青い花を摘む
停電など気にならない様子で彼はそのまま花を作り続けた。
月の光がカーテンの隙間から射してうっすらと彼の手元を照らしている。粘土細工の白い花は蛍光灯の下にあるときよりも華奢で瑞々しくみえる。彼は粘土の小さな塊を指で薄く伸ばして作った花弁を、花瓶に挿しているその花に丁寧に重ね付けていく。どうやら薔薇を作っているらしい。私はソファに横になり、ブラウスの首元のボタンを外して、眼鏡を目の前の小さなテーブルに置いた。しばらく机上の彼の作業をぼんやりと眺めて、何だか夢のようだな、と思った後いつの間にか眠ってしまっていた。
次の朝、私は隣の家のドアが閉まる微かな音で目を覚ました。テーブル上の眼鏡を掴んでゆっくりと身体を起こす。彼は机に突っ伏して泥のように眠っている。あの後もずっと深夜まで作業に没頭していたのであろう、机の上にはまだ作りかけの花の一部が散乱していて、花瓶には七本の白い薔薇が挿してあった。彼を起こさないよう、静かに机上にあるテレビのリモコンを手に取って電源を入れ、音量を下げてからチャンネルを回す。昨日の停電についてのニュースが目に入り、手が止まる。この街一帯全域が停電、復旧までに三時間以上を要した大停電だった、という内容だった。アナウンサーの無機質で正確な読み上げを頭に流し込みながら私は自室へと戻り、窓のカーテンを開いた。飛沫の様な光が目に飛び込んできて思わず目を瞑る。停電の夜を経過した街はまるで何事もなかったかのようにいつもと寸分と変わらず、ただそこに現実と共に横たわっていた。
高校二年生の夏休み、ある日を境に私は人の「こころ」の映像がその本人の姿と重なる形で視えるようになった。
それは本人の姿を覆い隠してしまうほど濃くはっきりと表れるときもあれば、投影機の前に立ったときのように本人の皮膚、服の上にうっすらと重なって視えるときもある。映像の種類もまちまちで、それはけばけばしい極彩色の光の奔流であったり、横たわる動物の死体や暗転する地下室の部屋、非現実的な世界、あるいは異形の怪物が蔓延る空間であったり、またときに鮮明な空想の物語であったりと多種多様ではあるが、私に分かっていることは、どうやらそれらが本人の趣味、嗜好、思想、その人の「こころ」によってもたらされた映像だということだった。視えるようになったきっかけも理由も分からなかったが、それだけは薄らと分かった。本人の行動、発言や表情、それを一つずつ知るごとに私はその映像の源流を解き明かしていくような心持になった。「こころ」の映像の内容とは関係なく、本人の声は前と変わらず耳に届く、その不気味な感覚と、他人の私的な秘密を覗き見ているという背徳感から、私は友人たちや両親と正常に口を利くことが出来なくなった。映像の鮮明さは日に日に増していった。この「病気」故に私はもう二度と前と同じような日々を過ごすことは出来ないだろうと悟った。私は一人になった。その頃の私は周りにはどういう風に映っていたのだろうか、と今になって思う。三年生の受験、進路に対して神経質になっていたように見えたのだろうか。東京の大学に進学してからは地元の友達とは誰とも会っていない。
大学に通うようになってしばらくたった頃、私は部屋のソファに【彼】が座っているのに気付いた。見知らぬ人間が部屋の中にいるにも関わらず、私は至極冷静だった。むしろ幼馴染が久しぶりに家に遊びにきたかのような、ごく自然な感覚で彼を迎え入れていた。また彼が、自分にしか見えない「こころ」と同じ類の存在であることも、本能的にすぐに理解した。それよりも私が驚いたのは彼の映像が全く視えないことだった。彼の「こころ」だけは、私は全く知ることが出来なかった。
それからというもの、彼は私の部屋以外にも時々現れるようになった。大学の教室、スーパー、公園、様々な場所で彼を見かけた。上下黒尽くめの衣装で、いつも何かを探しているような素振りを見せていた。
