トラスト
「私は超能力者なのです」
男はそう言った。
「へえ……だったら、ここから脱出させてみてよ」
私はそう答えた。
「やってみせたいんですが、使いにくい能力なんです」
「どうせそんなところよね。期待しちゃいないわ」
私はそう言って肩をすくめてみせた。
「名前は?」
私は尋ねる。
「筑波喜一郎と申します」
「そう。私はジェニファーよ。ジェニファー・ブロンド」
「偽名ですか」
私は笑う。見るからに日本人だものね。
「わかる? まあどっちでもいいでしょ」
「はい。どちらでも」
「君、何歳?」
「三十歳になります」
「え。嘘ぉ。ぜんっぜん見えない。二十歳くらいかと思った」
「あなたは?」
「十八歳」
「嘘ですね」
「嘘じゃないわよ。本当に十八。未成年よ」
「驚きました。失礼を承知で言いますが、二十代後半だと思いました」
失礼すぎる。承知してりゃいいってもんじゃない。
「そんな肌衰えてるかな……」
「いえ、比較的美しい肌を保っていると思いますが、それ以上に物腰と雰囲気がそう感じさせます」
「あらそぉ。ありがと」
喜一郎のほうは全く貫禄を感じさせない。坊やと呼びたいと私は思った。
*
私と喜一郎は誘拐され、監禁されているようだった。
一時間前。私、ジェニファー(仮名)は、目が覚めるといつもの自宅ではなく知らない家にいた。三部屋と廊下、トイレにシャワールーム。壁は全面真っ白で、天井は黒。床は木目のタイルが貼ってある。
三部屋のうち、二部屋はそれぞれ6畳ほどで、ベッドと机に椅子、本棚。机の上には数枚のメモ用紙。それぞれの部屋のベッドで、私と、喜一郎と名乗ったあいつが寝ていた。私も喜一郎も、格好は白いパジャマのような服。
残りの一部屋は倉庫のようで、大量にダンボールが積まれていた。冷蔵庫やソファ等の家具も積んである。
そして、この家には、外に出るための扉が無かった。窓も無かった。ひょっとすると地下なのかもわからない。
私は目覚めた時、てっきり飲み過ぎて友達の家に泊めてもらったのかと記憶をさらってみたが、昨日は間違いなく自宅で寝ていたのを思い出し、緊急事態だと悟った。慎重に各部屋を見て回り、倉庫でダンボールに入ったフライパンを見つけると、それを構えて、隣室でぐーすか寝ていた喜一郎を起こした。
喜一郎も誘拐された人間だった。この扉もない三部屋の家には私たち二人だけ。どうやって運び込まれたかはすぐにわかった。廊下の天井に、屋根裏へと続く蓋と、そこから伸びてくるであろうハシゴがあった。だが折りたたまれており、手が届かない。天井は3メートル以上あった。異様に高い。
私たちは手分けして、この状況を打破できる可能性を探ることにした。
二人がいた部屋には何もなかった。本棚は空。机も空っぽ。ベッドの下にも何も無い。となればあとは倉庫部屋しかない。
倉庫部屋のダンボールを一つずつ開けて、中身を確認する作業を始める。
「ねえ、喜一郎。あんた、誘拐されることに心当たりは?」
私は懐中電灯を取り出しながら尋ねる。
「ありません」
喜一郎はフラスコを取り出しながら答えた。
「私もなのよ。困っちゃうなぁ。仕事、あんまり休めないのに」
私はパレットと絵の具セットを取り出しながら答えた。
「仕事してるんですか? 18歳なのに」
……。
「バ、バイトよバイト。か、家庭教師」
「そうですか……。大変ですね」
気の抜けた顔してるくせに鋭い奴。
私はこの喜一郎という男のことを、不思議なことに信用してしまっているのだった。普通に考えたら、誘拐犯の一味で監視役か何かだという可能性もある。でも私の直感が告げている。この男に嘘はない。
「ジェニファーさんは大学生ですか?」
喜一郎がバケツを取り出しながら訊いてきた。
「誰よそれ」
「……え?」
「た、た、た、わ、私のことよ。もちろん。大学生。そう。ピチピチの女子大生よ」
「何を勉強されているんですか?」
私の慌てようも意に介することなく、ダンボールからペンキを取り出しながら尋ねる喜一郎。
「え、英語よ。英文学科なの」
私も建物の写真集を取り出しながら答えた。もういっそ、ハーフで帰国子女って設定にしてしまおう。
「それは素晴らしいですね。私は語学は苦手です」
我ながら、危なっかしいことこの上ない。
それにしても私たち、誘拐されたというのに呑気な会話をしている。ダンボールの中には、あまり役に立ちそうなものは入ってない……。
