイベントで目覚めさせてくれると思って……」
「甘い。私が君を評価するのは、パーティ仲間としてだ。転生者としての類まれな魔法の才能は欲しいが、君に欲情することは決してない」
「そんなこと言わないでよ。わたし、ゲームの中ではエルンスト様のことが一番好きだったのよ!」
「私には関係ない。乙女ゲーム? 知らん話だな。私はこのチート能力を使って冒険者を極めると決めたのだ。ただし、ハーレムは要らん。俺TUEEEチートは好きで読んでいたが、チーレムはお呼びではない。アンチチョロインだ!」
「そ、そんなぁ!」
シルヴィアが落胆して肩を落としている。先ほどまで、豚を罵っていたときとは違って、純粋に恋する乙女の顔であると、カテリーナは感じた。
その表情を見ていると、何故だか自分とシルヴィアが対等の立場なのではないかと思えてくる。
「ということだ。だから、私は君との婚約も破棄した。強さを極める冒険者に婚約者は必要ないからな」
「全くわかりませんが、わたくしが嫌われたわけではないのですね? シルヴィア嬢に盗られたわけでも……」
カテリーナが視線をあげると、エルンストが澄ました表情で頷いて、「恋愛対象にはならんがな」と付け加えた。
カテリーナが婚約破棄されたことには間違いない。けれども、不思議と先ほどまでとは違う心持ちになっている自分に気がつく。
思えば、自分はエルンストを愛していたわけではない。第三王子の婚約者という、自分の地位にこだわっていただけ。そこに、自らの価値を見出していたに過ぎない。
そんな自分に気づくことが出来た。エルンストも、カテリーナの気持ちを察したのか、少しだけ表情を和らげてくれる。
「ぶぅぉっふぉ……くっ……美味しいところを持っていかれてしまった」
豚宰相が悔しそうに、丸いお腹を抱えて俯いていた。
先ほど降りかかった炎のせいか、右腕の服が焦げている。軽く火傷を負っているようだ。氷魔法で冷却しているだが、爛れた皮膚が痛々しくて見ていられない。
「豚様、手をお出しになって」
「豚……様……? カテリーナ嬢、僕のことを『豚』と罵らないんだな?」
「いいから、手を出してくださいませ。豚」
「はい」
カテリーナは素直に出された豚宰相の腕に、自分のハンカチを巻いた。
まん丸で肉厚な腕に、可愛い花の刺繍が入った白いハンカチ。そのハンカチを見つめて、豚宰相は顔の面積に対して小さな目をパチパチと瞬かせた。
「カテリーナ嬢……また僕に、ハンカチをくれるのだな?」
「は?」
また? 豚宰相の言い回しに、カテリーナは眉を寄せた。
「この前、やっと君にハンカチを返したと言うのに……なんとも、不甲斐ない。だが、嬉しいよ」
「返した……?」
ハンカチを貸した覚えはない。
しかし、豚宰相からハンカチを受け取った記憶はある。エルンストから婚約破棄を言い渡された日だ。
意味もなく渡された白いハンカチ。少し黄ばんだ古いものだと思っていたが――、
「あら?」
真っ白のハンカチ。
カテリーナはいつも、自分が使うハンカチには刺繍を施すことにしている。今、豚宰相の腕に巻いたものも、カテリーナが刺繍したハンカチだ。
けれども、一度だけ、刺繍する前のハンカチを他人に渡したことがある。
あれは七年前。まだ八歳の冬。雪の日だったか。
カテリーナは王宮の庭に咲いていた冬薔薇を眺めていた。
冬でも美しく咲き誇る薔薇の花を、何故かずっと見ていたくなったのだ。そして、こんな風に強くて美しい花に、自分もなりたいと願った。
あの頃、エルンストとの婚約が決まった。それによって、カテリーナはただの公爵令嬢から、王子の婚約者となった。
まだ子供だったカテリーナにとって、王子の婚約者という肩書は重荷に感じられたのだ。
気高い薔薇に自分を重ねて、感傷に浸っていた。
――薔薇が欲しいのか?