服を着替えて私はリビングルームに戻った。彼は既に起きていてぼんやりとテレビを見ている。おはよう、と声をかけると彼はこっちを向いて微笑んだ。先ほど花瓶の中にあった七本の粘土細工の薔薇はばらばらに分解されてゴミ箱に捨てられていた。彼は私の部屋に現れたときからこうして、粘土細工の花を作っては壊す作業を延々と続けている。まだ昨日のままだったリビングのカーテンを開けると、再び光の飛沫が部屋を満たした。もう昨晩の夜の夢のような空間はそこにはなかった。
肌寒い風を頬に感じながら私は自転車の鍵を外し、首にマフラーを巻き直した後ペダルに足をかけた。ブランコと鉄棒と水飲み場だけの慎ましい公園、蔦に覆われた廃家、小さな文房具屋、なるべく人通りの少ない道を選んで私は毎日自転車で四十分ほど時間をかけて大学に通っている。こうして静かな道を自転車で走っていると私の脳裏に時々、夏の思い出がふっと蘇る。
小学生の夏休み、友達と一緒に自転車で隣町まで冒険したときの記憶。男勝りだった私は、仲のいい男子グループ四人と遊ぶことが多かった。ある日、暇を持て余した私たちは一日かけて隣町へと遠出する計画を立てた。親には友達と遊んでくる、とだけ伝えて早朝に公園に向かった。皆はそれぞれ、遠出に必要になるであろうものを持ち寄っていた。コンパス、懐中電灯、帽子そして自転車。私はお気に入りの青い花のマークが付いた水筒に麦茶をたくさん注いで持ってきた。五人全員が集まって、私たちは出発した。通学路の見慣れた風景や公園、一度だけ遊びに行った友達の家を通り過ぎ、私たちはいよいよ来たことのない土地へ足を踏み入れていた。まばらになる民家の間に隔たる田んぼの横を通りすぎ、大きな坂道はペダルから足を離して今まで出したことのない速度で駆け抜けた。ペダルは入道雲と追い風に押されてぐんぐんと無邪気に加速していった。休憩なんて少しも要らなかった。皆ただ夢中に夏に向かっていた。
暮れていく陽は徐々に私たちを不安にしていった。足も疲れて、出発したときの元気も皆なくなっていた。そして五人のうちの誰かが「そろそろ帰ろうよ」といった。
私の記憶はここでぱたりと終わっている。この記憶が自分の本当の思い出なのか、それとも映画や小説の中に登場した風景が入り混じった空想なのか、正確には分からない。それほどあの頃の夏の記憶は膨大で光に溢れていた。ただ私はあの暑い日、扇風機と蝉の鳴き声、遠くに聴こえるテレビの音と畳の匂いで満たされたあの濃密な空間の中、一人台所で麦茶を水筒に注いでリュックに入れたこと、そしてどうしようもないほど広く優しい空の下、強い日差しとむせ返るほどの草の匂いを感じながら友達の元へ自転車を走らせたこと、その道の先の白くぼやけた夏の光があったこと、この記憶だけは確かだった。
今の私が一日かけて自転車を回したら、一体どこまで行けるだろうか。私たちはあのとき、疲れ切った足で一体どうやって家に帰ったのだろうか。あの青い花のマークが付いたお気に入りの水筒は、今どこにいってしまったのだろうか。あの青い花を見つけることが出来たとき、私は全てをもう一度やり直すことが出来る、そんな妄想に耽っているうちに、私は大学前の通りに辿り着いていた。
校舎の二階に上がって小教室に入ると、友人らが既に窓側前方に着席して談笑していた。私は彼女らに声をかけて一つ前の席に座り、会話に混ざった。彼女らの「こころ」の映像はぼんやりと上半身全体に映し出されている。映像は実物的で様々な趣向品やテレビの映像などの煌びやかな色彩が万華鏡のように映し出されていて、よく観察するとそれが何なのかが分かる。万華鏡の中心部分は皆、真っ白だった。彼女らの映像はそのときの感情によって明暗したり、水面に小石を投じたときのように揺らいだりする。
私は大学に入学してからは強い心の歪みを感じないこの三人と共によく行動していた。彼女らは常に快活で可憐で雄弁で、そして常に空虚だった。私には彼女らの会話が自身の顕示欲、色欲、承認欲、ときには敵意を言葉の底に隠し、それらを口から美しい花のように咲かせているかのように思えた。彼女らの欲求、発言の意図、全て私の目には透けて視えてしまっていた。彼女らの人間としてのありのままの姿を覗き見ているという背徳感は、常に私の心を衰弱させた。が、それ以上に私は一人で過ごす毎日の学生生活を恐れていた。もう二度と高校三年のときのような思いはしたくはない。