「あ、ジェニファーさん、これを見てください」
「え?」
喜一郎がダンボールの隙間に挟まっている紙を見つけた。私に手渡す。
「英文です。読んでくれませんか」
読めると思ってんのと言いそうになって、すんでのところで私は思いとどまる。
……私のバカ……。適当な嘘に後悔しても、もう遅い。
「えーと、……あれ、読める」
「読めますか? さすがジェニファーさんです」
目を疑った。書いてある文章がスラスラと読める。意味が汲み取れる。意味のわからない単語は一つもない。それは間違いなく英語だというのに、読めてしまった。
私は生まれて初めて、英文を辞書を引かずに読んでいた。
「えっと……。第124号候補者。キイチロウ・ツクバ。一年間観察するも能力の発現は認められず。第125号候補者。ジェニファー・ブロンド。一年間観察するも能力の発現は認められず。以上2名は確保後、予備検体として管理のこと。保管場所:T-4。責任者:411番」
何のことだかさっぱりわからない。
「124号候補者というのは僕のことですか。そして125号候補者がジェニファーさん。偽名じゃなかったんですか?」
「偽名……じゃ、なかったみたい……」
私は、記憶が混乱していることに気付いた。あれ、私、ジェニファーって名前で……暮らしていた。そうだ、ジェニファー・ブロンド。偽名じゃあない。私の本名だ。
「しかし、能力の発現云々というのは何でしょうか。一年間……監視でもされていたんでしょうか。全く気付きませんでしたが。うーむ、これは僕の超能力とやはり関係があることなのでしょうか」
「まだ言ってんの? 何、あんた本当に何かできる訳? スプーンでも曲げるの?」
「テレキネシスとは違いますが……、この文書で一番問題だと思うのは、予備検体として管理、という部分ですね。T―4とかいうのはたぶんこの建物か部屋かの名前で、そこに閉じ込めておいていずれ何かに使う……といったニュアンスが読み取れます」
「何かって何よ」
「わかりません。検体という言い方からして、実験だと思いますが何の実験かはわかりません」
「やれやれ……大ピンチね」
私はガラクタあさりを再開した。今さらながら、自分が生死の瀬戸際にいるのだと思うと恐ろしかった。
「そういえば君の能力って何なのか、一応聞かせてよ」
恐怖を紛らわせるには会話が一番。
「興味がおありですか?」
全く無かった。ただ雑談のネタになるかと思っただけだ。
「脱出に役立つかもしれないしね」
喜一郎は特に怯えた様子もない。手を動かしながら続けた。
「私の能力は、トラスト、というそうです」
*
「トラスト……信じる、て意味だっけか」
私は、自分の頭の中になぜかある辞書を引いて答えた。
「トラストは……端的に言えば、「信じたことがその通りになる」という能力です」
「意味がわからない。信じれば夢は叶う、的なこと?」
「必ずしも夢ではありませんが。ただ、「こうであったらいいのに」という程度の信じ方ではダメなのです。こうに違いない、というよりも、「こうだ」と思い込んで疑いの余地も持たない。それが能力を発動させるための条件だと、そう言っていました」
「誰が」
「私の師匠です。私にこの力があるというのを、師匠だけは知っていました」
ししょう……。うーん、うさんくさい話が続くなぁ。それでも私は話を続けさせる。
「例えばどんなふうに使うのよ」
「そうですね……。例えば、誰かが私に銃を向けていたとします。そこでもし私が、その銃に弾丸が入っていないと思い込んでいたとしますよね。実際には入っているのに、です」
状況設定がやたら物騒だが、とりあえず話を促す。
「そりゃ危ないわね」
「ええ、普通なら、弾なんか入ってないと思って油断した私は不用意に近づいて撃たれるでしょう。でも、トラストが発動すると、銃から弾丸が消えてなくなります。私は撃たれません」
「……便利じゃない。思い込みさえすれば、何でもできちゃう訳?」
半分茶化したつもりでそう応じる。私が話半分なのを知っているからか、知らずにか、淡々と手を動かしながら話を続ける喜一郎。