声をかけられて、カテリーナは肩を震わせる。
カテリーナは答えなかったが、声の主は優しげに笑うと、薔薇園に咲いた一輪へと、おもむろに手を伸ばした。
目鼻立ちが整った美しい青年であった。白い肌は繊細な印象で、灰色の瞳が神秘的な輝きをはらんでいる。癖のある髪に雪が落ちる様は、妖精と戯れているかのようにも思えた。
――きっと、似合う。
青年はそう言って、カテリーナに薔薇を手渡してくれた。
けれども、その指先に血が滴っているのを、カテリーナは見逃さなかった。薔薇の棘で怪我をしたのだろう。
――血が出ていますわ。
カテリーナは自分の白いハンカチを取り出して、青年の指に巻いた。彼は驚いたように目をパチパチ見開いていたが、やがて、柔らかな笑みを浮かべる、
――ありがとう。
あのときしか、思いつかない。
そう、他人にハンカチを巻いたのは、あのときだけだ!
「…………」
「ぶぅふぉ」
今、目の前にいる豚が照れくさそうに白い頬を染めている。
クルンと前髪が巻いた癖のある髪……灰色の瞳……え? まさか? 共通点を見つける方が苦しすぎて、カテリーナは眉間にしわを寄せた。
「七年で激太りしたのですか?」
「僕が前世の記憶を取り戻したのは、ちょうど君に出会う直前だったのだ。チート級の魔力もあったし、この先の未来もだいたいシナリオ通りで覚えていたし、それで……堕落した生活を送ってしまい、この有り様である。前世ではヒキニートだったからな。反省はしている」
そういえば、さっきもシルヴィアが、本当は美形だったはずだとか、なんとか言っていたような気がする。話の意味は半分もわからなかったが、カテリーナは必死で呑み込んだ。
「カテリーナ嬢」
豚宰相はいつになく真剣な眼差しで、カテリーナを見つめた。カテリーナは思わず動きを止めて、固唾を呑んだ。
「僕は両親から存在しないものと扱われ、恵まれない人生を歩んできた。まあ、そういう設定のキャラだったのだが……とにかく、そんな僕に優しく手を差し伸べてくれたのは、君が初めてだったのだ」
「は、はあ……設定? そ、そうなのですか?」
「あのとき、僕は決めた。なにがあっても、君を守り抜くと。そのために、君が破滅するエンディングのフラグを片っ端から叩き折る! カテリーナ嬢。ゲームの世界では、君が破滅せずに済むのは僕との結婚エンドだけだ! まあ、僕がヤンデレ化していて、半ば破滅エンドに近い状況だった気もするが、そんな細かいことはどうでもいい! 僕と結婚すれば、君は幸せになれる!」
「お断りしますわ」
「僕と結婚してくれないか!」
「だから、お断りしますわ」
「君を救うためなのだ!」
「絶対に嫌ですわ」
カテリーナは爽やかな笑みで言い放つ。豚宰相が縋るように手を伸ばすが、サラッと手で払ってやった。
「わたくし、もう愛のない結婚相手は懲り懲りですの。自分が好きになった殿方と結婚することに致しますわ」
清々しいくらい満面の笑みで述べて、カテリーナは豚宰相に手を振った。
「わたくしと結婚したければ、振り向かせてみせてくださいませ。ヴィットリオ様」
豚宰相は小さな灰色の目をパチパチと瞬かせて、カテリーナを見つめている。しかし、やがてカテリーナの言葉を呑み込んだのか、パァッと幸せそうな笑みを浮かべた。
「ヴィットリオ? カテリーナ嬢、今、僕の名前を呼んだのかい?」
「あら、そうでしたっけ? 忘れましたわ」
「もう一回! もう一回、呼んでくれないか!」
「……しつこいですわよ、豚」
一人で「ぶぅぉぉ!」と歓喜の雄たけびをあげる豚宰相に背を向けて、カテリーナは歩きだす。
屋敷へ帰ったら、刺繍をしよう。
古くて黄ばんだ白いままのハンカチに、なにを描くべきか。
そんなことを考えながら見上げた空は、なんだかとっても澄み渡っていた。
おわり
読了、ありがとうございます!
豚宰相。豚宰相……豚宰相、書くの難しいですね!
原稿を3回没にして、ようやく辿りついたのは、なんだか想像とは違うものでした。
脂ぎったオッサンをかっこよく描写するのが難しかったので、残念でまん丸なマスコットキャラを目指しました。筆がノリノリでした。