教授が来るまでの間、私たちは他愛のない会話を続けた。視界の隅に教室後方で何かを探している素振りの【彼】の姿を捉えた。
六限目の後、課題を四人で片づけて、私たちは大学近くの小さな飲み屋にいた。金曜日だというのに人もまばらで店の雰囲気も落ち着いている。飲み会はいつもならば断わっていたが、友人の一人が大切な相談がある、ということで私も渋々ついてきた。もっとも、相談の内容は彼女が今付き合っている彼氏の話だということは私には既に分かっていた。彼と自分との性格や趣味の不一致、彼が今までの彼女に発した言葉の数々やデートのときの行動。友人らも彼女の言葉に肯定したり、ときに否定したりして助言をした。彼女はその助言に賛同しているような素振りをみせる。がその実、彼女のこころ、しぐさ、笑い方、全てから彼氏に対する否定の念は微塵も感じられない。むしろ他人から否定されることでより一層「自分にしか理解できない彼」という偶像を作り上げていくようだった。彼女のこころの映像は今までにないほど濃くはっきりと、そして大きく揺らいでいた。私は微笑みながら彼女の結末が分り切った物語を眺めていた。作り手の作為が透けて視えるショートムービーを繰り返し見せられているような心持ちだった。やはり飲み会は断るべきだった、と私は手元のアルコールに口をつけた。
そろそろ帰ろうか、という声で私ははっとした。頭がずきっ、と痛む。どうやら飲み過ぎたらしい。腕時計をみるともう既に二十三時半を回っていた。支度をして立ち上がり、会計を済ませた。足元が少しふら付く。彼女は相談に乗った私たちにしきりに礼をいっていた。外は風が強く吹いていて昼よりも一段と寒かった。ふと私は自転車を大学の駐輪場に置いたままだったことに気付いた。この時間だと既に大学は閉門しているだろうな、と思いながらも私は彼女らと別れて一人大学へと戻った。
大学に向かう通りを歩きながら、私は飲み会での出来事についての思いを巡らせていた。もし私がこの「病気」を患っていなかったら、彼女らと素直に会話ができて、心地のいいぐらいの心の距離をお互い保ちながら屈託なく笑い合えたのだろうか。そして彼女らのこころを盗み見て嘲笑する私は一体どういう存在で、彼女らの目にどう映っているのだろうか。自分自身の映像を、私は視ることは出来ない。
大学はやはり閉門していた。私は仕方なく近くの駅を目指すことにした。満員電車で多くの人の「こころ」を観るのは憂鬱であったが、この寒さの中二時間近く歩いて帰るほどの気力は私にはもうなかった。
駅前は飲食街になっており、飲み会帰りの学生やサラリーマンで溢れていた。粘着質な喋り方の金髪の男が赤黒い映像を体に纏わせながら女子二人をナンパしていた。女子二人は間延びした声でお互い顔を見合わせて判断はあなたに任せる、といった様子で決めあぐねている。花壇の周りにたむろしている大きな荷物を抱えた大学生のグループは、頭に響くほど大きな声で笑い合っている。その傍ら、酔い潰れた友人を介抱する大学生は、面倒くさそうに何処かに電話している。券売機の前でもたもたしている中年女性の集団に腹を立てた酔ったサラリーマンの怒号が響く。
私はこれほどまでに終電間際の改札が混沌としていることを初めて知った。酒気と疲労、苛立ちが交差しかけ合わさって場が殺伐とし、各々の攻撃性が色濃く表れた色彩は、飲食街の看板のネオンと混ざり合い酷く凶暴な光を放っていた。向こう側の通りの中にぽっと、信号の青い小さな光が点くと同時にさらに多くの光がこちら側へと徐々に近づいてきた。私は彼らがこちらに辿り着く前に早足で人の合間をすり抜けて改札を通った。
電光掲示板に目をやると電車は遅延しているようだった。私はホームへと向かうエスカレーター横の階段を下りた。ホームから上がる人々、降りる人でごった返した階段で私は後ろの人にせっつかれているような錯覚を覚えながらホームに降りた。