「そう便利でもないですよ。本当は弾丸が入っていると知っていたらダメなのです。あるいは知らなくとも、常識的に考えて入っているのが普通だろうと考えていたら、発動しません。「入っていなかったらいいのに」程度じゃダメなんです。単なる願望だと、私が自覚していたなら、トラストは発動しません。何らかの理由で、その銃に弾丸が入っていないと信じこんでいなくてはならない」
「言い方悪いけど、要するに勘違いして思い込んでないとダメってことね」
「そう言ってもいいかもしれません」
「でも相手は驚くわよね。撃ったら、入れた筈の弾が出ないんだから」
ダンボールから取り出したダルマを並べながら私は言う。……ほんと、ろくなものが入ってないな。
「いえ、ここからがこの能力の凄いところなんですが、相手が引き金を引いた瞬間、つまり弾が出なかった瞬間に、世界が書き換わります」
「世界が……書き換わる?」
唐突に大げさな話が出てきた。
「全ての、過去が書き換わります。つまりですね、弾が消えた瞬間には、相手が銃に弾丸を込めたこと自体が無かったことになります。そういう過去に、なるんです。歴史が書き換わる。こめ忘れたか、別の銃を持って来てしまったか、とにかく何らかの理由で相手はその銃に弾丸を込めることなく私に向けてしまった……ことになる。弾が出なかった瞬間、相手は「そういえば弾を込めるの忘れた」と思い出すかもしれません。そういう風に過去が書き換わったからです。皆、私が何か特別なことをしたということには気づきません」
「みんな?」
「みんな、です。影響を受ける部分の全ての記録、状態、さらに関係した全ての人間の記憶が書き換わります」
「……うーん……想像を絶するわね」
喜一郎が話したことを私は何とか理解する。
「君が信じこんだことに合わせて、世界が辻褄をあわせていく……ということかしら」
「理解いただけて喜ばしい限りです」
喜一郎は軍手の束を取り出しながら淡々とそう言った。
「てことは、その能力を使っても、誰も君に超能力があるって気づくことができないのね」
……あ、もしかして。
「能力発現せずって……そういうことだったりして」
喜一郎は頷いた。
「……おそらくはそうでしょう。これは原理的に誰も気付けない能力なんです」
「君が世界を書き換えてしまう時、誰もそれに気付けない……知っているのは君だけ、ということか」
そう私が言うと、喜一郎は悲しそうに笑った。
「私も知らないのですよ」
「え、何を」
「ですから、私も気付けないのです。世界を書き換えてしまったことに」
「……?」
「だって考えてもみてください。私は思い込んでいるのですよ、銃弾が銃に入っていない、と」
「……あ、そうか」
「私にしてみれば、思ったとおりに弾は出なかった、それだけです。何も不思議なことは起こっていない」
私は、理解し、そして少し黙った。
その時思ったことを言っていいものか、躊躇われたからだ。
だが、そんな私の様子を見て、喜一郎は微笑んだ。
「今、あなたが思っている通りです。本当はこんな能力は、存在しないかもしれない」
「……そうよね。だって、世界を書き換えたことに気づける人間が誰もいないんだもの」
「そうです。私の妄想かもしれませんよ」
「……ねえ、どうして君の師匠という人は知っていたの。気付けない筈の力の存在を」
「さあ……。師匠は何も語らずに逝きましたから」
もしかしたら、これは喜一郎が場を持たせるためにしてくれた作り話かもしれない、話を聞いたばかりの私はそうも思った。
でも、と私は思う。
あるかもしれない。あったら素敵だ。
目の前で淡々と作業をするこの異様に若く見える三十路の男に、強烈に惹きつけられているのを感じる。なんてまっすぐな人。この人は、師匠という人を信じた。絶対に根拠が示せないこの話を、信じた。
私は考えていた。
信用するに足る話では、全くない。でも信用するに足るって何だ? 足りないから信じないというのなら、そんなの信じることじゃない。真逆だ。それは確かめているだけだ。
信じる。
私は、喜一郎の話を信じる。
*
私たちはしばらくゴミあさりを続けた後、喜一郎の部屋(二部屋のうち喜一郎が目覚めたほう)で休憩していた。
手持ち無沙汰から手でいじくっていたそれを、私は口に咥える。
「あれ、煙草ですか。どっから持って来たんです? それ」
そう言う喜一郎に、私はプッと笑って、口に出したものを彼に見せる。
…………え。
これは…………。
まさか……そういう…………こと?