そのとき突然ホームの電灯が一瞬明滅し、次の瞬間バチッという音と共にふっと全ての明かりが消えて視界が暗闇に包まれた。
停電だ、と瞬間気付いた。あちこちから女の短い悲鳴と戸惑いの声があがった。背中に人がぶつかってきて思わず前のめりになる。と同時にエスカレーター側からけたたましい落下音と喚声がホームに響き渡った。脳裏に将棋倒しのように倒れ重なった人々の姿が浮かぶ。ホーム側の人が後ずさる気配を感じて瞬間的に階段横の手すりに掴まろうとした。が、後方階段側から背中を押されホーム側の人々の波の中へと引き摺り込まれてしまった。バッグが流れに押され徐々に手元から離れていく。エスカレーター側からは呻き声や怒号、泣き声が絶えず聞こえる。ホームは暗闇の中、恐慌状態に陥っていた。
ふと私は、目の前にぽうっとひとつ明かりが灯ったのに気が付いた。駅の非常用電灯かと思ったが違った。それは前の人の「こころ」の映像のようだった。前にいる人の背中にうっすらと、何かの形が映っていた。左右にゆらゆらと揺れている。私はふと、【彼】が毎日作っている花の形を連想した。「それ」が何なのか、目を凝らして見つめていると、徐々に周囲の人の「こころ」の映像もぼんやりと暗闇から浮かび上がってきた。やがて私の視界一面は様々な色彩の「それ」に支配されていった。綺麗だ、と思った。様々な色彩の「それら」はそれぞれが違った動きを見せている。水族館のような冷ややかで美麗な光景に私の心は強く惹かれた。次第に「それら」はくっきりと鮮明に形を露わにしていった。「それら」が何なのか、気付いた刹那、私は息を飲んだ。
「それら」は手だった。
劇薬を投薬された実験動物のように激しくもがき暴れる手。
周りに呪詛を振りまくかのような不気味な放物線を描く手。
誰かに掴みかかろうとする手。
指や腕が枯れ木のように鋭く変形した異形の手。
腐った果実のように黒く変色した手。
ある一点をずっと指で指し続けている手。
周りの手を払い除けて上へ、上へと伸びていく手。
それら無数の発光した手が、ホームの暗闇と喚声の中で蠢いていた。粘着質に、じんわりと手の数は増え続け、色彩は徐々にけばけばしい蛍光色や極彩色に変化していった。私はそれら無数の手が、自分だけが苦しみから逃れようとする独りよがりな思いだとか、周りの人に対する敵意、現状を把握できないことに対する恐怖が表れたものだと気付いた。その鈍く毒々しい歪みが外へ外へと向かっていた。
この世のものとは思えないほど不気味な光景に私は思わず後ずさった。すると後ろからおい、と大きな怒声が発せられ背中を肘で突かれた。思わず前のめる。
するとその瞬間、無数の手が私に気付いたかのように一度動きを止め、ゆっくりと私の方を目がけて伸びてきた。呪詛、敵意、恐怖のはけ口の全てが私に標的を定めたかのような動きだった。私は小さく悲鳴をあげた。バッグを手放し階段方面に向き直ろうとするも人の流れに押されて上手く動けない。首元に冷たい悪寒を感じて身体が強張る。手は尚も近づいてきている。どうにかしてここから逃げ出さないといけない、と思った。このままではこの独りよがりで呪詛の満ちた暗闇の海に溺れてしまうと感じた。無数の手の映像はより大きく鮮明に浮かび上がっていた。身体を走る悪寒で、目は大きく開いたまま閉じることは出来なかった。極彩色の無数の手が私の顔のすぐ近くに迫ってきていた。
私は気付くと助けて、と悲鳴を上げていた。その悲鳴は人の喧騒と喚声の中にすっ、と溶けていってしまった。同時に私は脳裏に何か、強い違和感を覚えた。
刹那、無数の手の映像全体が強く発光し、ざらついたノイズが走った。まるで一枚のスクリーン上の出来事のような、一律で美しい揺らぎだった。
映像はもう一度強く発光した。無数の手は徐々に何か、見覚えのある形、見覚えのある色へとゆっくり変貌していった。そして私は気付いた。
それは青い花だった。
あの夏の日の、遠ざかっていく景色の中の、私しか知り得ない水筒の、青い花の印が他人の「こころ」のスクリーンに映し出されていた。青い花畑は硝子細工のように慎ましやかに佇んでいた。水風船が割れる瞬間を捉えたかのような瑞々しい光景に、私の感覚は時が止まったかのように冷え込んでいた。
言いようのない心地悪さと全能感が急に息苦しいほどこみ上げてきて、私の心を満たした。
私は、この光景の訳の一端を掴んでいた。視界の端に答えを捉えていた。しかしそれを引っ張りよせて確かめることはできなかった。その行動は私の全てを変えてしまうものだと本能的に気付いたからだった。しかし青い花畑の光景は私に答えを突きつけるかのように私の視界を延々と支配していた。
やがて私は全てに気付いてしまった。悲鳴を上げたときに感じた違和感、「こころ」の映像、青い花、今までの私の視てきたもの、忌避してきたもの、そして「青い花」全てに針と糸が通されて、この暗闇の私が立っている位置に縫い合わされた。
私は、手の群生の中の一人だった。
暗闇で誰もが助けを求める中で、自分だけが助かろうと独りよがりに手を伸ばす、一人の人間だった。そして、私が視ていたもの,忌避してきたものは周りの人々の「こころ」であると同時に自分自身の歪んだ心だった。目の前のスクリーンは私の偏見とも鏡ともいえる、心の隔たりだった。
私は今までずっと、この透明なスクリーンを通して人のこころを覗いていた。他人のこころにピントを合わせるように透明なスクリーン上に私の心を重ねて観察していた。私の心の中に既に置いてあるもの、経験したもの、知っているものを「こころ」を理解するために使い、ときには恣意的に都合のいいようにフィルターをかけて視ていた。私はたった今、それに気付いた。私が今まで視てきた「こころ」は全て私の心の一部分によって引き出されたその人の姿であると同時に、装飾された私の心の投影だった。
横たわる動物の死体も暗転する地下室も異形の怪物が蔓延る空間も、中心が空白の万華鏡も、作為が透けて視える短編映画も、赤黒い粘着質な色欲の「こころ」も全てが私の心だった。
スクリーンに映し出された青い花は全ての答えを私に突き付けていた。しかし、不思議と私の心地悪さはいつの間にか綺麗になくなっていた。それどころか私の心には今までになく朗らかで瑞々しい空間が広がっているような気さえした。ふと、私は意識の対岸に【彼】がいるのを視界の端に捉えた。【彼】の手には一輪の青い花が握られていた。満ち足りたような表情を浮かべて【彼】は花を見つめている。
そうか、私は青い花を、と気付いた瞬間、バチッという音と共に頭上の電灯が一斉に点灯した。
カーテンの隙間からこぼれる朝日に気付いて私は目を覚ました。
枕元の眼鏡を掴みながらゆっくりと身体を起こして時計を見る。思ったよりも大分早く起きてしまったらしい。ベッドから起き上がり私は洗面に向かった。
一週間前、駅での停電事故は軽傷者が数人程度で済んだらしく、停電も木曜日のときのように何時間も長引くことはなかった。非常用電灯が点いてからは今までの敵意と恐怖に溢れた喧騒は鳴りを潜めて、皆落ち着いて事態の収拾にあたった。エスカレーター事故で倒れ重なった人々も、はじめ苦悶の表情を浮かべていたものの徐々に皆自力で立ち上がりエスカレーターから離れていった。誰かが緊急停止ボタンを押したらしく、被害は大きく拡散されなかったようだった。
ジーンズとワイシャツに着替えて私はまだカーテンが閉まったままのリビングの椅子に腰かけた。前までは【彼】の専用席だった椅子だ。
あれからというもの、【彼】は私の前に姿を見せることはなかった。それと同時に私は他人の「こころ」の映像が視えなくなった。私は立ち上がり、カーテンを勢いよく開けた。光の粒子がソファ、床、台所、テレビ置き場、そして机、全てを包み込んだ。
机の上の花瓶には青く塗装された粘土細工の花が挿してあった。
処女作です。自分にとって大事な作品になりました。感想待ってます。
Twitter: atofadein_g