「煙草…………よ」
喜一郎は頷いた。
「ええ、煙草はわかってます。持ち込んだわけじゃないですよね? 倉庫で見つけたんですか?」
呆然とした。
頭が急速に回転し始める。
私は……顔を縦に上下させ、肯定を示して見せた。
心臓が激しく波打っている。
急に立ち上がる。
倉庫に向かい、ダンボールからある物を取り出した。
戻って喜一郎に言う。
「ほら、ライターも見つけたのよ」
「至れり尽くせりですね」
喜一郎の受け答えはどこかおかしいが、この際つっこんでいる場合じゃない。
私は手の中のそれを開いて、着火する。
ボウと燃える火は確かにライターのそれで、私がさっきから握り締めていた煙草をおそるおそる咥えて吸いつつ火をつけると、確かに煙が肺に流れこんできた。
私は信じられない思いで、指で挟んだ煙草を見つめていた。
「誘拐されて、煙草が吸えるとはね……」
喜一郎が笑った。
「私はやりませんからわかりませんが、良いものなのですか?」
「どうかしらね……頭は悪くなるわよ」
「そうなのですか?」
「バカになれる。余計なことを考えなくなる。だから、気づくこともあるのよね」
「そうですか……。僕にも吸わせてくれませんか」
喜一郎に、私は咥えていた煙草を渡す。
「一本しかない」
「あ、そうなのですか? では結構です」
「何よ。間接キスが嫌?」
「いいえ。ただ大事な一本だと思いますので」
吹き出す私。
「ごめんね。本当は私、普段は吸わないのよ。ほら、吸ってみなさいよ。もしかして初めて?」
見た目の若さのせいもあるが、私のほうがお姉さんみたいだ。一回り上の男とは思えない。
「はい。初めてです。では要領を教えてください」
可愛いやつ。
「吸いながら火をつける。そんだけ」
「は、はい……」
喜一郎がむせるのを見て、私はけたけたと笑った。
*
「さっきの話だけどさ。例えば、相手が銃に弾をこめるところを君が見てたら、どうなるの?」
「……ああ、いい質問ですね。それはトラストの弱点です。私が信じられないことは、起こらない。私に弾込めの瞬間を見せてしまえば、弾丸を消されることはない」
「うーん……なるほど、使いにくい能力だと言った意味がわかった」
私は伸びをした。
「喜一郎。君の能力だけどね。私はあると思う」
「……」
喜一郎が、私の目を見た。笑っていない。私も笑っていなかった。
「そう思われた理由は何でしょうか?」
「無い」
私は即答する。
睨み合うような、一分間。
そう、理由はない。理由なくそう思えること。それが信じるということだ。
私は、信じているのだ。
「嬉しく思います」
喜一郎が微笑んだ。
「うん。嬉しく思ってね」
私も微笑んだ。
「それじゃ私、もう寝るわ。誘拐犯が現れたらたたき起こしていいけど、それ以外でレディの部屋に入ったらただじゃおかないからね」
「かしこまりました」
深々と頷く喜一郎。私を襲うこと等考えもしないのだろう。少し悔しくはある。
*
「さて」
私は、作業にとりかかることにした。
「まさか私にも、超能力があるなんて思わなかったわ」
呟く。まあ、これが能力と言えるのかどうかはわからなかったが。体質、に近い。
「一晩で終わるかなぁ……」
*
翌朝。
私は眠い目をこすりつつ、隣の部屋の扉を開けた。
喜一郎は既に起きて、何やら身体を動かしていた。
「あ、ジェニファーさん、おはようございます」
「何やってんの」
「体操です」
「へぇ……。呑気ねえ」
私は自分の部屋を指さして、言った。
「ところで喜一郎。吃驚するわよ」
「何にですか?」
*
「え。……扉があるじゃないですか」
「信じられる? 本棚を動かしてみたら、そこには扉があったわけよ」
喜一郎が部屋に入るなり驚いた声をあげた。私も後ろから入る。しかし、怖くてそちらを見られない。
「開けてみました?」
「え、ええ……。外に繋がってるわ。脱出できるわよ」
声が震えていないか、私は気が気でなかった。
「素晴らしいじゃないですか。なんだ、誘拐犯も間抜けなものですね」
「さ、開けて外に出ましょ」
喜一郎が振り向いた。私と目が合う。私は必死に笑顔を作った。
「……ジェニファーさん」
「な…………何?」
「……」
喜一郎が、ふっと笑った。
「お手柄です」
喜一郎はくるりと背を向けて扉へ近づいた。
ガチャリ
「わ、もうすっかり朝ですね。ここはどこだろう。山の中みたいだな……」
喜一郎が開けたドアに、私は震えながら近づいた。ドアノブを信じられない思いで見つめる。
「どうしたんです、ジェニファーさん」
私は……泣きそうな顔で、喜一郎を見た。
「ごめんなさい……喜一郎。私、嘘をついてた」
「嘘? なんです、どんな嘘を」
「私の名前は、ジェニファーじゃない。景子」
「景子……さん、ですか」
「うん。あの英語の文書をあなたが起きる前に見つけてたの。私じゃない別人の名前だったけど、丁度いいから偽名として使ったの」
「そうだったんですか。わかりました、よろしくお願いします、景子さん」
何事もなかったかのように名前を覚えなおす喜一郎。
私は、胸に手をあてて、言い聞かせる。そう、私の名前は間違いなく、景子なのだ。ジェニファーじゃない。
「喜一郎……」
「何ですか?」
「あなたは本当に、超能力者よ」
「はい。昨日、聞きました」
私は喜一郎の目を見て微笑む。
「そして私も、超能力者なの」
「え……、どういうことですか」
「さあ。教えてあげない」
私はニッコリと微笑み、行きましょと言って扉から外へ出て行くのだった。
*
そう。
おそらく、喜一郎の師匠という人は私と同じ力を持っていたのね。
私はね、喜一郎。あなたのトラストという力が発動した時、それに気づくことができる力を持っているみたいなの。
昨日のあれは……煙草なんかじゃ、なかったの。丸めたメモ用紙だったのよ。
ほんのたわいもない、冗談のつもりだった。くだらない、意味のない仕草。でも、喜一郎に言われて私がそれを口から抜いた瞬間、それは間違いなく、煙草だった。煙草になってしまったのだ。
それでまさかと思った私は、確かめてみることにした。
もちろん、ライターじゃなかったのだ。離れてみるとライターのようにも見えるけど、それはただのヨウジ入れ。ガラクタの中にフライパンやなんかの食器類と一緒にあったものだ。でも喜一郎にこれはライターだと言って開けたら、ライターだった。
それに……ジェニファーという名前は、喜一郎がそう「思い込んだ」から私の名前になったのだ。私が口から出まかせで言った、適当な嘘。でも喜一郎の力で、私の名前は戸籍上から何からジェニファー・ブロンドとなり、あの文書にはその名が記された。あまつさえ、一時、私の記憶まで書き換わりかけていた。きっと、私の能力は喜一郎に比べればずっとずっと、弱いものなのだろう。喜一郎が世界を書き換える時、その変化に僅かに気づくことができる程度の。時間が経てば、わからなくなってしまうかもしれない。
もちろん英文学科の学生だなんてのも嘘だった。だけど英語が読めるようになっていた。喜一郎の力のおかげなのだ。本当は私の専門は、絵。私が通ったのは、美大。
そしてあの扉は……私の描いた絵だった。
本棚の裏には扉なんか無かった。私が描いたのだ。倉庫にあったペンキや絵の具を使い、一晩かけた。トリックアート。喜一郎に本物だと思い込ませられれば、それだけでいい。
丹念に丹念に描いた。ノブの影、色合い、立体感。あんなに気を使って絵を描いたのは初めてだった。倉庫に建物の写真集があったのも幸いした。参考資料には困らなかった。
私は、喜一郎の力に賭けたのだ。
そして見事、喜一郎は扉を本物に変えた。
*
山道を降りる私たち。
「ありがとう、景子さん」
木漏れ日を浴びながら、少し前を歩く喜一郎はポツリと言った。
「なぁに?」
「私の話を信じてくれたこと」
「……」
「何も根拠のない話なのに……あなたは信じた。とても嬉しい」
私は走って彼の横に並んだ。
「だって、素敵じゃないの」
「素敵……ですか?」
「ええ」
私は喜一郎に寄り添った。
信じる力が世界を変える……なんてさ。
*
ところで私、ちょっとだけズルしたかなって思うことがある。
でもしょうがないじゃない? この肌のハリはちょっと手放すのが惜しい。
このくらい、いいよね?
喜一郎が信じた通り、18歳の女子大生のままでいたってさ。
……ね?